2017年12月22日

徳永進「どっちであっても」

「どっちであっても 臨床は反対言葉の群生地」
というのがこの本の題と副題。

臨床医として医療の現場で40年。現在は鳥取で「野の花診療所」を経営しながら、外来・ホスピスケア・在宅の患者さんたちと毎日向き合っている。
私はこの人が大好きだ。
こうした医療に携わるのだからむろん志が高いのだが、私が彼を好きな理由はそれだけではない。
じつに正直だからである。
どれほど彼が正直かは、必ずしも「優しい」という言葉だけでは説明できない。
時には患者に「死ぬのは怖い?」などと問うのだから、ニャンニャンと優しいだけの医師ではないはずだ。

その徳永先生が、医療の現場は反対語に満ちているという。
それはそうだ。まず生と死という大きな反対語があるのが医療現場だ。
しかし生と死という真反対の言葉であっても、それらは対立するものではない。
反対語のなかにははっきり二項対立ではなくて、かなり曖昧な部分から成り立っていたり、表裏一体となっているものが多い。
それこそが、人が生きるということではないのか?医師はそのことをもっと考えるべきではないか?というのがこの本。

この中に思わず笑うエピソードがある。
入院患者が危篤に陥ったが、息子はその時ある事情から刑務所に居た。父のもとに連れて来られるのだが、徳永先生はせめて死に目に合わせてあげたいと必死でその患者さんのかわらで「生きて「生きて」と心なかで叫ぶ。
やがて息子が到着、間に合った。
けれえど患者さん、なかなか息を引き取らない。連行してきた警察官が時間だからと息子を連れ帰ろうとする。「もう少し待ってあげて」と頼むのだが規則だからと言われる。
そこで徳永先生、また必死で今度は「死んで」「死んで」と心で叫ぶ。。
(ね、正直でしょ。)

呼気と吸気という反対言葉もある。
空気は吸わなければ生きていけない。しかし吸う前にまず吐くことが大切。これは呼吸法の基本だ。

医療の現場では大きな問題と小さな問題がせめぎ合っている。
手術をするか延命治療をするかどうかは大きな問題。癌の末期になってもう治療は拒否したとしても、決めなくてはならない問題は起きる。
尿がでないの場合は導尿すればラクになるし、ちょっとケアすると穏やかな状態でいられる。
キュアしなくてもケアは必要。
他にも臨床では自動詞と他動詞も混在しているという。

反対言葉の境界を決めようにも決められない臨床。
それはつまり、人間の力だけでは及ばない何かが命にはあるということなのかもしれない。
少なくとも徳永先生はそのことをご存知なのだと思う。

この本に出ているが、先生が京都大学の医学生だった当時、ある友人に誘われて鶴見俊輔の講義を聞いたという。
鶴見の話しにはかなり触発されたみたいだ。
そうした出会いがあったとは、鶴見俊輔も大好きな私にはとてもうれしい。



posted by 北杜の星 at 07:30| 山梨 ☀| Comment(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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