2017年06月14日

古井由吉「ゆらく玉の緒」

2年ほど前に読んだ「鐘の渡り」の続編のような小説集。
80歳になんなんとする作家がこれまで生きてきたなかで起きたさまざまなできごを思い浮かべる短編が並んでいる。
記憶はあちこちと飛び、時系列なく交叉する。
記憶というものはそういうものなのかもしれない。きっちりはっきりと自分のなかにあるのではなく、浮かんでは消えるうちにはだんだんとおぼろにもなってゆく。

これは古井由吉の小説によく出てくる話だが、ここにも戦災で焼けた家が書かれている。
家族の住処だけでなく、岐阜の父方の実家も焼かれた。その焼ける家を見たことが当時幼かった主人公の原風景となっている。
付き合いのあった知人たちも物故してしまった。
病弱で何度も手術を受け入退院を繰り返した主人公はまだ生きている。
そうした不条理ともいえる想いが、3・11の記憶とともに彼にはあるのだろうか。

内向の世代は私にとってもっとも身近な作家たちだ。
それまでの戦後派にも第三の新人にもぴったりとこなかった私に、日本文学のおもしろさを教えてくれたのが内向の世代だった。
坂上弘、高井有一、阿部昭(彼の短編が大好き!)、小川国夫、黒井千次、山川方夫はこのカテゴラリーに入るのかどうか・・
山川は早逝し、阿部昭もずいぶん前に死んでしまった。高井有一は昨年だったか。
どんどんこの世代が消えて行くなかで古井由宇吉は病気がちながらまだ書いてくれている。
いまや日本純文学の大御所である。

このところの彼はこうした老いた人間の記憶にまつわる作品が多くなっているが、もう少し前までの彼が描く男と女には、なんとも言えないエロティシズムが漂っていて、現実とも幻とも判じかねる境界のあいまいさが本当に素晴らしかった。
文学のエロティシズムとは何か?を彼ほど見せつけてくれた人はいないと思う。
私が友人に「内向の世代作家が好き」というと、「なんで?あんな退屈な本」とばっさり斬り捨てた人がいたが、社会性はないかもしれないが、個として生きる人間の孤独を彼らはその作品のなかで表現している。
私は小説とは「個」を書くものだと思っている。そこに社会性があってもかまわないが、それを書く必然hはあくまでも個人的なことと結びついているはずだ。
内向の世代を毎日読むのは疲れるけれど、居ずまいを正すためにも時には読みたい。

この中で彼の親が美濃の人だったと思いだされるのが、「味噌粥」。
風邪でもなく腹をこわしたのでもないときに、久しぶりに味噌粥を食べたはなし。
その味噌はやはり赤味噌だ。
貧しい食事であったろうその味噌粥に彼のノスタルジーを感じる。
各家庭に味噌の匂いがあると彼は書いているが、たしかに味噌は地方色がある調味料だ。
関西では白味噌、中京では八丁味噌などの赤味噌、信州では淡い色の米麹味噌(我が家はそのなかでも甘目のものを常食してます)、東北はどんなのか知らないが特色があると古井は書いている。
味噌煮込みうどんは赤味噌でなくっちゃね。

だけどあの味噌煮込みうどんのうどんってなんであんなに固いの?まるで茹で不足としか思えない。茹で不足だからあんなに芯が残っているのではないかと思うくらい。
名古屋の人はあの味噌煮込みうどんをおかずにご飯を食べるんです。
まぁ、たこ焼きやお好み焼きとご飯よりいいのかな?
中京では味噌煮込みうどんより、キシメンです。
posted by 北杜の星 at 07:22| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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