2011年08月23日

若桑みどり「クワトロ・ラガッツィ」

これはこの夏の私の「課題図書」。
「課題図書」というとなんだか小学生や中学生の宿題みたいだが、私も昔を思い出して夏には普段読まないジャンルの本、それも読み応えのあるものを一冊読むようにしている。
たいていの年は自然科学系なのだが、今年は早い段階からコレに決めていた。
若桑みどりは美術史家・美術評論家。惜しいことに数年前に亡くなった。
彼女の歯に衣着せぬ、すっぱりとした絵画の説明が大好きだった。
フェミニズムとジェンダーの人でもあり、ルネサンス絵画の女性像を分析する視線はとてもユニークで、「こんな絵画の見方があるんだ」と新鮮だった。
1960年代前半に、船でローマに留学。最初はカラヴァッジョの研究を目的としたが、ミケランジェロを目のあたりにし、その完璧なまでの偉大さに打たれ、以後イタリア美術と格闘した人だ。
その若桑みどりが「クワトロ・ラガッツィ」を書いた。
クワトロ・ラガッツィとは4人の少年というイタリア語。この4人の少年は「天正遣欧少年使節団」とことである。

本当に面白かった!
学校の教科書にほんのちょっとしか記述されていない「天正少年使節団」に、これほどのとりまく世界が存在していたなんて。
当時の日本が世界とあれほどまで密に繋がっていたのも知らなかった。
日本には残っていない資料が、ヨーロッパにはたくさんあって、その資料を駆使してのこの本、「課題図書」がこんなに面白くっていいの?というくらい夢中になった。


大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の3人の名代としてローマに遣わされた4人の少年たち。
マンショ、ミゲル、ジュリアン。マルティノ。
彼らはいくつかの目的から遣わされた。
一つには、日本での宣教をスペインやポルトガルやローマから経済的に援助してもらうこと。
一つには、少年たちにいかにヨーロッパのキリスト教世界がいかに優れて発達しているかを見聞させ、帰国の暁には、彼らに布教をさせること。
そして日本との貿易を拡大すること、などであった。

命がけの航海時代、無事に4人はローマに到着し、教皇と接見することとなった。
しかし、教皇と会えるのは3人だけ。それは旧約聖書にあるように「東方」より来たりし者は3人であらねばならなかったからである。
そしてジュリアンが外された。

活版印刷機や楽器をお土産に、4人はまたも危険な旅の末帰国。出発から8年の月日が過ぎていた。
この8年の間に、日本の情勢は大きく変化していた。これが「クワトロ・ラガッツィ」の悲劇だった。
秀吉はキリスト教を禁止したが、それは大名に対してであって、庶民の信仰はお目こぼしだった。しかし徳川幕府は、庶民に対しても激しい弾圧を加えた。
あれほど密で近しかった日本とヨーロッパは遮断されてしまった。

マンショは日本に帰り司祭にまでなるが、病死。
ミゲルは棄教。
マルティノはマカオに渡り、その地で客死。
ローマ教皇に接見できなかったジュリアンは、穴釣りの拷問を受け殉教した。

これを読んで考えたのは、もしキリスト教を受け入れて、鎖国をしないでいたら、今の日本はどうなっていただろうか、ということ。
どんなに考えても詮無いことだが、考えずにはいられない・・そんな重いテーマが横たわる本だったのだ。
今年の夏にこの本を読めたことに感謝。
これを書いてくれた若桑みどり氏に感謝。つくづく惜しい人を失ったものです。
posted by 北杜の星 at 07:36| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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