2017年09月19日

保坂和志「東京画」

「東京画」は「この人の閾」に併載されている短編。
先日「この人の閾」を点字本で読み、この「東京画」のことを記事にしようと思いながら、つい「この人の閾」が長くなってしまった。
この作品も保坂らしく、何も出来事という出来事はない。(ラストで猫は車に轢かれてしまうのだけど)。

なぜこれを紹介したかったかというと、これがまるで写真のようだからだ。
主人公は西新宿から環状七号線(環七)の抜け道沿いにあるマンションに引っ越しをしてくるのだが、そこから散歩にでて、見るもののすべてを克明に書いているのだ。
主人公の「僕」が歩きながら見る建物や人々の描写なのだからムーヴィーのようだが、私の印象ではここはやはりスティル写真なのだ。
一つ一つの街の風景が目の奥に焼きつけられたように想像できるからだ。
焼きつけられた風景は私の中で固定される。

僕が住み始めたこの町は騒がしく暑い。
歩いていると、さびれた商店街がある。
煙草屋のじいさんは裸で、ばあさんは襦袢姿になって物干しで夕涼みをしているが、ちっとも涼しそうでも楽しそうでもない。彼らはたんんにそれまでの夏の習慣としてそこに居るとしか僕には思えない。
少し行くと今度は弱った高齢のじいさんが家の外の椅子に坐っている、家族がじいさんをそこに置いたのだろうか。彼もちっとも楽しそうではない。
そもそも商店街は閉めた店が多いのだ。
バブル期にもたいして地上げの対象にならなかった土地なのかもしれないが、日々そこは消えつつあるものが並んでいる。

ほろびゆくもの、残るもの。まだ居るひとも去るひとも。
でも「僕」はできるだけ感傷に流されずに街を歩く。
マンションの隣の犬を飼っている若い夫婦と付き合うようになり、夫とは将棋を、妻とは散歩をする。彼らも過剰な感傷は街に持たない。
それでも「僕」や彼らの心のなかは覗ける。
シロと名付けた野良猫に毎日餌をやりに行く「僕」という人間の思いも分かってくる。

感情説明がほとんどないにもかかわらず、すべてがわかる。。そんな「東京画」、なんて見事な小説を保坂は書くのだろうか。
20年前に読んだときにはこれほどの感想は持たなかった。読みが浅かったんですね。
「この人の閾」にすっかり参ってしまった記憶だけがあるのだが、「東京画」は「この人の閾」に劣らない作品だ。
この作品集の中の4編はどれもこういうもので、何も起きない。
見るもののすべてを書きながら、書いたものが主人公の内面を表している。
すごいなぁとつくづく思う。

「東京画」を手に散歩したらきっと、同じ店、同じじいさんやばあさんに会えるのではないか。
でもあれから20年、街は変わったのでしょうね。
変わらないのは、環七の抜け道のあの車の騒音?
posted by 北杜の星 at 08:16| 山梨 ☀| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月18日

ジェス・フレンチ「さらわれたチンパンジー」

アフリカはカメルーンの森のなか、後にシノワーズと名付けられた生後2カ月の赤ちゃんチンパンジーは密漁者によって捕えられ、ペットショップで売られることになった。
買ったのはレストランの店主。
彼はシノワーズをお金儲けの材料とした。観光客にシノワーズと一緒の写真を撮り、お金を取るためだ。
しかしシノワーズにはろくなエサも水も与えなかった。
ある日それを見た店の女性客がシノワーズを救おうと、野生生物センターに連絡した。
この野生生物センターは野生動物を保護する施設。
そこからシノワーズは、大型類人猿協会という、ひどい扱いを受けている野生生物を法律的に保護する権利を持つ団体に引き受けられること煮なった。
そこにはシノワーズと同じような子どものチンぱジーたちがいて、みんな一緒に仲良く暮らしたとさ。
めでたし、めでたし・・

と書くと、子ども向けのお話しの本のようだが、これはじっさいの出来事。シノワーズは実在のチンパンジーである。
密漁が止まない。
象、虎、サイなどが密漁の対象となっているが、チンパンジーもそうだ。
チンパンジーは食用にしたり、薬をつくったりするために捕獲されている。
チンパンジーは今や、絶滅しそうな大型類人猿らしい。

密漁する側は貧しく、野生生物を捕えて売ることで、生活が潤っているため、密漁は悪いことと知ってはいてもなくならない。
野生生物保護団体とのイタチごっこが続いている。
大切なのは野生生物の体の一部、例えば象牙とかを文明諸国で欲しがらないことだ。、需要があるから密漁するのだ。
昔は私の父親も象牙の箸をつかっていたし、三味線のバチなども象牙、アクセサリーにもよく使われていた。
当時は象のことなど考えたなかったが、あの頃だって象牙を取るために象を殺していたのだ。。

シノワーズは上に書いたように、スムーズに他の動物たちと仲良くなったわけではない。
衰弱したシノワーズを保護したものの、赤ん坊のときにお母さんを殺され家族から離されたシノワーズはチンパンジーとしての野生の能力を身につけていない。
人間不信も大きい。
仲間たちを怖がってなかなか一緒にはなれないなど、たくさんの困難があった。

しかし野生生物保護センターでの暮らしが最終目的ではない。
いつかシノワーズを森に戻さなくてはならない。それが本当の野生生物の保護のはず。
そこでまた、密漁者の問題がぶり返されるのか・・

野生動物を守るにしても、飼われている動物を守るにしても、それは人間の役割だ。
シノワーズのカメラ目線のあどけない写真を見てほしい。
きっと誰もがシノワーズを守り、抱きしめたくなることだろう。
遠いカメルーンの森に思いを馳せる、、そんな気持ちになる本でした。
posted by 北杜の星 at 07:48| 山梨 ☔| Comment(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月16日

ハッチの週間身辺雑記

3連休だというのに、また台風。
今年はなにかと「何十年に一度の豪雨」という言葉を聞くけれど、1時間100ミリというのはどんな雨量なのか?経験したことのない私には想像ができません。
私がこれまで知っている最も強い雨は、スペイン旅行のときのこと。
セビリアからヘレス・デラ・フロンテッラへと辿る道上での大雨でした。
とにかくその猛烈さは凄まじく、前を走っていた車が突然、何の前触れもなく急停車したのです。
マドリードからのレンタカーを運転していた夫は、避けようがなくその車の後部に追突してしまいました。

幸い、後続車もなく、お互いの車はへこんだものの、そのまま走れたので、一番近くのバルまで走り、そこでコーヒーを飲みながら話しました。
なぜ、いきなりブレーキをかけたのかと訊ねると、「ワイパーがまったく動かなくなっって、何にも見えなくなったんだよ」とおじさんが答えました。
なんでも近くの大きな町までその車を運んで、廃車処分にするつもりだったのだとか。
だからボロ車で、ワイパーなど不具合があったのでしょうね。
衝突のショックでタイヤが引っ込んでいたのを、そのバルに偶然居合わせた修理の人にちょっと直してもらって、そのままお別れしました。
ちなみにそのおじさんと夫はお互いに、スペイン語とイタリア語で話し合っていました。どちらも似ているので理解できたようです。
私たちのレンタカー会社には一応、事故を電話で報告しましたが、「全保障の保健にはいっているのなら、事故の報告の必要などない」と、なんで電話をするのか、なかなかわかってもらえませんでした。
車をあ交換してもらいたいのなら、するけど、と言われてしまいました。
こういうところは、日本と違うおおらかさ。
日本のレンタカー会社では、保険に入っていたとしても、前後に車体の傷の点検がありますよね。あれはどうして必要なのか?
よく考えると、無意味のような気がします。
それこそ「重箱の隅をつつく」ような細かさ。

あの雨がもしかしたら100ミリくらいだったのか?
確かに恐怖を感じさせる雨でした。
もしあの雨量が川の近く、また土砂崩れの心配のある崖下なら、心配になります。
台風の通り道の方々に、被害がないといいです。

この1週間は特別なことはありませんでした。
友人夫婦との我が家でのランチが1回。あとは一度、いつものSという定食やさんの外食だけ。
このSというお店、とても気持ちのいい私年代のご夫婦の経営いで、普通のものがとても美味しいので、わりと高齢者の常連さんが多いのです。
見事な厚みのある鮭ご膳には、玉子焼きやかき揚げ、もずく酢、それと野菜の小鉢とお漬け物、味噌汁はきちんとお出汁を取っ手いて日替わりの具が入っています。これで1500円はリーズナブル。
ここでいつもお会いするご夫婦がいて顔見知りになっているのですが、「週に何回、ここにいらっしゃるのですか?」とお尋ねすると、ナント、4回だそう!
小ジャレタとこはたくさんあるけど、ここが一番とは、私たちも同意見。
ここがなくなったら、私たちは外食難民になってしまいます。どうかいつまでもお元気でお店を続けてほしいものです。

21年間続いたギャラリーを友人が閉じることになり、昨日から閉店感謝セールが始まりました。
下の部分はコンクリート打ちっぱなし、屋根は北欧風の茅葺という素敵な建物なのですが、なんといってもオーナーのN子さんのセンスの良さで選んだ作家さんの作品が本当に素晴らしく、毎回の企画展を楽しみにはるばる首都圏や京阪神から通う熱心なファンがたくさんいました。
「いいなぁ」と思っても、なかなか買える値段のものがなく、あきらめることもしょっちゅうでしたが、今回はファイナルセール。
N子さんは売りきりのために破格の値段でストックを出したので、これまでのほぼ半額となっています。
大好きな陶芸家の伊集院真理子さんのポットや、若い作家さんのショールやアクセサリー、夫は鉄のフレームなどを購入。
断捨離が頭をよぎりましたが、「うーん、この機会だからなぁ」と。
そのかわり、家にあるものを捨てることにしているので、所持品の数は同じになるのを、せめてもの言い分けにしました。、

そうそう、5月にこちらのリゾートホテル「リゾナーレ」で結婚披露宴をした従妹の娘Aちゃんから、素敵なプレゼントが届きました。
レモン入りのオリーブオイルとイタリアの茶色の海塩。
レモン入りのオイルは初めてでしたが香が良くて、とても美味しい。
また塩フリークの私にとって、塩も楽しみです。
彼女たちはもう5年間一緒に暮らしてきましたが、今年になって籍を入れ、披露パーティを、どう言うわけか、こちらで催し、親族がやって来たのでした。
彼女たちはロンドン留学時に知り合ったそうで、現在はネット販売を展開しているとか。
写真を送ってくれて、若い人たちの幸せな顔を見るのがこんなにうれしいというのは、私が歳をとったということかと思いながら、じっとその写真を見ていました。

夫はひさしぶりに腰を悪くして、毎日私が朝晩2回、枇杷の葉温灸をしてあげていました。
お灸は「千年灸」とか市販ののものがありますが、やはり枇杷の葉温灸にかなうものはありません。
第一、とても気持ちいいんです。とくに自分でするのではなく他人にしてもらうと、その気持ち良さはこたえられません。
ここは寒冷地ですが、なんとか枇杷の木が根付いてくれています。(何度か失敗したり、草刈りの時に伐ってしまったり)
使うごとに数枚の葉を取って来ます。
枇杷の葉温灸は成城学園前にある東城百合子先生主宰の「あなたと健康社」に習いに行ったもので、どれほどこれまでこれに助けられたことか。
家庭に太もぐさ棒を常備しておくと、心強いです。
このおかげで夫はゴルフをキャンセルすることなく、いつものように楽しめています。
もっとも私にしたら、1度や2度のゴルフは休んで養生して欲しいのですが。。

夏野菜と秋・冬野菜の端境期で、どなたからの野菜も届かなくなって、自然食品店にも揃っていません。
都会のスーパーならどんな野菜でも並んでいるのでしょうが、地産地消のこちらでは、だからこそ安心安全なのだと思うようにしています。
もうあと少しで、ゴボウ、里芋、蓮根などが出てくることでしょう。
もっとも最近では糖質制限を実行する人が増えて、こういう土モノ野菜は糖質が多いので敬遠されるようになりました。
だけど豚肉の味噌仕立て、牛肉の醤油仕立ての芋汁は、季節が感じられて大好きです。
あとは新米のオニギリがあれば言うことなし。
こういうのにたくさんのオカズはかえって野暮。たくわんなどのお漬け物があれば十分でしょう。

短い秋、でもその前にこの連休が無事でありますように!
posted by 北杜の星 at 06:49| 山梨 ☁| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月14日

島本理生「わたしたちは銀のフォークとくすりを手にして」

12編のこの連作短編集にはどの章にも食べものや飲み物が出てくる。
章のタイトルも「蟹と、苺と金色の月」「桜、生シラス、春の海」「大阪の夜、キス、海老を剥いて」など食べものがついているものも多い。
これは別にグルメで読者を引こうと言うものではなくて、食べること、飲むことが日常そのものだからで、島本理生はこの作品で、日常とそこで起きる非日常を描きたかったのだと思う。
けれど例え非日常のようなできごとであったとしても、起きいそれが続くとしたら、それさえも日常となる。

30歳のワークホリックの知世は椎名さんに誘われて、ときおり鍋を囲んだり江の島に出かけたりしている。椎名さんはずいぶんと年上で見た目が素敵なわけではないものの穏やかで、包容力があって、彼女には好ましい男性。
椎名さんとの距離を縮めるべきかどうか考えあぐねている時に、椎名さんから彼の病気を告白される。その病気は世間では感染を恐れられているおぞましいものだった。

ずっと知世が主人公かと思っていたら、語り手は知世の女友達の、事務職の茉菜、フリーライターの原田ちゃん、知世のselfishな妹と移っていく。
彼女たちにもそれぞれの日常がある。
派手に見える原田ちゃんには原田ちゃんなりの悩み、selfishの権化のような妹には妹なりの思いも行動もあるのだ。

最初の章はまるでショート・ショート。
二番目は掌編小説。
これ、どれもこんな短さなのではなくて、だんだん長くなる。それって作者の連載時の思惑が違ってきたためだろうか?
長い方が心理描写も効いていてわかりやすい。

この島本理生、いいです。
恋愛小説家としての面目躍如で、構成、シリアスなのに重くはない文章、人物配置・・
どれもすっきりしている。
このところの島本理生は書きたいことがはっきりしなかったようなところがあって、読後、未消化な気分が残っていたけど、これはそういうことがなかった。
これ、かなり好きでした。
彼女自身が落ち着いた暮らしをしているのが作品にもよい影響をあたえているのか?
人間を見る目がひとまわり大きくなったような気がする。
10代でデビューした彼女も、30代半ばになるんだから、当たり前かもしれないけど、これから長い先作家kとしてどんな展開になるのか楽しみです。
posted by 北杜の星 at 06:56| 山梨 ☀| Comment(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月12日

櫻井武「必ず眠れるとっておきの秘訣」

夏の夜の暑さでねむれなかった人も、涼しくなってやっとぐっすりと眠れるようになったのではないだろうか?
寝ついても夜中目が覚めると、その後がなかなか眠れない。
歳をとるとそういう人が多いみたいだ。
でも、二日続けて眠れなくても、その次の日はぐっすり眠れるので、私は睡眠障害というわけではなさそうで、睡眠導入剤のお世話にはなっていない。

だけどやはり、夜はきちんと眠りたい。
そうでなければ、起きている昼間がつらく、頑張りがきかない。
それではぐっすり眠るためには、さてどうするか?というときにちょうどこの本をライブラリーで見つけた。

うーん、「秘訣」ねぇ。
これを読んでもその秘訣が何なのかがわからない。
眠りのメカニズムと、眠っている間の脳の働きについての説明は納得できたのだが、確かな解決方法が書かれているわけではないような。。

そもそもなぜ眠るのか?眠る目的は何か?
どんなに進化しても眠らなくてすむ動物はいないそうだ。
・記憶を強化する。
・免疫機能を高める。
・エネルギー恒常性を維持する。
・健康な精神機能を保つ。
などなどが睡眠の目的だ。

睡眠が不足すると上記が損なわれる。
しかしあまり心配することはないと著者は言う。
なぜなら、数日間の睡眠不足が続いても、よく寝れば、すべてがリセットされるからだそうだ。

とにかく一番いいのは、寝不足を特別なことととらえないで、気にしないこと!
少々眠れなくても大丈夫。
・・というのがこの本の主旨。
ね、「うーん」ですよね。
間違っているわけではないだろうが、これで本を売ろうというのはなんか、ちょっとねぇ。
読んでいるうちに「結局、何が言いたいの?」という気になってくる。

ただ一つ、私はベッドのなかで時々「足むずむず」になる。これは「足むずむず症候群」(レストレスレッグズ・シンドローム)と呼ばれるもので、長くじっと坐っていたり、横になているときに起きるらしく、女性に多いものだそうだ。
これって、案外苦しいんですよね。
毎日というわけではないのだが、どうかするととくに夏の夜、脚の違和感がうっとうしくて、誰かにずっとマッサージしてもらいたくなる。
一度気になると、ずっと気になる。
寝る前だけでなくて、外国に行く時などの機内でも下肢がむずむずしだすと、不快でならない。
こんな時には睡眠薬を飲んで寝るに限ると、海外旅行の時には薬を飲むようにしている。
この「足むずむず症候群」はドーパミンの問題、鉄分不足などが原因と言われるがよくわかっていないみたいだ。

どんなに悩みがあっても「この人、神経ないんじゃない?」というくらい寝つきが良い人がいて、うらやましくなる。
でもナレコレプシーのように、場所や時を選ばず眠るというのも困るので、折り合いをうまくつけるしかなさそうだ。
こういう本を読んで睡眠障害が解消するようなのは、「病気」「障害」とは言わないのでしょうね。
posted by 北杜の星 at 07:45| 山梨 ☁| Comment(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月11日

山崎ナオコーラ「母ではなくて、親になる」

山崎ナオコーラ、子どもを産んだのですね。
この本には、流産を経ての妊活、妊娠、出産、育児と、彼女が過ごした日々が綴られている。
しかし彼女はあえて「母」ではなく「親」として、子育てをすることにしたのだそうだ。

「母親だから」「母親のくせに」・・世間では母に対するステレオ・タイプが長い歴史の中で作り上げられてきた。
そのためにどれほどの重圧が母にかかったことだろう。
ナオコーラさんは「母親」という言葉をゴミ箱に捨て、毎日鏡の前で「親だぁ」「親だぁ」と自分を見ると、ラクになってよろこびでいっぱいになったそうだ。

もともと彼女たち夫婦、妻は作家、夫は街の本屋さんの書店員。
彼女いわく、「低学歴・低収入の夫」なのだ。
彼女たちの夫婦としてのありようは、夏葉社刊「かわいい夫」に詳しいが、夫はそうした自分を卑下せず、ごく自然体で結婚生活を送っている。、経済的なことなど超越し、誰とでもうまく付き合え、肯定発言だけをし、怒らず穏やか。つまりとってもいい人なのである。
妻であるナオコーラのほうも、夫に経済的なことは要求しない。
日常の中で金銭的には彼女の持ち出し分が断然多いのだが、どちらもそんなことはかまわないのだ。
ここでも従来の「妻」「夫」という役割は彼らの間には介在しない。

彼女はこの本に赤ん坊の性を明確化していない。男の子か女の子かはあえて書いていない。
それは、性は子どもにとって大きなプライバシーであるし、将来この子が大きくなって、どちらの性を選んで生きるかは、誰にもわからないからだと言う。
「母親」を否定し、子どもの性を保留にする彼女のジェンダーに対する考えかたに共感を覚える。

彼女は自然分娩ではなく帝王切開で赤ん坊を産んだが、これを「お産ではなく手術」だったと言っている。
これに関してはいろんな意見があるだろうが、ここでも彼女の「母親」意識が伺える。出産は自然でなくてはとか、無痛分娩を否定したりはしていない。
痛さに耐える出産が「母」とは考えていないのだ。

新生児から生後1年までが記録されているが、私は「新生児」とは生後1カ月までの赤ん坊を呼ぶということを知らなかった。ごく短い期間なんですね。
一カ月ごとに赤ん坊ってかなり変化するのは当たり前なのだけれど、大きくなればなるほどいろいろできることが増えて、人間らしくなるというか、感情表現も多様になっておもしろい。
例えば「10カ月の赤ん坊」という項では、赤ん坊に水分を与える場面が出てくる。
7か月くらいから哺乳瓶はやめてストローで水分を吸わせるようにしていたのだが、ジュースやミルクなどはよろこんで飲むのだが、味のない麦茶やお白湯は、飲むふりをして吸ったり吐きだしたりで飲み込まなかったり、いったん口にふくんでも、パッと吐きだすそうだ。そしてすごく不満そうな顔で抗議するらしい。
でもルイボスティなら飲むというネット情報を得て、ルイボスティを与えると、それなら少しは飲むとか。
麦茶はだめでルイボスティならOKというのはなんなのか?

子育て記はそれなりに興味深くはあったものの、子どもを産んだことのない私には退屈な部分もあった。
けれど頁のところどころに書かれている彼女の社会的価値観や生き方には、いろいろ考えっせられるものがあった。
最近よく言われる「自己責任」という言葉、私は嫌いなのだが、彼女も大嫌いだそうだ。
腎臓透析などの病気や障害など、自分を律せずに罹病した人間の「自己責任」を追及し、救済しなくても構わないという風潮が高まっているが、それは違うと彼女は言う。
それがたとえ「自己責任」であったとしても、現実に今困っているのだから、救済するのは当然で、それが成熟した国家というものだと。
これにはまったく大賛成。
「自己責任」ですべてを斬り捨てようとする幼稚さには耐えらないし、それならば社会や政治の責任はどうなっているのかと言いたくなる。
そうした救済を含めての国家予算なのではないか。

他にも山崎ナオコーラが好きになる彼女の意見が書かれているこの本、女性だけでなく男性にも読んでもらいたいと思う。
男性だってステレオ・タイプの押しつけに疲弊して、ラクになりたいのじゃないかな?
posted by 北杜の星 at 07:57| 山梨 ☀| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月09日

ハッチの週間身辺雑記

夏から秋への移り変わりが感じられる毎日です。
裏のミズナラのドングリがカーン、コロコロと屋根に落ちて、あんな小さな実が!というほど大きな音をたてびっくりします。
それから稲穂が黄色くなり、害獣や害鳥を防ぐための空砲の音も響くようになりました。
これからは一雨ごとに気温が低くなります。

季節の変わり目にはこの国では雨が降ります。
最近では雨が降ると、豪雨にならないかと気にかかります。
私の住む八ヶ岳南麓には大きな川はないので氾濫のおそれはないですが、崖崩れなどの危険性はあるでしょうね。
八ヶ岳側には川はないけど、南アルプス側では「釜無川」というオソロシイ名の川があって、これは氾濫すると家の釜まで流されるという意味で、以前は被害が大きかったところのようです。
また尾白川が氾濫して武川という集落に襲いかかることもあったようっです。
自然災害はどんなに気をつけていても、人間をはるかに超えて起きるものです。

その自然災害だけでも大変だというのに、北朝鮮問題はいったいどうなるのか?
これは人間の智慧で解決できることのはず。一方が大人気ないのなら、せめてもう一方だけでも大人の対応をとって欲しいものです。
気がつけば、戦争のただなかにいるなんてやめてもらいたい。

世の中のあれこれに較べると、我が家は静かな一週間でした。
友人を招いてギョーザ・パーティを開いたくらい。
ギョーザつくりは夫も手伝ってくれて、ホットプレートで焼きました。
ホットプレートは2,3年前に初めて購入したものの、登場の機会がなく、物置に入れっぱなしでしたが、「ギョーザはフライパンじゃなくホットプレートにすると、いいんじゃない」ということで、夫が食卓で焼いてくれました。
これが上出来!まぁ、技は不要なのですが、みんな「美味しい」「パリッとしている」と好評でした。
これならこれからギョーザも我が家のお客様料理になりえるかな?
ギョーザのような料理って招かれる側も気負わなくて来られるし、招く方も気がラク。
作っておけばあとは簡単。作るのだって、お客さん二それぞれ作ってもらうというテもアリ、ですよね。
歳をとるとだんだん、横着になってきますが、みんなで食事をするのは楽しいことなので、しないよりは簡単であっても、する方がいいと思っています。

7月に草津温泉に行った時、温泉土産としてはすごーくベタなんですが、温泉まんじゅうと温泉玉子を買って帰りました。
夫は温泉玉子が気にいって、生協か生活クラブかのパンフレットで「温泉玉子器」をを見つけ、注文したのです。
その温泉玉子器なるもの、ちょっと耐えられないほどヒドイ。
材質はプラスティック、色はクリーム色、形は卵型っぽい大きなもの。台所の他の調理器具とのマッチングの悪いことったらありません。
あんんなのを私の台所に置きたくはない。
夫だって道具などの色や形状にはとてもうるさい人なのに、温泉玉子を食べたい一心だったのでしょう。
でも温泉玉子はシャトル・シェフでも出来るんです。温度計さえあればそれこそ簡単。70度のお湯で数十分放置すればいいだけのこと。
いつあの変てこな温泉玉子器を台所から追放するか、現在思案中であります。

その夫、秋にちょっと旅行に行く計画をしているので、その下調べ中。
私は旅行ガイド本は、写真や地図があって見えないので、彼にお任せ。
見どころ、食事どころなど、いろいろ考えてくれているようです。
この旅行はある友人夫妻が「一緒に、行きませんか?」と誘ってくれたもの。とても気持ちの良ご夫婦なので楽しみです。
といっても、べったり一緒に居るわけではなく、2日間は別行動。
彼らは彼らなりの予定があるようです。
他の友人夫婦にも一緒にどうかと声をかけたのdすが、ちょうどその時期はアメリカ住まいのお穣さんが休暇で帰ってくることになっているのだとか。
そのお穣さんはとっても素敵な方で、アメリカで心理学者兼臨床心理士をされています。
子どもを持たなと決めていたアメリカ人夫婦が、このお穣さんを見て「こんな子なら、子どもを持とう」と決心したという話も聞いていうくらい、人間的にも素晴らしく、今回も一緒の食事の席を設けてくれるそうで、お会いするのが楽しみです。

愉快なのは、いつもバカな冗談ばかり言っている彼女の父親、彼女の前ではそんなバカも口に出さず、おとなしいのです。
娘の前では父親ってそんなものなのでしょうか?カワイイです。
私たちには子どもはいないけれど、友人たちの娘が何人かいて、その成長をずっと見てきているので、みんなそれぞれ幸せな人生を送れれればと心より願っています。
来月7日にはそのなかの一人が挙式します。お母さんのお腹のなかに居る頃からしっている子です。
六本木ヒルズのグランド・ハイアットでお式と披露宴、新居は勝どきの超高層マンションという豪華版。
でも結婚式や披露宴は結婚のほんのスタート。ナニゴトもない人生はないはずだけど、パートナーと仲良く解決しながら歩んでほしいものです。

同じようなスタートをしていても、うまくいく夫婦といかない夫婦、どこが分かれ目なのでしょうかね?

posted by 北杜の星 at 07:52| 山梨 ☀| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月07日

帚木蓬生「ネガティブ・ケイパビリティ」

帚木蓬生は精神科医であり作家でもある。この本は本職の精神科医として書いたもの。
頁を開いて、驚いたのなんのって!
ジョン・キーツのことが書かれていたのだ。
ジョン・キーツ!
私が10代の頃、私淑していた英会話の先生が19世紀イギリスロマン派の詩を教えてくれた。
テニソン、ワーズワース、バイロン、シェリーなどとともにジョン・キーツがいた。
当時でさえロマン派の詩は私にとっては古典的で退屈だったが、どういうわけかキーツだけには心惹かれるものがあった。
清らかな静けさのなかに強い情熱が垣間見れた。

「ネガティブ・ケイパビリティ」とは「負の能力」。つまり「答えの出ない事態に耐える力」なのだそうだ。
そしてこの「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を最初につかったのが、誰あろうジョン・キーツだという。
能力というと、何かがどんどんできることと普通は考えられている。でも人間はいつもそのような元気な身体や精神で居続けるわけではない。
どうしようもなく落ち込むときも、体を壊して思うように動けない時もある。
そうした場合には、ポジティブ・ケイパビリティを脇に置いて、「負の能力」で生きると、ラクになるのではないか?
それは貧苦と病と思うようにいかない恋愛に悩んだジョン・キーツの生き方でもあったのだ。

これを読んで、私がなぜ10代の頃、ジョン・キーツが好きだったのかわかったような気がする。
若くて人生経験が少なく、うまく言語化できなかったが、私も幼い時から体が弱く、ジョン・キーツを教えてもらった当時、彼と同じ結核を患い落ち込んでいた。
同級生たちはあんなに健康で勉強や遊びに夢中になっているのに、なぜ自分だけが安静を強いられ、みんなと隔離されなくてはんらないのか?
孤独だったし、焦ってもいたし、理不尽さに耐えられなかった。
そんなときのキーツの詩は私にとって慰めだった。何が慰めかというとそれは彼の詩から感じられる「想像力」の力であったと思う。
どんな状況であって「想像」の翼を持つことはできる。その力をキーツから学んでいたと、今ならわかる。この本を読んでますますわかる。

1969年、私はローマに行った。そこで最初に訪れたのが、「ローマの休日」でオードリーがアイスクリームを食べていたあのスペイン広場。
広場が目的ではなくて、階段の脇にある「キーツ・シェリー博物感」に行くためだった。
キーツはその建物で結核の療養をしようとしたのだが、時は遅く、25歳の若さでローマでそこで客死。
彼の墓は同じくローマで死んだシェリーと共に、ローマ旧市街の入り口にある城壁のとこrのピラミッド側のプロテスタント墓地にある。
墓地の端っこに墓石が建っていて、墓碑銘はなく、
「Here lies one whose name writ in water」とだけ書かれている。
キーツらしい清楚な墓だった。

帚木蓬生もジョン・キーツの足跡を追うためにローマを訪れていて、キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」に想いを馳せている。
帚木蓬生は大好きな作家。その彼が大好きだった詩人とこう繋がったのかと、とても不思議なような、でも筋道を辿ればよく理解できるような、そんな一冊だった。
この本との出会いは「縁」です。
50年来の謎が解けた気がしています。

余談ですが、ジョン・キーツって、イケメンなんですよ。
若く死んだために若い頃の肖像しかないので、なおさらに。
10代の私ははミーハーで、そんなキーツだから惹かれたのかもしれませんね。
醜男だったら、あんなに好きになっていなかったかも。

でもこの「ネガティブ・ケイパビリティ」というのは以前から私の中に根強くあったのは確かで、私がもっとも「こうなりたい」と願っている人間像は、社会的に成功することでも、元気でイケイケ・ドンドンの暮らしでもなく、以下のようなもので、これは誰かのエッセイで読んだ実在した人のことなのです。
「寝たきりのおばあさん。彼女は口はきけるが手足を動かすことができない。毎日午後3時になると、お嫁さんがおばあさんの口に一粒のゴディバのチョコレートを口に含ませてくれる。おばあさんはそれが楽しみで楽しみで『なんて自分は幸せなんだろう』と思う。そして幸せを与えてくれるお嫁さんに感謝し、彼女のために何かをしたいと思うのだが、体の自由がきかにので何もできない。だからそのかわりにせめて「お嫁さんが毎日ハッピーで過ごせるように」と一生懸命に祈っている」
・・という、尊敬する人間像としてはあまりに消極的かもしれないが、私はこれは究極の幸福論だと受け止めている。

こんなおばあさんのような人間になりたい。
「なりたい」と言うことは、なれない自分がわかっているからなのだけど、これこそ「ネガティブ・ケイパビリティ」の典型だと思う。
若い人たちは閉塞感に苦しみ、高齢者は歳をとる重みに苦しんでいるが、そうしたなかで「負の能力」があれば、なんとか乗り越えられるのではないだろうか。
この本、本当に私にとっては「再会の書」でした。
posted by 北杜の星 at 07:39| 山梨 ☔| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月05日

一青妙「台南 日本に出会える街」

これまで行ったところで一度は住んでみたいと思うのは、奈良、パリ、ローマ、イスタンブール。
一度も行ったことはないけれど、行けば絶対好きになる確信があるのが、バンクーバー、ホイアン(ベトナム)、そして台南だ。
なぜ台南か?
まず「老街」と呼ばれる旧い街並みがたくさん残っていて、街歩きが楽しそう。そして歩くのに疲れたら、ちょっとお茶を飲むカフェが選り取り見取り。
もちろん、食べものはすこぶる美味しい。
私、台湾料理が大好きなんです。
歩きまわるのに治安が良いのも安心。

著者の一青妙さんは歌手の一青窈の6歳年上のお姉さん。
才能豊かな女性で、本業は歯科医師だが、女優でもありエッセイストでもある。
以前、彼女のエッセイ「ママ、ごはんまだ?」を読んだことがあるが、とても素敵だった。

台湾きっての名家の父と、日本人の母の間に生れ、11歳まで台湾で育った。
11歳のときに父を残して母と妹ともに帰国。そのすぐ後に台湾の父が死去。母も彼女が20代初めに亡くなった。
一青という姓は母親の出身地の石川県にある名前だそうだ。(一青という土地名、日本酒もあるらしい)。

そんな彼女が愛してやまないのが、育った台北ではなく台南だ。
台北から新幹線で約2時間弱。
日本統治時代のノスタルジックな建物はリノベーションされ、若者向けのカフェやレストラン、ホテルなどとして使われている。
日本人が好きにならずにはいられないどこか懐かしい街、それが台南なのだという。

台南には「烏山頭ダム」がある。
これは日本人の八田という人が、台湾の数々の土木事業にたずさわり、「烏山頭アダムはその代表作。
彼は台湾の人たちから神様と崇められている。
一青妙さんは虫プロダクション制作のアニメ「バッテンライ!!南の島の水ものがたり」で、八田の妻の声を担当している。
「バッテンライ」とは「八田が来た」という意味だそうだ。

これを読んだときに、友人のMさんが話してくれたことを思い出した。
彼の母方のおじいさんは台湾で農業水路を作り、その用水路は現在も農業に使えれていて、現地の人たちの尊敬を集めて銅像を建ててくれていると。
出身地も出身大学も同じなので、てっきり八田氏がMさんのおじいさんのことだと思ったのだが、聞いてみると、おじいさんの兄貴分のような人が八田氏なのだそうだ。
Mさんのおじいさんの水路は台南ではなく台中にある。

中国本土や朝鮮半島と違って、同じ日本が植民地化したというのに、台湾はとても親日だ。台湾の人たちほど日本好きはいないと言われている。
日清戦争で勝利した日本が台湾を貰い受けた直後には、植民地としての搾取だけを考えていたのだが、第3代か4代の総督が立派な人だったようで、台湾を大切にし、インフラや工場などの施設を台湾のために造ったという。
つまりは上に立つ人間で、すべてが変わるということなんですね。
孫文や蒋介石が日本びいきだったということも影響しているのかもしれないけれど。

これ読むとますます、行きたいなぁ、台南!
posted by 北杜の星 at 07:42| 山梨 ☁| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月04日

小川洋子「海」

好きな作家の素敵な文章を指で読みたいと選んだ点字の本がこの小川洋子「海」。
7つの短編集はどこか妖しくそして懐かしい雰囲気があった。

読み進んで「バタフライ和文タイプ事務所」が始まってすぐ、私は「あっ、これ!」と思わず声をあげた。
数年前に読んだ小川洋子があまりに心に残っていて、でもタイトルがどうしても思い出せず、またどの本に入っているかの記憶もなかったものが、ここで再会できたからだ。
ぜひもう一度読みたい、の願いがかなった。しかも点字本で。
こういうのが私にとっての一番の幸せで、大好物の美味しいものを食べる以上にわくわくうれしいこと。
この「バタフライ和文タイプ事務所」は「日本文学100年の名作」(池内紀、川本三郎、松田哲夫選)の第10巻に編まれている。しかもこの巻のタイトルとなっているのだ。
うーん、やっぱりこれは名作だったのですね。
ますますうれしい。

変形な道の交差する場所にある「バタフライ和文タイプ事務所」に、若い女性タイピスト「わたし」が入社してきた。
事務所では近くにある大学院の医学論文をタイプする仕事が多い。
「わたし」もそうした論文の仕事をし始めることとなった。
バタフライとは和文タイプの活字を探す盤の上の手の動きが蝶が飛ぶのに似ているからだそすだ。
ある日「わたし」の使いたい活字が損傷しているのに気付きい、3階の活字管理人室に行って、新しいのと取り替えてもらうように言われた。
診療所の待合室のようなところに小窓が開いていて、そこから管理人が新しい活字を出してくれるのだ。
彼の顔も姿も見えない。ただ彼の手が見えるだけ。その手は活字の鉛のために指が変色していた。
渡してくれる時彼はその字についての自分の講釈を聴かせてくれた。

糜爛の「糜」という字、睾丸の「睾」の字。医学論文だからこういう字があるのだろうが、管理人の字の考察がエロティックなんですよね。
しかも姿は見えない。声と指だけというのがエロティシズムを倍加させる。
彼の言葉をもっと聞きたくて、「わたし」はある活字にわざと傷をつけて、3階に持って行く・・
この活字を管理人はどう説明するのか・・

私はいつも小川洋子という作家は「偏愛」の人だと思っているのだが、この本に彼女の「偏愛」ぶりが強く表れている。
それが堪能できて、小川ワールドにすっかり浸りきれた。
でも私はこれを以前に活字で読んでいたから「字」がわかるのだが、初めて点字で読むと漢字がわからないから、面白さが響いてこないと思う。
漢字からインプットされてきたエロティシズムがあるからこそ、この作品が成り立つのだ。
(点字で読むと新たな感覚が得られてそれはそれで興味深いのではあるが、点字はいわゆるカナ表記なので、登場人物の名前の漢字がわからないのがつまらないのだ。作家だって主人公の名前を決める時にはあれこれ考えて決めるのだから、名前には多きな意味があるはず。点訳する人はせめて漢字の説明を「訳注」としてしてもらいたい。
例えば「華子」なら「華やかな華」とか。・・盲学校では点字の読み書きと同時に、当用漢字も教えているのだそうで、視覚障害者であっても漢字は知っているのし、中途失明者はなおさら漢字からのイメージが強いのだから。)

とにかくこの本を再び読めたのが、うれしいです。
posted by 北杜の星 at 08:06| 山梨 ☁| Comment(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月02日

ハッチの週間身辺雑記

もう9月。
ぐっと朝晩の気温が下がりました。長袖のTシャツだけでは寒いくらい。
夕方は日が短くなるし、秋は大好きな季節だけど、歳をとるとなんだか心細くなります。
それというのも冬が長く厳しい土地に住むようになったためでしょう。
でも山が本当に美しいのはこれからなんですけどね。

それにしても日本のこのところの豪雨被害は大変です。
これは日本だけでなく、欧州や他のアジアでも起きていることで、地球の気象がおかしくなっているから。
ガイアは私たちと同じく一つの生命体。
その生命体を人間が傷つけてしまったのではないか、人間はもっと謙虚に自然や地球を畏れるべきではないかと思うこのごろです。

今週のニュースはなんといっても、友人が21年間続けたギャラリーを閉じることになったこと。
彼女は北杜市長坂町で「B」という、下部分はコンクリート打ちっぱなし、屋根は茅葺という素敵なギャラリーを経営してきたのですが、8月末で終わりにしたのです。
突然の決定でみんな驚きましたが、ここ数年の彼女の体力気力を鑑みると、限界かなという気もしています。
なにごとにも終わりがあるのなら、まだ後処理がちゃんとできるうちに決心したのは正解ではないでしょうか。
ギャラリーがなくなるのはさみしいけれど、頑張った彼女には「ご苦労さまでした」と心からねぎらいの言葉を送りたいです。
これからはいつでも一緒に遊びに行けるかな?

このギャラリーだけでなく最近はいわゆる「代替わり」が増えています。
ペンション、レストラン、ギャラリー、別荘の持ち主にも変化が見え、例えば私の住むここの別荘地には7軒が建っているのですが、今年2軒のオーナーが替わったのです。
幸い、売りに出された物件はすぐに買い手がついて、すでに新しい方が引っ越して来られました。
彼らはみな50代。今後20年以上の歳月をここで過ごそうと計画されています。
完全に別荘遣いの方も、移住希望で畑をしたいという方も、どちらもこの土地を楽しまれることでしょう。
隣人が若いというのは私たちにとっても心強いことです。

面白いのは、ここに移住したシニアの人たちには共通項があります。
それは子どもに老後を頼る気がさらさらないこと。
なかには「えー、お宅、お子さん居たんですか?」というくらい子どもの話しが出ない家もたくさん。
じっさいに私たちのように子どものいない夫婦もかなりいます。
頼らない代わりに、遺さない。
その潔さは見ていて気持ちいいですね。
まぁ、子どもが外国住まいというケースも多いので、頼ろうにも頼れないという事情もあるようですが。

この「子どもには頼らない」「子どもの世話にはならない」というのは、親は誰もが言います。
でも見ていると、それが言えるのは自分が健康でいられる間。
介護が必要になると、子どもがいる人はやっぱり子どもに頼るようになっています。
それはそれで当然のことだと思います。
子どもだって、放っておくことはできませんよね。

だけど「介護のことを考えると、女の子を産んでおけばよかった」とい私年代のある女性の言葉を聞いたときは、背中が凍りつきました。
こんなことを言うひとがまだいるんですね。
私利私欲のために子どもを産むのか!?
すくなくとも自分の親がこんな親でなくて、私は幸せでした。

涼しくなったので、下の道路から我が家に続く砂利の私道の坂を2往復しています。
この坂はかなりの傾斜で、下の人たちはほんの150メートルなのに、歩きではなく車でやって来るほど。
歩きでも、途中で一休みという人も。
その坂を速足で2往復します。ときに3往復すると息があがります。
毎春ネパールにトレッキングに行くご近所さんすら、「この坂はきつい」と言うほどです。
この坂、脚力だけでなく心肺機能も上がるんですよ。
それ以外に、ときおり体操教室に参加し、毎日室内で片足立ちで大腿筋、腹筋背筋の運動、呼吸法は実行しているけれど、坂道を歩くのはまた別のきつさがあります。

だけど体に一番良いのは、「家事」だと私は思っています。
30分歩くのなら、30分一生懸命に家事をすれば、かなりの運動量になります。
窓拭きは腕や肩を伸ばしながら使うし、脚立に乗るので脚の筋肉も鍛えられバランスも良くなります。
床をはいつくばって水拭きするのは、腰に良いです。四足動物に腰痛はないと言いますから。
体を動かせて、部屋中がきれいになる・・一石二鳥。これほどいいことはないです。

料理は好きでも掃除嫌いだった私ですが、最近は掃除も大好きになりました。
窓拭きなんてそれこそ大嫌い。年に2度くらしか拭いていませんでした。
でも嫌いなことをするのはツライ、オモシロクナイ。
だから好きなことをするのではなく、することを好きになろうと一念発起。
1週間に1度、定期的に拭くようになり、それなりの工夫も重ねるようになって、だんだんと窓拭きが上達してきたら、不思議なことに、好きになった。
我が家のガラス窓は内外を合計すると38メートルもある窓だらけ。
それが汚れていると、どこを見ても汚れていることになって不快です。
最近では「あなたはいつも掃除をしているのね」と裏のSさんが言います。
何でもそうですが、要は「する」「やってみる」ということ。そしてし続けていると、それなりのスキルが生れて面白くなるんですね。
怠け者の私が言うのだからホントです。

でも夫は、きれいになっているのが当然と思うのか、掃除の後も「きれいになったね」とは言ってくれません。
いつもきれいだと、きれいになったのが目立たないのでしょうか。
褒められればもっと頑張れるんだけど、ね。
私は彼が草刈りをしたら、大袈裟なほど「すっきりしたね」「きれいになったね」と言ってあげるんだけど。。
posted by 北杜の星 at 08:46| 山梨 ☀| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする