2016年04月29日

ハッチの身辺雑記

月に一度のハッチの身辺雑記です。

忙しい一カ月でした。
静かなはずの田舎暮らしがどうしてこんなに毎日毎日忙しいのか?不思議でなりません。

今月の第一のニュースは、新しい車がやって来たこと!
納車にほぼ一カ月かかってやって来たのは、アバルト500。
フィアット500をアバルトというチューンアップ・メーカーが発売している車で、普通の500よりビュイーンという感じです。
しかもマフラーが替えてあるので音がスゴイ!
とても爺さんが運転席、婆さんが助手席にという車ではありませんが。。
近頃は音のしない車があるけれど、車やバイクはやはり音が大切。エンジンをかけたときのブルルンという大きな音がたまりません。
アバルト・カラーのグレー、左ハンドル、マニュアルという夫の条件に合致しているのがなによりです。

旧いルノー・キャトルは最初、アバルト世田谷で下取りしてもらう手続きとなっていたのですが、同じキャトル仲間のTさんが譲ってほしいということでそちらに引き取られることになりました。
私たちにとってキャトルは思い入れの強い車なので、見知らぬ人が乗るよりも、Tさんが乗ってくださるのは願ってもないうれしいことです。
しかも彼の山荘は我が家からほんの20分のところなので、キャトルに会いたくなったらいつでも会いに行けます。
その上Tさんはメカにすごく強い方なので、ご自分で整備しながら乗られるはずなので、今まで以上にグッド・コンディションのキャトルとなることでしょう。
・・でもキャトルがTさんに引き取られて行く後ろ姿を見ていたら、なんだかとっても悲しくなって涙が出そうでした。
まるで生き物の牛か馬が引き取られて行くような気持ちで、「かわいがってもらうのよ」と胸がいっぱいになったのです。
そういえばずっと前に私のフィアット・パンダが神奈川の歯医者さんに買ってもらって手放した時も、すごーく悲しかったな。
たかが車とはいえ、思い出がいっぱい詰まっているのです。
とくにキャトルのように個性の強い車は、乗っているだけでいろんな方々と知り合え、話題を共有できる楽しさがありました。
アバルト500のような新しい車では多分、そういうことは起こらないでしょうね。
だけどこれからは家族の一員。楽しいことをこの車と一緒にたくさんしたいと考えています。

車の次に大きな出来事は、「石積み工事」でした。
北側の斜面の土が凍結してボロボロ崩れ落ちるので、それを防止するための石積みをお願いしたのです。
かなり大変な工事でした。上の道から我が家の狭い北側に重機を下ろして、上のクレーン車から一つずつ石を落して、それを職人さんたちが声を掛け合ってきれいに石積みするのです。
15メートルの幅、1.8メートルの高さを、四人の職人さんが4日かかりました。
せっかくなので他にも階段を造ってもらったり、枕木で通路をつくってもらったり・・
外構というのは手をかければかけるほど良くなるんですね。しかも自分でするよりもやはりプロの手にかかると、仕上がりが違います。
すっかり美しくなったので、夫はソーラーライトを買って、夜は石垣をライトアップしています。これまでにない面白い景色となりました。

年々暖かくなっていますが、今年はことのほか暖かい。
桜はいつもの年よりも早く散ったし、レンギョウも雪柳も咲くのも散るのも早かった。
筍の出も早く、いつもならGWに掘ったばかりの筍を届けてくれる友人が、23日にはもう持って来てくれました。
猫にマタタビ、私にタケノコ、というくらいの筍好きなので、毎年の筍到来がうれしいです。なにしろ掘って1時間もしないうちなのですから、柔らかいこと!香りのいいこと!

3月は旅行に行けなかったので、今月は友人夫婦2組と一緒、計6人で、伊良湖のレトロな宿に行ってきました。
古いけれど設備が整い、風情のある宿で、料理もいわゆる「旅館の食事」とは趣が異なり、とても美味しくみんな大満足。
温泉ではなく天竜川の水を使ったお風呂でしたが、まぁお風呂より食事が優先なので、これで充分。
帰りは駒ケ根に寄って、蕎麦を食して帰宅しました。
昨年秋の富山以来の同メンバーでの旅行で、気心が知れているのでワイワイ楽しかったです。
これも健康だからこそ。(まぁ年齢なりにみんな、い・ろいろ抱えてはいますが、それでも元気なのがありがたい)。

最近、八ヶ岳南麓のここでは新しいレストランが続々オープンしています。
小淵沢駅から徒歩1分のところには、リヨン料理のビストロ(というよりブションという感じの安食堂)、清里にはパン屋兼の洋食屋さん、大泉のイタリアン、それからナント、オイスター・バーというのも出来たそうです。
山の中で牡蠣?!って驚きですよね。でもワイン好きな人には白ワインと牡蠣というのは堪えられない組み合わせでしょうね。
うれしいのは、イタリアンが出来ったこと。このあたりには何軒かのイタリアン・レストランはあるものの、満足できるレベルの店がなかったのです。
ログハウスと来た時には「ナンだかなぁ」という印象だったのですが、オープン翌日のランチに友人たちと行ってみると、これがまぁセンス良くお洒落。しかも味がいい。量もたっぷり。それでいて値段は高くないと何拍子も揃っていました。
どれだけの頻度で利用するかわからないけれど、選択肢が多いのはいいことです。
(私たちは「S」という和食処しかほとんど行かないのですが。。)

夫のゴルフ・エルボーは治りませんん。悪化はしなけど回復もしない。
それに加えて朝、右手の中指が腫れているので、指と肘でもしかしたらリウマチかもということで、検査を受けたところ(病院嫌いの夫が病院に行くのはめずらしいのですが、これはやはり一度しっかり検査してもらう方がいいと、薦めました)、結果は「リウマチではない」とのこと。
一安心です。
リウマチなら強い薬が必要になるので、薬害がどうしても心配。それが避けられたのがとにかくうれしい。
オイルを塗ったりサポーターをしているものの状態に変化がないので、ゴルフは相変わらず続けています。

その夫がこのところ力を入れていた山荘が竣工となりました。
なにしろ予算はいくらでもいい。(上限はあるんですけど、とは仰っていたのですが、その上限がいくらかは仰らなかった)、外構も夫の思うように造っていいし、植木だけで400万円使ったという家です。とにかくお金の心配なくデザインできるというめったにない条件です。
とくに「家は年月が経てば古くなるけど、庭はだんだん良くなる」という考えの夫しにてみれば、願ってもない「現場」でした。
毎日数時間も庭師の方と木を植える場所を監理しに行っていました。
数年たてば美しい庭になることでしょう。
そこのオーナーさんはよく伊豆大島に釣りにいらっしゃるので、新鮮なメジナやイサキや鯖などをお裾分けして頂くのは、山暮らしの私たちにとってはうれしいこと。
このあいだなんて60センチの鯛が釣れたそうで、柵にしたものを持って来て下さったのだけど、「大味ですよ」との言葉通り、たしかに大味でした。
刺身ではなく、胡麻ダレの鯛茶にして食べたら、これはイケました。池波正太郎の好物だったという銀座「竹葉亭」の鯛茶には負けますが、そこそこの出来でしたよ。

少し前、友人と新宿で会った時、彼女が着物を着て来て、それがとっても美しく品が良く、うっとりしました。もともと美しい顔立ちの方なのですが、人柄の良さがそのまま人間の品位となっているのですね。
その時に私が「目が悪くて、長襦袢の半襟がつけられない」と言ったら、そのSさんが「襦袢を送って来なさい。縫ってあげます」と言ってくださり、お言葉に甘えて図々しくも宅配でお願いしたのです。
彼女は手仕事上手。縫い目が本当にきれいで、そのうえ着崩れしない工夫もしてくれて、送り返してくれました。
今は縫わなくてもいいマジックテープでとめる半襟も売られているそうですが、どうもナイロン製のテラテラがいやで、半襟は絹でなくっちゃいけません。
衿芯がプラスティックで固いのも嫌いで、襟は柔らかなのがいいです。裾模様の着物を着るときなどはシャンとした衿にしてもいいけど、普段の紬の着物はふうわりとした衿の方がいい。
目が見えなくなるのは不便で苦しいことだけれど、こうして手助けしてくれる友人に恵まれて幸せです。
みんなみんな、本当にやさしい。ありがたいです。
このやさしさに私はどう応えていけばいいのか・・

ハッチは元気です。でも耳がすごーく遠くなりました。
他の猫が庭やテラスに来ても、耳が聞こえないので気配がわからない。
危険なので、私たちが外に出ている時にしか、もう出さないことにしました。
この辺りの猫は飼い猫なのか野良猫なのかわからないけど、どちfらもとてもワイルド。
街育ちのハッチ、しかも今年20歳になるハッチがかなうわけがありません。攻撃されてケガをしたら、天寿を全うできなくなります。
余生をできるだけ穏やかに送らせてやりたいです。

私たちの友人の家のふうちゃんという犬は、大きな腫瘍ができていて、その切除手術を受けました。
ふうちゃんは以前、ブリーダーによって過酷な「繁殖犬」として扱われてきて、「用済み」となって捨てられ、保護団体がケアしていました。
それをネットで見た友人が引き取ったのです。
最初はビクビクオドオドしていたふうちゃんが、日を追うごとに溌剌と元気になり、輝く目となりました。今ではまるまると太って、ワガママにさえなっているのを見ると、本当に良かったなと思います。
犬や猫をペットショップで買うものと日本人は考えているけれど、ふうちゃんのように助けてあげられる動物がたくさんいるんですよね。
ふうちゃんの4泊5日の入院費用は、8万円以上だったとか。健康保険がないから大変ですが手術は無事成功。
ふうちゃん、あの大きなオデキがなくなってよかったね!!

そんなこんなの4月もそろそろ終わり。、
GWのこちらは他県ナンバーの車がいっぱいです。
私たちは喧騒をよそに、静かに友人を招いたり招かれたりで過ごします。
「ハッチのライブラリー」は読書量次第となりそうですが、ときどきはアップしますので、よろしくお願いします。
九州はまだまだ大変な状況ですが、暖かくなって感染症の危険があるので、せめて衛生面が改善されるよう願っています。
平和なGWでありますように。

追記:日本100名水の一つである大滝湧水の隣接地にソーラー・パネルを設置するため、森伐採計画があります。
その反対運動のための書名が4500名集まりました。
この数字は都会からすると少ないように感じられるかもしれませんが、北杜市の人口は5万人。
それを考えると、じつに多くの人々がこれ以上の環境破壊に反対しているか、ですよね。
この声が県や市に届きますように!

posted by 北杜の星 at 07:27| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月27日

和田秀樹「この国の冷たさの正体」

著者の論説にこうも賛同できる本に久しぶりに出会った。
和田氏がこの朝日新書に書く「自己責任」について、私はこのところ腹だ立ってならなかったのだ。
最近とみに騒々しい「自己責任論」って、おかしくないですか?
なにかちょっとした間違いを徹底的に叩く風潮はまるで中世の魔女狩りのようだ。
不倫はいけないことかもしれないが、それは家族の問題であって、あなたに迷惑がかかるのか?と言いたい。
嫌いな政党の政治家であっても、あんな失言がそれほど問題になるのかと鼻白む。
みんな「正義」を振り回し過ぎではないのか?その「正義」が気持ち悪い。
もっともっと追究する大きな相手がいるのに、強者に対してはモノが申せない。
結局は弱者が弱者を叩いているだけ。

生活保護受給者に風当たりが厳しい。
不正受給がいかに悪質かテレビや新聞で報道している。
しかし不正受給者は受給者全体のほんの0.53パーセントなのである。
その他の人たちは生活が窮乏していて、生活保護がなくては暮らせないから受給しているのだ。
もちろん不正受給はわるいことだ。けれどどのようなシステムであってもどこの国であっても、不正を働くものは必ずいる。
それをすべての生活保護受給者に当てはめようとし、彼らが不当にお金を受給しているとの印象を国民に植え付けるのは誰なのか?
しっかり人生設計しなかったからだという「自己責任」で、彼らを誹謗するのは誰なのか?
福祉の予算を減らしたい国家や自治体、それに追従しみんなをミスリードするマスコミだと、和田氏は言う。私もまったくそう思う。
(ちなみに生活保護費(社会扶助費)のGDPに対する割合は、オーストラリア5.6、イギリス5,0に対し、日本は0.6パーセント、「生活保護費で国の財政が圧迫されると言うほど多くはない)。


生活保護受給者だけではない。自殺者、いじめを受ける者、うつ病患者、依存症患者・・
彼らに対しても「自己責任」の言葉が突き刺さる。
しかしもともと国家がこうまで冷たく仲たら、こうした社会問題は軽減されるはずである。
「この国の冷たさの正体」を見たと、つくづく感じたのは、テロの犠牲者に対する反応だった。
日本という国家は真剣に人質になった人たちを救出しようとはしなかったし、国民は「あんな状況の土地に行くからだ」と「自己責任」を追及した。
果ては「国に迷惑をかけるな」とまで言ったのである!
国は何のためにあるのだ?国民一人一人を護るためにあるのではないのか?

日本がこのような冷たい国になったのは、橋本龍太郎政権に始まり小泉政権で本格化したと和田氏は言う。
終身雇用制度、年功序列制度が消えた頃からだそうだ。
競争が激しくなり、それについていけない人たちが弱者となってしまった。
10人いれば1番から10番までの順位がつくのは当たり前だ。7.8.9.10番の人たちは「自己責任」が足りなかったというのだろうか。
誰もが優秀なわけではない。誰もが成功するわけではない。誰もが病気をすることだってある。
なぜそうしたつらさに、気持ちを添わせられないのだろう気亜。
国が冷たいということは、その国民が冷たいと言うこと。そんな国に住んでいると思うと悲しくなる。

和田秀樹氏は精神科医である。
心を病む人たちの病理が社会から発生していることがわかっているからこそ、こういう本が書ける。
彼は問題提起だけでなく、日本画どうすればよいかの提案もここでしているのだが、それには90%賛同します。
この本、777円です。是非読んでみてください。
posted by 北杜の星 at 07:06| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月26日

旭屋出版編集部「カルパッチョ!カルパッチョ!」

カルパッチョが大好きだ。
新鮮な刺身を薄切りにして皿に並べ、その上からたらーりと上質のオリーブオイルをまわしかけて、あとは塩・コショウをし、レモンを絞る。
その上にルッコラを散らすとより美味しくなる。
技なしでこんなに美味しくていいのっていう感じなのに、立派なお客さま料理になってくれるからありがたい。

でももともとのカルパッチョは牛肉のヒレを使ったもので、画家のカルパッチョ氏の好物だったのだとか。
そういえば最初ごろのカルパッチョは魚ではなくて牛肉だった。上にパルミジャーノのスライスが乗っていた。
ヨーロッパでは魚の生は食べないが、肉の生はタルタルステーキがあるように食べるのだ。
大昔、初めてパリに行ったときに注文したいわゆるハンバーグステーキがほとんどレアだったのにはびっくりした。挽肉がレア!?
ちょっと抵抗があった記憶がある。
でも今ではヨーロッパでも生の魚を食べるようになった。SUSHIは大人気だ。

驚くなかれ、カルパッチョは肉や魚だけではなくなていて、野菜や果物というのまであるようだ。
この本には有名レストランのシェフによるレシピのカルパッチョが、和洋中のみならず韓、エスニック風なものも紹介されている。
プロの料理人がつくるからなのか、材料の量が一定ではないし(4人前とかいうのではなく、大量の場合がある)、大サジ一杯とかの表示ではなく、適宜とか書いてある。
でももぁ写真があるので、常識の範囲でそう失敗はないと思う。
この料理の写真が美しいんです。思わずどれも作ってみたくなる。
これから暖かくなる季節にはカルパッチョはいいんじゃないかな?

私の夫が時々思い出したように、カルパッチョのことを話すことがある。
それはもう15年ほど前にイタリア中部のアッシジの下の街で食べた料理だった。
ローマからペルージャに向かう途中、アッシジでお昼時になった。上の街まで行くとレストランは多いが観光客も多いので、下の街で食べようということになった。
ガイドブックで見ると三ツ星ホテルのレストランが見つかったので入ることにした。
お客は他に一人だけだったので、ちょっと失敗したかなと心配になったのだが、サービスの人が薦める「カルチョッフィのカルパッチョ」なるものを前菜に注文した。
カルチョッフィとはアーティチョークのこと。
しばらくするとそのお皿が来た。薄切りの生のカルチョッフィとパルミジャーノとルッコラだった。
カルチョッフィは大好きだが生が食べられるとは考えたこともなかった。カルチョッフィは下ごしらえが大変な野菜で、レモン汁で茹でないと食せないものだと思っていた、
ウェイターに訊ねたら「今、裏の庭から採ったばかりだから、生でも食べられるんだ」と大いに自慢していた。
京都では新鮮な筍を刺身で食べるが(一度食べたことがあるが、それほど美味しいとは思わなかった。ちゃんと茹でて食べる方が断然美味しかった)、カルチョッフィのカルパッチョは文句なしに美味しかったが、夫には味以上に料理そのものが衝撃的だったようだ。
それ以来、毎年5月に掘りたての筍を友人が持って来てくれると、すぐに茹でて、生ではないが筍のカルパッチョをつくることにしている。
同じようにパルミジャーノとルッコラを上に乗っけて。
私たちがカルチョッフィのカルパッチョに驚いたように、初めてそれを見る人は一様にめずらしがって食べてくれる。

この本には、たこをナンプラー味にしTがり、ほたてのバター醤油というのもあるので、お好みのカルパッチョをつくってみてはいかがだろうか。
私はやっぱりシンプルに、オイルと塩・コショウが好みです。
posted by 北杜の星 at 07:14| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月25日

波多野聖「本屋稼業」

本が売れない。
本屋が続々と閉店になる。
本好きにとってはなんとも寂しく悲しい世の中だ。
本屋に足を踏み入れたときの、あのワクワク感をみんな忘れたのだろうか。
東京を離れて田舎暮らしになりなにがつまんないかというと、「ふらっと散歩の途中Bの本屋さん」がないということ。
とくに中央線沿線の荻窪と西荻に住んでいたので、本屋はほんとうにたくさんあったのだ。

この「本屋稼業」の主人公は、戦後世界一となった本屋を創業した紀伊國屋書店の創業者田辺茂一と、彼を経営面で支えた松原治である。
紀伊國屋書店があれほど大きな規模となったのはまず、茂一の本屋に対する「想い」と、戦前の大陸時代から経済に強く人脈を持つ松原の手腕によるものだ。
10歳のときに父親に連れられて日本橋の丸善に行き、そこの崇高なまでの文化の雰囲気に圧倒され、「本屋になる」と決意。
その決意を実現させていく茂一の天性の大らかさ、私利私欲のなさ、公平さ・・彼の人間としての魅力がこの本で余すことなく綴れられているし、茂一の直近として経営を任される松原の苦労と苦労が報われる歓びもじんじんと伝わって来る。

もともと紀州藩の下級武士だった茂一の先祖が江戸に来て材木商を始めた。
茂一の父が薪炭問屋となって大成功。今の紀伊國屋書店新宿本店などたくさんの地所を持つようになった。
茂一はその長男として何不自由なく贅沢に育った。「したいことだけする」という彼の人生スタンスは幼少の頃からのものだったのだ。

本屋になりたい。
しかしその本屋はありきたりの店であってはならない。
一流の建築家の設計に依頼し、本を売るスペースだけでなく、画廊やサロンをつくり、劇場までつくった。
茂一が欲しかったのは、幼い日に見たあの丸善のような、「場」であったのだ。
美しい文化の香りのする「場」。そのためのコストは考えようとしない。
松原はそんな茂一の希望をひとつひとつ叶えていった。
不可能とも思われる交渉に臨み、困難な金策に追われ、円形脱毛症ができたこともある。
その間茂一は銀座のバーでキレイドコロと遊び、作家や文化人たちと豪遊していた。
それでもなぜか。松原は一度も茂一に悪感情をいだいたことがなかった。
田辺茂一と言う人間こそが、紀伊國屋書店のブランドなのだと、松原は知っていたからだ。
どんな無茶な茂一の要望であっても、なんとかしてあげたいと松原は思うのだが、その思いはどこからくるのか。それはおそらく松原自身にも不思議だったのではないか。
まぁ一言で言うならば田辺茂一という人の「人徳」なんでしょうね。
そこには二人のそれぞれの「直感」があり、彼らは直感を信じだのだ。

