周辺言語である日本語で書く、それも小説を書くことを望んでそれを成し遂げた彼の、自伝的日本語論。
本当に面白かった。
彼の日本語は1967年、新宿から始まったという。
(リービ英雄のことを知らない人のために補足すると、彼は白人アメリカ人である。HIDEOという名前は外交官の父が尊敬していた日本人からとって名づけたもの)。
横浜でもなく六本木でもなく、根津や谷中でもなく、新宿だったことが、彼にとっては意味があった。
ブリンストン大学の学生時代、時間と経済が許す限り、新宿に借りた3畳一間のアパートに通った。
そうして習得した日本語を使って、しだいに彼は「小説」を書きたくなっていった。
しかし壁は厚かった。
当時彼は「ガイジン」だったのだ。
「ガイジン」がなぜ日本語で小説を書かなくてはならないのか?
彼に求められたのは、サイデンステッカーになることであり、ドナルド・キーンになることだった。
道が開けずにいた頃、彼は万葉集の全英訳をする。
そのことが日本語で書くということを、より深く自覚させるようになる。
彼は同じような経験を持つ作家の李良枝と多和田葉子について書いている。李も多和田も大好きな私にはワクワクする記述だ。
李良枝は在日として、自分のアイデンティティを探し苦しんだ人だ。
韓国の伝統芸術を学び、韓国に住み、それでも自分が韓国人になれないこと。
そしてなによりもどの言語が母国語なのかわからないことに苦悩し、まるで自死のように逝ってしまった。
一方、多和田葉子はそんな社会的アイデンティティとは無縁だ。
純粋に自分を表現できる手段としての言語を模索し、日本語とドイツ語にそれを見出した。両方の言葉で書いて、どちらも成功している。
まったく違う二人・・
しかしこの二人を自分と重ねて考えるとき、リービ英雄は「言語」とはなにか、「母語」とはなにかを思わずにはいられない。
後半にはこれまでの彼の作品についてが書かれている。
1993年以来50回中国を訪れている彼は、今、中国で見聞し感じたことを日本語で書いている。
(彼は父親の赴任先の台湾で幼児期を過ごし、中国本土から逃れてきた人たちの北京語を聞いて育った)。
アメリカ、日本、中国・・リービ英雄にとって、これからも続く「言語」の旅である。

