2017年08月28日

保坂和志「この人の閾」

「この人の閾」を20年ぶりに読んだ。これが保坂和志を読んだ最初だった。
正直「これが、よく芥川賞を受賞したな。選考委員ってすごい眼力なんだな」と思った記憶がある。
何もとくべつなことは起きない、普通の女性の暮らしのなかのほんの数時間があるだけ。
退屈といえば退屈。でも「これこそが小説!」と感嘆するものだった。
私はかねてより、小説は小さき者の説だと信じている。大説の反対である。
「この人の閾」はそういう意味で小説そのものだった。

主人公の僕はある人との面会のため小田原に赴くが、すっぽかされてしまう。
出直すにも小田原は遠く、僕は大学のサークルの1年先輩の真紀さんが同じ小田原に住んでいるのを思い出し、彼女に電話した。
真紀さんは30代後半、二人の子どもがいる専業主婦。
彼女「おいでよ、おいでよ」と家に招いてくれた。10年ぶりの真紀さんはちょっと老けて見えた。

ビールを飲み、草むしりをし(させられ)、犬のニコベエと遊び、小学校から帰宅した息子とサッカーの話しをする。
真紀さんは家事の合間に、年に百数十本の映画をDVDで見て、長編小説や哲学書を読んでいる。
彼女は書簡集や随筆は「展開がない」から読み進められないと言う。
またわかりやすいニーチェよりも「ねちねちした」ヘーゲルやハイデッガーの方がいいと言う。
つまりは、すぐに受け止められるものではなく、じっくり見たり読んだりするものが、真紀さんには必要なのだろう。
僕は真紀さんがそういうふうにインプットしたものの感想を、どこにも発表しないことを惜しむのだが、真紀さんにとってはそういうことが重要なのではないのだ。

現在の真紀さんと話しながら、大学のサークルのころの彼女や友人たちとの会話を思い出すうちに、真紀sんという一人の人間の像がだんだんとわかってkる。
それがよかった。
前に読んだ時よりずっと真紀さんを私は理解できたと思う。共感することがたくさんあった。
最後、僕は奈良の平城京跡に佇み(何もない公園みたいなところ)、真紀さんならこういうだろうなと、彼女に想いを馳せるのだが、そのラストも大好き。

保坂和志は「小説を読む時間の中でしか流れない時かある」といつも言っている。
そう、真紀さんはその時間の中に自分を存在させることを、自分のアイデンティティとしているのだ。
そこには何の示威表現はないが、充足したものが確かにある。

ごく日常的なものと知的な会話が混在する「この人の閾」を今回は点字本で読んだのだが、読み終えるのが惜しくて惜しくてたまらなかった。
読みながら何度も夫に、この中の文章を話した。
彼も保坂和志が好きだがこれは未読。ぜひ読んでもらいたい。

彼はかねてより「どんな哲学書よりも小説は哲学そのもの」と言ってはばからないが、この「この人の閾」という作品はそれを体現したものだと思う。
哲学書のように正論を押し付けるのではなく、小説は読む人間の想像力を喚起しながら、問いかける。
だから答えがあるわけではない。あるのは読んで感じて考える時間。
そんな至福の時間を「この人の閾」は与えてくれる。本当に本当に幸福な時間だった。

えーっと、ちょっと困ったな。
この本、じつはこれではなくて、「東京画」を紹介しようと思ったのです。
だって「この人の閾」についてはたくさん書かれているので。
でも書いているとなんかコーフンしてしまって、「東京画」にならなかった。
これについてもぜひとも紹介したいので、日を改めて書こうと思います。
とにかく、保坂和志は大好きな作家で、彼を好きでいる自分なら、自分で自分を愛せるような気がします。
こういう作家は他にもいて、例えば作風は全然違うけど、梨木香歩なんかもそうです。
posted by 北杜の星 at 08:18| 山梨 ☁| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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