2017年11月30日

小泉武夫「食でたどるニッポンの記憶う」

小泉武夫といえば東京農大の発酵学、醸造学の第一人者として有名。
私もこれまで小泉先生の著作は数冊読んでいる。
友人の娘は東京農大の醸造科を卒業して、誰もが知る小田原の蒲鉾会社に就職している。
発酵食品が体に良いというのが世間に知れ渡ったのには、小泉氏の薫陶のおかげもあるのかもしれない。

「食でたどるニッポンの記憶」というタイトルだが学術的なものではなく、氏のいわば自伝みたいなもの。
日本の食は戦後、とくに昭和40年ごろからずいぶん変わったが、それ以前、それ以降、日本人がどのようなものを食べていたか、自分の幼少時の記憶をひも解いて書いている。
福島の400年続く酒造家の長男として生まれた小泉氏は1943年生れ。私の数歳年上だ。
これを読んでかなり食の記憶が違うと思ったのは、年齢の差ではなくて地方の違いだと思った。
私の両親は山口と広島出身。つまりは西の出である。
東北の福島で小泉氏が食べていたという塩ホッケ、身欠きにしん、棒タラなどは我が家で食卓にのぼることはまずなかった。母の育った福山は鯛で知られるところで、母は「ニシンなんて豚の餌よ」と不遜にものたもうていた。

でも小泉氏は周囲の友人たちよりずっとずっと裕福な家だったので、他の家庭では食べられないものも食べていたようだ。
その一つに発売されて間もない魚肉ソーセージがあった。あれって、当時は高価なものだったみたい。
それを毎日お弁当に1本持って行っていたようで、友人たちに一口ずつかじらせてあげたらしい。

土地は異なるが、やはりリンクする食べものもあり。それがクジラだ。
クジラはご馳走で、クジラがおかずの時は小躍りしたと言う。
そう、クジラはよく食べた。給食にも出た。
ちょっと臭みがあるのでカレー粉をまぶして竜田揚げにしたりした。
私は「おばいけ」のからし酢味噌が結構好きだったが、「おばいけ」ってどの部分だったのだろう?わりと脂っぽかったけど。
真っ赤なクジラのベーコンもあって、あれはあんまり好きじゃなかった。
大阪に住んだときにおでんの「たこ梅」に時折行っていたが、「さえずり」や「コロ」が美味しかったなぁ。今でもあるのかしら?

小泉氏の幼い頃ってワイルドだったんですね。あの頃の子どもはみんな野山をかけ回っていたものね。
スズメ、赤カエル、野うさぎ、ふな、カラスも食べたことがあるそうだ。
肉は肉屋ではなく山で調達したとか。鹿やイノシシなどたくさん獲れたことだろう。
日本人は家畜は食べなかったが、獣肉を食べないわけではなかった。山の動物は食べていたのだ。
家で飼うもので食べたのはニワトリ。
ハレの日にはニワトリを潰しみんなで鍋を囲んだりした。

私は街育ちなので自分の家でニワトリを潰すというのは経験したことはないけれど、卵が貴重だったのはよく覚えている。
病気の人のお見舞いに箱に入れた卵を持って行っていた。
その卵は卵屋で買ったが、一つ一つに卵を電球にかざして中身を調べていた。
それでも時々、卵を割ると、羽がついているヒナが出てくることもあった。
あの頃は全部が有精卵だったんですよね。
(今でも松本の裏通りに卵だけ売っている卵屋さんがある!)

これは食とは関係ないが、小泉氏は大学入学当時の東京農大の醸造科について書いているが、これがスゴイ。
醸造科の学生は44人だったが、誰もが老舗の酒造家、酢屋、醤油屋、味噌屋の息子で、とてつもないお坊っちゃま。
じいやとばあやがついて地方から来ている者もいたそうだ。
彼らの実家の総資産は一つの町の予算を超えていたとか。

食が多様化し、米の文化から小麦の文化に移行して時がたつが、現在はグルテン・フリーが世間で言われるようになった。
これからもきっと、食の変化は止まらないだろう。
それが幸せなことかどうかは、わからないけれど。
posted by 北杜の星 at 07:47| 山梨 ☁| Comment(0) | カ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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