2017年12月12日

東直子「七つ空、二つ水」

作家であり歌人である東直子。
ここでは歌人としてエッセイを書いている。

俳句にしても短歌にしても、風景や日常をくっきりと切り取り凝縮されているので、若い頃はともかく最近は敬遠することが多くなった。
定型文が堅苦しいというのではない。その凝縮度に私の気力体力がついていかないからだ。
若い頃は、読んでその表面だけを感覚で受け止めていたところが多かった気がする。でも今は少しばかり人生経験があるせいか、その裏側にあるものを、つい引き出そうとして考え過ぎてしまう。
しかし20代の終わりに関西に数年住んだおかげで、ずいぶん贅沢な環境で万葉集をかじったので、今でも短歌が大好きだ。
散文では感じられない、ハッとする表現がある。
このエッセイには東直子の暮らしの中の出来事や思いに併せて、その折々に想い浮かべた短歌を紹介している。

知っている歌人も知らない歌人の歌も載っている。もちろん彼女自身の歌も。
何十年ぶりかで再会した歌があってうれしかったのは、若山牧水のものだ。
東直子が福島の高校生に短歌の楽しさを知ってもらおうと小さな講演会に参加し、その帰りに猪苗代湖に寄ったときのこと。
湖の白鳥を見て頭に浮かんだのは、有名な牧水だった。(引き出しがたくさんあるって羨ましい。ことあるごに記憶している歌が浮かぶなんて、いいなぁ)。

白鳥(しらとり)はかなしからずや空の青海のあをにも染まらずただよふ

これ、すっかり忘れて果てていたけれど、大好きだった。
「かなしからずや」とか「青」と「あを」と使い分けているところとか、雰囲気が古風で万葉的なのがいい。
私の大好きな若い知人は、俳句も短歌もするのだけれど、いわゆる現代的な「字余り」「字足らず」が嫌いらしく、「俵万智は絶対ダメです」と言う。
ああした現代短歌を私は否定はしないし、それが短歌の裾野を広げるのら、それもアリかとは思うのだけど、私自身も古典的な歌の方が好みではある。
それには理由があって、古典は古典のやりかたに添うほうが、結局は将来的にも残ると考えるからだ。
あまりに型を崩すと、違うものになってしまう。
伝統は伝統であるからこそ、存在理由がある。
例えば、着物、もそうだと思う。着物を現代風にハイヒールを履いて着たり、イヤリングをつけたりするのを見ると、私は悲しくなる。
着物には着物の楽しみ方があるのだ。それは「約束事」という枠で、時には窮屈に思えるかもしれないが、遊び方、楽しみ方はいかようにもあるもの。
それを楽しめばいい。

このなかで彼女に初めて教えられたこと。
それは、彼女は「宮沢賢治学会」(こういうのがあるんですね)に出席した時、あまり知られていないが賢治は15歳から18歳にかけて、なんと500朱首もの歌を詠んでいるそうだ。
どうしてこれらの歌がしfられていないのか?
ここにいくつか紹介されているが、賢治にしては平凡かなの印象はあるものの、賢治研究には欠かせないと思うのだけど。。

彼女はこれまで広島とか日本の西の地方に住んでいたが、冬の晴天率は東京の方が高いと書いている。
それは背後に広大な関東平野を背負っているからだと。
そうかな?
そうかもしれない。冬の抜けるような青い空は確かに関東の方に多いかもしれない。
とくに私の住むここ山梨の北杜市は、日本でも晴天率がすこぶる高い土地。冬は毎日晴れている。
(そのために、悲しいかな林を伐り倒し環境破壊をして、太陽光発電パネルが設置されているのだけれど)。

こういうエッセイを読むと、つくづく日本人は季節感に基づいて暮らしているのだなと思う。
日本人の良き特製があるとしたら、この季節に対する優しい感受性ではないだろうか。
この日本人の自然観が独自性のある宗教観や身体性を生んだのだ。、
俳句や短歌、お能など、型から生まれた文化、それはけっして型にとらわれるだけのものではない。
東北大震災をめぐる土地の人たちの歌には、胸がしめつけられるものがある。
この短歌エッセイ、読んでよかったです。
posted by 北杜の星 at 07:57| 山梨 ☀| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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