2017年01月05日

竹内早希子「奇跡の醤(ひしお)」

陸前高田に200年続く老舗醤油屋、八木澤商店はある。
しかし2011年3月11日の東日本大震災で建物だけでなく、醤油の種ともいうべき醤(ひしお)を失った。
社員たちのなかには家族を津波で失くした者もいる。
誰もが打ちひしがれて茫然とするなか、9代目の若き経営者となる河野通洋は「絶対、復活してやる」と誓った。
再建のめども立たないのに、採用予定の新入社員を受け入れた。

醤油は生きものだ。
とくに八木澤商店の醤油は「本物」の醤油として高い評価を受けて来た。
杉桶や蔵に長年住みついた微生物、受け継がれてきた醤・・
それらがなにもかもなくなり、どうやって以前と同じ醤油が造られるのか?

再建するにはもちろん金がかかる。銀行の融資、県からの融資、八木澤商店の古くからのファンからの支援を受けることで、なんとか新しい工場を造ることができた。
しかしなによりも八木澤商店の強みは社員たちの強い信頼関係だった。
そこには住む土地を愛する人間同志の絆があった。

そしてこれこそが「奇跡」なのだが、醤が見つかったのだ。
震災の一カ月前、研究のために八木澤商店の醤を取りに来て保管していた研究者がいたのだった。
その醤も津波で浸水の被害にあっていたのだが、さいわいなことに密閉度があって、波にさらわれもせずに無事な様子だった。
喜んだもののはたして本当に醤として生きているのか。これを種として増やせるのか。
不安が広がる。

苦難の連続である。しかし、帯文にあるように、これはけっして「被災の記録」ではない。「成長の物語」なのだ。
やっと工場が再建できたが、それは陸前高田ではなかったことが、社員の心を悲しませた。
高田は津波後の整地のため、町に多量の土で覆うための工事が必要で、再び人々が住めるには何年もかかる状態だったのでしかたないことだったのだが、高田から一関まで通う社員たちに、割り切れないわだかまりがあったのは否定できない。
その頃は、被災してから遮二無二頑張ってきた疲れが心身に現れる時期でもあったのだろう。ぼろぼろと社員たちが辞めて行った。
通洋も夜眠れない、食欲がなく痩せるという症状がひどくなり、心療内科を訪れている。
傷を負わない人など誰もいなかった。

そうした困難の末、やっと醤ができあがった。
それまでツユやタレを他の所の醤油を買って造っていたのだが、やはり不評で、伝統ある八木澤商店の評判を落としていただけに、醤油造りに不可欠な醤を自分たちの手でいっときも早く造りたかった。
奇跡は起こった。
以前と同じような醤油ができあがったのだ。
以前は「生」だったが、低い温度で短時間火入れしてみたら、前の「生揚醤油」とまったく同じ味の醤油となったのだ。
この不思議さもある意味、奇跡なのかもしれない。
通洋はなるべく早い時期に、杉桶とタガを作る職人を探し出して、タンクではなくやはり杉桶で醤油を造りたいと願っているのだが。。

しかし奇跡は誰にも起きるものではないと思う。
一生懸命に努力した者の上に、奇跡は起きる。神様は奇跡を起こしていいかどうかを、じっと見ていらっしゃるのだ。
八木澤商店とその社員たちには、奇跡を受け入れる資格が十分にあったのだ。
これを読むとつくづくそれがわかる。

「青い海、青い空」の陸前高田。上品で美しかったあの町がふたたび蘇るには、まだまだ時間がかかるかもしれないが、彼らが住もうと望むかぎり、必ずできると信じる。
この著者は八木澤争点と取引のあった安全な野菜宅配会社で仕事をしてきた。(このなかに「らでぃっしゅぼーや」が出てくるが、そこなのかな?私は今は山梨に住むようになったので辞めたが、「らでぃっしゅぼーや」は最初の2ヶ月目からの過員で、東京ではずっと取っ手いた)。
再建なった八木澤祖父店で「らでぃっしゅぼーや」社長が挨拶しているが、そこにも大きな信頼関係が培われてきたことがわかる。
500mlが1600円以上するので安くはないが、八木澤商店を応援するために注文してみよう。
「奇跡」の醤の味はどんなのだろうか。
posted by 北杜の星 at 08:03| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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