2017年09月04日

小川洋子「海」

好きな作家の素敵な文章を指で読みたいと選んだ点字の本がこの小川洋子「海」。
7つの短編集はどこか妖しくそして懐かしい雰囲気があった。

読み進んで「バタフライ和文タイプ事務所」が始まってすぐ、私は「あっ、これ!」と思わず声をあげた。
数年前に読んだ小川洋子があまりに心に残っていて、でもタイトルがどうしても思い出せず、またどの本に入っているかの記憶もなかったものが、ここで再会できたからだ。
ぜひもう一度読みたい、の願いがかなった。しかも点字本で。
こういうのが私にとっての一番の幸せで、大好物の美味しいものを食べる以上にわくわくうれしいこと。
この「バタフライ和文タイプ事務所」は「日本文学100年の名作」(池内紀、川本三郎、松田哲夫選)の第10巻に編まれている。しかもこの巻のタイトルとなっているのだ。
うーん、やっぱりこれは名作だったのですね。
ますますうれしい。

変形な道の交差する場所にある「バタフライ和文タイプ事務所」に、若い女性タイピスト「わたし」が入社してきた。
事務所では近くにある大学院の医学論文をタイプする仕事が多い。
「わたし」もそうした論文の仕事をし始めることとなった。
バタフライとは和文タイプの活字を探す盤の上の手の動きが蝶が飛ぶのに似ているからだそすだ。
ある日「わたし」の使いたい活字が損傷しているのに気付きい、3階の活字管理人室に行って、新しいのと取り替えてもらうように言われた。
診療所の待合室のようなところに小窓が開いていて、そこから管理人が新しい活字を出してくれるのだ。
彼の顔も姿も見えない。ただ彼の手が見えるだけ。その手は活字の鉛のために指が変色していた。
渡してくれる時彼はその字についての自分の講釈を聴かせてくれた。

糜爛の「糜」という字、睾丸の「睾」の字。医学論文だからこういう字があるのだろうが、管理人の字の考察がエロティックなんですよね。
しかも姿は見えない。声と指だけというのがエロティシズムを倍加させる。
彼の言葉をもっと聞きたくて、「わたし」はある活字にわざと傷をつけて、3階に持って行く・・
この活字を管理人はどう説明するのか・・

私はいつも小川洋子という作家は「偏愛」の人だと思っているのだが、この本に彼女の「偏愛」ぶりが強く表れている。
それが堪能できて、小川ワールドにすっかり浸りきれた。
でも私はこれを以前に活字で読んでいたから「字」がわかるのだが、初めて点字で読むと漢字がわからないから、面白さが響いてこないと思う。
漢字からインプットされてきたエロティシズムがあるからこそ、この作品が成り立つのだ。
(点字で読むと新たな感覚が得られてそれはそれで興味深いのではあるが、点字はいわゆるカナ表記なので、登場人物の名前の漢字がわからないのがつまらないのだ。作家だって主人公の名前を決める時にはあれこれ考えて決めるのだから、名前には多きな意味があるはず。点訳する人はせめて漢字の説明を「訳注」としてしてもらいたい。
例えば「華子」なら「華やかな華」とか。・・盲学校では点字の読み書きと同時に、当用漢字も教えているのだそうで、視覚障害者であっても漢字は知っているのし、中途失明者はなおさら漢字からのイメージが強いのだから。)

とにかくこの本を再び読めたのが、うれしいです。
posted by 北杜の星 at 08:06| 山梨 ☁| Comment(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月31日

内田洋子「ジーノの家」

このところ夫が内田洋子に凝っている。続けて数冊読んで、まだ飽きないらしい。
とくにこの「ジーノの家」は良かったたらしく、内容をあれこれ私に話してくれる。
聞いているのはかったるいので、ならば私も読んでみようと読んでみた。

これ、日本エッセイストクラブ賞を受賞しているんですね。
彼女が経験した10の物語はエッセイというよりは、短編小説のようだが、じっさいにあったことだからこそのリアリティはさすがのものがある。
人間が体験することが同じであっても、それをどう受け止めるか、そしてどう表現するかはその人の感性と能力にかかっている。
これを書いた時に彼女は在イタリア歴30年以上(現在は40年弱)、イタリアという国、イタリア人という人間への観察眼が緻密なだけでなく、彼らに気持ちを添わしながら暮らしているのが心地よく伝わって来る。

ミラノを書いても、それは華やかなファッションの街ミラノではない。
ミラノには遠く南イタリアからの移住者が多いのだが、彼らの貧しさゆえの闇の世界を覗き見る文章は、ジャーナリストとしての彼女の「眼」ではあるけれど、そこにそれ以上の感情移入があるのだ。
悪の巣窟の中で生きるしかない人達へのシンパシーがそこにはある。

久しぶりにナポリに行って、駅からタクシーに乗る話しがある。「初めてで最後のコーヒー」だ。
タクシーの運転手は彼女をたんなる観光客のいいカモを乗せたと思って、遠回りをしてメーターを稼ごうとした。
しばらくしてそれに気付いた彼女は「運転手さん、そこはもう通ったから、●●をいったん通って上に登って行ってください」と言う。
ここで運転手とケンカしてもお金は戻ってこないし、気まずくなるだけ。それならナポリの街の見物をしながら目的地まで行こうと、彼女は考えたのだ。
彼女はナポリ大学に留学して数年間ナポリで暮らしたことがあるのである。
ギョッとした運転手はおそらく、そうした彼女に敬意を払ったのだろう。●●というところは自分のシマでもあったので、彼女をバールに案内しコーヒーをおごってくれた。
コーヒーを飲んだ後で彼は会計をしたが、チップには多すぎる金額を置き、釣銭を受け取らなかった。
それは「ツケ置きのコーヒー」と呼ばれるもので、もしお金がなくてでもコーヒーを飲みたい人間が来た時のコーヒー代金だったのだ。

ナポリ人はこすっからいと言われる。
確かにそうだ。私たちはナポリで泥棒にあったし、乗る前に決めたタクシー料金だって降りると上乗せで請求されたりした。
でも私はナポリが嫌いではなかった。彼らのこすっからさには陰湿なところがなくて、「多分、彼らなりのロジックがそこにはあるのだろうな」と感じられたからだ。
上乗せ料金を請求した運転手は「早く空港に着くために、一方通行の道を逆走してやったんだぜ」と得意顔で言うのだ。
そんなこと頼んでないよと言いたいのだが、「でも、まぁ、いいか」という気になるから不思議。
だって彼らの日常は厳しい。私たちは金持ちではないがはるばる日本からナポリに旅行する余裕があるのだから。
もし同じことをミラノやフィレンツェでされていたら、猛烈に抗議したと思う。
南の人間はああしてお金を稼いで、「ツケ置きコーヒー」代を稼ぐ。それはそれで良いじゃないかという気になるんですよね。
内田洋子はそういう機微がわかる人間だ。
(私もイタリア渡航歴がけっこう長いので、そういうの、ちょっとはわかる。これは私が歳をとったせいもあるのかもしれないが。

これはイタリアではなくエジプトの話しだが、元NHKアナウンサーの下重暁子さんが夫の赴任先のエジプトに住んだ時、現地運転手さんに市場に連れて行ってもらい、彼女は値切ってしなものを買おうとしたのだが、その運転手は「彼は僕より貧乏だから」と言い値だ買ったと言う。そのとき下重さんは自分がとても恥ずかしかったとか)。
値切るのが当然で、思い通りに値切って買うと「してやったり」と思ってし、言い値で買うのはバカだとか、ゲームを知らないと言われることもあるが、そうばかりではない。
いろんな場所のいろんな人間の事情が分かれば、違う行動ができることもあるのだと私は考えるが、そういうことを私はイタリアで学んだ。

内田洋子の本を読むと、本当にイタリア人がよくわかる。
本音で、衒いのない暮らしのまっとうさは、大変だけど風通しがいい。

別の章に、ある貧しいシングル・マザーが出てくる。ミラノの暴力夫からリグーリアの寒村に逃げて来た母と息子だ。
その母親が内田洋子をランチに招く。
そのランチ、そこらへんに生えているバジリコを摘んでオイルでペスト(リグーリア州だからジェノバのペストソース)を作っているのだが、松の実は高いのでピーナツが入っている。パルミジャーノも高いのでチーズなし。それをスパゲッティに合えている。ランチはそれだけ。
普通、日本人ならそんな貧しい食卓に人は招かないと思う。しかもほとんど知らない人なのだ。
貧しいことはは困ったことだが恥ずかしいことではない。そういう気概が感じられて、そのペストソースで和えたスパゲッティのバジリコのいい香がこちらまで漂ってきそうで、私も一緒に食べたくなる、

内田洋子がこの本で書くイタリアはほとんどがミラノではない。
ミラノは夏は不快で、冬は半年続き、湿気を含んだ寒さが骨にまでこたえるらしい。
ミラノの人たちは新しい展覧会やレストランやクラブやパーティで忙しい。
この春が終わったら日本に帰ろう、夏が終わったら帰ろう・・そう思いながら30年以上が過ぎたと言う。
だからなのか、彼女はミラノを離れて、リグーリアの小さな村に住んだり、修復した船に6年間住んだりもしている。
イタリアに住むのは難儀なことが多くて、と言いながら、その難儀さを自ら求めているようなところがある。

