2016年05月31日

乾ルカ「花が咲くとき」

札幌に住む小6の大介。
両親は国立大出だからか、それほど悪くはない大介の成績に厳しい。
そんな鬱屈をはらすために、夜になると、隣家の庭の木の花芽を見つけると削ぎ取っている。
隣家には偏屈な老人、佐藤北海が住んでいて、いつもその木の下にたたずんでいる。
ある日、大介が削り忘れた花芽が開花した。
それを見た北海は突如、ボストンバッグを抱えて旅に出かけようとする。
ちょうど両親に叱られ家出を決意した大介は、北海を追うこごにした。。
北海はどこに行くのか?
秘密を抱えていそうな北海の目的はなんなのか?
北海と大介のロード・ノヴェルはこうして始まる。

乾ルカは「夏光」や「メグル」で、不思議な超常的な小説を書いたが、この大介にもちょっとしたそんな能力がある。
それは会う人からの「気配の色」が見えること。
その色で人の思惑や人柄を大介ながらに判断しているのだ。そしてそれは大介を正しい方向に導くことになっている。

時代設定は昭和50年代半ばだろうか。
戦争体験をもつ人たちがまだ多く存命していた頃だ。戦争後遺症から抜け出せない人たちの戦争の落とし前のつけ方の苦しみ。
名古屋、舞鶴、下関、そして長崎・・北海と大介の旅で出会うリュックの大学生、トラック運転手、ストリッパー、包丁研ぎ師。
彼らは大介に大切なものは何かをそれとなく教えてくれる。
そう、これは大介の成長物語でもある。

やはり感動的なのは最終章で、「許す」「許される」ことの意味が描かれている部部分だろう。
北海の正直さがストレートに胸を打つ。
許すことも許されることも難しい。忘れられない事実をにそれができるのは神様だけだ、
人間が出来ないからこそ、神様がその代わりをしてくれるのではないか?

乾ルカの小説はわりと出来不出来がはっきりしていて、こんなの書かないでと思うこともあるけれど、これは気に入りました。
彼女は幼い子を主人公にするのが巧いですね。
好きな作家さんなので次作にも期待です。

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2016年05月30日

若山曜子「なんでもない日のフランス料理」

久しぶりに楽しい料理本に出会えた。
タイトルにあるように、この本で紹介されている料理は、フランス料理といってもトリュフやフォアグラを使う豪華なものではなく、ごく普通の食材で作る普段の料理だ。
日本人が鮨やすき焼きやしゃぶしゃぶを毎日食べているわけではないのと同じで、フランス人の日常の食卓だってシンプルなはず。
そうでなくてくても日本以上に仕事を持つ女性が多いフランス、そう時間がかかる凝ったものがつくれはしない。

じゃがいも、人参、トマト、豆・・
これなら日本でも近くのお店で手に入る。
ちょっと違うのはバターやクリームの量がやはり大目ということだが、でもまず、レシピ通りに一度つくってみてはどうでしょうか?
そのうえで、自分なりに量を調整するといいと思う。
最初から自己判断で材料を加減したり、手順を端折ったりをついしがちだけど、そうすると「違ったもの」になってしまう恐れがある。
私はそれを避けたいので、最初はまず著者を信用してレシピ通りにつくるようにしている。だって黄金比を見つけるまでには何度も試作をしているのだもの。
  それで好みの味にならないときに別の方法を考えればいい。

基本的な料理がほとんどなので、知っているものが多かった。
それでも充分楽しくて、「あ、これつくってみよう」と思わせるものがこの本の魅力だ。
「さやいんげんとマッシュルームのアーモンド和え」なんて、本当に美味しそうで、これからの季節、ぜひ試してみようと思う。
ともすれば生クリームの脂質を恐れるあまり使うのを控えてしまうが、白いんげんをよく食べる我が家には「白いんげんのクリーム煮」は新鮮かもしれない。白いんげんとクリームの白が美しそう。

肉料理も、「コックオヴァン」とか「牛肉と人参の赤ワイン煮」とか、フランスで伝統料理でありながら家庭で簡単につくれるのがうれしい。
(ちょうどこのGWに友人夫婦が来たので、牛すね肉を煮込みましたが好評でした)。
こういうときのコツは、飲まないからといってワインを安物にしないで、ちょっと美味しいワインを使うことでしょうね。
煮込みはタイマーをかけていればその間、他のことができるので、お客様のときには案外助かる。
(それでいて、手がかかったように見えるしね)。

料理を始める若い方などにプレゼントしたくなる本です。
posted by 北杜の星 at 07:25| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月27日

ハッチの身辺雑記

月に一度のハッチの身辺雑記です。

風薫る五月。
そろそろ田植えが始まっています。
このあたりでは「カッコーが鳴いたら苗を植える」と言います。
以前行き来していた蓼科周辺では、「八ヶ岳のあの山のあの雪が消えたら」と言っていたので、たぶんどこの土地にもそうした農家の歳時記的なものがあるのでしょうね。

GWがあるので五月はいつもの月よりたくさんの友人がやって来てくれ、一緒にランチやお茶をして楽しい時間を持ちました。
この季節はなんといってもテラスでのランチが最高で、目の前にまだ白く輝く南アルプス、里には花々、鳥は冬鳥から夏鳥に替わってうるさいほど鳴いています。
リゾート地のGWはすごい混みようなのでひたすら外出を避け、テラスで過ごしていました。
お天気が良く、五月とは思えないほど気温も高く、すでにかなり日焼けしています。(もともと黒いのですが)

春が終わりもう初夏なんですね。
八百屋さんに並ぶ野菜や果物がずいぶん変わりました。
「新」のつく玉ねぎやじゃがいも、大好きです。
朝採りのグリーンアスパラガスを売っているところがあるのもうれしい。切り口がまだジューシーなんです。
山菜も食べきれないほど頂きます。筍、わらび、蕗。
今年は「のらぼう」という菜花の一種の野菜がこれでもかというくらい毎日到来しました。最初はお浸し屋胡麻和えで食べていたのですがそれでは消化しきれないので、ベーコンと炒めたり、パスタに入れたり。なにしろひと抱えも持って来て下さるのですから、食べるのに必死です。葉玉ねぎもどっさり来ます。
ある日、食卓を見て夫と二人で笑いだしてしましました。だって惣菜すべてが頂きもので料理したものだったからです。
惣菜だけではありません。米も昨年秋の新米からこっち、10キロも頂いているのです。味噌汁の味噌も5年物。
我が家で買ったものって、出汁をとる鰹節と昆布と、胡麻和えの胡麻くらい。
友人が「庭に入って、勝手に絹さやを摘んで」と言ってくれていますが、留守の間に他人さまの庭に入るのもどうかと遠慮していますが。。
豆といえば、昔はこの季節になるとよく「豆ご飯」ってたべてませんでしたか?グリーンピースご飯です。
私は豆が好きでなかったので豆は選って取り除いてご飯だけ食べてましたが、豆の匂いが沁みたご飯は美味しかった。
あの豆ご飯って、お料理屋さんの緑鮮やかなものよりも、家庭でつくる豆がシワシワで色も褪せている方が香りが良くて私は好きです。
いまなら豆も好きになったので、一度炊いてみようかな。

友人を招いての食事はこれまでほとんどがイタリアンだったのですが、最近はネパールカレーという新メニューが登場し始めました。
これはこのブログを見て下さる方と、裏の山荘に時々やってくるカトマンズでホテルを経営しているドルガさんから伝授されたレシピでつくるもので、チキンカレーとキーマカレーの二種類。
お土産に頂いたガラム・マサラはさすがに香りが違います。
スパイスは長持ちしないので、先日カレーランチに来て下さった料理上手の友人にお裾分けしました。
彼女はご主人と自家製ハム・ソーセージのお店を営んでいるのですが、そのご主人が昨年暮れにバイク事故に遭い、以来お店を休業。
観たトロは全然どこも悪くないようなのに、肩の腱を切っているらしく、手術が必要で今月末にやっとその手術を肩専門名医にしてもらうことになったのですが、入院とそのごのリハビリにまだあと数カ月は仕事にならないみたいです。
美味しいハム・ソーセージは当分お預け。今年いっぱいは無理なのかなぁ。
でも本人たちは、とくに奥さんのY子さんは休暇を思い切り楽しもうと、アジア諸国への旅を計画中。お店再開後はまた忙しくなるんですものね、今のうちです。

とても親しい友人が緊急入院しました。
腰と下腹部に激痛があり近くの病院にいったのですが、GWで担当医がいない。尿路結石かまおということで痛み止めを処方されたものの数日後にまた激痛。
別の病院で検査を受けたけれど病名がはっきりしない。それで大学病院に行ったら、即入院となったのです。
それから検査続き。10日たってやっと病名らしきものがついて退院できはしたものの、家での安静が続くそう。
結局病院から「わからないので、退院してくれ」と言われたとか。。
まぁ、これ以上の入院加療を続けても仕方ないので、退院してくれということになたのではないでしょうか。
不安は残りますがでも、家族が毎日病院に通う負担を考えると、少しはいい方向に向かっているのではと思いたいです。

夫の新しい車、アバルトは快調です。
キャトルがなくなったにしょげていたいたのですが、アバルトの走りにだんだん魅了されてきて、すっかり満足の様子。もともとスピード大好き人間なので、性格的には向いているのでしょう。
そのキャトルは友人のTさんが引き受けて下さり、これも気に入ってもらっているようで、先日我が家をそのキャトルで訪れて下さいました。
面白いですね、車って。まるで生きもののようでした。
キャトルはすっかりTさんにかわいがってもらって幸せそうな顔をしていたのです。私たちには余所余所しい感じ。
それを見て、「あぁ、もうウチの子じゃなくなったんだね」と納得しました。

ウチの子のハッチ君は元気です。暖かくなって外に出ることが増えました。もっとも外に出るのはハッチだけではなく他所の猫も同じで、ハッチのテリトリーを荒にやって来ているようで、ハッチは外に出るたびに鼻をクンクンさせて緊張しています。
最近のハッチは平田牧場の豚肉が大好物となり、一日に何度も少しずつお肉をチンして与えていますが、「これはね、平牧なんだからね」と念を押しながら恩を売っています。
ハッチにしてみればどこのであれ、美味しければいいんですよね。
この平田牧場の豚肉は六本木のミッドタウンでもトンカツ屋さんとショップがあって有名ですが、私は生活クラブから購入しているもので、脂身の部分もあっさりしていてじつに美味しいのです。猫にやるににはもったいないのですが、でもその猫、人間以上に味がわかるみたいです。

私の目のジストロフィーは進行が止まらず(進行するからジストロフィーと言うのですが)、日常生活に支障が出るようになってきたので、視覚障害者支援のための講座を受けに行くことにしました。
「視覚障害者の文書保管」というのがその講座で、山梨県立盲学校で開催されます。
本以外の活字を読むのが億劫になり、必要な文書もつい捨ててしまいがちな私にはこの講座、役に立ちそうです。
文書ですから晴眼者(視覚障害者に対して、目の見える人のことをこう呼ぶのです)の家族のサポートが要るので、夫も同行します。
午後から始まるのだけど、夫が居眠りしないといいなぁ。

今年の夏は熱くなると長期予報が出ました。インドでは51度になったとか。
本格的な暑さがやって来る前に、体力気力を蓄えましょう。
ハッチのライブラリーはペースが落ちるかもしれませんが、もうしばらくは続けられそうです。

posted by 北杜の星 at 07:13| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月25日

山崎ナオコーラ「かわいい夫」

私が山崎ナオコーラを初めて読んだのはずいぶんと遅くて、「この世は二人組ではできあがらない」だった。ということは彼女がデビューして6年も過ぎたころだ。
ペンネームの「ナオコーラ」がどうにもイヤで敬遠していた。
こういうところが私の狭量なところで、食わず嫌い、読まず嫌いで失っているものがたくさんあるのだと思う。
そういう意味で、山崎ナオコーラを読書歴に加えたのは、偶然とはいえ正解、大正解だった。ある日、読んでみようと思い立ったのだった。
なによりも文章がよかった。平易な言葉で書かれた深い心理描写。その描写にはべたつきがない。
私の後に読んだ夫も「この人はいいね。」と言っていた。

「かわいい夫」はエッセイ集だ。
ひたすら結婚して間もない夫が出てくる。
だからといって「夫自慢」ではない。
そもそも世間的にみて、自慢の種になるようなところがないのだ。
小さな書店の書店員、仕事が大好き。でも給料はとても安い。労働時間も長く、夏休みも正月休みもほとんどない。せいぜい一泊二日の旅行しかできない。
そしてその旅行の費用は妻がもつことになる。

でも、それでいいのだ。
山崎さんは夫に、経済的豊さを求めて結婚したのではないからだ。
自分の本の売れ行きが落ちて、都内のマンションから郊外の部屋に引っ越しをしなくてはいけなくなっても、読者におもねるようなベストセラー小説は書けそうもない。
薄給の夫と実家の両親を支えるのはちっともやぶさかでない。
またこの夫という男性、なかなか大物だ。
全然卑屈になっていない。そうしたことに価値観を置いていないんですね。どんなときにも卑屈にならない、尊大にならない人間って、いるようでいないものだ。
「かわいい夫」というタイトルはちょっと驚くが、「かわいい」のもっと上を行く、超然とした人だ。

山崎さんはきっとこういう小さな者の小さな生活を大切にしたいと考えているのだろう。
読書人口が減少する一方の昨今、自分の本の売れ行き、夫の書店員という職業・・不安定な暮らしかもしれない。
でもこの本には彼女の心意気を感じる。それはこの本が「夏葉社」からでていることだ。
夏葉社は吉祥寺にあるとっても小さい出版社。発刊されている本も多くない。
けれどここの本のすくい取りかたが素敵で、しかも本自体の佇まいがあって、私はこの出版社の大ファン。
ベストセラーは決して生みださない出版社をあえて選ぶ山崎さんに、大いなる敬意を覚えます。

ちょっと長いけどこの本のなかから文章を抜粋しますね。これを読むと彼女のことがよくわかると思う。
「私は夫と結婚してから、雑誌やネットで評価されているレストランに行かなくなった。・・(中略)夫と外食するなら、自分たちの家の近くの、偶然入った「町の洋食屋さん」の良さを、自分たちなりに発見して愛しむ方が楽しい、と気がついた。
これは「町の本屋さん」で働く夫と一緒に過ごすうちにだんだん身についてきた感性なのではないかな、と思う。
世界で一番素敵な本なんて読まなくていい。たまたま出会った本を、自分なりの読み方で、深く読み込んでいく方が、ずっと素敵な読書になる。」

彼女は結婚する以前は、結婚相手は自分とぴったりの世界で唯一の人だと思っていたと言う。
でも今は、夫が世界一自分に合う人かどうかは問題いではなく、ただ側にいてくれる人を愛し抜きたいだけだと。
うーん、でもそう思えるのって、自分に合っているからですよね。多分、世界一。
「かわいい夫」はつまり、山崎ナオコーラのノロケなんです。
でもこれがちっともイヤミじゃなくって、なんだか涙ぐみそうになるくらい素敵だったのです。
こういう結婚が出来たということが、人生の歓び。いつまでもこの歓びが続きますように。
posted by 北杜の星 at 08:04| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月24日

堀内和恵「原発を止める島」

祝島を知ったのは東日本大震災の後だ。
鎌仲ひとみ監督の映画「ミツバチの羽音と地球の回転」を見て、纐纈あや(ハナブサアヤ)「祝の島」を見て、山口県にそういう名の島があることを初めて知った。
そしてその島には数十年のあいだずっと、中国電力が建設を計画する上関原子力発電所建設に反対する島民がいることを知った。
海と島の山でとれるもので豊かに暮らしてきた島の人々の不屈の運動に、なにか爽やかさを感じた。

どういうわけか祝島は女性を惹きつけるものがあるようだ。
映画を撮った女性監督たち、島を撮り続けて来た女性写真家の那須圭子さん、そしてこの本の著者である堀内和恵さん。
なぜだろうと考えてみた。
なぜこれほどまでに特に女性が祝島にやって来るのか?
それはやはり、「人間」なのだろうと思う。
海で生きる男と女、人力で見事な棚田をつくったおじいさん・・誰もが人懐こく優しい。そして彼らはみなツワモノである。

現在島の人口は約500人。
これまで原発建設反対運動をしてきた人たちも歳を御とってきた。
運動はけっして一枚岩ではない。以前反対はだった人が推進派になったケースもある。
狭い島のなか、反対派と推進派の間には根深い軋轢が生まれた。親戚であろうと隣人であろうと関係ない闘いだった。
中国電力側も巧妙に策を立て続けてきた。
高齢になった人のなかには、漁業補償金を受け取りたい人も出てきている。

それでも反対運動はしっかりと続く。
彼らの強い信念はどこから生まれるのか?
心強いのは、Uターン、Iターンの若い人たちが増えていること。
彼らは島出身者もいれば、よその土地からやってきた者もいる。みんな島のコミュニティーに根ざして生活しようとしている。
原発反対運動にもカヤック隊で参加している。体を張って漁船を連ねて攻防する島の人たちと共に。

福島原発以降止められていた原発がいま、再稼働されているし、再稼働はもっと進もうとしている。
祝島の反対運動はこれからも決して容易ではないだろう。
しかしこの本の第二部を読むと、勇気がわいてくる。
日本では全国17か所に51基の原発がつくられている。
けれどそれをはるかに超える29か所の土地で、原発を止めてきた事実があるのだという。
北海道、新潟、石川、福井、京都、兵庫、岡山、鳥取、島根、山口、大分、宮崎、愛媛、高知、徳島、和歌山、三重、福島・・

原発を止める力が何かと考えるとき、祝島にはその力があると信じたい。
女性監督や女性写真家やこの本の著者は、静かにでも力強く、それを信じているはずだ。

ハートの形をしている祝島。この寿ぎの島を美しいままで残したい。
posted by 北杜の星 at 07:49| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月23日

岩阪恵子「掘るひと」

少し前に岩阪恵子のエッセイ「台所の詩人たち」を読んでその文章の落ち着きが気に入り、小説もと選んだのがこの「掘るひと」。
9つの短編の主人公はみな中年の女性だ。
夫や夫の家族などに言葉にならない違和感をもっている。
言葉にならないからこそ、出さなかった言葉は積み重なって、彼女たちの心から溢れそうだ。
これ以上の我慢ができなければ、なにか恐ろしいことが起こるかもしれない。。
しかし主人公たちはそこまではいかないで、境界の一歩手前で踏みとどまり足踏みをしている。
その感情の微妙さが淡々と描かれている。

「雨のち雨」も素晴らしかったが、この「掘るひと」も印象に残る小説集だ。
派手な道具たてはどこにもない。
日常の暮らしのなかでのちょっとした出来事があるだけ。
穴を掘る、マーマレードをつくる、通夜でのできごと、ベランダに来る猫・・
なにも特別なことはないのに、ディテールにハッとしてしまう。
ここには小説で味わうしかできない愉しさがあって、つくづく巧い作家だなと思う。
「そうそう、こういうのを読みたかったのよね」。

女性の視点からだろうか、短編に登場する男たちの「駄目さ加減」に苦笑しながら頷くことしばしばだった。
たぶん男は自分たちのある部分の欠損や過剰さに気づいてはいないのだろう。
それに反応する女をうっとうしがっているきらいもある。
男と女の違いと言ってしまえばそれまでなのだけれど。。

岩阪恵子は最初は詩を書いていたひと。
彼女が師事していたのが詩人(小説家でもある)清岡卓行で、後に結婚をした。
詩人の夫のそばでは詩は描けなくなったのか、彼女は小説と評伝を書くようになった。
私は木山捷平の大ファンなので、彼女の「木山さん、捷平さん」は今でも持っている。
最近「私の木下杢太郎」という評伝を出したそうで、それも読んでみたい。(といっても杢太郎のことはよく知らないのだけれど)。

資料調べに時間のかかる評伝もいいけれど、小説も書いてください、岩阪さん。
中年から老年になりつつある女性たちの心がどのように変化したか、しないのか、それを読みたいです。
posted by 北杜の星 at 07:33| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月19日

花田信弘「炭水化物が健康寿命を縮める」

炭水化物の摂取を減らすと健康になると、糖尿病専門医や腸専門医などが言うようになり、炭水化物除去の食生活をする人が増えた。
かくいう私たち夫婦も夕食には炭水化物を食べない生活をもう10カ月続けている。(朝のパンもほとんど食べない。でも昼のパスタはどうも止められない)。
けれど内科医だけでなく歯科専門学者の先生までもが、糖質が健康被害を起こすとこの本で諄々と説明しているのである。
しかもその健康被害は体中に及ぶ。
脳血管疾患、心筋梗塞、糖尿病、リウマチ、そして認知症までも。。

その原因は口腔内にある。
虫歯や歯周病になると、歯と歯肉の間から菌が入り、それが血液に入り込んで体中をめぐり増殖する。
それが歯原性の「菌血病」だ。

この本、ベストセラーになっている。
いかに歯で悩む人が多いかということではないだろうか。
私の周りでも歯周病の人がけっこういる。というかある年齢以上になるとかなりの人が歯周病で抜歯を経験している。
幸い私たち夫婦は歯周病はないと、かかりつけの歯科医から定期健診のたびに言われている。
小さい頃から「甘いものを食べると虫歯になりますよ」とはよく言われたことだが、たしかに糖質以外に虫歯の原因になるものはないらしい。
けれど虫歯や歯周病の原因はいわゆる菓子類だけではないのだ。
糖質全般、つまり炭水化物も同様にいけない。
とくに日本人の主食である「白米」は、日本人の菌血病の元凶となっているのではないかと言われている。

人類が農耕生活をするようになってから、虫歯が発生したそうだ。(そんな昔のことを言われてもという気はするのだが)。
ということは、炭水化物を食べるようになってからということ。
日本では江戸時代に虫歯が急増しているが、それはその頃から米を精白して食べるようになったからだそうで、同時にさまざまな健康被害も増加している。
(それってよくわかる。白米を食べた後は口内がなんとなく粘々する感じだが、玄米だとそうはならない。これは口内のPHの酸性度の違いらしい)。
だから白米をたくさん食べる人は歯周病になりやすいということ。

「銀シャリ」が日本人は大好き。白いご飯と味噌汁があればそれで満足という人は多い。
でも米を主食としてたくさん食べるのは出来るだけ止して、お菓子と同じように「嗜好品」として楽しむ程度にするようこの本で提言している。
一つの食品を多量に食べ続けると栄養バランスも悪いし、食べもの由来のアレルギーも引き起こすR。
最初は「ご飯」がなくてどうしてオカズを食べるんだと戸惑うかもしれないが、慣れると平気。
むしろ薄味になるし、寝る前にお腹がもたれなくてよく眠れる。
日本人が昼食の後に居眠りするのは、丼ものや麺類などの炭水化物を摂るからだ。

歯は大切にしたいとつくづく思う。
歯と歯茎がしっかりしていないと、食べられるものが制限される。それでは栄養が偏る。
私の友人に初期のインプラントをした人がいて、それが年月を経てボロボロになり、歯だけでなく歯肉も大変なことになって、治療に数年かかっているが、日本医科歯科大学に診療に行ったときには教授が生徒たちに「これがインプラントの悪い例」だと説明したそうだ。
彼女は以来、食べられるものが限られていて、ずいぶんと痩せてしまった。
今のところ体の他の部位には影響が出ていないが、菌血病の不安はつきまとう。

これからの医療はいまのように細分化された診療科目ではなく、体をジェネラリストが必要と著者は書いているが、まったくその通りだ。
歯周病がリウマチの原因の一つであると最近立証されたそうだし、それは他の疾患にも当てはまることがだんだんわかってきている。
歯は歯だけではない。心臓にも脳にも腸にも繋がっている。
体は全体で診るべきだ。医療も治療もホリスティックであるべきだと私はずっと考えている。

とにかく健康な歯でいるためには、定期的に歯科の健診をを受けて、悪いところを放置しないこと。
これに尽きる。
そういう意味で歯は病気を見つけやすいし、治療しやすい。
そして糖質を減らすこと。甘いものをダラダラ食べ続けたり、白米を多量に食べないこと。
食べたらせめて、速やかに歯磨きいやうがいをすること。
(私の夫は大の甘いもの大好き。それでいて歯磨きは夜寝る前だけ。しかもチャチャっと歯ブラシで磨き歯間ブラシをこれもススッと使うだけ。それで歯周病がないとはどういうことか?と毎食後にしっかり歯磨きしてもそれでも虫歯になる私は納得できないんですけど)。

この本を要約すると上記のようなものですが、もっともっと科学的で専門的に書かれていて興味深いものです。
でも怖いです。。


posted by 北杜の星 at 07:23| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月18日

工藤律子「ルポ 雇用なしで生きる」

2008年の金融危機以来、スペインでは高い失業率に苦しんでいる。
若者の失業率はじつに55パーセントにおよぶといわれる。
政治改革は思うように進まず、働こうと思っても仕事がない。
そこでスペインの人たちは既存の経済システムに組み込まれないで、豊かに生きる方法を考えだした。
それは「雇用なしで生きると言うこと」だった。

グローバル経済に対して、小さなコミュニティのなかで可能な限り経済活動を完結させようとするやり方である。
「時間銀行」「地域貨幣」を運用すること。
お互いの必要なものを交換する。それは時にモノだったり技術だったり。代価を支払うのはユーロに限らない。

これって、最近の私はちょっとわかるような気がする。
東京から山梨県に移住して数年たつが、都会とは違うコミュニティがここには確かにある。
都会よりもずっと「物々交換」という経済原理が生きているのだ。
先日も急にやってきた友人夫婦にありあわせでランチをご馳走したら、「お返しにと言うわけではないけど、枕木運びを手伝おうか?」と言われた。
ちょっとしたお裾分けをしたら野菜がどっさりと返ってきた。薪をもらう代わりに植木をあげる・・
多分スペインで行われているシステムも、つまりはこういうことなのだと思う。
子どもを学校に送り迎えしてあげると、お手製のジャムが届くとか、大工仕事が出来る人はその代わりとして農作物を受け取る。
誰もが何かをすることができるはずという前提に立つ経済システムに必要なものがあるとしたら、信頼関係だろう。
初めからあるわけではないかもしれないが、こういうシステムだと徐々に信頼関係は深まっていくに違いない。

現状を嘆くだけでは何も解決しない。
反対運動をするのは大切だが、改革にいたるまでの待ち時間が虚しく過ぎるだけだし、その間のエネルギーをもっと生産的なことに使う方がいい。
私が好きな活動家に田中優という人がいる。
彼はずっとずっと前から反原発運動に携わってきた。しかしそれだけではない。
反対運動のかたわら、オフ・グリッドで暮らす方法やエコ建築を提案している。
また坂本龍一らと地域貨幣の流通をめざしたり、市民バンクを設立したりもしている。
これはまさにスペインで今行われていることである。
官にばかり頼るのではなく、民のできる現状打開の道を探る姿勢には共感できるものがあって、いつも田中優さんの歩む方向を私は見つめているのだ。

スペインではこの運動が自治体をも動かしているそうだ。
新しい経済を考えると、社会の他の問題点も見えてくるようで、トランスジェんダーや人種問題などへの関心へと広がっている。
「なすすべもない」と諦めるのは間違っているのですね。
地域に根差して相互扶助をしながら生きるという、ひとの本来あるべき姿に戻ること。これが理不尽で公平性のないグローバル経済に立ち向かう方法というのがうれしい。

posted by 北杜の星 at 07:30| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | カ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月17日

井上荒野「ママがやった」

このザラザラした空気感。
こんな井上荒野を私は読みたかった。
でもこれ、説明するのがちょっとむつかしい小説だ。
ストーリーはある。のっけからママがパパを殺すのだ。
たしかに「ママがやった」のだが、理由がわからない。
憎しみや恨みや腹立たしさなどの激情はどこにもない。
そして拓人を殺した後の百々子は動揺も見せず、経営する居酒屋に居合わせた長女と次女にご飯を食べさせるのだ。いつものように。
娘たちは警察に連絡しようとはしない。これもごく当たり前のように。
彼女たちに違和感を持つのは息子だけだが、彼とて、積極的に何かをしようとはしない。

拓人のような男っている。
やさしくてやたら女にもてる。70を過ぎた今も恋愛関係の女性がいる。
仕事をしないが、イラストレーターとか小説家とかを自称する。
妻に養われるヒモ。
そう、どうしようもない男だ。
百々子はある時から一切、拓人のすること、しないことに口をはさまなくなった。
そんな拓人だが、人と人の関係は不思議なもので、家族は拓人に慰められたり癒されたりもする。

読み進むうちに「この小説って誰がホントの主人公なんだろう?」と考えてしまった。
何がテーマなのか?
曖昧さと混乱の恐ろしさがじわりと湧いてくる。
50年間、拓人と夫婦でいた百々子の心の底にはなにがあったのか?
諦めてはいなくて、彼女は拓人に強く深い愛情をもっていたのだろうか。
それにしてもなぜ今?という気がするが、これこそがこの小説のテーマなのかもしれない。

不可解さと不穏さを描かせたら、井上荒野は巧いですね。
楽しめた一冊でした。
posted by 北杜の星 at 07:28| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月16日

岩阪恵子「台所の詩人たち」

雨模様の日の午後、そういえば雨のついた題名の本を読んだことがあるのだけど、あれ、とても良かったのだけど、誰の本だったか?と一生懸命思いだし、そうそう岩阪恵子だったとわかった時の安堵感。
以前は読んだ本のことは忘れなかったのだが、このところの記憶の薄さには我ながらあきれるばかり。
そう、岩阪恵子の「雨のち雨」という短編週だった。

岩阪恵子は寡作作家だ。それにマイナーと言っていいくらいベストセラーには縁遠いひと。
新作がいつ出たかあまりわかりようがないし、ライブラリーが購入してくれることもない。
けれど彼女の静謐な文章は澄んでいて、細やかな情景にその心象が浮かび上がる。それでいて変なべとつきがないのがいい。
久しぶりに岩阪恵子を読んでみようと借り出してきたのがこの本。人生における
岩阪恵子の初めてのエッセイ集だ。

四半世紀にもわたる長い期間のエッセイを集めている。もっとも古いのは1976年のものだそうだ。
赤ん坊が生まれたばかりの頃らしい。
(彼女は師事していた25歳年上の孤高の詩人と言われた清岡卓行と結婚)。
一番新しいのが2000年で本が発刊されたのが2001年。
小説や評伝を書きながら主婦の仕事をする生活のあれこれが描かれていたり、生後まもなく移り結婚するまで住んだ大阪淀川沿いの町のこと、心に留める詩人や作家の作品についてなどの文章がならんでいる。
どれも落ち着きがあって、読む私の神経をしずめてくれる。

もうすっかり東京暮らしのほうが長いはずなのに、故郷大阪の淀川はいつも彼女の内にある。
それは懐かしいという感情以上に彼女の根っことなっているようyだ。
そうした一つの土地への強い気持ちの希薄な私にはそのことが羨ましい。
背骨というか肝というか、そういう核のない自分の弱さが顕わになったような気がする。

私が好きだったのが「歩くのが、いちばん」というエッセイだった。
電車には酔う、飛行機は怖い。自転車にも乗れない。泳げない。そんな岩阪恵子ができるのが「歩くこと」。
息子から「過去人」と揶揄されても、歩くことがいちばん「日常」に近いと彼女は言う。
そしてこの「日常」を歩きながら見るように描いたのが、庄野潤三だと書いているのだ。

「庄野氏はゆったりとした歩幅で足を運びながら、街を眺め、人を眺め、家族とそして自分を見つめる。もっとも氏の心の安らぐのは、自然に目を向けたときだろう。それらのものが庄野氏の体内を経て、言葉になって書きあらわされるとき、ユーモアを交えた静かな語り口の背後に、人生における黒い陥弄を覗き知ってしまった人の悲哀が隠されているのを、人は感じるだろう。」

これほど庄野潤三を確かに評した文章はないと思う。
この本のどの文章も素敵だったが、これを読めたのがなによりの僥倖でした。
次は「掘るひと」を読もうと、借りて来ています。
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2016年05月13日

旭屋出版 カフェ&レストラン出版部「BARISTA LIFE」

バリスタとは広範囲には、バールやレストランで飲み物をつくってサービスをする人をいうが、日本ではコーヒー、それもエスプレッソを供する人の意味で使われる。
この本の副題は「バリスタという生き方を選んだ28人」というもので、バリスタの先駆者からニュー・カマーまでのバリスタが紹介されている。

まさかバリスタが憧れの職業になるとは夢にも思わなかった。
私がイタリアを最初に訪れたのは1969年の夏の終わり。
エスプレッソを飲んだのは多分、ローマだったと記憶する。
小さなカップにほんの一口の濃くて苦い、でもなんともいい香りの褐色の液体に、スプーン山盛り2杯の砂糖を入れた。
カップの底に溜まった砂糖はスプーンですくって食べた。隣のお客さんの真似をして。
(その同じ滞在のときに、bitter(ビッテル)という赤や緑のこれまたすごく苦い飲み物も初体験したのだが、イタリアには苦い飲み物が多いなというのが印象だった。)
日本ではエスプレッソなどほとんど誰も知らない時代だった。

あれから半世紀近く。
イタリアというよりもシアトル系カフェ経由で、エスプレッソは日本で有名になった。
スターバックスの出店がない県って、まだあったっけ?というくらい日本中にエスプレッソは行き渡った。
そしてそこで働くバリスタという仕事も知られるようになった。

この本に載っているバリスタたち、男性も女性も本当にいい笑顔をしている。
コーヒーを淹れて、お客さんに喜んでもらうことが天職のようだ。
好きなことを仕事に選んだ厳しさもそこにはあるだろうが、でもやっぱり好きな仕事ができるのはなによりだ。
彼らの働きぶりを見たいものである。

イタリア人は怠け者と思われている。
しかしバールやレストランでサービスする人はものすごい働き者なのだ。ひとときもじっとしていない。
お客さんが少ないときにはグラス類を磨き、床の掃除をし、ゴミを出汁、とにかくいつも動いている。しかも姿勢がピンと伸びていてカッコイイ。
どんなに混んでいても、注文を間違うことはないし、隅々までちゃんと目を配ってみている。
現在のイタリアのバールでは、キャッシャでまずお金を払って、そのレシートを持ってカウンターで注文をするのだが、以前は飲んだ後でカウンターでバリスタにお金を支払っていた。
彼らはお客さんからもらうわずかなチップを何十年も貯めて、自分のバールの開店資金にしていたんだよと、夫が話してくれたことがある。
いまはカウンターにチップを置く客はいなくなったけど。
イタリアのようなプロのバリスタが日本で続々誕生しているなんて、素敵ではないか。

でも美味しいコーヒーをと気持ちがはやりすぎて、お客さんが緊張するようではいけない。
コーヒーはリラックスするために飲むもの。
バリスタはあまりウンチクを述べず、自分の仕事に忠実になっていればいいのだと思う。
誰が飲んでも美味しいものは美味しいはずだものね。

この本には私がいつか行ってみたいと思っていたカフェが掲載されている。
それは島根県安来市にある「カフェ・ロッソ」というお店だ。
安来節で有名なあの安来である。そんな小さな町にすこぶるつきのバリスタがいるのだ。
いつかカフェ・ロッソのエスプレッソを飲みたい。
エスプレッソ一杯のために旅行をするというのもちょっといいかもしれない。のm「いつか」が実現すればいい。

ちなみに私がこれまで飲んだ一番のエスプレッソというかカプチーノは、ローマのテルミニ駅の北側の、労働者が朝食を摂るバールで飲んだもの。
観光客が行かない小さなバールに、英語で言うところの「首の後ろが日焼けした」(ブルー・カラー)人たちで満員だった。
あの一杯は忘れられない。
くいっとまるでリキュールでもひっかけるみたいにエスプレッソを飲む彼らって、とてもとてもかっこよかった!
バリスタもセクシーだった。
日本のバリスタたちも、もっともっとセクシーになってほしいです!

ところで日本人はなんでエスプレッソに砂糖を入れないの?
イタリア人は「日本にはズッケロ(砂糖)がないのか?」と不思議がっている。
エスプレッソにはやはり砂糖を入れるほうが断然美味しいと思うな。
普段のブレンド・コーヒーや紅茶を甘くはしない私でも、エスプレッソには砂糖を入れます。
昨日、東京神楽坂で飲んだカフェ・クレームにも、きれいな泡の絵がありました。その泡が消えたころに少しだけ砂糖を入れたら、ホッとする味になりました。
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2016年05月11日

本谷有希子「異類婚姻譚」

これまで三度芥川賞の候補となりながら逃してきた本谷有希子。
応援していた私は「やっと」の思いで、胸をなでおろした。
若いころから(今でも30代なかばで充分若いけど)才能あふれる人で、彼女の舞台なら観てみたいものだと、演劇嫌いの私が願ったほど。
でもそういう意味では今回の受賞作品はこれまでのエキセントリックな主人公の言動が薄まっている印象があって、ちょっと肩透かしかもと読み始めた。
ハチャメチャ、ヒリヒリの彼女の小説の特性が弱いかな、と。

それでも大いに楽しめたのは、作品をとおしてのものすごい「気持ち悪さ」だ。
「気持ち悪い」のが楽しいとは変な言い方だが、この「違和感」がなんとも本谷作品らしいところ。
そして「気持ち悪さ」の根源が何かを問うのが、このお話し。

結婚して4年の夫婦、サンちゃんと「旦那」。
子どもはなく、サンちゃんは専業主婦で安楽に暮らしている。
旦那はけっこうな稼ぎの仕事をしているが、だからだろうか、家では何もしたくないと言う。面倒なことはとにかく避けて、テレビのバラエティ番組を見ている。
ある日サンちゃんは自分と旦那の顔が似て来たのに気付く。
顔の造作は一定ではなく、見るごとに変化したり、元にもどったり。
そして何もしようとしなかった夫が突然、大量の揚げ物をつくるようになって。。

日常が異化していく。
それが妻に何かを気付かせる。
同化する夫婦と、やっぱり「異類」である二人の人間の結婚性格。違和が大きくなればなるほど疑問も大きくなる。
。。気持ち悪さがピークになるのが、隣人の猫を山に「逃がして」やりに行く場面。
猫を逃がすのは、なにかの暗喩か?
いろんなエピソードが出てくるが、その都度少しずつ、裂け目が広がるとろこにリアリティが感じられて笑える。(本谷作品にはいつもこの「わらい」があるんですよね。)

毒が薄まったような印象を最初受けたけど、やはりこれはまぎれもない本谷有希子でした。
読みやすくなっているので、読者層が増えるのではないでしょうか?
本を読む人をとにかく多くしたい。そのためにはレベルを落とすのではなく、読みやすくする努力を作家たちはしてもいいのでは?と思います。
純文学好きだけが本好きとはかぎらないのですから。
ちなみに私はそういうジャンルがあるとすればですが「純文学」大好き人間です。
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2016年05月10日

エマニュエエル・トッド「シャルリとは誰か?」

2015年1月7日、パリの風刺雑誌「シャルリ・エプド社」が襲撃され風刺漫画家や編集者たち11人が死亡、多くの人が負傷した。
イスラム教ムハンマドを冒涜したという理由で、イスラム過激派が起こした事件だった。
このことに対しての大規模な集会デモがフランス全土で行われ、パリではオランド大統領、パリ市長、ドイツのメルケル首相、イギリスのキャメロン首相らが並んで先頭を歩いた。
デモに参加した人たちには「私はシャルリ」と書いたプラカードを掲げた者も多かった。彼らは事件の犠牲者への哀悼と「表現の自由」を求めて歩いた。

「私はシャルリ」
では「シャルリとは誰か?」
歴史学者で人類学者であるエマニュエル・トッド氏がテロ後まもなく出版したこの本は、フランスの政治家や哲学者、またフランス国民たちから激しい拒否感を含めた大論争を引き起こしたという。
この本でトッド氏が書くのは、あのデモに参加したのは「ゾンビ・カトリック教」の人間たちで、それは「表現の自由」を掲げた「欺瞞的で排外主義的であった」ということである。
そこには「宗教の衰退と格差拡大によって高まる排外主義がヨーロッパを内側から破壊しつつ」ある現状そのものだと。
フランスの理念であるべき「自由・平等・博愛」はどこにもないと。
彼らの危機感がヨーロッパを崩壊させるのではないか。

非常に興味深い本だ。
我々はなにか事件が起きると、それをエモーショナルに捉えヒステリックに行動しがちである。
しかしモノゴト、とくに政治的なことには我々の及びもつかない「真相」があることが多い。
例えば湾岸戦争での「油にまみれた水鳥」の映像を覚えているだろうか?
イラクが放出した油によって苦しんでいる水鳥の映像に、「イラクってなんて酷い国なんだ!」と私でさえ怒った。
けれどあれはイラクがしたのではなかったと、後で真相がわかったのだ。
国際政治はわかりにくい。それによって派生する事件の真相もわかりにくい。私たちに本当のことがあわかるのは何年も何十年も経ってからだ。
永遠にわからないことだってある。
戦争をしていた国と国が仲良くなったり、また憎み合ったり。。
(前の戦争で日本人はアメリカやイギリスを「鬼畜米英」と「憎まされて」いた。それが戦争が終わったらとたんに親米になりそれが今もずっと続いている。)

大切なのは、一方からの情報だけで判断しないことではないだろうか。
反対側からの意見を知り、自分のアタマで考えることだ。
そういう意味で、私はこの本を推奨します。
この本がフランスで大論争を起こしたこと自体が意義のあることだと思う。
「流されないこと」・・何も考えないで批判しないと、いつのまにか誰かが意図した方向に流されてしまう。それはとても怖いことだ。
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2016年05月09日

角田光代「坂の途中の家」

補充裁判員に選ばれた里沙子は、生後8カ月の赤ん坊を浴室で殺した母親の事件を担当することとなった。
里沙子にも3歳近い娘がいる。
裁判での証人となる人たちの話を聞き審議を重ねるうちに、彼女はこの事件が他人事とは思えなくなる。
反抗期で言うことを聞かず泣き叫ぶ娘に、虐待にちかい行為をしてしまうこともある。
そしてそれを夫に見られてしまう。
夫や義両親の自分を見る「目」。
理解されない子育ての孤独感に、里沙子は「これは自分だったかもしれない」と、犯人と自分を重ねるように。。

3人の子どもを育てた私の友人が言ったことがある。
「子育てって世間で言うほど素晴らしいものじゃないわよ。
そりゃ、歓びはあるけれど、でも毎日毎日、後悔と罪悪感でいっぱいなものなんだから。」
私は子どもを持たないので、育児に関しては何も言えない人間だ。
でも里沙子の娘の文香のように反抗期まっただなかで、要求が聞き入れらないとずうーっと大泣きする子どもにはたして寛容でいられるだろうかと思ってしまう。
一瞬でも我が子を憎いと、突き放してしまうことはないだろうか。

里沙子の夫は被告女性の夫よりは、子どもを風呂に入れたりして子育てを手伝ってはいる。
でもそれはあくまで「手伝う」程度であり、「いいとこどり」のきらいがある。
文香だって幼いながらも「女」で、そういう父親にだけ対する「媚」を見せるのだが、そういうのも里沙子をイラつかせるのだろう。
愛しているのに優しくできないのは余裕がないから。
でも余裕ってどうしたら得られるのか?
わかってほしい、それだけでいいのに、誰もわかってくれない。
夫という男性性の支配欲がじわりと里沙子を包むラスト近くは、まるでサスペンス小説のようだ。

それにしても裁判員には子育て真っ最中の女性が選出されることだってある、里沙子のように。
彼女は中央線沿線から浦和の義両親の家まで通って、文香を預けるのだが、それって本当に大変なのだ。
家に帰りつくのは夜8時過ぎとなる。
しかも文香は眠ったり、ぐずったり。おまけに義母は重い料理を持たせてるのだが、これは厚意とはいえその荷物の重さを考えると有難迷惑かも。
せめて裁判所に託児所を設けるわけにはいかないのだろうか。
拒否することのできない裁判員制度なのだから、それくらいの便宜を図るべきだと思う。

だけど個人的には、この国での裁判員制度は私は反対である。
社会派弁護士事務所に勤める友人の意見でもあるのだが、「この国の私たちいは、人を裁くほど成熟していない」のではないだろうか?
それを「素人」が短時間の審議をし、有罪無罪、量刑を決めるなんて、空恐ろしく私には感じられる。
この本のなかの里沙子たち裁判員は、それほど審議を尽くしたとは思えないのだけど。

被告となると、ある一面の性格だけが大きく取りざたされるのが怖い。
ブランド好きの人間なんてどこにもいるのに、殺人事件の被告だからと、そのことを言い立てられてしまう。
ブランド好きが殺人とどういう関係があるというか?
罪を犯した人間は、全否定されてしまう。そしてそのことに対して誰も異を唱えない。

この作品はさまざまな観点から考えることのできるものでした。楽しいお話しではないけれど興味深く読みました。
子どものいない角田光代がここまで子どもと母親の心理が描けることに、彼女の作家としての力量を感じます。
posted by 北杜の星 at 07:20| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | カ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月06日

浜辺祐一「救命センター カルテの向こう側」

浜辺祐一先生の「救命センター」シリーズは好評でこれまで数冊発刊されていて、「救命センターからの手紙」は日本エッセイストクラブ賞」を受賞している。
先生のファンは多い。

浜辺医師は東京下町の救急救命センターの医師として30年近く働いている。
地域に根ざし、カバーするエリアは救急車で20分の距離だが、人口過密の東京なのでそのエリアの住民は150万人以上にのぼるという。
急病、事件事故による怪我、自殺の患者もいる。
狭い土地なので居酒屋で元患者に会うことがあって、「ところで何の病気でしたっけ」と問うとそれが割腹自殺未遂だったりするのだから、いやはやだ。

高齢化の波が押し寄せてこの救命センターも最近は様変わりをしてきた。
以前なら患者の状況がはっきりしていた。子どもの場合は母親が経過を説明できたし、事故なら当事者や周囲の人から事情が聞けた。
しかし最近では一人暮らしのお年寄りが家の中で倒れているのを大家さんなどに発見されるケースがあって、時間が経過していると状況がわからない。
また老齢夫婦の場合だと、軽い認知症の妻が重症の認知症の夫の面倒を看ていることがあって、説明がはっきりしない。
いまや「老老介護」ではなくその上をいく「認認介護」(これは浜辺先生の造語)になっているそうだ。

たいした症状ではないのに、夜間診療を受けに行ったり、救急車を呼ぶ人が増えている。
朝まで様子見すればいいものをと思うのだが、相談する人がいない都会だと心細いのだろう。
けれど救急車はたまったものではないし、診療施設も「いい加減にしてくれ」と言いたくなる。
救急車を有料にしようという動きがあるのもわかるような。。

救命センターは「脳卒中」「急性心筋梗塞」「重症外傷」「乳幼児の急病」など重篤患者への医療を担当する場所である。

医院、病院はどこも大変だと思う。
そのなかでも救急センターは「待ったなし」なので大変さが増す。
緊急処置、緊急手術の連続で、スタッフのアドレナリンは出っぱなしなのではないだろうか。
それでも時にニュースで救急搬送の「たらい回し」が報じられることがある。彼らにとっては忸怩たる思いに違いない。

浜辺先生はあとがきに「そろそろ先が見えはじめている人間として、あるいは心が折れかかっている臨床医として」と書いておられるが、これからも救急救命医療の医師としてその経験を若い医師たちにたくさん伝えてもらいたいものだと思っている。
posted by 北杜の星 at 07:07| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月05日

小川洋子・鹿島田真希ほか「どうぶつたちの贈り物」

5人の作家による動物小説アンソロジー。
作家たちの名前には動物の名前がそのまま、あるいはひっそりと隠れている。

東川篤哉「馬の耳に殺人」
白河三兎「幸運の足跡を追って」
鹿嶋田真希「キョンちゃん」
似鳥 鶏「蹴る鶏の夏休み」
小川洋子「黒子羊はどこへ」

作家の名前にちなんだ動物で小説を書いてもらおうという出版社の企画だ。
でもこれ、はっきり言って企画倒れ。
企画が良いからといって、小説が良いとは限らないんですね。
そして小説が良くなければ、アンソロジーとして良くなるわけがない。
あのいつもは素晴らしい小川ワールドに浸らせてくれる小川さんさえも、ここではちょっと。。という感じ。
とても残念。
他の小説にいたっては、ミステリーっぽいものが多いけど、どれもつまんなかった。鹿嶋田真希は期待していたものの、これもグダグダしてるだけだった。
初めて読む作家さんが二人いたけど、彼らをこれからも読もうという気にはならなかった。
正直、途中で読むのを止めたものがあるくらいだ。

ごめんなさい。今日のブログはこれ以上書く気がしません。。
作家を恨んではいませんが、編集者を恨みます。
posted by 北杜の星 at 07:02| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月02日

加藤秀行「シェア」

ガイシ(外資)、外銀、IT、ヴェンチャー、コンサル。。
こういう単語が続々出てくる小説が書かれるようになったんだ。
世代によっては拒否感を持つ人がいるだろうが、こういう世界が既存として生きている人たちにとっては同感できることが多いかもしれない。
新しい波を感じながら、私はこの本、けっこう楽しんだ。

芥川賞候補作の「シェア」と、文學界新人賞受賞の「サバイブ」、二中編が収録されている。
31歳の作者はこうした業界で働いているそうだ。
しかし彼は自分が居る場所が世界のスタンダードと思いこむことをさけようとしているのではないだろうか。
とくに「サバイブ」を読むと、そう感じる。
その世界に対する違和感が、彼に小説を書かせているのかもしれない。
彼にとって「普通」は「普通」じゃないんだと知っていて、「普通」と「普通じゃない」ことを描こうとしている。

「シェア」は、ITヴェンチャーを共に立ち上げた夫と離婚したミワが主人公。
ミワはベトナム留学生のミーちゃんと、「民泊」運営を始めている。
池袋のマンションを数室借りて、それを外国人旅行者に貸しているのだ。それはマンション住人から胡散臭く見られるのが当然で、又貸しというイリーガルなものだからだ。
将来への不安、焦り、迷い・・
でもミーはどこまでもポジティヴで明るい。。

「サバイブ」のほうは、お茶の水の三階建て一軒家に居候し、家政夫をする若い男性が主人公。
その家には二人の外銀に勤務する裕福な男性たちが住んでいる。
彼らに較べると、主人公はまったく生産的でなく暮らしているのだが、彼らの共同生活はうまく行っている。。

熱くもなく冷めてもいない。強くも弱くもない。なんだろうこの空気感は?
これまで経験したことのないよな空気が漂っている。
作品に出てくるように、70年代、80年代、そして90年代までは確かば言葉で形容できるものがあった。
でも00年代からははっきり言えないものに包まれている。
そこで生き伸びるには何が必要なのか?
何を奪って、何を奪われて生きるのか?

軽いタッチで描かれているけれど、これはなかなかに深遠な物語です。
この雰囲気を味わうために二作を二度読みました、
最初は「サバイブ」に惹かれたが、二度目の後は「シェア」が好きになった。
「サバイブ」はわかりやすいが、「シェア」の方が小説として重なりが感じられた。
posted by 北杜の星 at 06:42| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | カ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする