2016年12月07日

森絵都「みかづき」

昭和30年代半ば、世の中に公団ができ、団塊世代が受験に向かい始めた頃、千葉の小学校の用務員だった吾郎は放課後、勉強のわからない子どもたちを教えていた。
吾郎の教え方が評判になり、塾を立ち上げたい千明から、その塾への参加を請われた。
吾郎はやがて、蕗子という娘を女手一人で育てる千明と結婚、共に塾を経営することになる。
けれど二人の教育方針は異なっていた。
公教育へのアンチテーゼとしての塾を目指す千明に、吾郎は次第に違和感を覚えて袂を分かつようになる。
吾郎の塾は支校を増やし、大きくなってゆく。
と同時にさまざまな問題も起きて、それなりの苦悩も生じるのだが。。

小説の視点は吾郎から千明に移り、最後は孫の一郎へと繋がる。
これは「塾」という教育機関を時代の変遷とともに描きつつ、三代にわたる家族を描く小説でもある。
高度成長まっただ中の昭和の時代と、平成への40年余り。
この間にとっぷり浸って生きた私にはすごい臨場感で読めた。
「そう、そういう時代だったよね」とわかる部分が多かった。
私の通っていた塾はいわゆる「私塾」で、今のような大きな規模の全国展開などの塾ではなかく、むしろ最初の放課後の吾郎の教室のようなものだったけれど、当時、塾通いをする子どもはそうはいなかった。
私は幼稚園も受験を経て、3年保育を電車に一人乗って通わされていたけれど、今考えると、私の母親って教育ママだったのかもしれない。
早生まれの小さな子どもを一人で毎日電車で幼稚園に通わせるなんて、危険きわまりないと今ならほとんど虐待だよね。
もしその経験が私の人生に役に立っているとしたら、まぁ、独立心が強い人間になったかなというくらい。

でもあの頃は、みんな上昇志向が強かったし、未来が輝くものとしてあった。
頑張れば頑張るほど、結果が出た時代。
結果を出すためには、なによりも教育だったのだ。

吾郎の孫の一郎は塾の仕事に従事しながらも、吾郎や千明とは異なる塾を目指している。
経済的に塾に通う得ない子どもたちのため、何ができるかを考えているし、それを実行に移している。
現在、国立大学に進学するためには、塾通いが必須となっているらしいが、その塾へ通うにはお金がかかる。国公立大学は貧困家庭の子どもには通えない。
(国公立大学の学費の高騰も激しいし)。

この本、教育とは何か?何のためなのか?を考えるには素晴らしい一冊。
やれ、ゆとり教育は間違っていたとか、公教育の現場には紆余曲折が多い。振り回される子どもたちはどうすればいいのか。
塾だからこその自由な教育というものがあるのかもしれない。
できるなら学校や塾の先生に読んでもらいたい。

森さんの人生における価値観がこれを読むとよくわかります。
読んでよかった、森さんの力作長編。
posted by 北杜の星 at 07:44| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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