松原は茂一と初めて会った時「鯨」を思い出したそうだが、田辺茂一って鯨というよりヒキガエルって印象が私にはあるんだけどな。
いつもニコニコ、駄洒落を連発していたおじさんだった。
好きか嫌いかと言われると、あの好色さがどうも苦手だった。
私も若い潔癖な年頃だったから、茂一のような男性はもっとも避けたいタイプだった。

「会うべき人には会うべきときに会う」・・この本はそのことを確認させてくれるものです。
posted by 北杜の星 at 07:04| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月22日

千早茜「西洋菓子店プティ・フール」

パソコンがきれいになって戻って来ました。
お掃除をしてくださったPCドクターさんは、「埃やゴミが結構ありました。とくに猫の毛が」と。
ハッチがPCのキーボードの上に来るからなぁ。
要求貫徹んために、わざとキーを踏みつけることも。。
まぁ定期的にクリーニングをお願いするしかないようです。

「男ともだち」から久しぶりの千早茜。
今回のテーマは「スウィーツ」。

東京の下町商店街に昔からある小さな西洋菓子店。
亜樹はこのじいちゃんの店でパティシェールとして働いている。
じいちゃんはお菓子の正式なフランス語名すら知らないが、基本に忠実にごまかしのないお菓子をつくる頑固者。
亜樹は都心の有名フランス人経営の店での経験を持つが、まだまだじいちゃんにはかなわないと思っている。
それでも彼女らしい斬新なケーキを生みだしたいと、ケーキ職人として必死で頑張っている。
そんな生洋菓子店をめぐる連作短編集だ。

亜樹、亜樹の弁護士の婚約者(もともと、じいちゃんのシュークリームの大ファンという店の客だった)、亜樹の元同僚とその恋人未満のネイリスト・・
かれらがそれぞれの立場から視点を変えて語る、彼らのスウィーツへの想い。。

お菓子、それも美しいケーキを食べるのはどこか背徳感がつきまとう。
こんな甘いもの食べていいのか?太っちゃうよ。虫歯になるかも。
バターやクリームって、コレステロールが怖いよな。
それにこれほどまでにもきれいに飾られたケーキを食べるのは、無残な気がする・・
せめぎあう気持ちが、なおのことケーキを美味しくさせるのかもしれない。

パティシェという職業はいま若い人や子どもたちの憧れれのまと。
じっさいに成功しているパティシェはちょっとした有名人だ。
でも華やかな彩のケーキができるまでには、厳しい修業がある。この小説にも出てくるが、店の厨房は重労働だし、休みだってほとんどない。
休みの日には亜樹のように新作の試作をしなくてはならない。
店の看板商品はもちろん必要だが、季節によっての新商品がなければお客さんはすぐにあきてしまう。

お菓子って不思議だ。
どうしてもなくてはならないものではない。つまりは嗜好品だ。
でも甘いものは疲れた脳にも心にも元気を与えてくれる。
糖質や脂質が体に悪くても、心身が疲れている時にお菓子を食べるときっと、アルファ波がでるのではないかしら?
嗜好品と呼ばれるものはみんなそういう素敵な役割を持っているのだと思う。
この本に登場するネイリストの女の子は、ネイルアートが人生の必需品ではないと知っているけど、だからこそ仕事に熱心になれるのだ。
必需品だけで世の中が成り立っていたら、色のない世界になってしまう。そんなのはつまらない。
背徳感があっても罪悪感があっても、美味しいものは美味しいし、きれいなものはきれいだし、それだけで存在の価値があるのだ。

ネイリストという仕事には漠然とした知識しかなかったが、プロとしてなかなか奥深いものがあるんですね。
季節、肌の色、個性などいろんな要素を考えながら仕事をしているとは、思ってもいなかった。
外国では(ピンからキリまでだけど)、日本よりかなり安くネイルができるけど、日本は値段が高い。
道具があれば家で出来る仕事なのだから、もっと安くてもいいと思うし、流行を追う若い女性向けだけでなく、ハンド・トリートメントの一部としてもっと年配の人たちが気楽に受けられるようになればいい。
でも最近のジェル・ネイルは爪にダメージを与えそうでいやだな。

えーっとですね、私の好みでいうと、亜樹ちゃんのスウィーツより、じいちゃんのシュークリームのほうを食べたいです。
柔らかなシューにたっぷりのカスタード・クリーム!コーヒー・タイムにぴったりです。
posted by 北杜の星 at 07:12| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月18日

お知らせ

パソコンをお掃除にだすため、数日間ブログをお休みします。
再開したらまたよろしくお願いします。
posted by 北杜の星 at 10:31| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

村田喜代子「焼野まで」

熊本地震の被害が時を経るごとに大きくなる。
日本には多くの断層があって、いつどこで同じことが起こっても不思議ではない。
「私でなくてよかった」ではなく、「もし私だったら」と受け止めることが大切。
そうすれば支援のしかたも違ってくると思う。
そしてこんな危険な国に原発はいらないと、声を大にしてみんなで言おう。

2011年3月11日の東日本大震災の数日後、作家の村田喜代子に子宮体がんが見つかった。
彼女は手術ではなく、四次元放射線ピンポイント治療を選択し、以来癌は消えている。
彼女はこのことを「光線」という小説に書いている。
しかし「光線」には書ききれなかったのか、今回のこの「焼野まで」で再び治療を受けた日々のことを描いているのだ。

一行目に「オンコロジー・センターのX線照射台に仰臥して・・」とあり、驚いた。
オンコロジー・センターは鹿児島にある、植松医師が開発した放射線ピンポイント治療を行う病院である。
かねてより私は癌になったらここに行こうと考えている。(山梨医大の肺がんのピンポイント照射もとても有能なので、近場なので最近はある種の癌に関しては山梨医大もいいかなと思っているが)。

でも村田喜代子は作家だ。自分の治療をしっかりと小説に仕立てていて、風景や心理描写はさすがだ。
焼野という言葉にはいろんな意味を含ませている。
福島の原発事故の放射能、自分の治療のための放射能、そして鹿児島(街の名は明記されていないし、火山も別の名前になっている)の火山。
目には見えない光線は人を脅かし、病気を治癒させる。爆発を繰り返す火の山への畏怖・・

放射線治療には「宿酔」と呼ばれる副作用があって、これは人により程度が異なる。
主人公はとてもひどい宿酔に苦しむ。
吐き気、食欲不振、疲労感・・夫が帰って一人になったウィークリー・マンションで、じっと耐えるしかない。
そのなかに、とうに亡くなった祖母や叔母が現れる。まるで幻視のように。
その他にも、やはり癌にかかっている元仕事仲間の男友達からの電話、センターで知り合った女性と街の銭湯に行く話し(鹿児島では銭湯はほとんどが温泉らしい)が織り込まれる。
そのあいだずっと降り積む火山の灰・・

うーん、放射線治療も大変なのだ。彼女のように苦しむのなら、彼女も書いているようにウィークリー・マンションは何でも自分でしなくてはならないので大変だ。
近くの病院に入院してそこからオンコロジー・センターに通う方がいい。(センターは治療のみ、年中休みなし)。
でも彼女の衰弱ぶりがどんなものかわかったが、それ以上にわかったのが、火山灰のものすごさ。
半端な積もり方ではない。よくあの降灰に耐えて住んでいるなという感じだが、住んでいる人はもう慣れっこになっているのか。

これは闘病小説ではありません。
村田喜代子らしい「こちらの世界」と「あちらの世界」の狭間が、病気というリアルさとともに描かれている。
子宮体がんに放射線治療は効果がないと治療に大反対の看護師の娘との気持ちの行き違いもとてもリアルで、母と娘の関係の難しさを考えさせられました。
posted by 北杜の星 at 08:03| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月15日

江上治「あなたがもし残酷な100人の村の村人だと知ったら」

2001年に池田香代子さん訳の「もし世界が100人の村だったら」が発刊され、多くの人が世界の平和について考えさせられた。
世界という大きな対象では理解しづらい事象が、対象を身近なサイズにすることでわかりやすく説明されていた。
この本もそれを狙っているのだろう。
ここで示されているのは現在の日本と将来の日本に関わる「残酷な」数字である。
おそらくはほとんどの日本人が知っている数字。でも知らないことにしていようとしている数字。
はっきりと目の前に突きつけられると絶望してしまう数字がここには並んでいる。
この本を見ると叫びたくなる。「どうして日本はこんなに国になってしまったのか?」と。

少子化、年金や国民健康保険制度、介護保険、貧困を生んでいる格差社会と生活保護・・
日本が抱える問題の大きさはこれからますます増していき、若い世代に負を背負わせることになるだろう。
自分の子どもや孫にこのような負を遺していいのだろうか。

13人が子ども。
61人が働き手。
21人が老人。
それが35年後には、
10人が子ども、
52人が働き手。
39人が老人、となる。

問題はすでに存在している。
お金を稼ぐ人が減っているにもかかわらず、現在の村の借金は村人が1年間に稼ぐ2倍以上もある。
これを普通の家計に換算すると、年収360万円の家庭で年に588万円が必要で、不足額は228万円。れがすべて借金である。
なぜ「残酷」かというと、このツケがすべて20代以下の子どもに回ることなのだ。

一生懸命働いて借金を返せばいいではないかと言うひとがいるかもしれない。
しかしこの村では41人の人が雇われて働いているのだが、そのうち26人が正社員。15人が非正社員。
(非正社員とは契約社員、派遣社員、嘱託、アルバイト、バートなどで、なんの保障もない人たち)。
正社員と非正社員の収入格差はじいつに大きい。
年収200万円以下の「ワーキング・プア」は9人もいる。

・・と、こうした数字が次々に目の前に現れる。
あまりに「残酷」で絶望してしまう。
しかしこうしてしまったのも日本人ならば、これを改革できるのも私たち日本人ではないだろうか。
(もっとも現代のグローバル経済社会においては必ずしも日本単一で解決できるものではないだろうが)。
絶望は愚か者の選択だ。
この本の第二部では、こんな世の中をどう生き抜けばよいかが書かれているが、第一部のショックから立ち直るには根拠が薄いような気がする。。

少子化が諸悪の根源のように言われているが、それは過渡期ではそうかもしれないが、50年100年のスパンで考えればメリットもあるのではないか。
北欧などの人口が少ない国々だからこそ機能しているシステムもある。
デメリットだけでなくメリットを模索してみる必要があると思う。

お金だけを目的にしない人生。足るを知る暮らし。
ほんの数十年前の日本人が送って来た生活じゃないか。ほんのちょっとだけそこに戻るのはけっして後退ではないないはずだ。
景気を良くするために武器をつくり輸出したり、戦争を始める国にだけはなってもらいたくない。
posted by 北杜の星 at 07:18| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月13日

木村敏「臨床哲学講義」

2月、高熱のため寝込んだ後のボゥーとした頭でなにやら考えていたときふと、「私、木村敏の本って、一冊も読んだことないな」と思った。
中井久夫や河合隼雄は読んでいるのに、何故だろう。
これはちょっと読んでみなければ・・とライブラリーを検索してみた。
でも木村敏の著作は数冊しか所蔵されていない。この数少ない中から何を選べばいいのかと迷ったが(なにしろ彼についての知識がほとんどない)、タイトルに「講義」とあるからわかりやすいかなとこの本を借り出した。

いえいえ、全然わかりやすくなかったです。かなり難解。というかとてもムツカシカッタ。
この講義は精神医学関係者ではなく一般人のための講義だったそうだが、精神医学を知らない人間が聴いて、そう易々とは理解できないのではないだろうか。
まず、ものすごくロジカル。精神病という境界線の曖昧な世界と、哲学というこれも結論が出難い世界を結びつけるのにはこの論理性が必要なのか。
この論理性がじつにヨーロッパ的なのだ。
フランスでは幼稚園の時から「哲学」をする習慣を身につけさすというが、木村敏はそういう意味ではヨーロッパ人みたいだ。
アリストテレスから現象学までの哲学を臨床精神医学と結び付けている。

この本の大部分を「統合失調症」が占めている。
統合失調症の病理について述べてあって、その症状は自己と他者との関係や時間軸に特徴がある。
私にも知り合いに統合失調の人がいるが、一見は普通と変わらず仕事をしているけれど、薬でコントロールしきれてはいないようだ。
統合失調症とパラノイアとの類似性が説明いしてあって、この二つの病理の共通する症状は他人と異なるものを見て感じている点だという。
以前精神医学を学んでいる人に聞いたことがあるのだが、「ちょっと普通とは違う感覚の人間は、パラノイアや統合失調症になる可能性が高い」のだそうだ。
違うものを見て感じていれば、しかも自己と他者の関係がうまく結べなければ、そりゃ、シンドクてストレスフルなはずだ。
こういう患者を「強制正常化」できるものだろうか。

えーっと、この本については巧く書けません。
なぜなら、巧く理解しきれていないからです。
引用したい個所はあるのですが、かなりの長文となりそうなので、書ききれないのがもどかしい。
もう一度じっくり読む必要があるでしょう。
これは木村敏から直接「講義」してもらう方がいいかもしれません。
それともまたライブラリーで他の著書を借り出して読むか、ですね。
posted by 北杜の星 at 07:21| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | カ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月12日

ジェニファー・L・スコット「フランス人は服を10着しか持たない2」

「フランス人は10着しか服を持たない」という本は2015年度のベストセラーNO.1となったそうだ。
ミニマリズムに興味のある私はこれをライブラリーから借りようと思ったのだが、予約数がすごくてとても順番が来そうになかったので諦めた。
つい最近、新着図書の項目を見たらこの本があった。ウェイティングは一つだけだった。
これはラッキーと私も借りることにした。

でも、ベストセラーの第二弾によくあることだけど、つまりは「柳の下・・」なんですよね。
書くべきことは最初の本で書きつくしているんじゃないかな。(読んでないからわからないけど)。
著者は大量消費生活で育ったアメリカ人女性。
大学時代にフランスに留学、そこでホームステイした名家の「マダム・シック」の生き方に感動したのが、「フランス人は10着しか洋服を持たない」を書くきっかけだった。
けれどこれはミニマリズム野本というわけではないと思う。
毎日を大切に丁寧に暮らすこと。そのために必要なのは「モノ」では必ずしもないということなのだろう。
ごく当たり前のヨーロッパの習慣が彼女にとっては目からウロコの生活術だった。

普段着がスウェットではない。どこに行くでもなく誰が来るわけでもないのに、きちんとした服装をしていた「マダム・シック」。(そうなんですよね、フランスやイタリアの女性って家に居る時もスーツを着てる人がけっこういるんです)。
毎日のルーティン通りに楽しく家事をしていた「マダム・シック」。
影響を受けてアメリカに帰った著者だったが、時が経ち結婚をし子どもを育てるうちに、少しずつ「マダム・シック」流が薄れてきた。
それに気づいて反省。どうすれば自分らしく美しく生きられるか・・
つまりは、そのことが延々と書いてあるんですね。

はっきり言って、これをお金を出して買った方はお気の毒。
これが参考になるのかなぁ?
わざわざフランスを持ちだすこともないと思うのだけど。日本の女性雑誌でもこれくらいのことは書いてあるんじゃないかな。

ここに書いてあることで「たしかに、そうだった」と思えたのは、ヨーロッパの主婦の家事の仕方だ。
彼女たちはじつによく働く。仕事を持ちながらも、家を美しく整え、時に友人を食事に招く。
曜日毎にすることを決め、今日は洗濯(この本にも書いてあるが、「月曜日は黒いものの洗濯、火曜日はタオルなど白いものの洗濯)、掃除、アイロンかけ・・
そして週末は必ず離れて暮らす親を(いやいやながらの義務感であっても)訪れる。
判で押したような決まりごとで暮らす彼らに、私はいつも敬服している。
これは日本人にはなかなか出来ないことではないだろうか。
「明日は予定が入った〜、今週は行けない」と言うことはほとんどなく、ルーティンとして日常を守ることは、できるようで厳しい自律心が必要だと思う。

それとアメリカ人には考えられないことだろうが、ヨーロッパ人は毎日食品の買い物をする人が多い。
週に一回スーパーマーケットに行って、カート一杯溢れるほど買い物をするのがアメリカ人だから、これには驚くはずだ。
ヨーロッパの人たちは毎日「ハムを2枚」とか「ステーキ肉を一枚」とかを、行きつけの店で買うのだ。
大都会の共働き世帯では変わって来ているものの、それでも個人商店はまだまだ健在だ。
そうした買い物の仕方が地域のコミュニケーションとなっている部分もある。

この本が役立つというよりは、昔のヨーロッパがまだきちんと残っていることが確認できたのがうれしかった。
でも服を10着にはできそうもないのは、私が「マダム・シック」にはなれないということなのでしょうね。
せいぜい「しくしく婆さん」になって、「マダム・シック」に憧れていましょう。
posted by 北杜の星 at 07:12| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月11日

西加奈子「まく子」

直木賞受賞後第一作目のこの「まく子」は意外な展開をみせる小説だ。
受賞作の「サラバ!」とはまったく別の趣がある。
それでも読んでいくうちに「あぁ、西加奈子だ」と思わせるいつもの彼女の人間肯定が、こちらの心に響いて多幸感に包まれる。

ひなびた小さな温泉街。
小学5年生の慧はこの温泉街の旅館の息子だ。
一学期のある日、とても美しい少女コズエが転校してきた。彼女のオカアサンは慧の旅館の仲居として働くことになり、隣接する寮で暮らすことになった。
でもコズエとオカアサンはどこかみんなとは変わっていたし、母娘とは思えないほど似ていないだけでなく、普通の親子の情愛も感じられなかった。

「まく子」というタイトルに最初、変な名前だなと思ったが、まく子は「撒く子」、つまり水を撒く、砂を撒く、葉っぱを撒くの「撒く子」だったのだ。
そう、コズエは撒くのが好きな少女だった。
慧と並んで、石垣の砂粒を撒くとき、彼女はとてもうれしそうだった。
なぜそんなにも撒くのが好きなのか?

私たちはみんなみんな「粒」で出来ている。
人間も鳥も魚も石も・・
粒は命の根源。それはきっと地球だけでなく他の星でも同じこと。
コズエと一緒にいるうちに慧はいろんなことに気づくようになる。

11歳という男の子の年齢は微妙だ。
どんどん体が変化していくのに、その変化についていけない。むしろ自分の体が変わるのが不安だしうっとうしい。
「ウワキ」をして街中のみんなから噂される父親のようにはなりたくない。そもそも大人になんかなりたくないのだ。
まわりの友達が少しずつ変わっていくのもいやでたまらない。

「意外な展開」と最初に書いたが、それがどういうものかは読んでのお楽しみ。
でも私がはっきり言いたいのは、これはファンタジーではないということ。少なくとも西加奈子はファンタジーを書こうとしたのではないと思う。
ファンタジーのかたちをとってまで、書きたいことがあったのだ。
すべての生命体は宇宙の彼方からやって来た。そして我々は「一つ」だし同時に「みんな」でもあること。
西さんがこういうことを書く人だったのが、とてもうれしい!
posted by 北杜の星 at 07:36| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | ナ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月08日

長田華子「990円のジーンズがつくられるのはなぜ?」

このブログを書くためにタイトルを確認して驚いた。
そそっかしい私は「990円」を「1990円」と見間違えていたからだ。1990円だってじゅうぶん安いのだから私が見間違うのも無理はない。
そういえば、私は時々松本の街に散歩に出かけるのだが、2,3年前だったか、松本パルコ地下の大型ブック・ショップが消えて、GUという量販衣料店に変わっていたことがあった。
GUを知らなかったのだが、なんでもユニクロのセカンドライン・ショップで、値段の安さは異常だった。ああいうところに990円のジーンズがあるのだろうか。

かくいう私もファースト・ファッションの服を着る。
GAPをネットで買ったり、ユニクロの下着を買ったりする。さすがにH&Mは若い人向き傾向が強くて私には向かないけれど、ZARAのデザインはそう悪くないと思う。
そうしたファースト・ファッションはなにも低所得層だけが利用するのではなく、みんな上手に使い分けているようだ。
それらの服のラベルには生地の成分とともに、生産国の名前が表示されている。
中国、ベトナム、インドネシア、ミャンマー、そしてこの本が取材されたバングラデシュ。
服を着ながら生産国に思いをはせたことがあるであろうか?その国でミシンを踏む人の暮らしを考えたことがあるだろうか?

・・なくはない。というか「こんな値段って、どうやったらあり得るの?」と不思議でならないことがある。そんなんとき、彼らの賃金のことが頭をかすめる。
でも深くは考えないし、すぐに忘れてしまう。
バングラデシュの若い女性たちが、先進国の990円のジーンズをつくるためにいかに働いているか?
この本はそれを教えてくれる。

バングラデシュはインドとミャンマーに隣接する人口密度のとても高いイスラム教の国だ。
北海道の2倍の国土に、日本より多くの1億4千万人以上の人口を抱えている発展途上国である。
バングラデシュというと何を思い浮かべるだろうか?
私は洪水や台風などの自然災害の被害の大きさだ。先進国なら救える命が、みすみす失われてしまう国。
しかしそれは自然災害だけではないのだ。安い労働力をお求めるグローバル企業のバングラデシュの工場では、劣悪な環境で若い女性たちが働いている。
製品の盗難を恐れる工場側は、門を閉めているので、火災が起こると多大な犠牲者がでるし、その工場の建物そのものが劣化していて倒壊してしまう。そのために命を落とす労働者が後を絶たない。
しかも朝から晩まで働いても彼女たちの賃金は、日本円にして1カ月4千円程度だそうだ。

それでは私たち先進国の人間はどうすればよいのか?
先進国が発展途上国から「搾取」することで経済が成り立っていることは、誰でも知っている。
搾取をやめるために、そんな安い商品を買わないように不買運動をするとよいのか?
しかし生産地で働く人々はお金が必要だから働いているのだ。そのお金がないと暮らせないのだ。ましてや彼女たちが働ける場は縫製工場以外にはそうはないのだ。
工場が操業しなければ現金収入が得られなくなって困るのは彼女たちだ。
・・ジレンマです。

この本の著者は、発展途上国で働く人たちを守るためには、安い商品を買わないことだと言う。
990円のジーンズには手を出すのを止めて、3000のジーンズを選ぶ。消費者みんながそうした行動に出ることで、廉価競争を食い止めることができると。
それがとりもなおさず、バングラデシュの女性たちの労働条件を改善できる方法なのだ。

ファースト・ファッションだけではない。チョコレートもしかり。
チョコレートの原料のカカオたのめに、児童労働が行われているのは有名な話で、そのなかには人身売買された子どももたくさんいるそうだ。
着るものも食べるものも、いったい私たちはどうすればいいのか、途方に暮れてしまう。
せめてこういう本を時々読んで、彼らのことを考えること。(考えるだけでどうなるの?と言われば確かにそうなのだけど)、でも知らないでいるよりは知る方がいい。
誰かが何かをするときに、少なくとも支援ができると思うから。

暖炉の前で気持ちよさそうに眠っているハッチを見ていると複雑な気持ちになってしまう。
猫が人間より幸福であっていいものなのだろうか。。。
posted by 北杜の星 at 07:16| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ナ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月06日

松生恒夫「朝の腸内リセットがカラダを変える」

私はかねがね「腸」が大切、と考えてきた。
このところ「腸」の機能がたんなる消化だけでなく、「免疫」にも大きく関与していることが医師や研究者から言われるようになったのは、喜ばしいことだ。
25年も前に、東城百合子さん主宰の「あなたと健康社」のびわの葉温灸の講習で、「腸」がいかに重要かを鍼灸の先生から教えてもらって以来、私の「腸」信仰はずっと続いているのだ。

この著者の松生恒夫氏は腸の専門医。
これまで30年間、「腸」を診てきたエキスパートだ。
現在は「松生クリニック」を開業、「便秘外来」を設けている。

便秘の人、それも便秘の女性は多い。
食事やストレスなど原因は様々だが、便秘は体にとても悪いので改善努力をするほうがいいと思う。
なぜなら排出できない食べもののカスの毒素が溜まるから。その毒素が善い腸内細菌を殺し、悪い細菌を増やし、免疫を下げるから。
二日に一回、三日に一回であっても定期的に排便がある場合は「便秘」とは言わないという説もあるが、絶対にそうではないと思う。
毎日食事をしているのだから、毎日排便があるのが正常である。

排便は腸の大ぜん動によって起きる。
その回数は1日に数回。
最大なのは「朝」だそうだ。
胃に食べものが入ることによって大ぜん動が連動して起きるので、朝食後1時間以内に便意が起きる。
しかも大ぜん動は10分〜30分しか続かないので、それを逃がさないようにすることが大事だという。
朝忙しいのにとりまぎれてトイレに行く機会を失わないこと。
(日本の家にはトイレが1か所だけなのが困りものですよね。外国のようにバスルームが2か所も3か所もあればいいのですが)。

でも朝食をとることで便意をもよおすよりは、朝起きて一杯の水を飲んでトイレ、という方が本当は健康な体である。
排便をしてから朝食を摂るのが、体にはいいのだと昔ながらの養生訓では言われている。
(ここらあたりが医師との違いか)。

腸には神経細胞が多いので、ストレスがかかりやすい。
現代でストレス無しの暮らしはほぼ不可能。でも毒素を溜めるとますますストレスは大きくなる。
ここにも書いてあるが「汗のデトックスはわずか3パーセント、便は75パーセント」なのだそうだ。

免疫を高めるためにも、「腸」のことをもっと考えよう!
posted by 北杜の星 at 07:13| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月05日

綿矢りさ・角田光代ほか「マナーの正体」

マナーの本というのは以前からいろんな人によって書かれている。
とくに冠婚葬祭に関しての本が多いようだが、その他にも「話し方」(これはNHKの女性アナウンサーの著書ということ多いですよね)、「服装」とかすべての分野にはマナーがあるみたいで、常識に欠ける私は戸惑ってしまうが、マナーってつまりは人間関係をスムーズにするもの。
そうこだわることはないが、無視しては人さまの顰蹙を買うこがある。
。でも私はいつもマナーの本を書いた人って、その後の人生が窮屈ではないかと心配になる。「マナーの本を書いていて、あれかよ」と言われそうだもの。
どんなに普段は上品な語り口の人であっても、時と場合によっては啖呵の一つも切りたくなることはあるはず。そんな時にお上品な言い方はかえって滑稽だ。
私の友人でとても育ちの良い人がいるのだが彼女は実に見事に「くそったれ!」と言い放つこtがあって、思わずパチパチと手をたたきたくなる。

でもこの本は「正しいマナー」ではなく「マナーの正体」というもので、作家、学者、歌手たちが自分がこだわる様々なケースでのマナーについて書いているもの。
だから「それって、どうなのよ」ということだって多々ある。
例えば酒井順子はティッシュペーパーのマナーとして、鼻をかんだティッシュをすぐには捨てられず何度も使うのが「マイ・マナー」だそうだが、「えーっ、バッチイ」と言いたくなるし、綿矢りさはホラー映画の怖いシーンでは目をかたくつむって決して見ないらしく、「それってなんのためにホラー観に行くの」という気になるけど、これはまぁわかるような。。

綿矢りさ、角田光代、酒井順子、さだまさし、福岡伸一、竹内久美子、鎌田實、乃南アサ、藤原正彦、高野秀行、東直子、荻野アンナ、逢坂剛。
モノを書く人ってどんなものを書いても個性がそのままでるんですね。
福岡さんは分子生物学者らしいし、綿矢りさは日常の小さな事柄に視線を持って書いている。鎌田さんはとってもヒューマン。
じつはこの中の著者の一人である荻野アンナという作家、私は大嫌いなんです。
小説家には大いなる敬意を抱く私ですが、彼女の芥川賞受賞作の「背負い水」は、歴代芥川賞のなかでもっとも酷いものだと思っていて、今でもあれは取り消してほしいくらい。
くだらないダジャレの連続をなぜ選者が評価したのかが理解できない。
ダジャレが嫌いなわけではない。むしろ絶妙なダジャレってセンスがあって面白い。
だけどダジャレというのは「音」で愉しむものであって、「字」ではない。活字でダジャレを連発されても鼻白むだけ。
どうしても受け付けない作家、それが荻野アンナだった。
でも「マナーの正体」のいくつかの彼女のエッセイ、案外、よかったんです。人生を知った人が書いた文章という印象があって、共感できる部分が多かった。
ごめんなさい、荻野さん。狭量な私でした。これから少し読んでみますね。

「正しいマナー」本は苦手の私でも、これは面白かったです。
ちなみに「マイ・マナー」があるとしたら、本の紹介のためのストーリーは詳細に書かないことかな。
本ブログに懇切丁寧に筋を書く人がいるが、あれって私はマナー違反だ思う。だってこれから読む人に悪いでしょ。
ミステリー小説のラストを書く人はいないだろうけど、ふつうの小説だって全部を書いたら興を削ぐ。
まったく書かないのもどんな本かわからないので、そこらへんの塩梅がムツカシイですが。。
posted by 北杜の星 at 07:03| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月04日

はらだみずき「あの人が同窓会に来ない理由」

はらだみずきの名前は知っていたが、読むのはこれが初めて。

同年卒業の合同同窓会が開かれ、参加した宏樹は次回の同窓会の幹事をすることとなった。
常磐南中学三年D組の卒業生。卒業から20年、彼らは20歳から5年ごとに集まって来た。
同窓会の参加人数は今回13名。次はそれより多い人数をぜひ集めたい。

ひたすら同窓会参加者を募るというストーリー。
これだけでよく300ページも引っ張れるものだと感心する。当然中だるみはあるけれどイヤになるほどではない。
同窓会代行業なるものも世の中にはあるらしい。ネットを通じての広報活動ができる時代となったようだ。
ただ宏樹ら幹事たちの「熱意」が理解できないんだなぁ。
それというのも、私がクラス会や同窓会にまったく興味のない人間だからだ。これまで一度も行ったことがない。
べつだんやましい過去があるわけでもないのだが、まず、群れるのが嫌い。昔話をするのがうっとうしい。現在の状況を知りたい人がそういるわけではない・・
などなど理由はたくさんあるけれど一言で言うなら「うざったい」。
もちろん会って話をしたい人は数人くらいはいる。そういう人たちとは同窓会で会わなくても直接会ってゆっくり話をすればいい。
でもこんな私でもあと10年くらいしたらいろいろと懐かしくなって、ヨボヨボと出かけて行くのかも。
あるいはkさんが幹事となって「お願いだから出て」と頼んできたら断れないかも。
そうした義理で行く人だっているんじゃないかな。

アラフォーまで生きると、宏樹たちにもさまざまなことが起こる。
中学時代は女の子の憧れの的だった男子やマドンナだった女子は、どう変わったか?
悪い噂のあったあの女の子は今どうしているのか?
同窓会に来ない人には来ない理由があるはず。それは「来たくても来れない」のかも知れない。

今だから「あの時」のことが話せる。今だから謝れる。今だから許せる。。
それぞれの想いを抱いて、D組の卒業生たちは出欠のどちらかに印をつける。
posted by 北杜の星 at 07:25| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月01日

ブティック・ムック編「素敵な玄関・門周り・駐車場」

建築設計という職業の夫は普段は「ここにこういう土地があるのだが、ここにオフィスビルを建てるべきか、マンションがいいのか・・建つとしたらボリュームはどれくらいになるのか」という企画をメインにしている。依頼主は大手不動産会社とか信託銀行とか自治体である。
しかし過去に設計した家が建築雑誌やインテリア雑誌に掲載されたのを見たと、一般住宅の設計依頼がときどきある。
一般住宅の設計は建物の規模が小さい割にいろいろ煩雑なので、若いころはともかく現在ではあまりしたがらない。
それでも頼まれると張り切るのが、家本体の設計ではなく、外構つまりアプローチ部分とか植栽とかである。
「家は佇まい」が彼の建築ポリシーなので、建物がポツンと敷地にあるだけというのは、耐えられないようだ。

というわけでこの本をライブラリーから借り出してきた。現在ある家の外構をすべて任され張り切っている彼の参考になればと思ったからだ。
だけど、これ、残念ながら役には立たなかった。
だって64件の施工例すべて、あまりにも敷地が狭く、「引き」がなさすぎるのだ。
これは日本の家の悲しい宿命だから言ってもセンないことと知ってはいるものの、やはりせつない現実だた。

「門」といっても門から玄関扉がすぐそこ。手が触れるくらいの近さ。
そんなアプローチに植木を植えても、せいぜい1本か2本。「佇まい」なんて生み出せる余地がない。
もちろん施工する側はせいいっぱい努力しているのだと思うし、ないよりあるほうが断然いいには違いないのだけれど。。

そこへいくとここ八ヶ岳南麓には緑があるためか、駐車場や門、玄関への動線が長い家が多いく、みなそれぞれの趣向に合わせて庭作りを楽しんでいる。
平坦な土地は少ないがその特性を活かして頑張っている。
都会からの移住者や別荘族だけでなく地元の農家の方々も、木々を植え花を咲かせている様子は微笑ましい。季節ごとに会うのを楽しみにしている木や花もある。
でも最近、これがちょっと変わって来た。
駐車場部分だけでなく敷地全部をコンクリートで固める家が増えているのだ。
多分、雑草が生えるのを防ぐためだと思う。
たしかに草刈り草取りは大変な作業だ。一雨降れば草は伸びるし、夏は一週間もすればボーボーになってしまう。
でもだからといって全部コンクリートはないでしょ!と言いたい。第一照り返しで暑いんじゃないかな。少なくともすごく夏には暑苦しく見える。
マンションとは違い一軒家を持つのならそれなりの努力やメンテナンスは必要だ。
また高い塀をめぐらした家を見かけるが、こんな景色のよいところでなぜあんな高い塀がいるのかもわからない。

散歩をしていて思わず「あ、この家、素敵」と立ち止まりたくなるような家。
こんな家って案外ないんですよね。
家の内部はプライベート、でも外部はパブリックという意識を持ちたいものです。
posted by 北杜の星 at 07:15| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする