2012年05月25日

小谷野敦「谷崎潤一郎伝」

今日は悪口になりそうです。

小谷野敦の著作は単行本や新書ではあまり読んだことはなく、新聞・雑誌に書かれたものを読んだくらい。
小説としては「母子寮前」を読み、このブログに記事を書いた。
ほとんど私小説だったが、あの主人公を好きになれる人はそうはいないと思う。
読んでいないのだからあんまりドウコウ言えた義理ではないのだけれど、でも大きな疑問が。
なぜ、いま、谷崎潤一郎伝なのか。
しかも目新しいものは何一つない。
というか、全体がとても下世話。文学に関する記述がほとんどない。
あのインテリの小谷野敦が、これを書く必然性はどこにあったのか?

小谷野は谷崎が好きだそうだ。
私も好きだ。彼の小説はまさに「小説」で、物語を読む醍醐味がいっぱいだ。
人物設定の巧さといったらない。変に小難しくないところもいい。

そんな谷崎は三度結婚している。
どの結婚や離婚もかなりセンセーショナル。
最初の夫人は佐藤春夫に譲渡した。
二番目の夫人との別れかたは、谷崎という人間の酷薄さが表れている。(小谷野敦はこの本の中で二番目の丁未子にずいぶん肩入れしている)。
谷崎といえば松子夫人。上方の文化を包まれ贅沢に育ち、わがままだった松子夫人のようだが、一説には彼女は「松子」を演じていたという。
谷崎は貞淑な良妻という女性がお好みではなかったようだ。

長男としての家長の責の重さ。
自分の弟妹たちのみならず、妻の実家筋の面倒まで見ていたのだから、流行作家とはいえ大変なことだったろう。
それにしても当時の結婚や離婚に対するモラルの低さというか自由度には驚かされる。(谷崎の周辺だけのことだったとは思えない)。
じつに簡単に結婚し離婚したり、させているのだ。
それも「片付ける」とか「くっつける」という感覚なのである。

大正から昭和にかけての文学界の相関が出てきたのは、ちょっと面白かった。
あとのほとんどの部分は、上記のように女性週刊誌の記事のようだった。

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2012年05月24日

村田沙耶香「ハコブネ」

村田沙耶香はこれまで「ギンイロノウタ」一作しか読んだことがないが、その一冊が非常に強烈だった。
難解なのと、作品を流れる黒く澱んだものが気を重くして、読後感が爽やかとはいえなかったものの、なにかが残り、ずっと気になる作家だった。
今回「ハコブネ」を経験して、またまたなにかが多く残った。
「ギンイロノウタ」と較べると読み易い印象だが、内容はなかなか、どうして。

たいていの人は自分の持って生まれた「性」を当たり前のものとして受け入れた上で、異性を愛している。
なかに少数の人が性同一性障害と呼ばれ、自分の性に違和を感じている。
それはそれで苦しい時期があるだろうし、社会の偏見に悩むと思う。
けれどこの本の中の3人の女性たちはもっと複雑なのだ。
それはちょうど病名のつかない病人のようなもの。
本人はとても痛いのに、病気には見えないために誰もわかってくれない。
一人でじっと痛さを抱えて不安でいるしかない。。

自分は女として男を愛すのか、女として女を愛すのか。または男になって女を愛すのか、男になって男を愛すのか。
自分の性がわからなくて、それで自分を無性化しようと必死になっている里帆は19歳のフリーター。
知佳子はほんわかとした30代初めの女性。自分は星の欠片だと思っていて、アースである地球としか繋がれないと考えている。
誰からも女らしいと見られて、自分も女であることに固執し続けている椿。彼女は知佳子と幼なじみ。

3人が3人とも、普通に男性とセックスできない。
椿だけはそうでないようだが、あまりに自分の女に縛られていて、じつは一番悩んでいるのではないだろうかと想像する部分がある。
お互いの性の違和に気付きながら、3人が共に過ごす場所と時間が、とても微妙な関係をつくっている。
みんなが同じじゃないからこそ、「ハコブネ」に乗っているのじゃないか。

里帆の章と知佳子の章はあるのに、椿のだけはない。
そのせいなのか、読み終わった後、やけに椿のことが気になった。

これはセックスがテーマとなっている。
しかし単にセックスだけではなく、外から内から、自分を規制している「枠」の取り外しかたを模索する作品なのではないだろうか。
生物の根源的な生殖行為を取り上げることで、読者により強くそのことを考えさせようとしているのだと思う。
この村田沙耶香、悪くない。
かなり好きな作品だった。
これからもずっと追い続けたい作家の一人。
posted by 北杜の星 at 07:05| 山梨 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月23日

大竹昭子編「ことばのポトラック」

2011年3月11日のあの大震災、津波、原発事故は、言葉を紡ぐことを仕事にしている歌人、詩人、作家などにとって、まさしく言葉を失うほどの衝撃に包まれることだった。
医療関係者なら傷ついた人を治療できる。大工なら壊れた家を直せる。料理人はひもじい人を暖かい食事で慰められる。
では言葉になにができるのだろうか。無力感に包まれたに違いない。
それでもなお彼らは言葉の力を信じ、言葉でできることを手探りしようと集まった。
呼びかけ人は大竹昭子。場所は渋谷の小さなライブハウス「サラヴァ」。
(「サラヴァ東京」のオーナーは、フランス映画「男と女」の音楽を担当したピエール・バルーの妻であるアツコ・バルー。フランスに持っている「サラヴァ」のような自由な空間を東京にも造りたいと、このライブ・ハウスを開いた)。

アツコ・バルー Ayuo 石川南 稲葉真弓 ヴァルデマル・サンチアゴ 岡井隆 温又柔 角田光代 片岡義男 唐作佳子 河瀬直美 清岡智比古 くぼたのぞみ 小池昌代 栗木京子 佐々木幹郎 J.M.Gルクレジオ 菅啓次郎 スズキコージ 関口裕昭 高橋ブランカ 高橋睦郎 谷川俊太郎 旦敬介 デビット・ゾペティ 長島有里枝 畠山直哉 ピエール・バルー 東直子 平田俊子 文月悠光 古川日出男 保坂和志 穂村弘 堀江敏幸 間村俊一 ミーヨン 南映子 森村泰昌 レナ・ジュンタ 早稲田短歌会

以上が一年間に及ぶ「ことばのポトラック」に参加した人たちである。
知っている作家もいれば知らない作家や歌人もいる。
でもどうしても彼ら全部の名前を書き出したかった。
詩、短歌、散文・・どれも珠玉の言葉が私の奥底に響くから。


今年4月8日に、最後の会が催された。
友人が誘ってくれたのだが、その日に限って体の調子が悪く熱が出て、行くことができなかった。残念だった。
大好きな保坂和志が朗読するのを聞きたかったのに。(友人の話だと、彼はとても早口に読んだそうだ)。
その友人が先日会った時に、「この本が出たから、読んで」と貸してくれたのだ。
もしかして彼女はまだ読んでいない本を貸してくれたのではなかったか。
どのページもぴんとマッサラだった。

これをじっくり読むと、言葉の力を疑う者はいないだろう。
言葉でお腹は一杯ならないかもしれないし、寒さ暑さは変わらないかもしれない。
でも物理的なこと以上のなにかが言葉にはあって、それが私たちを満たしてくれる。

「ポトラック」とはPotluck。料理を持ち寄ること。
一年間ことばを持ち寄って朗読を続けた確かな結果が、ここにはあります。
文学が好き、言葉が好きな人たちに、ぜひ読んでもらいたい一冊です。
これはとてもとても美しい本です。
posted by 北杜の星 at 07:47| 山梨 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月22日

南木佳士「熊出没注意」

南木佳士作家生活30周年を記念しての、自選短篇集。
10作品が収められている。
タイトルを見て、読んだことないのがあるかもと思ったが、すべての作品を読んでいた。
これには私自身、少々驚いた。
読み始めるとラストまでしっかり思い出せたのにも驚いた。
そんなにも南木佳士のファンだったのかな、私。

彼にとってこれら10作品は、彼の人生において節目節目の印象に残るものなのだろう。
選んだ理由が「あとがき」に述べられているので、その当時の彼の心理が理解できる。
1982年の「重い陽光」から2009年の「熊出没注意」まで時系列に並んでいる。

30年前の「重い陽光」の主人公は、カンボジア難民キャンプで医師として働く彼自身だ。
確かに若い。今読むと、彼の若さがわかる。
けれど当時は読む私も若かったので、その若さには気がつかなかった。
その後30代後半から精神を病み、生きながらえることだけで精一杯だった彼の作品が続くのだが、「重い陽光」の主人公だって、明るく元気な若者ではけっしてない。
資質的なものはなにひとつ変わっていないのだと思う。
だからこそ彼は医師でありながら、小説を書き続けたのだ。
これらの10作品を順に読んでいくと、南木佳士にとっての時の流れがよくわかる。

これらの作品のなかにも、父親に対する彼の負の感情がかなり出てくる。
母の家に婿養子に入り、母に結核をうつし、そのせいで母は彼が幼い頃に亡くなった。それからすぐに再婚した父と義理の母にどうしても親和感をもてなかった。
育ててくれた祖母への愛情が強ければ強いほど、父への感情が歪む。
でも今回これらをすべて再読して、私はきづいた。
愛憎は背中合わせなのだと。
父のことを書かずにはいられないということがつまり、父への関心のおおきさなのではないだろうか。

上州に生まれ、信州に住む南木佳士。
土地の違いを感じることが多いようだ。
信州の人間は理屈好き、勉強好き。
90歳の老婆の患者が月刊文芸誌のなかの彼の文章を読んでいて、診察時に彼にああだこうだと意見するのには、笑ってしまう。
そんな手強い信州の人たちに鍛えられ、静かに老後を迎えた彼と彼の奥さんに、「よく頑張ったね」と言ってあげたい。
この「自選短篇集 熊出没注意」、南木佳士ファンならずとも、お奨めです。
posted by 北杜の星 at 07:32| 山梨 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | ナ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月21日

平松洋子「なつかしいひと」

以前から時々平松洋子の食にまつわるエッセイは読んでいたのだが、最近の彼女はよりその素敵さを増していて読む頻度が多くなった。
それは年齢もあるのかもしれない。
歳を重ねたことで、余分なものを切り捨て大切なものをすくいとるのが上手になった・・つまりいい歳の取りかたをしている人ということなのだろう。
この「なつかしいひと」もそう。
彼女のいまの年齢からだからこそ、醸し出されたものにあふれている。

静かな文章だ。
流れる匂いがふと過去を呼び戻す。
季節の移ろいに立ちどまるとき、昔日の出会いや出来事が甦ってくる。
そんななつかしさに身をゆだねてみると、あのとき見えなかったものが見えてくる。

私が平松洋子の文章を好きなのはこの静かさと、静かさのなかに凛とある潔さだ。
きっと自分に厳しい人なのではないかと想像する。
いつもヘラヘラしている私には到底真似のできない、キリリとした考え方や行動をする人なのだろう。
そして無駄な説明やいいわけをしなさそうなところも気に入っている。

このなかに彼女が京都で買ったエプロンのことがでてくる。
「昔懐かしい真っ白な木綿のエプロン」。
「四角くて、まわりにフリルがついていて、腰の後ろで紐をちょうちょに結んでしばる。もちろんポケットつき。昭和三十年代には日本中のお母さんが掛けていた、あのなんでもない白いペラペラのエプロン。」
彼女、ずっと探していたんだそう。
それを見つけて買って、喜び勇んで友人に見せたけど、「みな無言。目を泳がせたまま、誰もひとことも発しない」。
平松さん、私もそのエプロン、欲しいです。
料理をするときにほとんどエプロンはしないのだけど、粉ものを作るときにはちょっと必要になる。小麦粉が飛び散って困るから。
最近よくあるカフェのギャルソン・エプロンなんかは気恥ずかしくて、かといってかわいい花柄エプロンは願い下げだし、ごく普通の白くてあっさりと、変な主張のないエプロンならしてもいいなと思っていた。
いいな、平松さん、そんなエプロンが見つかって。
フリルがついていたのがみんなの顰蹙をかったのか。昭和レトロが気に入らなかったのか。
だけどあのエプロンを洗濯して、もしかしたらピシッと糊をつけて、凛々しくもたおやかな平松さんが美味しい料理をつくるところを想像できないものかなぁ?
あの短い髪の平松さんだからこそ似合うエプロンです。

読み終わったばかりというのに、もう次のエッセイが待ち遠しい平松洋子です。
posted by 北杜の星 at 07:27| 山梨 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月18日

矢部武「アメリカのベジタリアンはなぜ太っているのか」

世界先進国の肥満順位が数ヶ月前発表された。
1位はもちろんアメリカ。
2位メキシコ、3位チリ、4位ニュージーランド、5位イギリス。
意外なことに「マンマの味」のパスタを食べるイタリア人は、ベスト・テンにも入っていない。
なんでもイタリア女性は以前より少しスリムになったそうだ。

痩せるためのダイエット方法はたくさんある。
そのなかでも、ベジタリアンになるのはちょっとインテリっぽくてカッコいい。
だから大好きな肉をやめて野菜を食べる人がアメリカでは増えているという。
しかし、なのである。
それでも彼らは依然と太っているのだ。なぜ?

この本のタイトルを見ると、いかにもダイエット本のようだが、そうではない。
著者の矢部武氏は15年以上の滞米生活の後帰国し、米紙の東京支局記者を経て、フリーのジャーナリストになった。
アメリカのことをよく知っている人だ。
その彼がアメリカの「建前」と「本音」など、アメリカ人の思考の矛盾をあぶりだすのがこの本。

能力主義なのになぜ外見を重視して整形をするのか?
キリスト教国なのになぜ戦争マニアなのか?
レディ・ファーストと言いながら実は男性社会なのはなぜなのか?
豊かなのになぜ格差が激しいのか?

どれも「そういえばそうだ。なぜなんだろう?」の疑問点ばかりだ。
さしてアメリカ好きではなく、どちらかというとヨーロッパ志向の私だからなのか、アメリカ人の人の良さや陽気さは時に単純さに感じられる。
ピカピカに白く輝く並びの良い歯。中年になってもシワのないつややかな肌。
アメリカ人のスタンダードはハリウッド的に思えてしかたない。
(ヨーロッパの女優さんは、シワもシミも隠さず、加齢をも演技に含ませて、実に堂々としてると思いませんか?私はこっちのほうが断然好き。もっともジーナ・ローランズは歳をとってなお素敵ですけど。)

このなかにも書いてあることで、私も同感なこと。
それは「なぜ明るく前向きじゃなければならないのか?」ということ。
いいこともあれば悪いこともあるのが人生。そうそういつも前ばかり向いていられない。
第一そんな人間ばかりだと、文学なんて成立しないよね。そんな社会なんて私はいやだ。

離婚するためにあれほど猛然と努力できるのなら、壊れた夫婦仲を取り戻す努力もしてみては?と言いたくなる時がある。
神様の前で誓ったくせに、そんなに簡単に離婚していいの?
そして新しいパートナーをゲットすることにこれまた猛然と努力するのだ。
あ〜ぁ、疲れる人たちだよね。

だけどこの本に出てくるほとんどの点で、だんだん日本もアメリカ化しつつあるのではないか。
このところお腹周りが気になる私も、気をつけなくっちゃ。
posted by 北杜の星 at 08:02| 山梨 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月17日

長嶋有「安全な妄想」

66篇のエッセイ集。
ごく短い文章も多くてちょっと物足らない印象があるが、内容がすっごく可笑しいので短さが欠点にはなっていない。
ワッハッハとひらいた口のまま次のページを繰って、それがずっと続く感じ。
それにしても長嶋有ってこんなにおかしな人だったの。

のっけの「蕃爽麗茶」から大笑い。でも大笑いしながらも同情したり応援したり。
作家には盆暮れの付け届けがあるらしい。
高級な和牛肉やワインなんかがくるのかな。
ある出版社からはお中元お歳暮、いつもヤクルト詰め合わせだそうで、野菜ジュースはいいのだが、蕃爽麗茶はありがたくない。不味いのだ。
冷蔵庫に保管するが、次に来るまでまだ入れっぱなしでだんだん増える。冷蔵庫は蕃爽麗茶に占拠されてしまう。
それで担当の編集者に、あれは送らないで下さいとお願いした。でもまた来た。またお願いしたが、またまた来た。
この攻防を繰り返し、とうとう長嶋君、堪忍袋の緒が切れた。
担当者のデスクに封も切らずに送り返したのだ。
以後は来なくなったらしい。
(こういうのは私としたら拍手喝采。ほとんどのほかの作家連中からも賛同を得たが、なかにはアレが好きだったという人もいたらしい)。

長嶋有の「夕子ちゃんの近道」は第1回大江健三郎賞を受賞している。
だからなのか彼と大江の対談が行われた。
しかしそのディスコミュニケーションぶりがなんともおかしい。
教養の塊のノーベル文学賞受賞の大江との噛み合わない会話。フランス語で言われてもわからないよね。日本語でなんという意味ですかとも訊ねにくい。
これも長嶋君に同情、応援してしまう。

彼の感性はすごく理解できる。
エラソーでないのがいい。まぁエラソーにしようがないのかもしれないけど。
こんなに面白いエッセイが書けるのなら、小説だってもっと面白くなるんじゃないのかしらと思うのは、余計なお世話?
初期作品は楽しかったけど、「ぼくは落ち着きがない」や「ねたあとに」は私、どうにも退屈だった。
「ねたあとに」の試みはわからないではないが、あれが新聞小説だったなんて今でも信じられない。
あれは文芸誌でする試みだと思うのだけど。。
posted by 北杜の星 at 07:42| 山梨 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | ナ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月16日

小池昌代「厩橋」

私はあまり東京の下町を知らない。
新宿区の市ヶ谷や杉並区に住んでいたので、下町に行く機会はほとんどなかった。
買い物は新宿や銀座、散歩は神楽坂とか青山あたりという過ごし方の夫婦だった。
駒形のどじょう鍋を食べに行ったり、なんどかの謡のおさらい会があのあたりであったので行きはしたが、下町へ行くときはいつも観光客気分だった。
だから「厩橋」と言われても、もちろん名前は知っているのだけれど、どの橋かわからないのが情けない。

幼なじみ同士で結婚した親雄と黎子。彼らは隅田川の辺に建つ古いマンションに住んでいる。
夏の花火の特等席だ。
だからだろうか、マンションは買ったときよりも値上がりしているという。
最近では川向こうに、建設中のスカイツリーが見えることもあって、ますます高くなっているようだ。
彼らには高校生の一人娘、月子がいる。このごろハッとするほど美しくなった。
けれど月子は彼らの本当の娘ではない。「厩橋」に捨てられていたのを引き取って育てているのだ。

彼らの生活は静穏だ。
親雄は郵便局員。黎子は図書館司書。
昨日と同じ今日と明日が続くかのような日々。
しかし小池昌代の小説が、ただそれだけに終わるはすもない。
彼女の小説世界はいつもどこか怖いものを孕んでいるからだ。
現実と幻想。そのあわいにたゆたうもの。
この「厩橋」にもそれがある。
月子は目の不自由な老婆から、樋口一葉の「たけくらべ」を朗読してくれとのアルバイトをするのだが、読んでいるうちに次第に幻想がまとわりついてくる。

平和な暮らし。
それでも人はそれで満足しないものなのか。
親雄は若い女性と浮気をし、黎子は図書館に本を借りに来る男に気持ちが揺らぐ。
月子は土地を離れ、家族から離れて、一人で生きていこうと決意しているようだ。
確かなものに思えた土地や家族が、隅田川のように流動的でしかないと気付くとき、あのスカイツリーだけが毅然と高さを増している現実がある。
もっと現実なのは、あの3・11の大地震だ。
黎子は図書館で仕事をしているときに地震にあう。

冒頭に、親雄が黎子に佃島の佃煮をお土産に買って帰るシーンがある。
「佃煮なんて、汚い色の塩っ辛い食べ物にすぎず、そんなものがあっても、なんというか、食事がしょぼしょぼして、わびしい感じ・・」と若い頃に思っていた黎子だが、いまではご飯にこれが少しあればもうそれだけでいいや、と思うようになっている。
それって、わかるなぁ。
漬物も佃煮も好きでなかった夫が、最近ときどき「ご飯のお供、ない?」と訊くことがある。
昆布や海苔の佃煮、フキノトウ味噌などをちょっと欲しがるのだ。
一口のご飯が、それで進むらしい。
ある人がエッセイに書いていたのだが、歳をとると、一日三食の食事が全部朝食のようになるのだと。
うーん、そうならズボラ主婦としてはラクでいい。
ご飯と味噌汁。納豆とお浸し、それと佃煮。簡単だ。
だけど我が家は朝はパンなんですよね。それってどうなるのかな。
(昔イギリスは食事がまずいので有名だったが、朝食だけは「イングリッシュ・ブレックファースト」として「コンティネンタル・ブレックファースト」よりも豪華で美味しいものだった。だからかイギリスでは毎食が朝食ならいいのに、と言われたものだ)。

posted by 北杜の星 at 07:24| 山梨 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | カ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月15日

内澤旬子「飼い喰い」

著者の内澤旬子氏はイラストルポライター。
内外のさまざまなジャンルの取材をし、それをイラストつきルポルタージュにしている。
彼女の「世界屠畜紀行」は高い評価を受けている。
最近では自身の乳癌罹病、両乳房切除の経緯を書いた「身体のいいなり」も話題となっている。

世界の家畜の屠殺を見てきた彼女は「自分で豚を飼い、つぶして、食べてみたい」と、豚三頭と生活をすることにした。
この本はそのドキュメントである。
すんなりと豚が飼えた訳ではない。
この本のおよそ半分が、豚を飼うまでの奮闘記なのだから、どれだけ大変だったかがわかろうというもの。

まず場所は千葉県旭市に決めた。
旭市は九十九里の手前。最近震度5弱の地震があったところ。
ここは大規模養豚業者が多いそうだ。
もともとこの地では各農家が数頭の豚を飼っていて、家から出る残飯などで育てていた。
時代が変わり、住宅地が広がるにつれて、豚を飼う家は減った。なにしろ豚は糞尿が匂うし、鳴き声もうるさいので、だんだんと養豚は山へと押しやられていったのだ。
内澤氏の問題も豚小屋を設置できる場所だった。

やっと廃屋になった元居酒屋を借りることができ、友人知人の尽力で建物内の膨大な量のゴミを片付け、豚小屋を造った。
糞尿処理はおが屑で行うこととした。
しかし地方に住むと必要になるのが、足としての車。
ペーパードライバーだった彼女は滅法運転下手。軽トラを手に入れるも、事故でつぶしてしまう。たいした怪我がないのは幸いだった。

そして豚がやって来た!
「夢」「秀」「伸」と名付けたが、これには業者の知人から猛反発をくらってしまった。
ペットではなく家畜に名前をつけてはいけないと怒られたのだ。
彼女もそんなことはわかっていた。それでもやはり名前をつけてしまったのである。そこには豚に対する彼女の愛情が見えてくる。
どれだけ可愛がっても、やがては屠る。そして肉として食べるのだ。

途中、彼女の気持ちは揺らぐ。
名前を付けた三頭の個性はそれぞれで、人懐っこかったり、ひたすら食べて寝てだったり、なかなか馴れなかったりだったが、もう家畜以上の存在となっていた。
しかし結局は最初の目的を忘れることはなかった。
情に流されるのはた易いと思う。そこをあえて踏ん張ったところが彼女の立派なところだ。
第一、なにが「かわいそう」で「かわいそうでない」のか。
そのことを考えるとき、彼女のすることには矛盾も欺瞞もない。

屠殺の日が近づいた。
プロではないためか、思うように三頭の体重が増えなくて、予定の日が伸びた。
その間、必死で彼女は豚を太らせるため心を砕いた。
屠った後で自分の豚を識別できるようにと、屠場ではその日の最後にしてもらうことになった。
一部始終を見届けた彼女。
部位に分けてもらった肉は、「内澤旬子と三匹の豚」という「食べる会」を催すために送られた。
フランス料理、タイ料理、韓国料理のシェフたちが、集まった200人以上の人たちのために料理をした。
美味しいと大好評だった。

その肉を食したとき、彼女は「夢」「秀」「伸」が自分の中にいま居るのだと実感する。
たとえ排泄しようとも、彼らはこれからもずっと自分の中に居続けると確信する。
彼らの細胞が自分の細胞と一緒になったのだ。

ほぼ一年間の記録として、この本はすごい迫力でぐいぐいと押してきた。
肉の中では豚肉が一番好きな私。
屠場でのシーンはさすがにちょっと引いたものの、このように目をそむけることなく「食べる」ことを突き詰める内澤旬子という人に感嘆の思いで一杯だ。
ヨーロッパに行くといまでも普通に兎や鶏や羊や山羊を飼っている家が多くある。
彼らは日常のなかで屠るという行為をしているのだ。

この本で知ったことだが日本では、野生の鹿や猪は捕獲した人などが勝手に肉にしてよいが、家畜を屠るのはプロの業者でないといけないそうだ。
また豚の飼育は、「えーっ、こんなにも神経を使うの」というくらいに神経を使って、ウィルスや菌を防いでいる。
これからは心して、豚肉を食べたいと思います。
posted by 北杜の星 at 07:30| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月14日

森博嗣「相田家のグッドバイ」

大学教師の相田紀彦の両親は、かつて郷里からかけおちし、現在は工務店経営を成功させている。
父は寡黙だが、ときおり話すことやすることに、紀彦は父として尊敬するものを持っている。
母は異様に物を捨てず溜め込んで、それをきちんと整理整頓することに専心する性格。神経質なところがある。
紀彦はそんな自分の家庭をフツーと思ってきたが、結婚した妻は「あなたの両親は異常だ」と言う。
言われてはじめて彼は思い当たることがたくさんあるのに気付く。

自分が育った家庭が世間のスタンダードかどうかなんて、小さな頃にはわからない。
他と較べてやっとわかるものだ。
たとえばすき焼きひとつとっても、各家の作りかたは違う。
友人の家のすき焼きに白菜が入っているのに驚いたことがあるが、玉ねぎを入れる家もささがき牛蒡を入れる家もある。
まぁそういうことがわかるのが、世間を知るということなのかもしれない。
だけど家庭のスタンダードって、なんなのだろうか。そんなものがあるのだろうか。

しかし確かに相田家の両親はちょっと変わった人たちだった。
肉親としての血の繋がりの生々しさやべとつきがない。
私は親類づきあいが嫌いなタチなので、相田家の両親のような人たちのほうが、うっとうしくなくて心地よい。
独立独歩。
誰にも頼らず、いつも凛として他人の干渉を許さない。
それを子どもにも要求する親だ。

その力関係に変化が起こるのが、親の老いである。
家庭というのは、生老病死の場だ。
子どもが生まれ育て、やがて老いて病気になり、そして死ぬ。
このごく自然なことが自分の目の前で起こるのが家庭なのだ。
森博嗣は家族の成立と消滅を、この作品に淡々と乾いたタッチで描いている。
淡々とではあるが、渾身の想いで書ききったのではないだろうか。

両親が逝き、家を片付ける紀彦だが、母親の溜め込んだ膨大な物品と格闘する様子に、ため息がでる。
貯金通帳や印鑑を探したり、思わぬところに現金が隠してあったりするので、一緒くたになにもかもを捨てるわけにもいかない。
これを読むとつくづく、不要なものは処分して、身辺をすっきりして死にたいと思う。
自分が大切なものでも、実はそんなものはゴミにしかすぎないということを認識しなくてはいけない。
自戒をこめて、このシーンを読んだ。

切なさはあるが、喪失の悲しみだけでなく解放された自由さもあって、こうしてなにもかもが続いていくのだなと、胸がシンとする。
「喜嶋先生の静かな世界」も大好きな一冊だったが、この「相田家のグッドバイ」は乾き具合が私好みで、心に残る作品だった。
これも今年の私のベストファイヴのうちの一冊にカウントします。
posted by 北杜の星 at 08:01| 山梨 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする