2017年09月11日

山崎ナオコーラ「母ではなくて、親になる」

山崎ナオコーラ、子どもを産んだのですね。
この本には、流産を経ての妊活、妊娠、出産、育児と、彼女が過ごした日々が綴られている。
しかし彼女はあえて「母」ではなく「親」として、子育てをすることにしたのだそうだ。

「母親だから」「母親のくせに」・・世間では母に対するステレオ・タイプが長い歴史の中で作り上げられてきた。
そのためにどれほどの重圧が母にかかったことだろう。
ナオコーラさんは「母親」という言葉をゴミ箱に捨て、毎日鏡の前で「親だぁ」「親だぁ」と自分を見ると、ラクになってよろこびでいっぱいになったそうだ。

もともと彼女たち夫婦、妻は作家、夫は街の本屋さんの書店員。
彼女いわく、「低学歴・低収入の夫」なのだ。
彼女たちの夫婦としてのありようは、夏葉社刊「かわいい夫」に詳しいが、夫はそうした自分を卑下せず、ごく自然体で結婚生活を送っている。、経済的なことなど超越し、誰とでもうまく付き合え、肯定発言だけをし、怒らず穏やか。つまりとってもいい人なのである。
妻であるナオコーラのほうも、夫に経済的なことは要求しない。
日常の中で金銭的には彼女の持ち出し分が断然多いのだが、どちらもそんなことはかまわないのだ。
ここでも従来の「妻」「夫」という役割は彼らの間には介在しない。

彼女はこの本に赤ん坊の性を明確化していない。男の子か女の子かはあえて書いていない。
それは、性は子どもにとって大きなプライバシーであるし、将来この子が大きくなって、どちらの性を選んで生きるかは、誰にもわからないからだと言う。
「母親」を否定し、子どもの性を保留にする彼女のジェンダーに対する考えかたに共感を覚える。

彼女は自然分娩ではなく帝王切開で赤ん坊を産んだが、これを「お産ではなく手術」だったと言っている。
これに関してはいろんな意見があるだろうが、ここでも彼女の「母親」意識が伺える。出産は自然でなくてはとか、無痛分娩を否定したりはしていない。
痛さに耐える出産が「母」とは考えていないのだ。

新生児から生後1年までが記録されているが、私は「新生児」とは生後1カ月までの赤ん坊を呼ぶということを知らなかった。ごく短い期間なんですね。
一カ月ごとに赤ん坊ってかなり変化するのは当たり前なのだけれど、大きくなればなるほどいろいろできることが増えて、人間らしくなるというか、感情表現も多様になっておもしろい。
例えば「10カ月の赤ん坊」という項では、赤ん坊に水分を与える場面が出てくる。
7か月くらいから哺乳瓶はやめてストローで水分を吸わせるようにしていたのだが、ジュースやミルクなどはよろこんで飲むのだが、味のない麦茶やお白湯は、飲むふりをして吸ったり吐きだしたりで飲み込まなかったり、いったん口にふくんでも、パッと吐きだすそうだ。そしてすごく不満そうな顔で抗議するらしい。
でもルイボスティなら飲むというネット情報を得て、ルイボスティを与えると、それなら少しは飲むとか。
麦茶はだめでルイボスティならOKというのはなんなのか?

子育て記はそれなりに興味深くはあったものの、子どもを産んだことのない私には退屈な部分もあった。
けれど頁のところどころに書かれている彼女の社会的価値観や生き方には、いろいろ考えっせられるものがあった。
最近よく言われる「自己責任」という言葉、私は嫌いなのだが、彼女も大嫌いだそうだ。
腎臓透析などの病気や障害など、自分を律せずに罹病した人間の「自己責任」を追及し、救済しなくても構わないという風潮が高まっているが、それは違うと彼女は言う。
それがたとえ「自己責任」であったとしても、現実に今困っているのだから、救済するのは当然で、それが成熟した国家というものだと。
これにはまったく大賛成。
「自己責任」ですべてを斬り捨てようとする幼稚さには耐えらないし、それならば社会や政治の責任はどうなっているのかと言いたくなる。
そうした救済を含めての国家予算なのではないか。

他にも山崎ナオコーラが好きになる彼女の意見が書かれているこの本、女性だけでなく男性にも読んでもらいたいと思う。
男性だってステレオ・タイプの押しつけに疲弊して、ラクになりたいのじゃないかな?
posted by 北杜の星 at 07:57| 山梨 ☀| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする