当時ハンセン病はライ病と呼ばれ、家族から患者が出ると一家は周囲の人々から忌み嫌われた。
ライに罹ると頭髪や眉毛が抜け、顔や手足が変形し、嗅覚や痛覚などの感覚を失い、盲目となって死に至ることから、業病と恐れられていた。
実際は伝染力の弱い伝染病なのだが、遺伝病と誤解されたため、患者を出した一族全員が白い目で見られたのである。
患者はライ病院に隔離された後も、決して本名や出身地を明かさず、また家族も患者の籍を抜いて口を閉ざしひっそりと暮らした。
それでも住んでいた土地を追われたり、一家離散となることは多かった。
北条民雄のこともそのペンネーム以外は一切が秘密とされ、謎の作家といわれ続けてきた。
私がこの「火花」を読んだのは、北条民雄に関心があってのことではなく、中上健次を書いた著者の高山文彦のほうに興味があったからである。
読み始めてすぐに、民雄にひきつけられてしまった。
北条民雄は数えで19歳のときに発病、症状はそう重くはなかったが、隔離政策のため現在の東村山市にある全生病院に入所した。
発病して以来ずっと死ぬことを考えていた。
けれど死ぬことを考えれば考えるほど、見えてくるのは生きることだった。
そして彼にとって生きるとは、文学であった。
プロレタリア文学に傾倒していた民雄がなぜ川端康成に手紙を出したのだろうか。
川端を河端と書いているところをみると、なぜの疑問は大きくなるのだが、手紙を受け取った川端康成は民雄に返事を書き、書いたものは必ず読むから送るようにと激励した。
以後二人の間で交わされた往復書簡は90通。
川端の誠実さと新人発掘の才に驚くばかりだ。
民雄はおとなしく真面目な文学青年というわけではなかった。
誰にでも突っかかり、毒舌を吐き批判は鋭い。こういうところはちょっと小林秀雄っぽい。
この「火花」で私が見た誠実さは川端康成のものだけではない。著者の高山文彦もまた誠実な人だと感じた。
民雄の調査をするうちに、彼の本名や出身地が判明したにもかかわらず、それらを公表していないのだ。
ノン・フィクション・ライターとして書きたい気持ちは当然あっただろうに。
民雄死して70年を経た今も、彼の親族たちのことを慮っている。
ハンセン病とはそういう病気なのである。今も昔も人々の意識は変わらない、しかも田舎の狭い土地においては。
北条民雄は23歳ので死去する。
川端康成と編集者の二人は、全生病院の霊安室を訪れている。
「いままで弔問にやって来た数少ない人々のなかにあっても、霊安所にまで上がり得た者は自分たちふたりをおいてはほかにいないと知らされた」というくらい、それは稀なことだった。
民雄はしかしまだ幸せだったのではないだろうか。
骨となっても取りに来ない家族が多いなか、父親が遺骨を取りに来て、故郷の一族の墓に収められたのだから。
現在北条民雄の全集が「創元ライブラリー」において文庫化されている。
角川文庫版の「いのちの初夜」は、25万部近くが読み続けられて、いまも版を重ねているという。