埋もれてしまう人たちの日常をすくい取る内田洋子、夫ならずとももっと読みたくなるもの書きさんです。
posted by 北杜の星 at 07:35| 山梨 ☁| Comment(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月10日

青山七恵「訪問者」

ちょっとイレギュラーな紹介になる、というのはこの短編は文芸誌「小説トリッパー」に掲載されたもの。
最近、文芸誌をとんと読まなくなった私がなぜこれをこのところ読んでいるかの理由は後で述べます。
文芸誌の連載物はせっかちな私の性格には向かない。1カ月も次が待てないからだ。そういう意味では新聞小説はまだいい。
ましてや「小説トリッパー」は季刊誌だ。3カ月も待てないよ。
文芸誌が役立つのは、長期の海外旅行に行く時だ。何冊かの文庫本はすぐに読み終わってしまう。単行本は重すぎる。
そこにいくと文芸誌は読み応えがあるし、自分からはすすんで手に取らない作家のものも読める。評論やエッセイもあるからバラエティに富んであきない。雑誌なので読み終わって捨てても気が咎めない。
なので2週間の旅行には1冊、1カ月のときには2冊。これで概ね賄えるのだ。

短編小説はある程度まとまらなければ本にはならない。だからこれも出版されるまでには時間がかかるはず。
だからちょっと読後感想を書いてみようと思う。
これは「女ともだち」という特集の一編で、青山七恵の他に、飛鳥井千砂「甘く、おいしく」、加藤千恵「非共有」、金原ひとみ「fishy」、綿矢りさ「岩盤浴にて」の競作?となっている。
綿矢りさの「岩盤浴にて」もよかったけど、なんといっても青山七恵の「訪問者」がいつまでも引っかかっている。

ある暑い日、地方都市の大学に行ってそのままそこで就職し家を離れている姉が、久しぶりに実家に帰って来る。
一人の女ともだちを連れて。
ランチを一緒にした後、姉と友達は散歩に出て夕食にも戻らない。みんなが寝た頃になって戻って来て、友達は主人公の部屋で寝ることに。
朝起きたときにはすでに彼女たちの姿は見えなかった・・

と、これだけの話しなのだが、姉が連れて帰った女ともだちについては何もわかならないのだ。
名前もどんな友達なのかの会話もない。とにかく説明がまったくない。
わからないからこそ、その存在感が膨れ上がってくる。
姉が以前言った「小説を書く」という唐突な言葉だけが、宙に浮いて、これは何かのキーワードなのかと思うのだが、その言葉はどこにも着地しないまま。

だからこれを読んでも「察する」しかないのだ。
多分、姉は母親とうまくいっていなかったのではないだろうか?
多分、そんな母に追従しているだけの父にも苛立っていたのではないだろうか?
主人公である妹に対してはどうだったのか?
女ともだちと一緒にいると、自分が自分らしくいられるのではないか。。
でもなぜ、実家に彼女を連れて来たのか?
なんだか不思議な短編。このもやっとして、でも確かに「そこにある空気」だけが伝わってくる。
印象的な短編だった。

「小説トリッパー」には昨年冬号から、井上荒野の「あちらにいる鬼」が連載されている。
これを私はやじ馬根性丸出しで読んでいるのだ。
井上荒野の父は作家の井上光晴。彼が女性に大モテだったのは有名な話し。
そして瀬戸内晴美(寂聴)と恋愛関係にあったのも有名な話しで、彼女が仏門に入ったのは光晴との関係を清算するためとも言われていた。
その光晴と瀬戸内晴実と、光晴の妻(荒野の母)の三者を描くのがこの「あちらにいる鬼」。
まだ寂聴さんは生きているのに、こんなの書いて大丈夫なの?と心配になるのだが、これはまったくのノンフィクションとは少し趣がことなっていて、フィクション、つまりは小説であるような気もする。(もちろん彼ら3人の関係が基になっているのだけれど)。
先日荒野の「母のこと」という私小説を読んだので、とくに今回は興味津津だった。
(私、芸能ネタにはまったく興味ないのだけど、文壇ネタにはすごくミーハーなんです)。
現在3話。あと何回続くのだろうか?
3カ月も待つのはシンドイ。

posted by 北杜の星 at 07:24| 山梨 ☀| Comment(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月08日

今村夏子「星の子」

今村夏子はいま私がもっとも関心をよせる作家だ。
といってもまだ発刊されているのが「こちらあみ子」「あひる」そしてこの「星の子」の3冊のみ。
でもこれまで三島賞を受賞、芥川賞候補にもなっている。
私は批評家ではないいので彼女がこの先、書き続ける力量のあるひとかどうかの判断はつかないが、少なくとも現在まで書いたものを読むと、作品に流れる空気感には独特の感性があるし、文章は緩いなかにクスリと忍び笑いの要素もある。
平易だがけっして平坦でない文章に隠された、じつは深淵なテーマ。
なかなかに「クセモノ」新人作家だと思っている。
(広島出身というところも、応援したくなる一因かな?)

ちーちゃんは未熟児で生まれたせいか病弱で、酷い皮膚炎を患い、途方にくれた両親は知人からある「水」をもらい受け、ちーちゃんをその水で洗ってみた。
するとどうだろう?
それまで何をしても効果のなかったちーちゃんの肌がみるみる治ってきれいになったのだ。
以来、両親はその「水」を信奉し、頭の上に「水」を浸したタオルを乗っけるようになった。
「水」はある新興宗教が売っている水だった。

ちーちゃんの叔父(母の弟)は両親に「「目を覚ませ」「騙されている」と忠告するが、両親は聞く耳をもたない。
ある日叔父は、そっとその水をすべて公園の水道水と取り替える。それに怒った両親は叔父との付き合いを絶ってしまう。
そんな一家のなかで、ちーちゃんの姉だけは水にも宗教にも違和感を持ち続けていたのだあろう。家を出て行った。
家出間前、姉はちーちゃんに水取り替え事件がじつは自分の手引きだたことを告白する)。

価値観は人それぞれに違う。宗教に関してはとくにそうなのかもしれない。
それを信じる人には絶対でも、信じない人にすれば「怪しい」「騙されてる」と映る。
何を信じようが自由なはずなのに、ともすれば色眼鏡でみてしまう。
ちーちゃんも幼いころからそういう経験をしてきた。いじめられるほどではないけれど、友達からは距離をおいて見られることが多かった。
そうだからこそ、宗教の集会に参加すると、みんなからやさしく話しかけられるのがうれしかった。
そこなら、自分の居場所がちゃんとあるという安心感で息が大きく吸えた。

でも本当にちーちゃんは両親のようにその宗教を信じていたのだろうか?
それはちーちゃん自身にもわからないのではなかったか?
ただ確かなのは、自分の両親が限りなく自分を愛してくれていること。それは絶対揺るぎのない愛だ。
やがて高校生になろうとするちーちゃんが、これからどんな道を進むのか?
いつまでも星を見ながら、ちーちゃんは何を思う?

懐疑的になろうとするとどこまでも疑わしい宗教。
でも人は信じる。信じるって何なのか?
自分を愛し、自分が愛する人が信じるものならば、盲目的に信じられるのか?
ちーちゃんは案外に醒めた目を持ちながら、「信じよう」としているのではないだろうか?
今回も、はっきりした結論はでない今村夏子の作品だが、胸にいつまでも残るものでした。
そういえばこれが初めての長編なんですね。
次回作もおおいに期待!
賞はとってもらいたいけれど、賞レースとは違うところで頑張って書きつけてもらいたい作家さんです。

posted by 北杜の星 at 07:24| 山梨 ☁| Comment(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月03日

旭屋出版MOOK「珈琲女子」

ナントカ女子という言い方が流行っていますが、珈琲の世界にも女性が次々進出しているようです。
女性バリスタが多くなっているし、彼女たちがお店を持つことも増えている。
一時珈琲店がシアトル系カフェに押されて経営困難になっていたが、最近は新たな珈琲専門店をよく見かけるようになった。
街を歩いていてそうした店でホッと一息できるのはうれしい。
考えてみれば、珈琲の仕事は女性にぴったりだと思う。
重いモノを持つ必要はないし(パティシェとかパン屋というのはけっこう大変)、ローコストでもセンスある店を持つのは女性に向いているような気がする。

我が家は朝食はミルクティだが、一仕事終えたときに楽しむのはやはりコーヒーだ。
午前の10時半ごろの習慣となっている。
本当は午後や夕食の後でも飲みたいのだが、歳をとるとカフェインの影響で夜が眠れなくなる。
いろいろカフェインレスのコーヒーを試してはみるのだが、味に大満足というわけにはいかないし、カフェインレスとうたっていても残っている場合も多いみたいでやはり眠れない。
この本に「インノセントコーヒー」というある女性が開発したカフェインレスが紹介されているが、99.9%のカフェインが除去されているそうで、是非、これを試してみたい。
日本の店にはカフェインレス・コーヒーを置いていないところがまだまだ多いが、眠れない人や妊婦さんなどが安心して飲めるコーヒーを置いて欲しいものだ。

この本には「好みの味を見つける」「好みの淹れ方を見つける」「ペアリングを楽しむ」「コーヒーカクテルを楽しむ」の項に分かれている。
そのどれもに女性が活躍。
好みで言えば、私は酸味のあるのはダメで、苦みの方がいい。
これは焙煎の問題のようで、焙煎が浅いと酸味が強くなるし、焙煎が深いと苦みが多くなるようだ。
昨年、今年と私たち夫婦は友人とともに、コーヒー教室に参加した。
本業はカメラマンという松本祥孝さんという人に、美味しいコーヒーの淹れ方を教えてもらった。
豆の選び方、焙煎のしかた、そしてハンドドリップの淹れ方。

豆はブラジルを基準とするとブレンドしやすいそうだ。
焙煎は強めが私の好み。
そして淹れ方。例えば5人分を淹れる時には、5人分の豆に4人分のお湯で抽出し、後に1人分の湯を加える。
これは決して「薄める」のではなく、最後の雑味やあ澱を出さないためとか。
これを教えてもらって以来、夫はその通りに淹れるようになったが、確かに美味しいですね。

コーヒーもだが、シアトル系カフェのおかげで、日本にエスプレッソが定着した。女性バリスタが続々誕生してもきた。
本場はもちろんイタリア。
でもそのイタリアでも北と南では微妙に味が異なる。これは湯の量の違いだ。
北は湯の量が多いし南は少ない。断然南の方が美味しい。
でもこの量は日本ではあり得ないもので、日本のイタリアン・レストランの食後のエスプレッソの量の多いこと。
イタリアから日本にやってきたレストランでも最初はイタリアの量だが、だんだんと日本向けの量になってしまうのが残念だ。
(食後にカプチーノを注文うする人がいるが、あれはイタリアでは絶対に不可。)
でもイタリアではバリスタはほんとど男性で、女性は見かけない。レジに坐っているのは女主人だけど。
でもバリスタとかバーテンダーが女性って、カッコいいよね。

我が家ではカプセルではなく粉の時代からエスプレッソ・マシーンを使っていて、今は4台目。
ものすごく進化していてカプチーノなんてとても簡単に作れるようになった。
エスプレッソ・マシーン、コーヒー・メーカー、ハンドドリップ・・3種類のコーヒーをその時々で使い分けているが、作るのは夫。
どの家に行っても、コーヒーはご主人担当ということが多いみたい。

コーヒーのお供はなんといっても焼き菓子かチョコレートたと思っているが、この本には「ペアリング」で同じことが書かれていて、「やっぱりね」と思う。
たくさんでなくて、ほんの一粒、一枚で充分。
コーヒーを飲みながら、あれこれお喋りして気分転換。

これを読むと、コーヒーが飲みたくなります。
そして珈琲女子、頑張れ!と応援したくなります。
このあたりには美味しい珈琲屋さんが多い。リゾナーレのなかには軽井沢の丸山珈琲があるし。
でも他の店で珈琲女子はあまり見かけない。
八ヶ岳、狙い目ですよ!来て下さい。そしてとびっきり美味しいコーヒーを飲ませて下さい。
posted by 北杜の星 at 07:39| 山梨 ☁| Comment(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月02日

井上荒野「赤へ」

この井上荒野の「赤へ」はあまり評判にならなかったみたいな地味な作品だが、これ、なかなかの秀作だった。
10の短編のどれにも「死」がある。
ふいに訪れる死、覚悟をしている死であっても、死はそれに直面すると平静ではいられない。
病死、事故死、自死、殺人・・
死のかたちはそれぞれ違い、死者との距離も異なる。

直接的な死が出て来ないのは最初の「虫の息」だけだ。
けれどこれにも、元左翼劇団女優の老婆の死ぬ真似がある。だから「虫の息」はこの短編集の助走的小説と言ってもいいかもしれない。

井上荒野の小説はどこか不穏な空気をいつもまとっている。
その不穏さが人々を繋げたり、離したりする。
これもそうだ。
淡々とした筆が主人公たちと周囲にある死との関係性を、客観的なものにしている。

客観的でないのが2編。これは井上荒野の私小説だが、「母のこと」はこのなかでも白眉といえるものだろう。
彼女の母ということは、作家井上光晴の妻。
光晴ほど女にモテた作家はいないと言われていて、家に帰らないこともしばしばだった。
その光晴は癌になって、「死にたくない」とあらゆる治療を受け闘病をしたが、そうした夫とは正反対の妻だったようだ。
井上荒野の母は十数年間、肺がんの治療をしていたが、他の癌も見つかった時に、「これでケリがつくわ」と言い、もう癌治療は何も受けなかったという。
その潔さは他の生活一般にも及んでいて、きっぱりとあらゆる物を整理処分した。そのなかには光晴の位牌もあって、さすがにこれはと、荒野の夫が捨てるのを止めさせたとか。
母にすれば位牌など、ただの木片にすぎなかったのだろう。

母は優しい人だったが、感傷的な人ではなかったと荒野は書く。
歳をとってもスラリと美しく、お洒落にお金を掛けているふうではなかったが、いつも綺麗にしていた。
美味しいモノが大好きで、また料理上手でもあった。
荒野の小説にはよく食べものが出てくるが、この母の料理で育った所以のことだと思う。
そんな母なのに、外食のための外出も厭うようになった。
どこにも行かず、ただ部屋で本を読んで過ごしていた。

そんな母との最期の1年間を共に暮らした荒野の想いがせつない。
一番したかったことは「母に抱きつくこと」だった。けれど母はそういうことを、うるさがる人であったし、もしそれをすると、母に死期が近づいているのを悟られるような気がしてどうしてもできなかったそうだ。
亡くなる数日前まで、弱ってはいても、変わらぬ生活をしていた母の最期の言葉が何だったのか、どうしても思い出せない。
そんな荒野を病院の医師は「だれもが、ドラマのようにはいかない。『ありがとう』なんて言って死ぬ人はいませんよ」」と慰めてくれた。

「母のこと」を読んで、なんて見事な生き方、死に方だろうと思った。
人は生きてきたようにしか死ねないものなのだ。
何事にも執着しないことの潔さが、結局は安らかな最期を導くのだろう。
こんな母を眼前にしたのだから、井上荒野は「大丈夫」という気がしている。何が大丈夫かはよくわからないのだけれど、でも大丈夫。


posted by 北杜の星 at 07:20| 山梨 ☁| Comment(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月26日

内田洋子「ミラノの太陽、シチリアの月」

「イタリアのしっぽ」を面白く読んだ夫が、内田洋子第二弾として借りたのがこの本。
彼は夜寝る前のベッドでしか本は読まないので、昼間に私が読んでみた。
いくつかの章をを読んで、「あれ、この話し、知ってる。。」。
調べてみると、もうずいぶん以前にこの本、読んだことがあった。
その時は内田洋子という人をまったく知らなかったし、特別な印象も残らなかった。
でも今回は「内田洋子を読みたい」という強い気もちで読んだから、心にずっしりときた。

冬は霧で何も見えなくなるミラノにも、太陽が輝くこともある。
明るいシチリアにも夜はある。
みんなが知るイタリアとは別の顔のイタリア。
それはイタリア在住30年以上、しかもジャーナリストの目で見るイタリアだ。
自分の情緒はできるだけ排してイタリア人を見つめる内田洋子の文章は対象に溺れることなく、イタリア人の心をすくいあげている、
この距離感というか間合いがとても好きだ。

それにしてもフットワークのいい人。
友人に呼ばれると、すぐにそこに赴く。のみならず、そこに住んでしまったりもするのだから驚く。
ミラノの街の運河の前の集合住宅に住む彼女は(現在はミラノではないようだが)、いつもリグーリア州の海辺を恋しく思っている。
「そうだろうなぁ」と思う。
厳しい寒さのミラノの冬、イタリアン・リヴィエラと呼ばれるリグーリアは冬の平均気温15度前後だ。州都ジェノヴァの西は南フランス。
陽光が輝いている。
ジェノヴァの南には美しいリアス式海岸が延びていて、ポルトフィーノや世界遺産で有名なチンクエテッレなどがある。
リゾート地もあるが、観光地化されていない漁村もまだあるのではないだろうか?

私たちはもう20年くらい前にイタリアをオートバイ旅行しようと思い立ち、日本からイタリアにバイクを船で送ったことがある。
船が着きバイクを引き取ったのがジェノヴだったので、あのあたりをツーリングした。
きれいな海岸線の風を受けて快適な旅だった。ポルトフィーノは思っていたよりもはるかに小さな港で、「これが世界的なリゾート地?」とびっくりしたが、海を臨む高台には瀟洒な邸宅が並んでいた。
ランチ時だったがレストランはどこも目が飛び出るほど高くて、次の港まで走りそこの海辺で食べたのだが、魚介のパスタが美味しかったなぁ。
あのあたりに住むのはたしかに悪くない。
ジェノヴァは大都会で買い物に便利だし、トスカーナも近い。
(でも内田さん、結局はリビエラには家を買わなかった。もっと山方面の一軒家に決めたそうだ。海は最近ではすごい混雑で、とても静かには暮らせないとか。イタリアは本当に観光客がすごくて、彼女が『考える人」に連載した「イタリアン・エキスプレス」を読むと、ヴェネツィアにはもうとてもとても行けそうもないというくらい、毎日が大混雑。通りを歩くと人の体に触れるほどらしい。観光地ではない普通の田舎にでも行かないと、ゆったりできない国になってしまった。世界遺産がもっとも多い国だから仕方ないのかもしれないけれど、ため息がでてしまう。)

この本のなかの「祝宴は田舎で」を読み、これまでの私たちのイタリア旅行を思い出した。
田舎を訪れて、そこの美味しいレストランを見つけて食事をするのが好きな私たちだが、そういうレストランは週末ともなると、誰かの「お祝いパーティ」をしていることがよくあった。
卒業祝いの若者たち、洗礼式後の食事会、金婚式みたいなカップルのお祝い・・
田舎のレストランといっても、ローマやフィレンツェから車を飛ばして食事に来る客がいるくらいの店なので、味は保証付きだ。
そんなテーブルを見ると、前菜が3皿、パスタ・リゾットなどが3皿、主宰が2皿、そしてデザート、スプマンテや赤白ワイン、食後酒がエンドレスに続く。
総カロリーは4000くらいになるのではないだろうか。男も女も区別なく平らげるその食べっぷりを見ると、こちらはシュンとなってしまうほどだ。

そんな祝宴だが、「母の日」には当たらないようにしてください。
「母の日」は普段のマンマの労をねぎらって、どこの街のレストランも満員で、旅行者はランチ難民となってしまうからだ。
レストランに入って断られ、うらめしそうに中を覗くと、マンマが真ん中で喜色満面、みんなに囲まれているのが見える。

「ジーノの家 イタリア10景」で日本エッセイスクラブ賞を受賞した内田洋子。
今度はそのエッセイを読んでみます。イタリア事情やイタリア人の心の機微がよくわかると思います。

posted by 北杜の星 at 07:15| 山梨 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月25日

石田衣良・唯川恵・佐藤江梨子「TOROI1 トロワ」

いやはや。。なんとつまんない小説を読んじゃったのか。
ここ数年で最悪の本だった。
登場人物、ストーリー、文章、そのどれもが「なんで、こんなのが出版されるの!?」という感じ。
しかも私はこれを点字本で読んだので、感覚的に耐えられなかった。
最後の四分の一を残して、放り投げました。

「トロワ」というタイトルにはいくつかの意味がある。
「3」人の人物、34歳の作詞家の響樹。
響樹と付き合っている45歳の高級エステサロン経営者の季理子。
銀座のクラブでバイトする24歳の歌手志望の若いエリカ。
彼らの微妙な三角関係の「3」。
そしてこれがこの本の企画なのだと思うのだが、それぞれを「3」人の書き手が文章を担っている。

響樹は石田衣良、季理子は唯川恵、エリカは佐藤江梨子。
佐藤江梨子って作家いたっけ?と訝しがっていたら、彼女は女優さんなんですね。
テレビ、それもドラマをまったく見ない私は今の俳優さんたちをまったく知らない。そういえば「サトエリ」という名前はなんとなく記憶にはあるけど。
彼女、小説も書く人だったのか。

と、思ったけど、小説はこれが初めてなんじゃないかな?
エリカという主人公にちなんで、江梨子さんが抜擢されたのだろう。
でもね、なんとくか、役を引き受けたその勇断にまず驚く。
はっきり言って、ものすごくヘタ、まぁ、ヘタは承知のことかもしれないのだが、気になったのは、石田や唯川の文のなかのエリカとはキャラがまるで乖離している。
とってもつまんない若い女性としか感じられない。
こういう女性を、歌手として売り出そうと努力する必然性いが何も伝わってこないし、若いというだけで魅力のない子に嫉妬する季理子にも全然同情できない。
企画倒れもはなはだしいです。もっとも若い女性の稚拙さを表現しようとしたのなら、これでいいのかもしれないけれど。
それと唯川恵の文は悪くなかったが、石田はいつものように「軽く」「さっさっと」「あざとく」書かれていて、どうも鼻白む。
私はこういう作家の『巧みさ」が嫌い。

点字本は嵩ばるんですよね。だから早々に返却しました。
私が「トロワ」と聞いて頭に浮かべるのは、ルノー「3」という車のこと。
これはルノー・キャトル(4)の廉価版として1960年代初めの2年間だけ製造された車で、もともとキャトルが大衆車なのだけど、そのまた廉価版。
でもこれがシンプルでかわいい。
もう55年くらい前のものなのだけど、これを私のもっとも若い友人のS君が持っている。
ちゃんと整備しているので、スピードは出ないけど今も現役で動く。
この「トロワ」なら大歓迎なのだけど。
posted by 北杜の星 at 07:38| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月18日

江口恵子「普段使いの器は5つでじゅうぶん。」

著者はフード・インテリアスタイリスト。
仕事でたくさんの器と接してきた。
けれどある日ふと気がついた。毎日使う器は案外、いつも決まっている。。
お気に入りの小ぶりな皿は、朝はパン皿、昼はケーキ皿、夜は銘々皿として使いまわしている。
それならば思い切って、器を減らしてみたら?

そう、その通りです。
私を悩ませているのもそのこと。
他のいろんなモノは処分できつつあるのに、好きで集めた器は台所の棚にぎっしり。そのほとんどがけっこう高いお金を出して買った骨董なので、ケチな私はなかなか手放せない。
でもこの著者の言うとおりなのである。
普段使う皿はいつも決まっていて、お客様の時だけのご登場となるものが多い。
しかしそのお客様用だって、どうしても奥から出さなければならないというわけでもないのだ。

5つは無理としても、7つくらいにならないものか?と思うのだが、日本の家庭で食器が多くなるのには理由があって、日本では和食はもちろん、洋食や中華を自分の家で作る。
(こんなことは他の国ではありえないんですけどね)。
だから、多種多様の食器が必要となる。
丼だって、親子どんぶりの丼とラーメンどんぶりの丼は別となると、食器はいや増しに増す。
お椀にしても、普段のお味噌汁の椀と、お正月のお雑煮用の椀は違うしね。

なんとか食器を三分の一にしたい、せめて。。
と、この本を救世主のように手に取った。

たしかに、勉強になりました。
こういうふうに考えればいいのだと、その割り切りかたに感服。
でもどうしてもダメというか、イヤなこともあったかな。
それは、MUJIやIKEYAの食器がどんなにシンプルで使いまわしがきいても、あれらは使いたくないなぁということ。
骨董の肌触りに慣れてしまった私たち夫婦にとって、あれらはあまりに質感も情緒も無さ過ぎるような気がする。
お椀だってちゃんとした塗りのものを使いたい。

あの高峰秀子は歳をとっての台所仕事がラクになるようにと、食洗機に入れられない食器を手放したそうだ。
あんなに骨董が好きで自ら「ピッコロ・モンド」という骨董店を持っていたほどの目利きの人だというのに、さすがだなと思う。
その彼女のきっぱりさが、私にはないんですよね。

飯椀、汁椀、丼、大皿、スープ兼用のパスタ皿、中・小取り皿、小鉢、湯呑、グラス(これだって水、ワイン、ビール、シャンパンと種類があるのだけど)、あとはお客様時の大鉢と特大皿。
これくらいで収まるようにできればいい。
皿はみんなが同じお揃いでなくても、普段自分たちが楽しめるように別々のものでも構わない。

よーし、頑張ってみよう!
ある断捨離の本に「モノは7割を減らさないと、目に見えて減った感じはしない」とあったが、7割は最終目的として、まず半分。
問題はその処分する食器を、売るのか、だれかに差し上げるのか、それとも捨てるのか?
うーん、捨てるのは悲しい。。売るのは面倒。もらってくれる友人を探してみましょう。
posted by 北杜の星 at 07:59| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月12日

磯木淳寛「小商いで自由にくらす」

「思いを優先させたものづくりを身の丈サイズでおこない、顔の見えるお客さんに商品を直接手渡し、地域の小さな経済圏を活発にしていく」。

著者の提案する「小商い」とは、上記のようなもの。
その例として挙げているのが「房総いずみ地域」。
いずみ地域というのは行政区を指すものではなく、千葉の房総半島南東部にあり、茂原、大多喜、いずみ市などとその周辺のことだそうだ。
この地域には都会からの移住者が多い。
様々な経験を経た人たちがこの地で、自分らしく自由に暮らすための「小商い」は、仕事ではあるが、商売というよりも自己表現という印象がある。

自分で作った作品を自分で売る。それは自宅であったり、自宅のそばに小屋を建てて、そこで売ったり。
商品はお菓子、Tシャツ、工芸品、手芸品・・・
女性一人で、夫婦で、友人たちと・・・
これで100%の生活を賄えるかというとちょっと心配ではあるが、少なくとも独立した暮らしが営めることは確かだろう。

この本を読んで、「これって、こことまったく同じじゃん!」と思った。
私が住むのは八ヶ岳南麓。
ここも房総のいずみ地域と同様、山梨県でもあるし長野県でもある、いわゆる「八ヶ岳」と称される地域。
ここに東京や神奈川、あるいは中京方面からの山荘族や移住者がたくさん住んでいる。
軽井沢や蓼科とはまた違う雰囲気のある高原だ。

ここには小さなギャラリーやパンやお菓子を売る店が、それこそゴマンとある。
草餅とシフォンケーキだけの農家土間の店、木工作品やステンドグラスを作って販売するギャラリー、染織の店などなど、石を投げればどれかに当たるというほどのたくさんの店がある。
先日、私たち夫婦は初めてのそうした店でブランチを食べた。
そこは自宅菜園で野菜を育て、その野菜を使って煮込みスープを供しているのだ。テイクアウトがメインだが、小屋掛けのような場所で食べることもできる。
ミネストローネとサンドイッチ、じゃがいものニョッキ、タイ風グリーンカレー、豆カレーなど、どれも安くて美味しかった。
土・日だけのオープンだという。
こんなところが本当にたくさんあるのが、ここ八ヶ岳。
新しい店の情報はすぐにみんなに知れ渡り「もう行った?なかなかだったよ」と口コミで拡がるし、人気商品はスーパーで売られるようにもなったりする。
ハードな社会の縛りから自由を求めてやって来たところなのだから、こちらの会社や組織に今さら組み込まれたくはない。だからといって時間はたっぷりあるし、身体も元気。
それなら何かをしよう、という気になるのは当然で、何かをしているともっと何か、誰かと繋がることができる。


でもこういした店を開くのも利用するのも、山荘族や移住者がほとんど。
地元のひとは行かないし、買わない。
だからそういう「小商い」が地域経済の活性化になっているとは考えがたい。
これから地元のひとたちをもっと取り込んで、一緒に「小商い」が発展していけばよりいいと思う。
それがこのあたりのこれからの課題のような気がする。

posted by 北杜の星 at 07:49| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

大内裕和「奨学金が日本を滅ぼす」

このタイトルを見たとき「借りた奨学金を返せない人間はけしからん」という趣旨のものかと思い、読むのをよそうかと思った。
でもそういうものではなく安心。

「自己責任」という言葉は悪流行りしている。
もちろん「それって自己責任でしょ」ということは多いが、それって為政者の責任逃れでしょと言いたくなることの方が多いのも事実で、この奨学金を返せないというのもまさにそうした問題だと思う。
若者の貧困の構図が奨学金にあらわれているからだ。

そもそも親の世代の所得が減っているのだから学費に以前のようなお金がかけられなくなっている。
しかしこの国はまだまだ学歴社会。大学を卒業しないと良い会社には入れない。とい。良い会社には入れないとずっと貧乏が続くことになる。そういう貧困のスパイラル。
だから奨学金を借りての大学進学となる。

けれどこの奨学金というのはほとんどが有利子貸与。つまりは教育ローンと同じなのだ。
4年生い大学卒業までの学費を奨学金で賄おうとすると、約500万円を借りることになる。大学院までとなると700万円。
世の中が右肩上がりの時代なら何の問題もないが、昨今の日本社会の雇用では、昇給はない、ボーナスもないというブラックなものもある。
人生のスタート時にそれだけの負債があるなんて、ハードな人生だ。
ましてや知り合った男女が結婚しようとしたとして、二人合計で1千万の借金!
これでどうやって結婚し、子どもを持つことができるのか?

初めから借りた奨学金を踏み倒そうとするのではない。返そうと思っても返せないのだ。
ブラック会社を辞めたいと思っても、奨学金返済を考えたら辞めるに辞められないということも。
それを「自己責任」と言い放つのは、あまりに酷ではないだろうか。

大学側や自治体や企業などの、無償の(お礼奉公などがない)返却無用の奨学金が増えればいいのだけれど、それも今の世では期待できない。
お礼奉公不要と書いたが、納得できるお礼奉公ならいいとも考える。
例えば自治医大がそうだ。
自治医大は日本の地方自治体がお金を出して医師を養成する医科大学だが、卒業し医師免許取得後に数年間(7年くらいだったかな?)のお礼奉公をしなくてはならない。
離島などの僻地での医療に携わることが多いらしいが、それはそれで良い経験になることだろう。
奨学金制度においても、返却不要のものには、そうした制度があってもいいかも。(昔の師範学校もそうしたシステムだった)、
といっても、返却できなければ自衛隊に入れるといのは、止めてもらいたいけれど。

この本には抜本的な解決法が提示されているわけではない。
しようたって個人では解決できない。これは社会や政治や経済の問題で、その問題はあまりにも大き過ぎる。
私の世代はふらふらとした大学生いが多かったけれど、貧富の差がどんどん激しくなって、大変な学生は本当に大変なのだ。
大学在学中から若い人が心身ともに疲弊している社会って、なんかおかしいし、こんな国の未来は暗澹たるものに思えてくる。
posted by 北杜の星 at 07:14| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月22日

内田洋子「イタリアのしっぽ」

イタリア、ミラノに住んだ日本人女性といえば須賀敦子。
彼女の大ファンの私は、今でも彼女の死を悲しんでいる。まだあと10年は書いて欲しかったと口惜しさは薄れることがない。
そんな須賀敦子に操を立てたわけではないが、これまで内田洋子の著作を読まずにいた。
内田洋子は30年イタリアのミラノに住むジャーナリストで、彼女のエッセイは日本エッセイストクラブ賞を受賞したことがあるほどで、これまでもちろんその名は知っていたが、なんとなく読みそびれていたのだ。
それがつい数日前のこと、夫が読んでいる途中のアイルランド作家の小説があまりに陰惨で、「なんか、明るいモノを読みたい」と言う。
彼にとって明るい読物といえば、やっぱりイタリアでしょ、と内田洋子はどぉ?と勧めてみた。
近所のライブラリーには3冊彼女の本があって、それら全部を借り受けて来た。
この「イタリアのしっぽ」はそのうちの一冊。私が先に読んじゃいました。
「しっぽ」とタイトルにあるようにこの本には、イタリア人と動物との関わり、そしてその動物と一緒のイタリア人と著者との関わりが書かれている。
なかにはしっぽのないタコも出てくる。

ちょっと田舎に行くと、と言っても都会からほんの数十分も離れたところでも、じつに様々な動物をイタリア人は飼っている。
犬や猫は当然のこと。(私たちの友人の多くは、犬には名前をつけているが、猫には名前がない場合が多い。あれはどういう理由からなのか?)
ある友人宅には馬が2頭いて、馬丁が世話をしていたし、別にチーズをつくるわけでもないのに山羊を飼っている友人もいた。
ペットというには大型の生きものでも彼らは普通に飼っているようだ。
そんな生活だから長い間のイタリア生活において、たくさんの生きものを介した物語に出会ったのだろう。

ミラノの名門の家の出の女性は獣医になったことで家から断絶され、たまたま飼い始めた著者の犬の主治医となってくれたのだが、どこか人とはうまく付き合えない彼女はやがて離婚してしまった。
別の友人女性に留守の間の犬の世話を頼んだのだが、インテリア評論家として有名な彼女の先端ファッションには似合わぬ素朴な食卓に招待され、やってきた娘たちや孫はしかし、食事が終わるとそそくさと帰って行った。その理由が強烈な猫アレルギーだった。娘たちと孫のくしゃみを寂しそうに聞くその女性。。
(おもしろいのは、孫も猫も同じように床にはいつくばって皿の料理を食べること。欧米では、はいはいをする赤ん坊って、考えてみれば不潔ですよね。外を歩いた靴そのままの床をはいはいするのだもの。)

他にもたくさんの動物とイタリ人との関わりがあるのだが、私が面白いと思ったのは、イタリア事情である。
それはミラノの天候だったり、過疎になった集落だったりするのだが、「えー、そうなの」と初めて知ったことがけっこうあった。
私はイタリアに長期滞在したことはないが、それでも1カ月とか一カ月半とかを過ごしてきた。けれどミラノには行ったことがないんですよね。
ロンバルディア州には行ったのだが州都であるミラノは一度も足を踏み入れたことがないのだ。トリノとミラノはなぜか縁がない。
だからミラノの天候は、須賀敦子の「ミラノ霧の風景」にあるように、冬の霧くらいしか想像できなかったのだが、いやはや、大変な天候の土地みたい。
9月になると秋雨が長く、10月に少し止むとすぐに冷たい風。そして冬になると霧が空を暗くし、みぞれや雪に変わる。朝などは零下となるそうだ。
この寒さが半年続いた後、瞬時の春には視界が曇るほどの花粉が舞う。
「花粉は集まり玉となって路上を転がり、浮いて飛び、屋内にまで入り込んでくる。連れ出された犬たちの鼻は、花粉まみれで真っ白だ。」というから凄まじい。
アレルギーでない人でも、くしゃみや咳が続くと言う。
夏になるとすごい湿気。背後にアルプスを背負っているので風が通り抜けないので、その湿気と熱気はどこへも行き場がないのだとか。

それには慣れたとは思うが、著者はミラノを離れ、海の傍に引っ越そうと家を探したが、海の傍は観光客が騒がしいと言われ、山の中の一軒家を買い移り住んだ。
最初は携帯電話の電波も届かなかったが、近くの過疎の集落を外国資本が買ったため、便利になったそう。
住む人がいなくなった丘の上の村全部を、そうした外国資本の会社が買って、家屋や道や設備を修復し、イギリス人やドイツ人に売りだすためだ。
そういう需要はあって、どちらにとっても悪い話ではない。
日本でも過疎や空き家が問題になるが、日本の場合はイタリアほど凝縮した集落ではなく、田舎では家が点在しているので難しいかもしれない。
丘全部を買い取ってきれいに修復すれば、それはそれで景観が保たれる。
しかも新しくピカピカの新建材の建物を建てるのではなく、昔のような石やテラコッタをそのまま使っての修復なのがいい。
イタリアのそうした村はどんなに小さくても、大きな町とほぼ同じ機能を持っていて、広場があって、協会があり、役場のような人があるまれると建物があり、もしかしたらbarもあるかもしれない。
外国人が住むだけでなく、近隣の大都市の住人の別荘地としても利用できる。私たちが車で走っていても、ローマ近郊にもそういう小さな丘の上の集落をたくさん見かけるようになった。
そういうところにはアーティストとかも多くて、文化的にも新しさと旧さがうまく共存する新しい暮らしが生れているようだ。

これから内田洋子さんの本を少しずつ読んでみよう!
posted by 北杜の星 at 07:14| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月05日

NHKスペシャル班「血糖値スパイクから身を守れ!」

最近私の友人が糖尿病予備軍と医師から言われ、糖質ダイエットを始めた。
パン・米飯・麺類を減らす食事を心がけるようになって2カ月近く、目に見えてほっそりしてきた。
パンは糖尿病専門医江部先生ご推奨の製品を「値段が高いのよぉ」と言いながら購入し食べている。
(でも彼女、スウィーツは食べてるんですけどね)。

また友人のご主人は長年の糖尿病を放置していたためか、脚を切断、失明寸前となってしまった。
目が見えなくなったら私のように点字をならうといいよと言ったら、感覚も悪くなっているので指で点字を読むことは難しいらしい。
(余談だが切断した脚は病院で処置してくれるのではなくて、書類を携えて、火葬炉に持って行ったのだそうだ)。

健康診断で血糖値を測るが、それは空腹時の数値。
しかしその数値が基準内であっても安心はできない。むしろ重要なのは「血糖値スパイラル」の方なのだそうだ。
「血糖値スパイラル」とは食べた後の血糖値のことで、食後1時間半から4時間くらいの間はぐんと血糖値が上がり、それ以降は急降下する。
その繰り返しを重ねていると、心臓病や脳血管系疾患や認知症の原因となるという。
そしてこの血糖値スパイクは若い人にも多くみられ、これが近い将来、糖尿病患者となるのだそうだ。

少し前まで、日本の糖尿病患者の治療としては、とにかく摂取カロリーの制限をすることが大切だと言われてきた。
でも糖尿病は糖の代謝が悪くなるのだから、それはおかしな話しだと私はずっと疑問に思ってきた。だから京都の江部先生の持論の糖質除去論を10年くらい前に知った時は、糖尿病ではない私が「そうよ、その通りですよね」と大賛同だった。
このところ、カロリーではなく糖質除去食事が推奨されるようになってきたのは、当然のことだろう。
でも病気になってからでは遅い。その前に予防することが大切。

この本はNHKスペシャルで特集された番組を書籍化したもので、番組への反響が大きく、発刊の運びとなったようだ。
それほど糖尿病は日本人にとって国民病となっている。
糖尿病が怖いのは、あるゆる体の部分に合併症が起きるからだ。
糖尿病は遺伝が関係していることが多いので、家族に病歴のあるひとはより注意が必要だろう。
若年や子どもの糖尿病も増えている。
痛くも痒くもない病気だから、いろんな合併症が出るまで真剣に対応しない人も多い。

なるべく糖質を控える。砂糖を摂る時は精製されていない白くないものをせめて選ぶ。
(日本の食事って、砂糖やみりんなど甘味調味料をよく使うので、それも考慮に入れたほうがいいと思う)。
炭水化物も精製されていない黒いパンや玄米。
食事のさいは、食べる順序を考えて、まず、繊維の多い野菜を、それから肉や魚を、そしてご飯やパンという順序で食べると、血糖値の急激な上昇が避けられる。
食事の間隔を空けないこと、規則正しく食べること。
睡眠不足だと血糖値は上がるそうだし、ストレスも関係する。

「親が死んでも食休み」なんて言葉があるが、それもダメ。
食後はチョコチョコ動くべし、そのほうが血糖値が上がらない。食後なので激しく動くのはNGですが。
そうそう、ゆkっくり食べることも血糖値を急に上げない秘訣だ。
(私、食べるの速いんですよね。お客さまの時には、一皿出して自分も食べて、すぐに次の料理を準備するために、どうしても食べるのが速くなるんです。最後のデザートとお茶のときにようやくほっと一息、ゆっくりできる)。

この本には血糖値スパイクの危険度チェック事項があって、それに印をつけて合計すると、私たち夫婦は危険度「低」と出た。
でもちゃんと医療機関で調べたわけではないので、正確かどうかは不明。
もしきちんと調べたいなら、「糖負荷試験(OGTT)という検査を受けてみてはいかが?
posted by 北杜の星 at 08:03| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月29日

浅田次郎「帰郷」

戦争で大切な日常を奪われた人生を描く6編の短編集。

戦争を扱った小説や映画に接するときには、気をつけなければならない。
戦争の苦労をお涙頂戴でこれでもかと描くものには、とくに注意が必要だ。
それらはともすると戦争の悲惨さを前面に出しながら、じつは戦争を美化するものもあるからだ。(あのH氏の小説なんて、そうですよね)。
さいわい、私にはそういうものに対するちょっとした嗅覚があって、というか元々が疑い深いし批判精神も旺盛なので、「胡散臭いなぁ」と感じてしまうところがある。
まぁ、本能的なものかもしれない。

しかし浅田次郎の反戦小説はホンモノのような気がする。
根っこのところで信頼できる反戦小説を書く作家だ。
「でも、ハッチさんのこのブログで、浅田さんを取り上げたことって、ないじゃない?」と言われると、そう、その通りです。
嫌いなわけではない。まったく読んでこなかったわけでもない。
なんというか、私の好みからすると、ほんの少しエモーショナルなところが強すぎるんですね。
それに浅田次郎は大流行作家さん。私なんかが読まなくてもたくさんのファンを持っているから、そうした人が彼の小説について書けばいい。。そう思ってあえて書かずにいたところがある。

でも久しぶりに読んだ浅田次郎。
表題の「帰郷」は、終戦後の街娼と帰還兵の出会いのお話しだ。
どんな事情か新宿の闇市のそばで客を引く女。うずくまって煙草に火を点けているところに一人の男が声をかける。
客としてではなく、男は女に自分の話を聞いてくれと言う。
彼は信州のある場所の大地主の跡取り息子の庄一。
父親が手をまわして兵役を免れていたが、結局は戦線に送られ、玉砕の戦地から生きて日本に戻れた。
残してきた美しい妻と娘、出兵したとき妻のお腹にいたまだ見ぬ子どもに会うのだけを願って、故郷に帰ろうとするが、到着した駅で偶然会った義兄からとんでもないことを知らさせる。
故郷では庄一は死んだことになっていたのだ。
誰を恨むわけにも憎むわけにもいかない寄る辺なさ。
居場所を失った女と男の行く末は。。

といういのがあらすじ。
ええっとですね。悪くはないんです。悪くはないんだけど、どこかで読んだことがあるようなストーリー。
ゆっくり進んできた話が最後の2ページでトトトッとすごい速さでエンディングなってしまうので、余韻が残らなさ過ぎる。
他の短編も悪くはないんだけど、やはり知っているお話しのよう。。

でも戦争を描くのは大切なことだと思う。
戦後70年以上経過して、戦争体験のある人たちがめっきり少なくなり、戦争が風化しつつある現在、戦争について考えることは必要だ。
戦争はなぜ起きるのか?戦争はなぜいけないのか?
そしてこの「帰郷」に描かれる人たちの戦争によって失われるものの大きさを。
そういう意味でこの本、読んでよかったです。
posted by 北杜の星 at 07:22| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月17日

牛久保秀樹・村上剛志「日本の労働を世界に問う」

日本人は昔から働くことを美徳と考えてきた。
たしかに一生懸命働くことで経済が発展し、この国の人々の暮らしは楽になった。
でももう、そんなに働かなくてもいいじゃないか?
ましてや過労死するまで働くなんておかしい。
疲れたら休まなくっちゃ。

・8時間労働制
・労働の「結社」の自由
・週休制
・児童労働の禁止
・同一労働同一賃金
・・

上記してあるのは第一次世界大戦後につくられたILOの条文である。もう100年近く前のものだ。
ILOとは「国際労働機関」のことで、世界の労働者の生活水準の向上、労働条件の基本的人権の向上などをはかる国際組織である。
世界中を見わたせば、上記の項目がすべて実施されているのではにのは明らか。
この本のサブタイトルは「(日本が)ILO条約を活用する道」というもの。ということは100年たってもまだまだ日本でILO条約が守られていないということだ。

今年になって政府は経団連との協議で、残業時間の上限を決定した。
なんとそれが、一カ月100時間!
上限が決められただけ「進歩」と評価する向きもあるが、トンデモナイ。
これは政府が「過労死せよ」と言っているようなものだ。

労働時間だけではない。非正規雇用、賃金の不平、解雇の横行など不当労働行為がたくさん起きている。
労働組合は以前ほどさかんでないので、誰も守ってくれない。
自由に生きるために働くのが本来の目的のはずなのに、労働に自由はないし、長時間労働の果てにあるのが過労死、ウツの発症だとすれば、なんて悲しい人生なのだろう。

でもこれは経営側だけの問題だろうかと、私は日本人を見て疑問に思うことが多い。
有給休暇が権利として認められていたり、育児休暇があるのに、それを利用しない人がたくさんいるからだ。
それは「権利」ではない。これまで誰かがそれを得るために働きかけ闘って得た貴重なものなのだ。そう考えれば「権利」ではなく「義務」なのではないか?
ヨーロッパでは「休まなければならない」という義務なのである。

私は言いたい。
日本の労働者、とくに上に立つ役職者になればなるほど、休暇をとるべきだと。
そうでないと下の人は上司に遠慮して休めない。
残業をしたり、休日返上で働く勇気より、帰宅する勇気、休む勇気をみんなで持てばいい。

自営業の人でも、ヨーロッパでは長時間店を開けたり夏休みもとらずに働いていると、客や近所の人たちの顰蹙をかう。
抜け駆けのように働くことはけっして美徳ではなく、恥ずかしいことなのだ。
そういう意識を日本人が持てるようになれば過労死はなくなるのだろうけど。。

そういう意味で私の夫はちょとリッパだった。
若い頃10年近くイタリアで仕事をしていたので、働き方がイタリア風になっていて、残量はしない、きっちり休むを徹底させていた。
打ち合わせを午後1時からと設定されると「それではランチの時間がなくなると、1時半とか2時からにしてもらっていた。
NOと言える人。奴隷にならない人。追従しない人。それだけは褒めてあげたい。
そのため収入は自営であってもそれほどではなかったが、人生を大いに楽しめたし、なによりありがたいのは体に負担をかけていないので、70歳を過ぎてもとても元気。
高血圧、糖尿病、痛風、高脂血症などの成人病とも無縁。
人間の体と心は自分で守らなければ誰も守ってくれない。
社会を変えるには自分の意識を変えることも必要なのではないだろうか。
横暴な雇い主には全員で団結して「NO」と言えるようになればいいと思うのだけど。

私が毎月お世話になっている美容師さんは、あまりの忙しさにお昼ご飯を食べられないことが多いらしい。
食べても4時とか5時になるという。
お願いするときにいつも「もう、お昼食べた?」と訊ねるのだが、「食べました!」と言う時も、立って食べてるみたい。
昼休み1時間をちゃんと取れないないなんておかしいと言うのだけど、「こんなものなんですよ」と当たり前のようにあきらめている。
雇い主のなかにはヒドイのがいて、天気が悪く客の入りが悪いと予想される日には、アルバイトの人に「今日は来なくてもいいわよ」と電話をかける。
こんな不当労働行為をされたら、労働局に通達するべきだと思う。
雇う方も雇われる方も「労働とは何であるか」を考えなくてはいけない。

この本にはILOの理念と実践活動が述べられている。
でもまだまだ、児童労働は行われているし、先進国の日本の労働でさえこうなのだから、国際機関の役割の脆弱さを感じてしまう。
だけどモデルがあるのとないのでは、やっぱり違うから、ILO,頑張ってほしいです。
posted by 北杜の星 at 08:05| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月11日

内田輝和「おしりの筋肉がすべてを解決する」

いろんな健康本が出ていて、それぞれ鍛えるべきところを教えてくれる。
それらすべてを実行していたら、一日が終わってしまいそうなくらいだ。
今回は「おしりの筋肉」ときた。
おしりねぇ、、私のおしり、垂れてるなぁ。

自慢じゃないけど、若い頃の私のおしりはちょっとご自慢だった。
あのプレイボーイで鳴らした山城新伍さんと青山のスーパーで出会った時、「あなた、カッコイイおしりだね」と言われたことがある。もう40年以上も前のこと。
「あぁ、このひと、こういうふうにナンパするんだな」と笑ったけど、あの当時が私のおしりの絶頂期だった。
今は筋肉がないためなのか、細身のパンツを穿くのがはばかれる。
太いパンツはどんなにおしりが隠れても嫌いなので、お尻をカバーする長いカーディガンをはおるようにしている。
(太いパンツを穿くとより太って垂れるような気がするし、第一、身につけていて気持ちがシャンとしないので嫌い。太っ人ほどきちんとした服を着るほうが良いと私は思う)。

著者によると、おしりの筋肉がないために起きる疾病はじつに様々だとか。
腰痛、膝痛、首の痛み、骨粗鬆症、脊柱管狭窄症、尿もれ、頻尿、冷え症・・
現代はおしりの筋肉を使わない時代なのだそうだ。昔の日本人は下駄を掃いていたが、あの下駄で歩くというのがお尻の筋肉には良かったらしい。
そもそもこんなにおしりが発達したのは人間だけのようで、どれほど人間にとっておしりが大切かを、この本は説いている。

これを読んで大いに反省したことがあった。
それは「坐りかた」である。
最近の私の坐りかたは、仙骨ちかい後ろに重心を置いて坐ることが多い。
しかし坐るのは「坐骨」で坐らなければいけないそうだ。
坐骨というのだから、その骨は坐るためにあるのだ。坐骨はおしりの真ん中あたりのとがった骨。
確かにそこで坐ると、姿勢がぐんと良くなり背中が伸びる。
悪い姿勢は脊柱管狭窄症や坐骨神経痛の原因となる。
私の周囲でも、脊柱狭窄症で手術を繰り返す人や、坐骨神経痛のために足が痺れるという人が多くなっている。
幸いなことに私たち夫婦にはいまのところ、そういう症状はないのだが、今後おこらないとも限らない。
太らないこと、姿勢をよくすることが肝心。

おしりの筋肉アップはそう難しくはない。
うつ伏せに寝て、バタ足にするだけで、おしりの筋肉は鍛えられるという。
問題はそれを持続させること。
それができないんですよね。。
だけどご褒美が付いているのなら続けられるかも。
それは、筋トレをした後に甘いものを食べると筋肉がつきやすい!というのだ。
これは目からウロコで、読んだ後も「本当?」と疑ってしますが、たんぱく質と共に甘いものを摂るといいらしい。
牛乳とどら焼き(半分ですよ)とか。

括約筋を鍛えるのもいいですよね。おしりの穴をぎゅっとすぼめる。尿モレにもいいし、おしりの筋力アップにもなる。
これは苦労なくできるのでいつもしている。
だけどこれで私のおしりがかっこよくはなっていないのだけど。。
アンチ・エイジングが嫌いな私、年齢相応のおしりで充分です。
posted by 北杜の星 at 07:33| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月01日

五木寛之「医者に頼らず生きるために」

この本、どこからどかまでがタイトルなのかわからないのだけれど、書いてあることを全部書き出してみると「なるたけ医者に頼らないで生きるために 私が実践している100の習慣」というもの。
長いですね。
これを読もうと思ったのは、先日「足」に関する健康本を読んでいるときに、五木寛之を思い出したから。
というのは五木氏は以前より、風呂に入った時などに足に「今日もありがとう」と語りかけ、指や足裏を丁寧に洗ってマッサージすると聞いていたからだ。
足や手は末端。その末端の疲れを取り除き、ケアすることはとても重要なこと。
しかもそれをするときに、感謝の言葉を語りかけるというのが素晴らしい。

これはいわゆる養生の本なのだが、それにとどまらない。つまりは生きるため、老いるための思想哲学本でもあると私は受け止めた。
自分という人間はこの世に一人だけ。他の誰とも違う存在である。
その自分の健康を守るのは自分しかいない。現代の科学的医療だけに依存していて自分の体は守れない。
(現代の医療的健康管理というのは、検査結果の数値、病気になったら標準治療)、
五木氏はそもそも「病気は完治しない。症状が治まるだけ」と言う。
その治める方法を、医者ではなく自分が自分の「身体語」に耳を傾けようと言っている。

この本、20万部も売れたんですってね。いかにみんなが健康志向かということだろうが、一方で、現代医学に疑問を持っているからかもしれない。
100は多いなぁというのが、私の印象だったが、全然大丈夫。心配することはありません。
無理なことはしないでいい。例えば「ウォーキングが体にいい」と始めて続けられなかったら、「今は縁がないんだ」と考えればいいのだ。いつか本当に自分に必要だったらmその時は続けられるはず。気に病むことhない。

それと五木氏が書いていて、私もじつはここ数年同じことを思っていて、「やはり、こういう考えもあるんだ」と思ったのは、呼吸法に関しての記述だ。
ヨガや気功や太極拳など、世の中に呼吸法は多いし、呼吸法が大事とよく言われている。、
私も50歳から10年以上、呼吸法を習っていた。
でも、あれ、本当にすべての人にとって正しいのかというのが、このところの私の気持ち。
ヨガや太極拳など複雑で難しい姿勢をとったり、覚えるのが大変だったりすけれど、本来、呼吸というのは、意識不明であってもするもので、自律神経がつかさどっている。
だからもっと自然で簡単なものではないだろうか。逆立ちしなければできない呼吸なんて変だ。
五木氏が書くように、呼吸法と長生きは比例しないと思うし、ヨガを何十年もしていても、ちっとも精神に作用していない人も知っている。
つまりは、他人が「良い」と言うのではなく、自分の身体語が「良い」ということを、気楽にすればいいのだと思う。
どこかに行って習ったり学ぶものではなく、五木氏がしてきたように自分なりに考え市場錯誤で見つけるものなのではないか。
「自分のための自分だけの養生法」の確立を、彼はしたのだからスゴイ。そこには研究してきた仏教が大きく影響しているのだろう。

生きることは大変なこと。その大変さを納得し受け止めて、自然に老いていければそれで大成功じゃないか。
医者にかからない五木氏が、どこも悪くないことはないのだ。強い片頭痛、長く持病だった腰痛、さまざまな関節痛・・
これまで問題をたくさん抱えていたからこその「養生」なのだ。
ほんの少し昔まで「人生50年」だった。人間の体が数十年の間にそんなにかわるわけがないのに、今の人たちは、自分が老いない、死なないと思っているのではないか。
私は常日頃から、「アンチ・エイジングなどクソ喰らえ」と考えている。歳をとるのがなぜ悪い?歳をとるのが当たり前。
「生老病死」・・命あるものはすべて同じ。
この本はその覚悟をあらためて教えてくれる。

体に無理をさせないこと。
五木氏の言うように「気休め」「骨休め」「箸休め」を肝に銘じて暮らしたい。
私の鍼の先生が「体を大切にしない人の体になった体が、かわいそうだ」とおっしゃるが、本当だ。
体と心は別々にして、一緒に生きるもの。どちらにも「養生」をしてあげたい。
そして五木氏の言うように、「ナーム・アミータ」(サンスクリット語で「命よ光よ、ありがとう」と一日の始めと終わりに唱えるといい。
「ナーム・アミータ」。。なんて美しい言葉!
posted by 北杜の星 at 07:18| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月27日

色川武大「離婚」

9冊目の点字本です。
次の本を何にするかは、私の点字読みのレベルに合うものを探す必要があり苦心するのだが、今回は「是非、これ」とすんなり決まった。
というのは、友人夫婦の奥さんのほうと話していて、何かの話しの続きで「色川武大って、私の理想の男なの」と意気投合したからだ。
彼女の夫は外資系証券会社の為替ディーラーをしていた人で、彼女も元同僚。
現在51歳なのだが、すでに仕事をリタイア。悠々自適とはこのことかというほど、気ままに優雅に暮らしている夫婦なのである。
もう一生働かなくてもいいだけ、これまで働いてきたのだろう。
一緒に高級レストランに行っても、夫はテーブルで眠ってしまい「本当に、私、どうしていいかわからなかったわ」と彼女は今では笑うけど、そんなに大変に仕事をしてきた人だ。
その彼女は「私、博打をしない男は嫌いなの」と。
まぁ、為替ディーラーというのも一種の博打打ちのようなものか。

じつは私も彼女と同じ意見。
博打をする男って、どこか色気を感じてしまう。
だからといって私は小心者なので、博打打ちを夫にする勇気はない。傍から見て「あぁ、いい男だな」と他人事のように思うのが関の山。
そういう意味で、色川武大は私にとっては理想の男像に近いのだ。
もちろん単なるおバカなギャンブル狂いではないのは当然のことです。

「離婚」はもう40年も前の直木賞受賞作品。
私小説と思われるように、主人公は40代後半のフリーライター。
妻と離婚したが、つきあいは続いてい。どころか結婚していたときよりも「元女房」に対する想いが強く、元女房も夫に経済的にも精神的にも依存している。
つまりは「腐れ縁」なのだが、男と女の深淵がそこにはあって、「あなたたち、もう別れるなんてできないのよ」とその関係に悲しさとともにどこか安堵感を持ってしまう。

生活態度はだらしない、経済観念はゼロ。ワガママ自分勝手・・
まぁ、女としては魅力的かもしれないが、女房としては失格。
でもそんな元女房を前に主人公は自分も同類ではないかの自嘲がある。
彼女がそんな女だったのは「私を妾にしてよ」の最初の言葉でもわかっていたはず。彼女も彼女なりに彼を見捨てられない何かを感じていたのかもしれない。

Pity is aking to love,
夏目漱石は「三四郎」のなかで、「かわいそうだたぁ、惚れたってことよ」と訳したが、そういうことなんだろうな。
つまりはこれも「愛」なのだとしか思えない。
だからこそ、悲しみも面白みもあるのだ。軽妙なタッチで書かれているからこそ、それがより伝わってくる、
他に「四人」「妻の嫁入り」「少女jたち」が併載されている。

「少女たち」の冒頭で主人公が牛込納戸町の豆腐屋に豆腐を買いに行く場面がある。
この豆腐屋は私が以前住んでいた市ヶ谷砂土原の家のすぐ近くにあって、私もよく買いに行ったものだ。
小さい店だが、美味しい豆腐を売っていた。
色川武大の実家もその豆腐屋から近い牛込矢来町(新潮社があるあたり)だったので、あの周辺の店を知っていたのだろう。
もうずいぶん前にその豆腐屋はなくなったけれど。

それにしても作家の家族にはなりたくないものだ。
何を書かれるかわかったものではない。
じっさいに色川の奥さんの孝子さんはこれを読んで、自殺も考えたそうである。
「あることないこと」を書くのが作家とはいえ、つらいですよね。
posted by 北杜の星 at 07:34| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月26日

岩崎啓子・石川みずえ「ちょっと具合のよくないときのごはん」

病院に行くまでもないけど、どうも胃の調子が悪い、なんだかオシッコの出が少ないし体がむくんでいる、飲み過ぎた・・なんてことが日常にはよくある。
少なくとも、私にはよくある。
病院へはよほどのことがない限りい行きたくない私なので、そういう時のためにどうすればいいか?は大切だ。

具合が悪いときには、「食べない」に限る。
風邪をひきそうだから体力をつけるためにたくさん食べようと考える人がいるが、あれは大間違いだ。
なぜなら、消化にはすごいエネルギーが必要で、体が弱っている時にたくさん食べると、そっちの方にエネルギーを使われてしまって、体の回復するエネルギーが少なくなるからだ。
若い頃ならそんな無茶もできるが、中高年になると、そんなことは止めた方がいい。

動物を見るとよくわかるが、彼らは具合の悪い時には「食べない」。食べずにひたすら体を休める。
人間もそれを見習う方がいいのではないだろうか?
ただでさえ中高年になっての美食や過食は、内臓だけでなく筋肉や関節にも悪影響を及ぼすという。
私は食べることにイヤシイ人間だが、一つだけ実行していることがある。
それは「食べない」こと、食べないでお白湯を飲むことの二つ。
これがとてもいんですよ。

けれど仕事をしていると、まったく食べないわけにもいかないだろう。長期になるとなおさらだ。
そんな時に、この本は何をどう食べればいいかを教えてくれる。
管理栄養士と医学博士の著者たちが、料理法を含めて紹介してくれている食品と料理には、昔ながらの知恵が詰まっている。
こういうものなら安心して体に取り入れらやすい。

症状別に書かれているのもわかりやすい。
目の疲労には人参。オシッコの出が悪い時には小豆、便秘にはおからやきのこ・・
ごく普通に手に入る食材なのが助かる。
食べものなので即効があるとは限らないが、食物繊維などは目に見えて効果がああるし、小豆も効果てきめん。
なによりも、薬と違って副作用がないのがいい。
「甘いものを食べても、本当の疲れはとれない」など、10のコラムには「なるほど」の説得力がある。

これから季節の変わり目。
自然の新陳代謝に体力が追いつかない日々になることもあるので、この時期は注意が必要です。
この時期に無理をすると、体だけでなく精神の不調も起きてしまいます。
お互い、気をつけましょう。
何度も繰りかえしますが、「食べない」ことも大切です。
間違っても「元気をつけるために、焼き肉、食べよう」なんて考えないこと!!
posted by 北杜の星 at 07:25| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月25日

今村夏子「あひる」

今村夏子はいま私がもっとも気になる作家だ。
「こちらあみ子」のあの空気感がここにも漂っている。
この空気感をどう言葉で表現すればいいのか、「読んだらわかります」としか言いようがない。
ちょっと見には、ほのぼの、ふうわり。けれど底には残酷さ、恐ろしさ。
グサリと直接的ではなくて、じんわりといつの間にか深い傷となっている。

ほとんど引きこもりのように、医療関係の資格取得のための勉強をしている若い女性の「わたし」の家に、あひるがやって来た。
「のりたま」と名付けられたあひるは、通学路の小学生たちの人気の的となる。
あひるを見に来る子どもたちは、やがて「わたし」の両親の歓待を受けて、家に上がり込むようになる。
けれどあひるは衰弱しどこかへ運ばれ、戻って来たあひるは前とは違うあひるようなのだ。
それが繰り返されるが、両親は動物病院に連れて行くでもなく、ただ「祈る」のみ。そして新しいあひるについては誰もが口に出さない。

不気味である。恐ろしい。
「わたし」は両親から顧みられない無視された存在だ。
両親は弟の子、孫を待ち望んでいるが、その代替として小学生たちを異常なほど歓迎する。
それを傍観する「わたし」の感情は説明されていない。

しかし、3羽目のあひるが死んだとき、「わたし」はあひるの死骸を抱きかかえて、丁寧にお湯で洗ってやる。
その行為が哀切だ。
しかしここでも「わたし」の感情に対する説明はない。
この小説の中で「説明」があるのはただ一度、子どもの誕生日祝いに大量のご馳走を作ったのに、誰も来なかったその夜中に、一人の男の子がやって来てそのご馳走を食べて帰ったところにだけ、「わたし」の両親とあひるへの「気持ち」が書かれている。
(小説として、ここはある方がいいのか、ない方がいいのかは判じかねる)。
何気なく、すらすら簡単に読める作品だ。
横たわるものの深刻さに気付かないかもしれない。でもこれ、「こちらあみ子」よりある意味スゴイと思う。
芥川賞の候補となったが、確かに受賞には弱い部分があるかもしれないけれど、今回受賞の「シンセカイ」よりいい。
寡作かもしれないけれど、彼女は「書けるひと」だと思います。
次回の作品がどう出るか、とても楽しみ!
posted by 北杜の星 at 07:27| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする