2017年07月14日

新郷由起「絶望老人」

若い世代に較べてシニアは優雅な老後と言われてきた。
戦後日本の経済発展を支え働いてきた人たちだから、年金も貯蓄もたっぷりあって困ることはないと。
しかしこの本を読むとその世代であってもまさに「絶望老人」の道を歩いているのがわかって恐ろしくなる。
そこには社会的要因も当然あるのだが、「老いる」ことの悲惨そのものが横たわっている。
でもそれははたして「自己責任」なのか?「自己責任」を問うだけで解決できるのか?
つくづく、老いることの難しさを感じさせ暗澹たる思いになる本だが、だからこそ、読むべき本でもある。

老人を狙う詐欺が多い。
他人が騙すならまだ「あり得ること」だが、血縁にも注意が必要なのだそうだ。
強欲な子どもたちもいるし、他にも無心を迫る親族もいる。
他人なら断れもしようが、身内であればむげにはできない。
ずるずるとしているうちに、老後破綻してしまう。。

私たち夫婦には子どもがいないから、最期は老人施設でと割り切っている。
それを「不幸」と考えるひとたちもいるのはわかっているが、子どもがいるからといって「同居」というのは都会では難しい。
二世代。産世代住宅が建てられたとしても、だからといって同居がスムーズにいくとは限らない。
むしろ「子どもがいるのに」ということにもなりかねない。
その点、最初から子どもがいないければ、それだけの覚悟が生まれる。
ここにも書いてあるが、「同居は地獄」「施設は天国」との事実があるそうだ。

じっさい老人施設に入居すると長生きするらしい。
温度調整はしっかりしてあり、食事は栄養士が考えてくれ、水分も時間がくれば補給してもらえるので熱中症の心配はない。
適度なリハビリ運動はあるし、趣味のサークルだってある。時々コンサートなども行われる。
絶えず人との交流があるので孤独ではない。
だから長生き。保証人の子どもなどの方が先に亡くなることもけっこうあるらしい。

もっと高級な老人ホームだと、これはもう至れり尽くせり。
だが入居者の顔には精気がなく、会話もないという。
長生きはしても認知症の可能性が高くなる。

(私たちは老人ホームに入ると決めているが、それをある女性に話したところ彼女は「うーん、私は食べることは一生自分でしていたいな」と言った。
その言葉は私の胸にグサリときて、「そういう考えもあるし、それが「生きる」ということかもしれないなと考えさせられた。)

男性の独居は女性と較べると悲惨だ。
居場所がなくて安居酒屋に入り浸り、果てはアル中。
独居ではないが、私の友人女性は夫婦仲が良くなくて、彼女は外出好きで毎日を楽しんでいたが、夫は退職後友達もいなくて毎日朝からお酒を飲んでいた。
それが15年以上続いて結局夫はアルコール性の認知症になってしまい、施設入居後1年で亡くなった。
せめて夫婦の仲が良ければ、一緒に旅行したり食事に行ったり、そんなことをしなくても、家のなかで豊かな会話があれば、アル中なんかにならなくてすんだのではないだろうか。

老いたら、夫婦仲が良いのがなにより一番。
もしも健康を失ったとしても、夫婦間に愛情があればなんとか通り抜けられると思う。
どちらかが逝ってしまった場合は、いかに孤独に強いかが問題となると私は考えている。
依存心をできるだけ少なくし、一人でいることを楽しめる人間でありたい。
そして少しでもいいから、他人に「してあげること」があれば幸せだ。
人間は迷惑をかける存在だ。だから「してもらう」時もある。それと同じくらいの「してあげられる」時があればいいと思う。
それが大袈裟ではなく、社会と繋がることだからだ。

詐欺事件の被害に遭う老人って、寂しいのじゃないかな?
この中で取材されている老人も「電話がかかってくるのがうれしかった」「来てくれるのが楽しかった」と言っている。
一人で誰と喋ることもなく暮らしていると、話しかけてくれる人が「天使」に見えるのかもしれない。
気をつけなくっちゃね。
posted by 北杜の星 at 07:37| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月13日

篠田節子「夜のジンファンデル」

ジンファンデルって何だ?と思っていたら、ワインのための葡萄の品種のことだそう。
これは篠田節子の短編集だが表題を除くと、全体に流れる空気は不穏でどれもホラーっぽい。
表題だけが恋愛もの。
ホラーといっても岩井志麻子のような土着的なおどろおどろしさではなく、人間の心の底に巣くう恨みなどのマイナス感情があぶり出されている。
私、ホラーが好きなんです。ミステリーはラストのつじつま合わせが「そりゃ、ないでしょ」というものがかなりあって、どうも私の性に合わない。
でもホラーにはどこか人智を超えるものに対する畏れが感じられて、いいんです。

今回のこれ、15冊目の点字本。
点字でホラーを読んだらどう感じるかの実験のつもりだったのだが、皮膚感覚って怖いです。目で読むよりもっと怖かった。
ちなみに私の点字の最終目的は町田康と笙野頼子。
町田康のあのはちゃめちゃな文章が指ではどうなるか?笙野のシュールさはどうか?
彼ら二人が難なく読めるようになったら、自信がつくと思う。それも長編がいいですね。

この本のなかでは中編の「コミュニティ」がもっとも印象的だった。
作品としての読みでもこれが一番。
この本は文庫本化されているが、その文庫本には「コミュニティ」とタイトルが変更されているらしい。

一人息子がアトピーで病院通いすることが多くなり、妻は専門職を休んだり早退することが頻繁になってリストラされてしまう。夫も業績不振で給与が減った。
そのため都心のマンションからずっと郊外の古びた賃貸公団住宅に引っ越したのだが、その団地には独特の空気が流れていた。
プライドの高いキャリアウーマンだった妻はその団地の専業主婦たちとは付き合うつもりはなかったが、以前の友人たちから見捨てられ、彼女たちと交際するようになる。
そこでは誰の子、誰の妻、誰の夫という境界がなく、まるで一つのコミューンのようだった。
心地よいのか、気味悪いのか。
迷ううちにも周囲からじわりと囲い込まれていく彼ら。。

不気味なコミュニティなのではあるが、こういうところって案外、プリミティヴな社会の結びつきがあるのかもしれないと、相互扶助の良さもあるじゃない?って感じが読むうちにしてきたりして、ここの住人がそれでいいなら、それでもいいじゃないのという気になる。
男女関係以外においては、そう悪くないかもと考える私がおかしいのか?とちょっと自分に不安になるのだけれど。。
こうしたコミューンって宗教的なものとか、一時流行ったヒッピーの集団とか、似たようなものはあったと思う。

篠田節子の文章は指がよろこびました。きちんとした私好みの硬質な文章でした。
posted by 北杜の星 at 07:38| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月05日

佐藤正午「月の満ち欠け」

佐藤正午という作家はにくらしいくらい巧い。
ミステリーのような構成で「次はどうなるんだろう?」「最後はどこに着地するの?」と、頁を繰る手がはやくなる。
今回の「月の満ち欠け」もそうだった。
胸をわくわくさせならがら一気呵成に読み終わり、ふぅっと一息ついた。

信じる人もいれば信じない人もいる「輪廻転生」を描いている。
(ちなみに私は信じています)。
輪廻転生は何のためにするのか?
それは「想い」を遂げるため。死んだ後も残る愛の想いを成就させるため。

初老の男性、小山内は青森八戸から東京に出てきて、一人の少女とその母に会う。
少女は小山内のことを、それまで一度も会ったことがないにもかかわらず、よく知っていた。
彼の娘瑠璃のことも知っていた。
瑠璃は18歳のときに母と共に交通事故死していた。
瑠璃は小学2年生の時から、知るはずもない歌謡曲を歌ったり、難しい和歌をそらんじたり、突是独りで高田馬場まで電車に乗り出かけたりしていた。
まるで何かに導かれるように。
やがてその謎が少しずつわかってくる。
瑠璃は瑠璃という女性の生まれ変わりかもしれないと。

四代の瑠璃と彼女たちをめぐる相関係は複雑で、こういうのに弱い私にはちょっと大変だったけど、めぐりめぐってのラストでは、面白い小説とはこういうことなんだと堪能できた。
佐藤正午は昔から乱作はしない作家。エッセイは別として小説はていねいに仕上げる。
「身の上話」はベストセラーとなったが、本来は地味なひとだ。
私はあ彼のどこかアウトローっぽさが結構好きで、サラリーマン的でない主人公の小説に惹かれている。
このような輪廻転生をテーマにするとは思いもしなかった。ナイス・サプライズです。

「欠けた月が満ちるとき、喪われた愛が甦る」と帯にあるけでお、愛が甦るまでには4代かかる。。
愛も甦るけど、怨も輪廻転生で甦るとしたら、こわっ、ですよね。
私の夫は「生まれ変わっても君と一緒になりたい、と言ってやればいいんだよ、生まれ変わることなんてないんだから」と言ってるけど、いえいえ、人は生まれ変わるものなのです。
どうするの?本当にまた一緒になっちゃったら?



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2017年06月19日

齋藤勝裕「毒と薬の不思議な関係」

「毒と薬は紙一重」「毒と薬は匙加減」・・など昔の人は毒と薬が表裏一体なことをよく知っていた。
最近では病院で処方される薬を服用し、その副作用に悩む人もいる。そうした人は薬を盲信しているのではないか?
薬には毒という裏の顔があることをちょっと考えてみようというのが、この本。

薬用となる動植物や鉱物は多い。それらは用法を誤ると危険なものだってある。
植物で有名なのはトリカブト。
毒性が強いが、心臓の薬として漢方では古くから使われてきた。
以前通っていた蓼科の家の庭にはトリカブトの紫の花がよく咲いていた。きれいなのだが、切り花で室内に飾るには抵抗感があった。
この本に書かれているのは、薬としてよりも毒としての方が多いのだが、これは「このような毒に気をつけなさい」ということなのだろう。
読みやすく書かれているが、内容は専門的である。
この本が私にとって読みやすい点はもう一つ、大きな活字が使われていること。これはシニアには助かりますね。

毒にはいろいろある。
食べる、触る、吸いこむ、刺される・・
消化器や呼吸器、神経系に作用したりと、毒の及ぶ体の部位も様々だ。

食べものの毒といって私がまず思い浮かべるのは、ふぐの毒だ。
私が子ども時代を過ごして広島では、毎年冬になるとどこかから「ふぐにやられた人がいる」という噂が絶えなかった。
おそらく自分でふぐを捌いた、毒と知りつつ過信して食べてしまったからだろう。
ふぐの毒に中ると、死の直前までずっと意識ははっきりしているのだそう。(それってコワイです)。
魚介の毒では最近アニキサスが問題となっているが、厳密にいえばこれは魚そのものではなくて、魚に寄生する線虫である。
動物にも毒を持つものは多い。カモノハシにはオスだけに毒があり、その毒は犬などの小動物は殺すが、人間には十分でないとか。
もちろん爬虫類には毒ヘビも有名。

他に、カビや菌、ウィルスなど地球上には毒が溢れている。
しかし明らかな毒には気をつけられるが、酒(アルコール)はどうか?
酒は百薬の長と言われ、適量なら体に良いとされてきたが、このところの研究では少量であっても酒は毒という説もあるようだ。じっさいに酒をたくさん飲む人はどこか体を壊す人が多いような気がする、
まぁ、嗜好品と呼ばれる食物は多かれ少なかれ毒なのだと思う方がいいのではないだろうか。

覚醒剤は反社会的な毒物と認定されているが、麻薬には毒と薬の両面があって、癌などの週末ケアに、痛みを除去するために使われるようななった。
これこそ「毒と薬は匙加減」の典型だろう。
自然界の毒は怖いけれどそれ以上に怖いのは「人間のつくった毒」である。
化学兵器、農薬、化学汚染・・これらは解毒が難しいものが多い。水俣病はそのなかでも悲惨な歴史を持ち、その解決に何十年もかかっている。

読めば読むほど、無事に生きて行くのはむつかしいものだなと心配になってくるが、知識を持っていれば回避できることもある。
役立つと同時に、とても興味深い本でした。

posted by 北杜の星 at 07:51| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月07日

紫門ふみ「結婚の嘘」

結婚についての考察は古今東西、じつにあれこれされ続けてきた。
しかし(当たり前だが)、結論はでない。
なぜ当たり前かといえば、結婚が同じであるはずがないからだ。
家族構成が違うだけでなく、現代ではその形態まで異なり、別居結婚もあれば同一性の結婚もあるようになった。
そもそも「結婚の嘘」というのは、「結婚の本当」があると信じていた裏返しなのかもしれないが、結婚に嘘も本当もないんじゃないかな。

私のようなシニアになり、結婚歴ウン十年ともなれば、どちらも相手に多くは望まないようになる。
望んでもムダだし、こちらに望まれるのもおおいに迷惑だ。
おたがいにいい加減なところで折り合いをつけながら一緒に暮らす。。だってそれしかないでしょ。

結婚生活とは冷蔵庫のようなもの。
中に入っている食材で、いかに美味しく料理をするか・・
というのが結婚してすぐの紫門ふみさんの気持ちだったらしいが、20数年の結婚を続けるうちに、そんな甘いものじゃないとわかったとか。
それでこの本を書くことになった。
この本には彼女の結婚生活における固定概念覆したいろんな結婚の「嘘」が書かれていて、これをシリアスに受けとめるひともいれば、笑い話と受けとめる人もいるだろう。

「夫がいい人であることと、結婚生活の不満とは別」とあるが、これは誰もがそう感じているだろうなぁ。
どんなに善人、できた男であっても妻としては言いたいことは山ほどあるはず。むしろ「表面がいいんだから」の気持ちが強いのでは?
ここでなるほどと思ったのは、「妻の不満は永久不滅ポイント」という項だった。
男性というのは忘れやすい生きものだが、女性は言われた言葉一つ、されたこと一つ一つをじつによく覚えているもの。
何十年も前のことが忘れられなくて、ずっと溜まった不満がある日、コップの水があふれるように流れ出す。
定年を迎え、妻から離婚を言い渡される夫にとっては、「なぜだ!」だろうが、妻としては「積年の恨み」なのである。ただ期を待っていたいただけ。
これはどうやら男と女の脳の構造の違いなのか?

結婚式のとき、新郎新婦は神さまや仏dさまの前で誓いをたてる。
「富めるときも貧しいときも、病めるときも健やかなるときも」と。
誰かの小説で読んだことがあるのだが、それは誓わなければならないほど大変なことだからなのだ。
人生、長寿になって、結婚生活も長くなった。
長くなれば我慢するのはけっこうつらい。
いつも夫の悪口を言っている人を見ると、「なんで別れないんだろう」と不思議になるけど、そんな簡単に別れられないのが結婚というのもなのかもしれない。

ちなみにこれも何かで読んだのだが、シニアになって仲良く一緒に旅行をする80パーセントの夫婦に共通項があるそうだ。
それは、寝室を同じくしているということ。
別にセクシャルな意味ではなくて、同じ部屋で寝起きする夫婦には、そうでない夫婦にはない情みたいなものができるのか?面白い統計だ。
ちなみに私たちは寝室は同じ。よく一緒に旅行します。
寝入る前に読んでいる本のことを話したり、寝ている間の相手のイビキなどで健康状態がわかったり、起きた時の顔色をはかったりできるのは、いいことだと思う。

でも私が思うに、悪口にせよ、相手のことを話す間は、夫婦はまだ大丈夫!
無関心がいちばんコワイ。冷めきった関係なら悪口も出ないもの。
紫門ふみさん、そういう意味では心配なさそうですね。
posted by 北杜の星 at 07:18| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月25日

シャルル・ヴァグナル「簡素な生き方」

「お金があればあるほど必要なものが増える」
「情報が多いほどわかり合えなくなる」
「言葉を操るほど信頼がなくなる」
「不要な贅沢で心が鈍る」
「収入≒能力ではない」
・・・

この本の各章にある見出しである。
すべて「簡素な生き方」に繋がるものだ。
じつはこの本、最近出版された本ではない。
120年前にフランスで出版され、アメリカで100万部を超えるベストセラーとなったのだそうだ。

シャルル・ヴァグネル氏は牧師で、ある結婚式のスピーチをしたところ、それを聴いた参列者たちが感動して出版の運びとなったという。
現代の私たちからすれば120年前の暮らしは牧歌的だった気がするのだが、これを読むとそうでもないらしいのだ。
世の中が忙しくなったのは第二次世界大戦が終わり、いろんなことのスピードが速くなり、パソコンやネットの登場でますますスピードが増したからだと思っていたが、もっとその前からだったのだ。
私が思うに、多分、世界が大きく変わったのは産業革命からなのではないだろうか。
産業革命以来、経済が発展し、世界の人々の暮らしの基盤がそれまでの価値観とは異なるようになったためだと思う。
それまでの小さなコミュニティーにあったお金を介さないおつきあいはなくなり、すべてに金銭が介入するようになった。
お金も、お金で買えるモノも、蓄えなくては不安になった。

著者がここの文章の一つ一つには、今を生きる私たちが自分を律し、心を正し、簡素な生き方を取り戻す必要性が書いてある。
そのためにはまず、強い自己顕示欲を排して、無名の存在として生きること。
多くの人が「有名」になることを望んでいる。
たとえば若い子が「歌手になりたい」というのは「夢」かもしれないが、「有名い」になりたいというのは「欲望」だ。
現代はそうした「欲望」が渦巻いている。
必要な食べものを食べる日常に満足せずに、毎日美味しいものを食べたがるのも「欲望」で、これは私の課題です。

でもシンプルな生き方とはなにも貧乏になりなさいと言っているのではない。
自分の持っているもので自分らしく生きなさいということ。
そのなかで「善」なることを少ししながら生きる。。これが「簡素な生き方」。

希望が湧くような、絶望的になるような、私にとってはちょっと複雑な本でしたね。
だって120年前からちっとも変っていないという絶望。
だけどこれを再び世に問おうとするのには希望。
こういうのを読むとやはり、家からモノを減らして、欲望も減らして、シンプルに暮らしたいと思います。
posted by 北杜の星 at 08:08| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月27日

実業之日本社「ブルーガイド 奈良 大和路」

ハッチの不在はまだまだ慣れないけれど、窓の外はポカポカ春の日差し。
いつまでも落ち込んでいたら、あのハッピー・ハッチが心置きなく天国へ行けない。
ハッチが寂しがるし、年老いた彼女を他人の世話に託して出かける気持ちになれなくて、もう3年ほど二人一緒に遠出はしていなかった。
昨年は一泊の近場に4回ほど行っただけ。それも昼前に出かけ、昼前に帰る。。そんな旅行とも言えないあわただしいお泊りだったので、どこか行こうかということになった。

「春は奈良でしょ」と、奈良好きの私が夫を誘うが、「奈良は田舎くさい」と腰が重かったものの、「ハッチを失ってかわいそう」の気持ちがあるのか、今回は「行こうか」と乗り気になった。
それならと、ガイドブックを買うことに。
最初は「るるぶ」を買ったのだ。(名前を出してごめんなさい)。
でも(私が言うのもナンですが)、あまりの品位と教養の無さに口あんぐり。おまけにあのレイアウトの騒々しいこと!
あんなの持って奈良のてくてく歩きはできません。
(東京に住んでいたら、日本橋の奈良のアンテナ・ショップ「まほろば」でいろいろなリーフレットなどもらえるのですけど)。

それでネットでガイドブックを探した結果、これならまぁ許せるかと手に入れたのがこの本。
「てくてく歩き」と銘打ってあるように、電車やバスで巡る旅がメインとなっている。
記事は多くはないけれどざっと見るには十分の内容だし、写真も整然としている。
日本の旅行ガイドブックには「グルメ」がほとんどで、旅というのは食べに行くばかりが目的ではないでしょと、食いしん坊の私でさえゲンナリするくらい、レストラン記事ばかりのものが多いけど、これもまぁ許容範囲だ。
エリア別のそのエリア分けも悪くない。
この本を抱えて奈良を歩くのも、あり、ということになった。
もう40年も前、私が奈良に通っていた頃には、和辻哲郎の「古寺巡礼」を携えていたもので、あぁ、あの頃の私は今よりはずっと賢かったのだなぁと思いますね。

それにしても、日本のガイドブック、もうすこしなんとかならないものか?
フランスにはミシュラン・グリーン・ガイドがあるし、イタリアにはツーリング・クラブ・イタリアーノのガイドブックがある。
どちらも歴史や文化の紹介本として、都会から小さな村まで網羅しつつ、星で見るべき重要性が分類されている。
例えば、★★★なら、「わざわざでも行って観るべし」、★なら「そこに行ったのなら観てみれば」という感じで紹介いしてあるのだ。
ミシュランもツーリングクラブも車での旅行を目的としているガイドブックなので、地図が詳細で、「この道の右側は美しいですよ」のア案内もある。

長い間、ツーリング・クラブ・イタリアーノの日本語版は出版されていなかったのだが、十数年前に「イタリア観光協会公式ガイド」として、日本語版が出た。
イタリア語版と日本語版、両方を持っているが、イタリア版の方が情報量が多いようだ。
最初はチンプンカンプンのイタリア語でも、毎日毎日見ていると、なんとなく意味がわかってくるから不思議。
だからイタリアに行く時には、イタリア語版を持って行く。(前勉強として日本語版を読む)。
旅行していて、同じ本を脇に抱えたイタリア人観光客に出会うと、お互いににっこり親近感が持てるのもいい。
そうそう、このガイドブックにはまったく写真はないのです。
街の地図の上に教会なら教会の絵が書いてあって、★の数によってその絵の大きさが異なっている。
字が小さいのが玉にキズなのだけど、大きな信頼感のもてるガイド・ブック。
どうして日本にはああいう観光本がないのでしょうね。

まぁまぁとは言ったものの、この実業之日本車のブルーガイドに100パーセント満足しているわけではないです。
お勧めのガイドブックがあれば、どうかご教示ください。
posted by 北杜の星 at 08:06| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月21日

公益財団法人ライオン歯科衛生研究所「虫歯100年物語」

先週、夫と二人で半年ぶりの歯の定期検診とお掃除に行って来た。
私はとても気をつけて歯を磨いているのだけれど、それでも「磨き残しがあります」といつも言われてしまう。
でも聞いていると、誰もが同じことを言われているようなので、完全な歯磨きはできないのがフツーなのかもしれない。
この年齢になるとまわりには歯周病で何本かの歯を失ったひともいるが、さいわい私たちには歯周病はないと先生が言ってくれたので一安心だ。

私の幼い頃には虫歯の子どもが多かった。虫歯って寝る頃になると痛むんですよね。
広島の方では歯が痛むのを「歯がうずく」と言ったけど、あのうずきは泣いたものだ。
この本に書いてあるが、明治時代、子どもの虫歯の罹患率は96パーセントだったそうだ。すごい数値である。
それが現在は、子どの虫歯は1本を切っているという。

これは歯磨きいの習慣が根付いたためだ。
朝起きたら歯を磨く、昼食・夕食後にも磨く、そして寝る前にしっかり磨く。
これが虫歯と歯周病予防になっている。
しかしそれだけではない。最近では歯周病は口腔内の問題だけでなく、体全体、例えば心筋梗塞や肺炎、糖尿病などの重大な疾患の原因ともなっているそうなのだ。
歯周病になると細菌が増えて、それが血管を通して体全体に回る。
要介護にならないためにも、口腔内を健康に保つ必要がある。

口腔内の状態を日本人が意識するようになるには、小林富次郎という人の努力があった。
文明開化と言われてもまだまだ口腔内衛生に関しては暗い世の中で、彼は「事業を通して社会に貢献したい」という信念を持ち、歯磨きの重要性を啓発し続けた。
熱心なキリスト者であった彼は事業が成功した後には、「事業収益は社会に奉仕すべき」と社会活動に力を入れた。
学校を出ていない社員には学校に通わせるなどもしたそうだ。

そういうことを書くと、この本がいかにも「ライオン」の宣伝のように思えるが、読んでみるとまったかうそういう印象はない。
日本の歯磨きの歴史いが詳しく述べられていて、とても興味深い一冊である。
歯は大切とは思っていたが、実は歯のことをほとんど知らなかったことに気付かされた。
読ん良かった本でした。

歯科医院でレントゲンを撮りますよね。あれは本当に必要なのか?と疑問がある。
見ただけでは、被せてある歯の内部はわからないかために撮るのだろうけれど、いやだなぁ。
先週行った歯科医院では「2年、撮っていないから」と今回言われてレントゲン室に入らされたけれど、私も夫も二人とも「撮らなければいけないの?」と言ってしまった。
夫婦が同じことをほとんど同時に言うのだから、先生も歯科衛生士さんもたぶん、何か感じただろう。
健診などのレントゲン検査の害って、結構あるんですよ。
WHOでも、むやみやたらにレントゲン撮影いをしていると、癌になるリスクが高くなって、とくに日本ではそれが大きいと最近では言われるようになっている。
posted by 北杜の星 at 07:43| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月24日

佐藤初女「初女さんのお漬け物」

佐藤初女さんが亡くなってもうすぐ1年になる。
若い頃体が弱かった初女さんは94歳の天寿を全うされた。
晩年には最愛の一人息子さんを失うなど悲しいことがあったが、初女さんはそれにも負けなかった。
自分のなすべきことを最期までしつくし、思い残すことはなかったことだろう。

私が初女さんのことを知ったのは、ほとんどの人がそうなように龍村仁監督の「ガイヤシンフォニー2番」の映画でだった。
青森の弘前に「森のイスキア」という施設をつくって、心身の細った人々を迎え入れ、「おむすび」を食べさせて話を聴いて帰すというそれだけといえばそれだけの初女さんは、普通のおばあさんのようでい普通ではなかった。でも彼女自身はそれを特別なことと波考えていないようだった。
「できることをする」そのできることが、「おむすび」だったのだ。
どんな人が来るかわからないのが不安じゃないかと問わた初女さんは「怖いと思う時もあるけれど、でも訪ねてくるのが神様かもしれないから」と言って、いつもドアを開けていた。
私にとっての初女さんの料理はだから、「おむすび」なのだった。

けれど初女さんといえば「お漬け物」という人もいるようだ。
この本にはそんな初女さんファンのために、初女さんの94年の集大成としていろんなおつけ物の作り方が紹介されている。
弘前という北国らしいおつけ物もあるし、らっきょ漬けもある。
赤カブ漬けなどは本当に色が美しい。酢を入れることで化学反応が起きてあの色になるのだそうだが、私にもできそうなほど案外簡単だ。

でも初女さんのお漬け物はやっぱり「梅干し」につきる。
毎年初女さんのところには東北から80キロの完熟梅が届いていたそうだ。
それを一つずつ洗い、水気を拭き取り、塩漬けする。
土用干しは普通は3日くらいだが、初女さんは梅の状態を見ながら1週間も干すという。
毎日梅の入った笊を出し入れするのだ。しかも80キロ分だもの、大変なことだったはず。
「面倒」という言葉が何より嫌いと言っていた初女さん。
どんなに体がきつかろうと、端折る。。なんてしない人だったに違いない。
すぐに「あぁ、面倒」と言う私や、私に輪をかけて面倒臭がり屋の夫にとって、初女さんのような人は神様みたいに思える。

我が家ではお漬け物はそれほど好物ではないので、食卓になくっても全然困らない。(お土産などで頂くと食べるけど、お漬け物って添加物だらけのものも多いんでづよね)。
おむすびや梅吸いのときの梅干しは必要だが、それは友人から毎年頂いていた。
彼女は必ずしも料理上手というわけではないのだけれど、梅干し作りはとても上手で、自分の庭に生った梅を使って作るのだ。
もちろん変なものは入っていないので、しょっぱくて酸っぱい。でもその塩梅がちょうど良い爽やかさで、とにかく彼女の梅干しは絶品だったのだ。
しかも瓶には書をする彼女のご主人が立派な和紙に「梅ぼし」と麗々しく書いてあった。
「あった」と言うのは、残念ながら庭の梅の木が枯れてしまって、梅の実が採れなくなったからだ。
梅の木が枯れることってあるんですね。北側の目立たないところに植えてあったのもいけないのだろうか。

我が家にも南高梅が1本、植えてある。
年々実の数は増えているものの、肥料などなにも施さないので、実は小粒。とうてい梅干しが作れるとは思えない。
(梅ジュースくらいはできる)。
このあたりはもう手入れをしなくなった梅林がけっこうあって、勝手に入って採って来るひともいるようだが、私はちょっとそれはできないので、もし今後梅干しがほしければ自分で買ってつくるしかないかなと思う。
そのときには初女さんの作り方か、友人の作り方を教えてもらうつもりだ。

そうそう、お漬け物の容器も美味しいお漬け物を作る大切な条件のようで、これはある友人が行っていたのだけど、これまではぬか漬けをプラスティック容器で作っていたものを、陶器の甕に替えたら、ぐんと味が良くなったとか。
posted by 北杜の星 at 08:40| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月12日

杉浦さやか「世界をたべよう!旅ごはん」

著者はイラストレーター。
彼女の初めての海外旅行は21歳のとき。バイト代と親からの借金で出かけたヨーロッパ6カ国の鉄道旅行だった。
以来西や東や北のヨーロッパ、アジアなどを巡っている。
この本はその旅先で出会った食べものを、お得意のイラストに文章をつけて紹介したもの。
食べものは高級なものではなくて、B級グルメがほとんど。屋台や定食屋さんの食事が主なもの。
だけどというか、だからこそというか、食べものが活き活きしていてパアワーがあるのが素敵だ。

私も外国に行ったら、そこの土地の人が普段行くようなところで食事をしたいほうだ。
数日間の旅行なら少々高級なレストランの食事もいいだろうが、2週間とか3週間滞在するなら、それでは飽きてしまうし、健康にも悪い気がする。
やはり普通の定食のようなのがいいな。それも現地の人に混じってのご飯が。

イギリスではパブのご飯、パリの学生街でのカフェで軽食、ノルウェイでの羊やヤギのハム・チーズ・・
アジアでは中国、香港、ヴェトナム、インドネシア、スリランカなどのこれも気取らない現地食の数々。
この本を見ると、絵が描けるっていいなぁ、楽しいなぁとつくづく思う。
自分も楽しいだろうけれど、旅の思い出として友人に見せるのにも楽しいのではないだろうか。
写真だとなんだか旅の自慢っぽくなってしまって、イヤミになることもあるけれど、イラストなら「わぁ、カワイイ」と無邪気になれそう。
(だけどこの本はイラストがメインなだけあってか、文章が少ないというか、食べものにまつわるエピソードの記述がもっとあってもよかったように感じるのだけど)。

杉浦さんはリゾート地が嫌いだったそうだが、友人の結婚式に参列するためにバリ島に行くことになった。
そのときに滞在したリゾートホテルは中級のリーズナブルなホテルだったが、それでも、素晴らしかったそうで、リゾート地のイメージが変わったみたい。
じつは私たち夫婦もリゾート嫌い。
どんなに素敵なホテルであっても、その中だけで旅が完結するのはどうも物足らない。まぁ、貧乏性なんですね。
でもそれは多分、経験がないからかもしれない。一度行けば案外、病みつきになるかもしれない。
ある友人に「リゾートが嫌いなの」と言ったら、「アナタの家がリゾートみたいなもんじゃない」と言われたことがあるが、確かに、我が家は八ヶ岳の高原リゾートにあり、目の前にドーンと素晴らしい南アルプスが遮るものなく見えている。。リゾート、行く必要ないか。

外国だけでなく日本国内もある。
「B級グルメの聖地 大阪」も出てくる。
そう、大阪は本当にB級グルメいっぱいのところだ。なにしろどこに入っても「美味しい」「安い」をクリアできていなければお客さんは来ない。
大阪はたいてい、どこに入ってもそこそこ美味しい。少なくとも不味くて食べられないところは、まずない。
そこが東京とは違うんですね。東京では美味しいと評判のところなら合格範囲内だけど、「こんなのどうやったら作れるんだよ」という代物を出す店もある。
味のレベルは絶対に大阪の方が上だと、大阪に数年住んだ私は断言できる!

この年齢になって、これまで行ったことのある外国や国内で、「あぁ、アレ、また食べたい」と思うのは、高級料理じゃないのが不思議。
イタリア中部の豚の丸焼きを薄く切ってパサパサのパンに挟むポルケッタ、香港のオカズを乗っけたご飯、広島のお好み焼き、大阪の「インディアンのカレー」(これは今は東京駅にも出店があるようですよ)、博多の丸天やごぼ天を加えた肉うどん・・
思い出すだけですぐにもその土地に行きたくなる。

私は下戸だから、どこに行ってもお酒を自分で注文することはないが、お酒を飲む人にとっては、お酒は旅の大いなる楽しみの一つだろう
イギリスのビール、ベルギーのビール、チェコのビールの味はどう違うのか?
私にはわからないのが残念。

ところで私がこれまでの人生で食べたもっとも不味いモノ・・それはナント、あのグルメの国のフランスはブルゴーニュのレストランでの食事だった。
人間の食べるものとは到底思えない味だった。私も夫も二人とも残したが他の客が全部平らげていたのは、どうしたことなのか?いまもって謎だ。
面白いのは、そういうことだって「旅の思い出」として、一生覚えているものなのだから、美味しいご飯だけが旅のすべてじゃないうことなのかもしれない。
posted by 北杜の星 at 07:56| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月15日

佐藤愛子「九十歳。何がめでたい」

この本、20万部超えのベストセラーだそうだ。
私もだがこれを読む人は佐藤愛子に何を求めているのだろうか?
文壇高齢作家といえば瀬戸内寂聴と佐藤愛子。
二人ともただ元気なだけではない。こうして書くことで(寂聴さんは説法もして)私たちを発奮させてくれている。

元気といってもこれだけ高齢になると満身創痍のはず。寂聴さんは骨折、癌で闘病した。
佐藤愛子だって、大病はしないまでも体の衰えは随所にあらわれていて、急に足の力が抜けてヘナヘナとなったり、3か月前の自分、いや、1カ月前の自分と今の自分が違うことを実感する毎日である。(なにかにつまづいて転ぶのではなく、普通にしていて転ぶらしい)。
それでもやっぱり、佐藤愛子は佐藤愛子なんですね!
日々起こるさまざまなことを面白がり、怒り心頭になり、そのエネルギーたるやものすごいものがあるのだ。
そう、佐藤愛子は熱血漢なのである。

何十年か前まではずいぶんと佐藤愛子を読んだものだ。
彼女の作品の中ではあまり有名ではないが、「幸福の絵」は本当に好きだった。
女学生のときから好きだったある野球選手と恋愛する彼女の私小説なのだが、やさしくても優柔不断な男に対する憤り、もう若くない男女の恋愛事情が哀切を込めて描かれていた。
以前結婚していて莫大な借金を背負わされた前夫にしても、佐藤愛子というひとはつくづく「ダメ男」に縁があったのだ。

しかしそのダメさへの憤怒が書くエネルギーとなった。
書かなければ借金も返せないし、娘二人との生活が成り立たなかったのだから、書くしかなかった。
その愚痴や怒りをぶつけられたのは、親友だった川上宗薫や遠藤周作。彼らとの長電話が大いなる息抜きだった。
その彼らもとっくに鬼籍に入ってしまった。
懐かしく思い出す人たちはもう傍にはいない。
(月日のたつのははやいもので、佐藤愛子のお嬢さんがもう50代半ば。。)

でも佐藤愛子の素敵なところはいつも怒っているだけではないことだ。
熱血漢だもの、喜怒哀楽の人なのだ。
死んだ飼い犬をかわいがらなかったと自責し泣くこともある。
大昔、若い女に貯金通帳を盗まれ当時の貯金全部を騙されて持って行かれ、後の彼女の両親がお金を送って来た時に、そのお金を見るなり「もらえない」と返してしまったことだってある。
そのお金はドロボーの親が(多分)いろんな人たちに借金をし、有り金集めたお金だったのだろう。しわしわの100円札や10円札、小銭などが集められたものだった。
そんなお金はとうてい受け取れない。たとえ自分のお金ではあっても。

そういう佐藤愛子だから、みんな彼女が好きなのだ。彼女の本を読んで、胸のすく生き方に触れたいのだ。
90歳になってもまだまだそも気概を持つ彼女。
「90歳。めでたい!」と大声で言ってあげたい。
神様は強く耐えられ乗り越えられるからこそ、試練をお与えになるのもしれない。
結婚が大変だったのも、北海道浦河の山荘がつきものに悩まされたのも、彼女に乗り越えるパワーがあったからだろう。
誰にお祓いしてもらっても効果のなかった憑きものは、サニワである相曾誠治氏によって解決したというが、そうしたひとと巡り合えたのは佐藤愛子の人間力なのだと思う。
これからももっともっと書いていてほしいです。
posted by 北杜の星 at 07:44| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月11日

桜木紫乃「裸の華」

本を読む楽しみのひとつに、知らない世界を知るというのがある。
今回桜木紫乃の「裸の華」では、ストリッパーの世界を知ることができた。
ストリップについてはこれまでも昭和のいろんな作家たちがその世界を垣間見せてくれているが、ストリッパーの「踊り」をメインとしたものは、あまりなかった気がする。
この本には踊りに命を燃やす元ストリッパーが主人公で登場する。
ストリーの展開については「こうなるんだろうな」が見え見えで、あまり私の好みではないのだけれど、前作「霧(ウラル)」よりは数段いいと思う。読後感も悪くはない。

ストリッパーだったノリカは舞台で怪我をし、舞台を降りた。誰にも告げずストリッパーとしての仕事を始めた北の街か振り出しに戻るつもりで店を始めることにした。
クリスマス・イブの日、不動産屋の男と店を下見し、ここに決める。
店はダンスシアターNORIKAろいう看板で、二人のダンサーを募集するのだが、不動産屋の男が推薦する瑞穂とみのりの若い二人を雇うことに。
驚いたことに不動産屋の男はバーテンダーとしてノリカの店で働くようになった。彼は有名なバーテンダーだったらししが、どういう理由からか東京を離れて北の街に居たのだった。
ダンスシアターNORIKAは、丸顔でいつも笑顔の愛嬌ある瑞穂と、ぶすっとして不機嫌そうな、けれど踊りが素晴らしいみのりの二人のパフォーマンスが評判となり、だんだん客が増えてくる。
しかし二人のダンサーは若い。
恋愛や他からのオーディションのオファーなど、ノリカが店を継続するには問題となるような出来事が次から次へと起こってきて。。

物語より、ノリカのストリッパーの踊り手としての矜持のあり方が興味深い。
ストリップ小屋に集まる客たちの「見たい」という欲望は、裸の女性の一点に集中する。ストリッパーとしてその願いを叶えてあげつつ、でも自分の踊りは踊りとして見せ場を作りたいノリカ。
卑猥な動きの中で、踊りの凄さを見せると、客は「見たい」ことなど忘れてしまって、ただノリカの踊りそのものを見るようになる。
それこそノリカの踊りの真骨頂なのだ。
そこに、下品さだけに陥らない、ぎりぎりの品がある。
もちろんそのためには、踊りのための節制と練習は欠かさない。
客の喜びそうなCDの一曲を選び、自分で振付をし、衣装を着ける。ストリッパーとして気概が生まれる。

ストリッパーの客にも、追っかけがいるんですね。
舞台のノリカに絶妙なタンバリンを振っていた男性が、ノリカのもとを訪れる。死期がせまったその男のためにノリカは踊る。
その男がとってもカワイイ。彼のタンバリンは歌舞伎の「成駒屋ぁ~」という声のようなものなんでしょうね。
バーテンダーの竜崎はいかにもワケアリそうなのだが、そうしたワケはわからないままでいる方が、ミステリアスでいいのかもしれない。

結末がどうなるかは、読んでのお楽しみ。
ストリップ小屋って今でもあるのかな?
昭和の頃には、ちょっとした温泉地にはあったものだけど。

私が覚えているのは、どこだったか忘れたが、小屋のポスターだか看板に、出演のストリッパーの名前が「アンジェラ」とあったこと。
ふーん、アンジェラか。男の欲望を満足させる天使さんなんだな、と、そのネーミングに感心した。
だけど女の私からすると、裸を見るのがなんでそんなにおもしろいんだろ?と不思議なんですけどね。
でもノリカのような踊りの名手のストリッパーさんがいれば、ちょっとその技を見てみたくなるかも・・

桜木さん、初期のような小気味よくてそのなかに人生の悲しさがある、そんな小説が読みたいです。
NORIKAの悲しみも人生もわかるのだけど、私が求める桜木小説ではないみたい。
posted by 北杜の星 at 07:25| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月21日

新保泰英「1日300歩ウォーキング」

この辺り、ウォーキングするシニアをよく見かける。
寿命が長くなり、なんとか死ぬまで健康でいたいという願いが「ウォーキング」に繋がっているのだろう。
じっさいに歩くことは体に良いばかりではなく精神にも良い。最近では歩くことが認知症予防にもなると言われる。

でも問題がある。
良い姿勢で歩くことが肝心。そうでなければ、歩けば歩くほど体のバランスが壊れてしまう。
健康のために歩いているのに、足首や膝、股関節や腰を痛めてしまうのだ。
私の友人にも歩いている人は多いが、長く歩いている人ほど関節が悪くなっているようだ。
ましてやここ八ヶ岳南麓はアップ&ダウンの道ばかり。平坦な道はほとんどない。(なにせ町の名が「長坂」だ)。

それでは良い姿勢とはどういう姿勢か?どうすれば良い姿勢で歩けるのか?
最近の私の課題は「正しく歩くこと」、だからこの本、読んでみた。
まず、歩き方のチェックを。

・膝が曲がっている。(ほとんどの日本人の歩き方です)
・左右に体が揺れている。(太った女性に多い)
・足首を使って歩いている感覚がない。(私もないです)
・猫背になっている。
・全体が力んでしまっている。(歩こうという意識が強すぎる?)
・歩くとき脚の付け根が伸びている感覚がない。(股関節をちゃんと使うということ)。

この本の著者は「足首」の重要性を説いている。
足首が歪んでいると正しい姿勢で歩けないのだそうだ。そしてそれが諸悪の根源。
たしかに足首はあの細い部分で、全体重を支えているものなぁ。
私のように外反母趾だと足首に悪い影響を与えているにちがいない。
足首の歪みを矯正するためには、1日300歩(たった5分)の「新保式ボールウォーキング」をすればいいという。
ボールといってもボールを使うわけではない。ボールが坂を自然に転がるように歩くことが目的。
どうすればいいかは、この本を読んでみてください。
でもまずは、「階段の上り下りはしない」「筋肉トレーニング禁止」を守ることみたいですね。

長い時間歩くと、ただでさえ正しい姿勢でないのが、だんだんもっと悪い姿勢になってしまう。
前かがみになって膝が曲がり、大股で歩けなくなる。
そうするといろいろな故障が発生する。
整形外科系の病気だけでなく、頭痛や胃痛など様々な内科系の不調も誘発するのだそうだ。

私は「インターバル・ウォーキング」で20〜30分を目安にしている。それ以上は歩かない。これはある友人に教えられたのだが、心肺機能も上がるし短い時間だが消費エネルギーは多いし、速足大股で歩けるのがいい。ノルディック・ウォーキングは大股でしっかり歩けるのでいいのだが、まだマスターしていないんですよね。
なにごとにも無理をしないのが旨の私は、今はちょっと歩くのはお休み。家の中でストレッチ。でも涼しくなったのでそろそろまた始めます。
でも掃除や窓ふきなどの家事はしっかりしているので、運動量はまずまずではないかと自己判断していますが。
posted by 北杜の星 at 07:51| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月08日

島田雅彦「筋金入りののヘタレになれ」

相性の悪い島田雅彦のこの本を読んだのは、タイトルに惹かれたから。
なにせヘタレでは年季の入った私、「筋金入りい」とはどんなヘタレかが気にかかる。

でもこの本、ヒドイ本だったなぁ。ますます私と島田雅彦の距離が大きくなった。
軽く読めるにもほどがある。
島田もヘタレなら編集者もヘタレなんでしょうね。
それもヘタレ具合が、どうにも私の気に入らないんだよなぁ。
本物のヘタレはそんなに高みからモノ申さないんじゃないか。エラソーにするな!と言いたい。

まぁ賛同できるのは彼の言うように、世の中が寛容でなくなったことだ。
政治家の失言も、東京都議会委での「産めないのか」のセクハラ・やじのような許せないものもあるけれど、昔なら苦笑でおわったものだってある。
罪を犯したならわかるけど、不倫しただけでどうしてあれほどのバッシングを受けなきゃいかないのか?
不倫を怒こるのが妻や夫やその子どもならわかる。でも赤の他人が鬼の首を取ったように非難するのはヘンだと思う。
つい最近では強姦罪で逮捕された男優はその罪をしっかり償うべきで、どれほどバッシングされてもいいが、母親の会見が必要だろうか?
ましてやマスコミがその母親に、息子の性癖を問うなどなんの意味があるというのか?
笑っちゃうよね。
だって、自分の性癖を母親に話す息子なんているわけないでしょ。そんなこと、いちばん隠したいものでしょ。

私はテレビをほとんど見ないので、最近の俳優や歌手やタレントの名前も顔も知らないのだが、つくづく気の毒だと思う。
人気があって成功していればいるほど、何か不始末を起こした時の反動が強くなって、みんなして叩く風潮になっている。
それってなんなんだろ?結局は嫉妬心からでたものなのか?
そういうことに付和雷同するのだけはご免蒙りたい。

島田さんも、女子大生と大学教授のあれやこれやを考える暇があったら、新しい小説の構想でも練ってください。
そして無駄遣いじゃなかったと思える本を読ませてください。(私はライブラリーで借りたからよかったようなもの、これをお金を出して買った人がいるとは、、)。

posted by 北杜の星 at 07:39| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月24日

サラーム海上「メイハネで中東料理パーティ」

NHKFMに「音楽世界遊覧飛行」という番組がある。
数人のパーソナリティが交代でそれぞれ得意の分野を語り、音楽を紹介するものだ。
そのなかで私たち夫婦が一番楽しみにしているのが、このサラーム海上さん。
落ち着いた静かな彼の語りとエキゾティックな食べものと音楽に、「これはどんな食べものなのかしらね?」「一言も言葉がわからないけど、なんかこの歌いいよね」と言い合いながら聴いている。
そのサラーム海上さんの本をライブラリーで見つけた!

タイトルにある「メイハネ」とはトルコ語で居酒屋のことだそうだ。
サラーム海上さんが初めての海外旅行で訪れたのがモロッコ。次がトルコだった。
人って最初に行った外国に強い印象をもつものだけどサラームさんもきっとそうだったのだろう。
他にもいろんな国々を訪れているが中東にすっかり魅せられ、その味や音楽が彼の日常となった。
音楽評論家、DJ、中東料理研究家として活躍。
彼はレストランやイベントにおいて30人程度の出張料理もひきうけているそうだ。

この本に並ぶ料理のカラフルなこと!
トマト、茄子、インゲン豆、じゃがいも、玉ねぎ、アボカド、ぶどう・・
日本でもたやすく入手できる材料。オリーブオイルを多用するがそれだっていまの日本では普通となっている。
ただハーブやスパイスがちょっと違って、ミントやイタリアンパセリや青唐辛子などがキリリと味を引き締めている。
スパイシーなものもあるがほとんどイタリア料理というか地中海料理っぽい。
私がこの本の料理で気にいったところは、なんといっても料理にパワーが感じられることだ。
チマチマしていない。こねくりまわしてない。変に飾り立ててない。食材が食材としてお皿から香がたちこめているのがわかる。
料理とは野菜や肉の生命を頂くということ。だからパワーがもっとも大切だと私は考えるのだが、サラームさんの料理にはその生命があるんですね。
いいなぁ、こんな料理を食べるときっと元気になれる!

中東を知らない私。
トルコにしか行ったことがない。それも初めてのツアー旅行での10日間。トルコは広大な国だしトルコ語がわからないからツアーにしたのだけど、若かったら個人旅行してたと思う。
決められた食事は不味くはなかったものの、世界三大料理の一つとされるトルコ料理がこんなものではないはずと、食べながら思っていた。
この本を参考に一つずつ作ってみよう。日本流じゃない中東料理が食べられそうだ。
東京でトルコ料理のレストランにも何回か行ったがやはり「こんなもんじゃないんじゃないか」という抑えきれない気持ちがずっとあったのだ。
サラームさんお勧めのCDを手に入れるまで、料理を食べながらアルジェリアの歌手のシェブ・マミの歌を聴くことにしよう。
この本、ライブラリーに返却したら、購入します!

ムスリムではハラルした食材を使う。ハラルとはムスリムの教えに従って処理(修治と日本語ではいうのかな?)すること。
本の後ろにはハラルされた食品やハーブ類が購入できる店が紹介されている。(現在ではネットでも入手可能)。
イタリアンやネパールカレーの他にも、中東料理が我が家の定番お客様料理になる日も近いかも。
ホントにホントに、美味しそうなんですよ、中東料理!

ところで少し意外だったのが本に載っているサラーム海上さんの写真のお顔。
ラジオのソフトなお声から想像するのと違って、すごーくタフそう。
でもまぁ、そりゃそうですよね。中東やアジアなどをメインに旅する人だもの、ヤワなわけないですよね。
これからそのお顔を思い浮かべながら、番組を楽しみましょう。
posted by 北杜の星 at 07:29| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月22日

篠原悠希「狩猟家族」

就職浪人の遼平はニュージーランドの山中で迷っていたろころに、ライフルを持つ少女とその父親に出会った。
彼は彼らの家に泊めてもらい、翌日は彼とともにうさぎ狩りに出かけた。
ライフルの撃ち方を教わり、始末の仕方を習った。彼らは隣のグレタの牧場を手伝うことで家を安く借りているらしい。そ家には少女の姉もいたが、彼女はオタクで狩りはしない。
彼女たちの母親は日本人のようだが、彼らと一緒にはいなかった。
遼平はグレタの家にホームステイすることになった。。

ニュージーランドでの「狩猟」について、細かく取材している。
その狩猟は「趣味」のハンティングではなく、「食べるため」または農作物を守るためである。
もし作者が「狩猟」だけを書きたいのだったら、ノンフィクションでよかったと思うが、これは小説仕立てとなっている。
小説にしたのには作者の書きたいことがニュージーランドの「狩猟」のみに限らなかったからだろう。

作者は生きるために狩りをすることを頭では理解しても、やはりそこは日本人。
無宗教であっても日本人のDNAに組みこまれている仏教の「不殺生」に、どこか縛られているのかもしれない。
父娘のようにスッパリとは割り切れない気持ちを抱いている。

生きものを殺すということ、野生の動物はペットとどこが違うのか・・
遼平は彼らと暮らすことで、自分との違いを少しずつ埋めようとする。
彼自身の家庭の問題もからまって、彼はだんだん「世界」を知り、大人になってゆく。

冒険小説でもあり、青春小説でもあり、成長小説でもあるこの本、なかなか読ませます。
そして読む間、こちらもいろんなことを考えさせられます。
作者はニュージーランド在住とか。
ニュージーfランドを一度も訪れたことのない私には、本のなかの自然に驚いた。ニュージーランドってそんなに自然の土地なのか。
これはニュージーランドでも南島が舞台だそうだ。
ずっと前のことになるが私の友人と一緒に車山高原をドライブした時に、時々ニュージーランドに遊びに行っている彼女が、「ここってニュージーランドみたい」と言った。
「えー、そうなの?!」と意外だったのはニュージーランドは平坦な島というイメージがあったため、車山のような山とか高原というのが腑に落ちなかったのだ。
でもこれを読んでわかった。しっかりした山もあるんですね。
そこには別の私の友人が毎年冬を過ごすクィーンズタウンのゴルフ場とはまったく違う顔があって、ワイルドな生活がある。
ほんの数十年前の日本もそうだったように。
posted by 北杜の星 at 07:36| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月05日

白澤卓「長生きできて、っ料理も美味しい!すごい塩」

よくぞ言ってくれた!とうれしくなる本。
しかもこの著者は元順天堂大学大学院加齢制御医学講座教授である。
私はかねてより「塩は悪くない」とずっと信じてきた。
だって生命は海から生まれたのだ。血液だって汗だってショッパイではないか。
「減塩」「減塩」と世の中はうるさいが、ことさらに減塩した料理を美味しいと思いますか?
塩を適切に摂らないと私たちの細胞は活き活きとしない。
入院患者や老人施設に入所しているお年寄りは、減塩食事を食べさせられてその不味さにますます食欲が減退する。
美味しくない食べものを食べて元気になるとはとうてい思えない。
「塩は怖くない」と、私は大声で言いたい。

しかしどんな塩でもいいわけではない。
専売公社が売っているあのサラサラと真っ白な精製塩はダメ。
あれは化学物質であって、本物の「塩」ではないからだ。
ああいう塩を摂っていると高血圧になってしまう。
だから塩を選ぼう、というのがこの本だ。

海の塩、湖の塩、岩塩・・
それらの塩はナトリウムの他にカルシウムやマグネシウムなどたくさんのミネラルを含んでいる。
日本の土壌は火山灰質なのでミネラルが少ない。だから昔から日本では塩からいものを食べることによって、塩からミネラルを摂取してきた。
また東北地方では塩蔵食品を多食するが、それは東北が寒いからで、塩には体を温める作用があるからだ。つまりあれは自然の摂理。
東北に脳出血が多かったのは事実だがそれは漬物と白米を主として副菜のたんぱく質をあまり摂らなかったからだ。つまり栄養不良だった。
塩がなければ寒さに震えていたことだろう。
反対に砂糖は身体を冷やす。
塩の害ばかりを言いたてるが、私は砂糖の害の方がよほど大きいと思う。

ただ塩に敏感に反応する体質の人はいて、10%から20%くらいの人は塩を多量に摂ると高血圧になるという。
また腎臓疾患のある人も塩分は抑える方がいい。
それ以外では「塩が悪者」という根拠はないそうだ。
著者は将来、「塩は健康に良い」と言われる時代が来ると書いているが、私もそう思う。現代の栄養学はコロコロ変わるからあまり信用しないほうがいい。
立場上「塩は身体に良い」と言いたくても言えない医師がいるのだそうだ。
戦時下においてリンゲル液が不足した場合には食塩水の点滴をして、患者を助けることがあったというし、私は何かの本で読んだのだが、広島で被爆して瀕死の状態にある人に生理食塩水を注射したところ、みるみる元気になったとそうだ。放射能の害を身体から排出するには多量の「塩」を摂ると効果があるときいたこともある。放射能はすごい「陰」なので「陽」である「塩」を多量に摂ることで中和できるらしい。

外食をするときやお惣菜を買うときなどは「塩」に注意しよう。
良い塩が使ってあればそう喉が渇くことはないだろう。
私は塩フリークで、昔から旅行に行くとその地の「塩」を買い求めることにしている。それを知る友人たちは私へのお土産に「塩」を持ち帰ってくれるのだがとてもうれしい。
隔年に南仏カマルグの塩をプレゼントしてくれる友人もいて、これは容れ物のラベルデザインがその都度違っているので楽しみにしている。
これまで私が経験した「塩」で「これは、すごい!」と驚いたのは、山形のアルケッチャーノという著名なシェフのイタリアン・レストランで出た「塩」だ。
そのシェフはオリーブオイルと塩しか味付けに使わないそうで、いかに塩を重要視しているかが、その塩でわかる。
「月の雫」という名のその「塩」は手に入らないのでその代わりに、近くの日本海の藻塩を買って帰ったのだが、それもすこぶる美味だった。
塩は沖縄とか言うけれど、能登とかの日本海の「塩」の方が私は好きだ。なんか深い力を感じる。
ただ日本には本当の意味での「生塩」はあまりないんですよね。釜で煮てつくる塩がほとんど。
「雪塩」というパウダー状の塩があって、あれは煮ないで作るようだが、でも乾燥は電気。太陽に当てるわけでないのが惜しい。(「雪塩」は味は良いのだがすぐに湿気るのが困る)。
この本では「輪島の塩」と「青が島の塩」が紹介されているが、どちらも美味しいです。

「塩」についてはまだまだ言いたいいことがたくさんあります。
どんなに新鮮な野菜や魚や肉を買っても、調味料が悪かったらなんにもなりません。
真面目に作った、アルコール(酒精)などの入っていない、ちゃんとした「塩」を使ってつくった醤油や味噌を選びましょう。
醤油がどんなに高価でも、ガブガブ飲むものではないので、健康のことを考えると安いものです。
不味くて薄い味噌汁ではなく、充分な量の味噌の味噌汁はかえって血圧を下げると著者は言っていますよ。
この本には言い塩を使ったレシピがついています。
posted by 北杜の星 at 07:39| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月12日

桜木紫乃「霧ウラル」

北海道は釧路を舞台に小説を書くことの多い桜木紫乃がここでは同じ道東でももっと北の根室での物語となっている。
私は北海道には一度しか行ったことがない。それも室蘭だけという変わった滞在の仕方なので、北海道の街の位置関係がよくわからないのだが、これを読んで初めて知ったのは、根室が国境の街ということ。
根室から北方領土の島が見えるんですね。
この小説のなかの登場人物の一人は結氷した海を歩いて渡って島から根室に渡り着いている。
その近さに、この小説の不穏な空気が臨場感をもって伝わって来る。

時は昭和30年代。戦後とはもう言わないようになった頃、根室の街の有力者の娘珠生は15のときに家を出て、花街で芸者になった。跳ね返りだった父の妹である叔母の置き屋だ。
そこで珠生は後の相羽組の組長となる男と出会い、恋に落ちる。
相羽は表向きは土建業だが、街のいわゆる汚い仕事を一手に引き受け敵も多い。
珠生の姉はやはり街の有力者の長男で、、近い将来国政に打って出る男と結婚。妹は信用金庫の次男を婿養子に迎えようとしている。
日本漁船がソ連にだ捕されて、北方領土返還を望む根室の街の人々の思惑が交叉する。
姉も妹もその思惑の「駒」として利用されようとしているのだが、姉は姉なりの野心で動いている。
姉妹のなかでただ一人、好きな男と結婚したとは言え、表舞台に出られない珠生は組の「姐さん」として生きることを決意するしかない。
ましてや相羽には何軒がの妾宅があるようだ。
指に一つ大きな宝石の指輪が増えるごとに、珠生の人生は翳りを帯び、やがてラストに。。

流麗な文章で、ストーリーは進むのだけど、うぅぅ、私、まったく個人的にですが、こういう筋立てが苦手。
「女の一代記」とか「女の一生」的な小説はどうも感覚的に受け付けない。
どうしても下世話な筋立てになってしまうような気がする。
それに、「こうなるんだろうな」というその通りになるのが、なんだか読み終わって腹立たしい。
でも、ストーリー・テリングを楽しむ人もいるのだから、それは好き好きなのだけど。
ただそれにしては、人物設定がどうも中途半端。せめてもう少し相羽が魅力的な人物だったらと思う。
置き屋の叔母など脇役の方が子の中ではいい。

桜木紫乃は彼女独特のセクシー場面を描くのが常なのだけれど、ここにはそうした場面は出て来ないんですね。
それはこれが女性雑誌に連載されたものだから配慮したのかもしれないけれど、それはよかったと思う。
だって花柳界にやくざという設定にそうした場面が出ると、小汚さに陥ってしまう感じがするもの。
それを排したのはさすが、よくわかっている桜木紫乃。なかなかの作家さんです。
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2016年04月12日

ジェニファー・L・スコット「フランス人は服を10着しか持たない2」

「フランス人は10着しか服を持たない」という本は2015年度のベストセラーNO.1となったそうだ。
ミニマリズムに興味のある私はこれをライブラリーから借りようと思ったのだが、予約数がすごくてとても順番が来そうになかったので諦めた。
つい最近、新着図書の項目を見たらこの本があった。ウェイティングは一つだけだった。
これはラッキーと私も借りることにした。

でも、ベストセラーの第二弾によくあることだけど、つまりは「柳の下・・」なんですよね。
書くべきことは最初の本で書きつくしているんじゃないかな。(読んでないからわからないけど)。
著者は大量消費生活で育ったアメリカ人女性。
大学時代にフランスに留学、そこでホームステイした名家の「マダム・シック」の生き方に感動したのが、「フランス人は10着しか洋服を持たない」を書くきっかけだった。
けれどこれはミニマリズム野本というわけではないと思う。
毎日を大切に丁寧に暮らすこと。そのために必要なのは「モノ」では必ずしもないということなのだろう。
ごく当たり前のヨーロッパの習慣が彼女にとっては目からウロコの生活術だった。

普段着がスウェットではない。どこに行くでもなく誰が来るわけでもないのに、きちんとした服装をしていた「マダム・シック」。(そうなんですよね、フランスやイタリアの女性って家に居る時もスーツを着てる人がけっこういるんです)。
毎日のルーティン通りに楽しく家事をしていた「マダム・シック」。
影響を受けてアメリカに帰った著者だったが、時が経ち結婚をし子どもを育てるうちに、少しずつ「マダム・シック」流が薄れてきた。
それに気づいて反省。どうすれば自分らしく美しく生きられるか・・
つまりは、そのことが延々と書いてあるんですね。

はっきり言って、これをお金を出して買った方はお気の毒。
これが参考になるのかなぁ?
わざわざフランスを持ちだすこともないと思うのだけど。日本の女性雑誌でもこれくらいのことは書いてあるんじゃないかな。

ここに書いてあることで「たしかに、そうだった」と思えたのは、ヨーロッパの主婦の家事の仕方だ。
彼女たちはじつによく働く。仕事を持ちながらも、家を美しく整え、時に友人を食事に招く。
曜日毎にすることを決め、今日は洗濯(この本にも書いてあるが、「月曜日は黒いものの洗濯、火曜日はタオルなど白いものの洗濯)、掃除、アイロンかけ・・
そして週末は必ず離れて暮らす親を(いやいやながらの義務感であっても)訪れる。
判で押したような決まりごとで暮らす彼らに、私はいつも敬服している。
これは日本人にはなかなか出来ないことではないだろうか。
「明日は予定が入った〜、今週は行けない」と言うことはほとんどなく、ルーティンとして日常を守ることは、できるようで厳しい自律心が必要だと思う。

それとアメリカ人には考えられないことだろうが、ヨーロッパ人は毎日食品の買い物をする人が多い。
週に一回スーパーマーケットに行って、カート一杯溢れるほど買い物をするのがアメリカ人だから、これには驚くはずだ。
ヨーロッパの人たちは毎日「ハムを2枚」とか「ステーキ肉を一枚」とかを、行きつけの店で買うのだ。
大都会の共働き世帯では変わって来ているものの、それでも個人商店はまだまだ健在だ。
そうした買い物の仕方が地域のコミュニケーションとなっている部分もある。

この本が役立つというよりは、昔のヨーロッパがまだきちんと残っていることが確認できたのがうれしかった。
でも服を10着にはできそうもないのは、私が「マダム・シック」にはなれないということなのでしょうね。
せいぜい「しくしく婆さん」になって、「マダム・シック」に憧れていましょう。
posted by 北杜の星 at 07:12| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月10日

品田知美・野田潤・畠山洋輔「平成の家族と食」

何年か前岩村暢子の「家族の勝手でしょ」という写文集を見た時の衝撃が忘れられない。
朝ごはんはお菓子、魚は一尾だけをテーブルの真ん中に置いてみんなでつつく、ラーメンも焼きそばも具なし・・
とにかく凄まじい食卓(と言えるかどうか)がそこにはあって、「この国は、滅びるね」と感じた。
もちろんすべての家庭でそうしたわけではなく、きちんとした食事を摂っている家族はいるのだけれど。

この本は岩村本のような衝撃はない。
それはこの本がフード・ライターによって書かれたものではなく、社会学者が書いたものだからだろう。
いろんなデータをもとにさまざまな方向から食を捉えることで、平成の時代の家族を考察しようとしている。
日本食は世界文化遺産になったが、家庭で和食はどのていど食べられているか?
世代間のメニューの違い。
男性は台所に入っているか?
行事食のトレンド。
3.11前後で何が変わったか?
東と西の食の違いはあるか?
・・などなど、じつに興味深い。

わけてもこの本がまさに社会学者によって書かれているなと感じるのは、ジェンダーの問題が取り上げられている点だ。
上記の「男性は台所に入っているか」にもあるように、日本の男性は料理をしない場合が多いんですよね。共働きが常識になっている現在であっても、料理は女性と考えられている。それは男性だけでなく女性自身ですら、そう考えているのである。
例えば「お弁当」。妻がつくれば「愛妻弁当」、母が子どものためにつくれば「愛情弁当」ともてはやされる。
でもそれって本当にそうなのかな?と私なんぞは思っている。どうして弁当に「愛情」がつきまとうのか?早起きして作るから?大変だから?でもそれを女性にばかり押しつけるのはおかしくない?
それってジェンダーじゃないのか?
そんなステレオタイプな「愛情」に振り回されずに、「今日はパンでも買ってね」とお金を渡してもいいし、アメリカのように簡単にピーナツバターを塗ったパンにりんご一個でもいいじゃないかと思ってしまう。
最近はキャラ弁なるものが流行しているらしいが、あれだってなんだか行き過ぎのような気がしてキモチワルイ。
第一、弁当だけがコミュニケーションだなんてヘンだし、そうした押しつけられた社会性のなかの「役割」にはどうも反発心がわいてくる。

「家族と食はどこへむかうのか」という論議以前に、現在は貧困から「食事ができない子ども」が増えている。
家族と食という定義が底から崩壊しつつあるのだ。
食いしん坊の私は、食べものがないのはどんなに悲しくつらいだろうと思う。
近在のスーパーなどに「フード・バンク」への寄付をよびかけているのだが、営利にばかりに目が向いてなかなかそうした運動に発展しない。
幸いにも山梨生協のパル・システムはフード・バンクに理解を示している団体なので、配達のお兄さんに「もっと個人が気楽に寄付できるシステムをつくって、恒常的に支援できるようにしてほしい」と申し出ている。
生協のような組織に食べものを預け、そこから直接フード・バンクに送ってもらうか、困窮家庭や施設に送ってもいいと思う。
現在フード・バンクに個人からは直接持参したり宅配便で送る必要があるのだが、それを代行してくれるところがあれば、もっとたくさんの支援が増えるはずだ。
もうすぐ春休みになる。学校が休みになると給食がないのでご飯が食べられない子どもが家にポツンと残される。
(フランスでもつい最近スーパーなどで余った食品を分配する自治体が増えているという。あのイタリアですらこうしたシステムはちゃんとあるんです)。
フード・バンクはお金の寄付をもちろん受け付けているが、でもまずは「食品」からと私は考えている。賞味期限が近付いたり、頂きもので食べないだぶついている食品は家のなかにあるはず。それらを寄付することから始めたい。お金はどう使われるか不透明なケースがあるので、まずはこうした直接行動からが望ましいと思う。

食は生きるベースとなるもの。そして楽しいもの。
食が楽しければ、つらい人生であってもほんの少しだけ楽しくなれると思う。
posted by 北杜の星 at 07:26| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | サ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする