2016年09月02日

井上ユリ「姉・米原万理」

ロシア語通訳家米原真理が亡くなってもう10年になるという。
月日の流れる速さに驚くばかりだ。
彼女のようにはっきり自分の意見を言えるひとが最近は少なくなった。
意見を言って批判非難されると、舌の根も乾かないうちに言を翻し簡単に謝ってしまう。つまりは責任回避と迎合してるだけ。
つくづく米原真理が恋しい。

この本の著者は米原真理の妹で作家の井上ひさし夫人のユリさんだ。
副頽に「思い出は食欲と共に」とあるが、ユリさんはイタリアで修業した経験のあるイタリア料理研究家。
「食べる」ことに並々ならぬ興味を持つのは米原家全員だったようで、美味しい物をちょっとだけというのではなく、美味しい物はどっさり食べたいというグルメでグルマンが真理だった。

米原真理の食欲の旺盛さがあのエネルギーにつながっていたのだろう。
なにしろ7歳のとき、お正月うお雑煮の餅を9個も食べたそうだ!
すごいなぁ。。と驚くばかりだが、これは序の口。
家族や親族揃っての会食ではみんなの食べる速度に、お店の人はまだ料理がきてないと思い込み、同じ料理を二度出してくれたこともあったほど。
先に席に着いていた他のテーブルの客よりもずっと速く食事は終わるのが常。

米原家は姉妹が小学生の頃、チェコのプラハで数年を過ごした。父親が日本共産党の幹部だったので、当時世界各国からの共産主義者が集まっていたプラハで仕事をすることになったためである。
母親も次第に東ドイツに行って仕事をすることが多くなり、姉妹二人で食事をすることもあった。
日本共産党とソヴィエトとの折り合いが悪くなってから、彼らは帰国したのだが、日本に帰って懐かしかったのがあのライ麦パンだった。

あのころの日本ではまだちゃんとしたパンを売るパン屋はなかった。フランスパンでさえほとんどなかった時代だ。ましてや黒パンを手に入れるのは不可能だった。
神戸の友人が上京するときにフロインドリーブのドイツパンを持って来てくれたのには大感動だったとか。
それって、わかるような気がする。
亡命したロシア人がもっともノスタルジーを感じるのがやはりあの黒パンだという。
私は南ヨーロッパに行くことが多く北ヨーロッパのパンを知らないので、黒パンを食べる習慣がないのだが、ときどき食べると噛みしめるほどに美味しいと思う。
貧乏旅行で昔はよくアエロフロートを利用したが、機内で出る黒パンは唯一好きなものだった。
(今は富ヶ谷か上田市の「ルヴァン」のコンプレ100か、甲府の「バルト」のライ麦パンが好き)。
それと米原家がもう一つ懐かしかったのが、ソーセージだった。プラハではよく屋台で、黒パンにソーセージを挟んだのを買って食べていた。
そうだよね、当時の日本でソーセージというと、真っ赤なウィンナー・ソーセージだったもんね。
これは銀座の老舗のドイツ店のソーセージが満足できるものだったとか。

これまで未収録だった写真がたくさん載っている。
幼いころから石の強そうな顔をしていた人だ。きれいな一重まぶたはそのまま。
それにしても、幼いころの同じ思い出をもつ姉を失うのはどんなにつらいことだろう。
「あのとき」を話し合えない寂しさ。。
せめて食べもので思い出を辿るしかない。
そういう意味では、思い出がたくさんあってよかったですね、ユリさん。

私が死んだら夫は私の何の料理を思い出して懐かしがってくれるかと、いつか訊ねたことがある。
イタリア料理が好きな彼のことだから、そういうものかと思ったら、なんと意外にも意外、「きみの煮物」なんだそうだ。
ご飯のおかずにはならないくらい薄味なので、最初のころはあまり喜んでいなかったはずなのに、慣れちゃっていつのまにか好物になっていたのだろうか。
昆布とかつお節でひいた出汁の味噌汁が好物に加わるともっと嬉しいのだけど、味噌味が苦手なのでダメかな。

「思い出は食欲と共に」というのは、きっとよくあることなのでしょうね。
posted by 北杜の星 at 07:38| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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