2016年11月23日

綿矢りさ「てのひらの京」

これまでこうも京都びっしりの綿矢りさがあっただろうか。
京都生まれの彼女にしては小説の舞台は京都ではなかったような気がする。
これはまるで離れた京都を懐かしむように、京都一色。

三姉妹の京の日常がが描かれる。
子どもがほしい、でもその前に結婚しなきゃ、の長女の綾香。
気の強い恋愛体質の次女羽依。
京都を離れて東京で就職したい大学院生の三女の凛。
彼女たちの京都の春夏秋冬。

彼女たちの母親は父親が定年になったときに、自分も「主婦定年宣言」をして、お客さまとかイベントの時など「趣味」程度でしか料理をしなくなった。
なので普段の夕食は三姉妹の当番制となった。
こういうお母さん、好きだな。
当番制ではあるけれど、羽依も凛も料理を敬遠していて、綾香の担当となることが多いようだ。

まるで京都の観光案内みたいなところがある。
祇園祭、大文字焼き、貴船、府立植物園(ここ、なかなかいいんですよ)・・
でも京都以外の人にとっては観光的かもしれないが、ここに住み、小さい時からこれが日常の人はいるのだ。
ということがしみじみ、わかる小説でもある。

京都案内でもっともおかしかったのが、「伝統芸能」である京都の「いけず」に関する記述。
「いけず」って「芸」なのか。。
「いけず」とは意地悪のことなのだが、京の「いけず」はちょっと陰湿。
聞こえるか聞こえないかくらいの底意地の悪い言葉を、相手の背中でささやきかける。
ほのめかし、あてこすり、嫌味・・
ふつうはそれらは聞かなかったふりをして耐えるのだが、気の強い羽依は真向から立ち向かう。
なんだか拍手喝さいを送りたくなるが、こういうストレートなひとは、京都では生きにくいだろうなと思う。
私の知人にも「いけず」女性がいる。
彼女のあてこすりを、でも私は、面白がって観察しているところがあるので、私の方が「ひとが悪い」のかも知らない。
それでも時にはこちらの機嫌の悪いときには、羽依のように啖呵を切ってしまうことがある。
つくづく短気で人間のできていない私なんですね。
だけど綿矢りさは「いけず」は京女の専売特許ではなく、京男の「いけず」もなかなかのものだと書いている。

こういうふうに、京都を愛しながらも、京都の欠点を揶揄気味に書いているところが面白い。
それにしても「あれ?」と感じたのは、京都弁って耳で聞くと「はんなり」「しっとり」柔らかいののだけど、文字で書くと結構コテコテ。
関西弁とひとくくりにされてもおかしくないほどのコテコテさなのだ。
どうして耳から入ると、あんなにやさしいそうに聞こえるんだろう?
私は数年関西に住んだので、京都、神戸、大阪、和歌山、滋賀と、それぞれのニュアンスの違いはわかっているつもりだったけど、話言葉ではなく、書き言葉での「近さ」には気づいていなかったのかもしれない。

大観光地の京都だけど、そこに住むひとたちにとっての自分たちだけの祇園祭も大文字焼きもあるんだなと、他所の人間んたちが邪魔しているような申し訳ない気持ちになる。
祭りとは本来、そこに住むひとのためのものなんですよね。
観光のためではなくて、祈りが込められたものなのだと思う。
綾香、羽依、凛の三姉妹の祈りと願いがどうなるのか。。
posted by 北杜の星 at 07:49| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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