2009年10月06日

リービ英雄「延安」

多和田葉子「ボルドーの義兄」を読んだら、リービ英雄を読みたくなった。
私のなかでこの二人は、どうもセットになっているところがあって、それは作風ではなく、言語に関する類似性を感じるからだ。

リービ英雄の前世は、日本人または中国人ではなかっただろうか、と思うときがある。
生粋の白人アメリカ人として生まれながら、父親から英雄と名付けられ、こうも東洋に惹き寄せられて、いまでは母語すらあやしくなったと本人が述べているほどなのだ。
どこか彼の血の中で、日本や中国が蠢いているのではないだろうか。

リービ英雄は旅をする。
その旅はこのところ中国に向かうことが多い。
そして今回は「延安」。
中国に関して知識もなく、あまり興味もない私には、延安がどこにあるのかも知らなかった。
そもそも北京と上海と大連、それと敦煌くらいしか場所がわからないというテイタラク。

彼が禿山と洞窟の土地で目にしたのは、とてつもないスケールの風景だった。
この島国では目にすることのできない風景。どこまでも黄土が続く風景。
日本にない風景を日本語でどう表せばいいのか。
「日本文学の五十五歳に、日本語でどう書けばいいのかわからない風景が目にみなぎった」のだ。

目にするもの、出会う人々、起こることのすべてを彼は書く。
できるだけ心情を排して。
しかし心情は行間にこぼれ落ちる。

不思議なのは、不快なことがたくさんあるのに、それでも彼は嫌がっていないことだ。
「老外」(ガイジン)と子供たちから石を投げられても、厳しい目で睨まれても、彼はどこかそれらを当然と受け止めている。
(ある村で子供たちが集まり、その中の一人が彼の腕をそっと撫でる。まるで犬か猫を触るみたいに。だからといって親近感を持ってくれるわけではない)。

共産主義がなくなっても、毛沢東は依然として神格化されている。
以前は「革命の父」だったが今では「建国の父」として。
この「延安」はこれまでの彼の「中国もの」の中ではノン・フィクション風の印象がある。
「サヨク」のジャーナリスト、エドガー・スノーの文を引用して、昔の中国と現在の中国を見つめているのも興味深い。

リービ英雄は中国を舞台にした小説は書こうとしない。材料はこれまでの旅行でいっぱい集まっているだろうに。
中国大陸は、「どんな文学者にとってもすぐれてノンフィクション的な領域なのである。ディテールはきわめて現実的で、人も現実的なのだ」とあとがきで書いているのを読むと、こういうかたちでないと中国は表せないのだと、納得する。

それにしても、どうしてリービ英雄にとって中国なのか。
風景か、人か。
彼が日本にやってきたときにはすでに失われていたものが、今の中国にはあるのか。
前世の記憶へのノスタルジー?
理由は私にはわからないが、彼の静かな文章を読むのが大好きだ。
posted by 北杜の星 at 08:38| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ラ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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