2017年08月07日

千早茜「ガーデン」

主人公の「僕」は30代前半の雑誌編集者。
女性たちから関心を寄せられても、深い関係は築けない。周囲からは草食系とみなされている。
「僕」はずっと違和感を持って生きている。
それは幼い頃に発展途上国で過ごした経験がある「帰国子女」だからかもしれない。

このあたりは作者の経験が投影いされているのかもしれない。(千早茜は幼少時をアフリカのザンビアで過ごしている)。
「僕」が住んでいた国は治安が悪く、家と学校の往復、それも運転手の車からの風景しか知らない。
家には門番や庭番、手伝いの現地の人が数人いて、彼らの宿舎が敷地内にあり、プールもあった。果樹園も菜園もあった。
「僕」はその敷地の緑のなかで育ったのだ。

帰国してから「僕」は閉塞感に包まれる。そして唯一、心が休まるのが、自分の部屋を埋めつくす植え木に囲まれるとき。
多忙な仕事の後で、女性たちとのあれこれの後で、「僕」は部屋の緑の世話をし対話する。
「僕」の周囲の女性たち、モデル、同期入社の女性編集者、花屋で働く女性、取材先の建築家に囲われているニューヨーク育ちの女性・・

けれど気がつくと、「僕」の周りから女性たちはいつのまにかみんな消えていた。
彼女たちにはターニング・ポイントがあったのだ。
それは病気だったり、新しい恋だったり、失恋だったりもするのかもしれないが、つまりは「僕」は見捨てられたのだろうか?
変わった彼女たちと変わらない「僕」。
「僕」はで、も、そもそも、変わることを望んでいいるのか?

この「ガーデン」、これまでの千早茜のなかでは一番好きだ。
彼女は「男ともだち」以来、ちょっと進化したとうか、「書く」ことに本腰を入れた感じがする。
千早茜のような立ち位置の作家さんが頑張って、こんな秀作を書いてくれるのはとってもうれしくて楽しみ。
書き続けているひとがいつか報われるのなら、応援したい作家さんは幾人かいる。
栗田有起、安達千夏、木村紅美、生田紗代たちにもうひと踏ん張りを期待したい。
(そういえば高瀬ちひろって書いているのかな?彼女の「踊るナマズ」はユニークだったけど)。
千早茜を含めて、誰がこれから飛び出すかを見て行きたい。
新しい作家はどんどん生まれているが、最近は息が短い。使い捨てにならないよう、時代に迎合しないでじっくり自分を保つことでしか生き残れないと思う。
彼女たち、私は大好きなんですから。
posted by 北杜の星 at 07:58| 山梨 ☀| Comment(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月19日

津村記久子「まぬけなこよみ」

一年は二十四節に分かれ、それがまた七十二候に分かれるというのは、俳句を詠むひとはよくご存知だろう。
暮らしの季語がそれぞれにあって、俳句には季節を表すそうした季語が不可欠。
私は俳句をしないのでそういうことに疎いから、これを見て初めて知る言葉が多かった。
(こんな年齢になって恥ずかしいことだが、世の中は知らないことばかりなんですね)。

津村記久子が編集者から季節のお題をもらって書いた七十二候72編のエッセイがこれ。
一年72編というとほとんど5日に一つという割合で、それでは忙しかっただろうと思っていたら、2年間にわたって連載されたものらしい。
お正月の初詣でからはじまって、除夜の鐘まで、彼女の日常、ちょっと非日常までが書かれている。
彼女は関西の人なので関西に関するあれこれが多い。
(つい最近読んだ町田康のなかに、津村記久子が「うどん玉が40円以上のところには住めない」と言っていたということが書いてあった。
大阪生まれの彼女にはうどんは常食であって、それが高いのは大いに困るのだそうだ。)

食べもの、行事、動植物、気候、四季の言葉そのもの・・
たくさんのことがらを一年の月日を追っている。
だけど、どうだろ、これ?
一度に全部読むのはちょっと退屈というか、中だるみがある。それは書く方のせいではなくて読む方の問題だと思う。
電車の中などで細かい時間の間に開いた頁を読むと、感じるものがあることだろう。
もともとが「脱力系」の読物だから、そのほうがいいと思う。

「骨正月」という言葉、初めて知った。
骨休みの正月?それなら15日の藪入りだけど。。と訝る気持ちだったが、骨とは鰤の骨のことだった。
お正月の鰤が1月20日頃には、骨だけが残る状態となっている・・ということらしい。
冷蔵庫のない昔、よく鰤が20日までもったものだと思うが、大事に大事に食べていたのだろう。
大きな鰤が骨だけになった姿が目に浮かぶ。

これを読んで再確認したのだが、津村記久子というひと、書く力量のある作家さんですね。
その書き方はとても丁寧。几帳面な性格が覗いている。
イヤ味でない巧みさはなかなかのもの。
かなり好きで期待する作家さんです。
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2017年07月17日

高橋順子「夫・車谷長吉」

私はかねがね、詩人高橋順子と作家車谷長吉の夫婦としてのアンバランスさを不思議に思っていた。
順子を聖母もしくは天使とするなら、長吉は悪魔としか考えられなかったからだ。
それほど車谷長吉にはエキセントリックで、底意地の悪い悪意の塊というイメージが強い。
その性格の暗部はやりきれなくなるほどだった。
(私の友人で長吉をよく知る人がいたが、彼女は彼のことを「本当に残忍な人間、大嫌い」と言っていた。)

私小説家というものは、まぁ、誰もが暗いし、偽悪家ぶって暗い小説を書くものだが、どこかに「しかたないよな、こんなヤツでも」と許容できるし、かわいい部分も感じられるのだが、長吉にはそれがない。
だから順子という美しい小鳥が長吉という猛禽類に捉えられてしまって気の毒に。。という気持ちがあった。
事実、長吉は結婚するまで「猫をかぶっていた」と自分で書いているらしい。

車谷長吉の代表作は「赤目四十八瀧心中未遂」だろう。これは映画化もされている。
しかし彼の名を有名にしたのは朝日新聞の人生相談「悩みのるつぼ」においてではないだろうか?
これが人生相談の解答?というくらい意表をつかれる答えは、首肯できるかできないかは別として、読み物としておおいに楽しんだ。

長吉は1歳年下の順子に40代なかば、11通の絵手紙を送った。
順子が49歳のときに結婚。二人とも初婚だった。
小説家と詩人の孤独な魂が都会の片隅で結びついたという印象だが、その後20年にわたる結婚生活が穏やかだったはずはない。
順子の友人たちに対する長吉の悪意など、順子は長吉が破壊した人間関係の修復に心を砕かねばならなかったし、長吉の強迫神経症にも長い間付き合わされた。
一緒に散歩をしていても「その服は嫌いだから、着替えて下さい」と言われる。
簡単な連れ合いでは到底なかった。
それでも両者は一度も「離婚しよう」とは言いださなかったという。一度でもそれを口にしたら、すぐにそうなってしまうことを二人は知っていたのだ。

ともかく、長吉の直木賞受賞などを経て、結婚は続いた。
驚くことに、ピースボーとで2ヶ月間におよぶ南半球世界一周にも二人で出かけているのだ。
白人嫌い、飛行機嫌い、たばこが吸えること、そして2か月も独りで留守番したくない彼にはぴったりの旅だったようだ。
2か月余りの旅は四国八十八か所お遍路の旅も一緒にしている。これも長吉が留守番をしたくなかったあkらだと言うが、後にちゃんと本にしている。

長吉は慶応義塾大学卒、順子は東京大学卒といういわばエリート。
でも二人の暮らしにはそんな匂いは皆無だ。まるで地を這う暮らしに近い。それは経済的なことだけでなく生き方がそうなのである。
それはどちらも地方出身者ということが影響しているのかもしれない。
順子は千葉のひと。(大震災の津波被害で実家が半壊している)。長吉は姫路のひと。
長吉は基本的には瀬戸内海の魚しか好きではなかったらしいが、これってよくわかる。
私も魚は北のものはダメだ。ほっけもにしんも好きではない。
魚は鯛、ひらめ、おこぜ、めばる、この季節なら鱧・・
こう書きならべるとどれも高級魚となってしまったが、私の子どもの頃は鱧なんて「また鱧なのぉ?」というくらい日常的で、照り焼きとか煮つけで食卓に出された。どんなに骨切りしてあっても子どもにはやはり骨が気になった。

どんな夫婦でも同時には交通事故でもない限り死ねない。
長吉との不意の別れは、長吉が喉にビールのつまみを詰まらせての窒息死でやってきた。
いろいろ大変だったろうが、少なくとも、退屈はしない結婚生活だったと思う。
その生活を淡々と絶妙な距離感で書いた高橋順子というひとは、見事というほかないです。

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2017年06月26日

高橋三千綱「さすらいの皇帝ペンギン」

初期の高橋三千綱は読んでいたのだが、20年くらいすっかりご無沙汰だった。
最近「ありがとう肝硬変、よろしく糖尿病」という私小説を読み、彼の無頼ぶりに驚きつつも好感を持った。
今どきの作家はちんまりとまとまって、その生き方がサラリーマン的ななか、こんんな昭和な作家がまだ生き残っていることに感激。
この「さすらいの皇帝ペンギン」を読んでみることに。

あるテレビ局設立30周年記念番組を制作するにあたって、南極取材のリポーターとして抜擢された作家の楠三十郎(まんま、作者です)。
彼が仕事を引き受け南極に行って帰るまでを描くこれまた私小説だ。
南半球の夏とはいえ南極取材が大変でないはずはない。
出発までの紆余曲折、空港で、また中継地のチリに着いてからもゴタゴタは続く。
でもこれ、高橋の、いや三十郎のワガママとは思えない。誰だって怒るでしょという感じで、テレビ局の傲慢さが顕わになっている。

まずこの仕事、番組プロデューサーは三十郎に白羽の矢を立てたというが、その経緯にはウラがあった。
どうやら最初はあの冒険小説家(どう見ても椎名誠です)に依頼したが、断られた。
その時のギャラは500万円だったと後で判明するが、三十郎に提示されたのは200万円。
300万円はどこに消えたのか?
彼が後続でサンチャゴ空港に到着しても、約束の迎えはない。泊るホテルすら聞かされてない。
しかし三十郎がもっとも怒ったのは、南極への装備品のなかの毛糸の手袋だった。
他のクルーはみな登山用のしっかりした手袋を用意しているのに、自分に渡されたのが毛糸の手袋。しかもその手袋には280円の値札が。
これは凍傷にかかれと言っているも同然。
キレた三十郎は、もう止めたと違うホテルに移る。

平謝りのスタッフに条件の改善を確約させて、引き受け得ることにあいなったのだが、それからも彼らとの間には不穏な空気が流れる。
南極への経由地であるブンタアレナスの町で、三十郎は偶然会った少女から、一つの鳥籠を渡された。
その鳥籠の中には皇帝ペンギンの鄙が入っていた。
少女はこの皇帝ペンギンの鄙を南極に帰してほしいと願っているようだった。
新たなミッションを引き受けた三十郎は、カナダ人パイロットら計6人で南極へと向かう。。

というのがストーリーだが全編にあるのは、南極の自然ではなく、人間関係だ。
この人間関係で三十郎はつくづく孤独を感じ、皇帝ペンギンの鄙に「コドク」と名付ける。
しかしそうした日本のテレビクルーとの人間関係に風穴を開けるのが、各国の南極にある基地だ。
そこで皇帝ペンギンの鄙の育て方を教わったり、餌を作ってもらったりもしたが、基地には日本の基地を含めて酒があった、
そこでしこたまバーボンやモルトウィスキーをあおる三十郎。
おい、おい、肝硬変は?糖尿病は?と心配していますが、言って聞くような人ではない。
まぁあ、これだけのエネルギーがあるなら大丈夫でしょ。

南極リポーターとしての仕事がどうだったかがあまり書かれていないが、それは多分テレビで放映されたんでしょう。
この本を読んだあとで番組を見る方が面白いと思うけど、テレビ取材の裏側がいろいろわかる本だった。
そういえばカムチャッカで熊に襲われた亡くなったあの写真家の星野道夫さんは、日本のテレビ局の取材班とともにその地にいたのだが、彼らと同じテントにいるのがイヤで、自分だけのテントを張り、そこを襲われたのだと聞く。
一緒に居るのがイヤという理由には、三十郎と同じものがあったのだろうか?
これを読む限りテレビ人間の不誠実さに唖然としてしまうのだが。。
posted by 北杜の星 at 08:08| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月30日

ドナルど・B・クレイビル「アーミッシュの謎」

アーミッとうシュの人たちを映像で見たことのある人は多いだろう。
地面に届く長いスカートを着て白いボンネットを被った女性が馬車に乗り、まるで西部劇に出てくる19世紀そのまま。
男性は黒い質素な服で鍬を担ぎながら、舗装されていない土の道を通っている。
彼らはキリスト教の一派である「アーミッシュ」の信者たちで、ドイツからアメリカやカナダに移ってきた当時からの生活様式を守って生活している人たちだ。
そのアーミッシュには様々な「謎」があるそうで、この本では彼らの「宗教・社会・生活」が紹介されている。

私はアーミッシュのコミュニティでは自動車も電気もまったくないのかと思っていたが、この本を読むと、どうもそうではないようだ。
自動車は所有をしてはいけないが運転はOKらしい。
トラクターはいいが、納屋周辺での使用に限り、農耕には馬を使わなければならない。
また電気はアーミッシュの工場内での溶接機や絞った牛乳をタンクで攪拌するときなのどには使用が認められている。
けれどその電源はオフグリッドで発電したものをバッテリーで蓄電している。
しかし家庭内ではほとんどの場合は、照明や電化製品は認められていない。

これらの境界線はどこにあるのか?
おそらく新しい道具や製品が世の中に現れるごとに、みんなで協議して決めるのではないか?
そこには彼らなりの価値観の上での妥協もあれば、拒絶もあるのだと思う。

キリスト教の一派として敬虔な信仰を持つアーミッシュだが、布教活動はいっさいしない。
また教会や祭壇や聖歌隊、司祭や牧師なども持たない。
そうしたシンボリックなものはどもすると特権に陥りやすいため、避けている。
それに関してはすがすがしい気持ちが持てますね。
イタリア中部のアッシジという小さな町は、聖フランチェスコの聖地として有名だが、そこには巨大な聖堂が建立されている。
そこにはジョットの壁画などがあって見どころは多いし、美しい場所なのだが、清貧に生きた聖フランチェスコの真意とはどこか違うような気がして、私は少々落ち着かないのだ。
だからアーミッシュの人たちのこうした信仰のありかたに納得してしまう。

彼らはどうやって生計をたてているのか?
ほとんどが自給自足だが、購入しなければならないものもある。
キルトなどの工芸品を売ったり、はちみつなどの食品を売ったりしているようだし、工場で製造した農耕具なども人気があるという。

コミューンとして相互扶助の精神のもとで暮らしているが、16歳になったらコミューンから出ることが義務付けられている。
他の世界を知り、そこでなんでも自由に選択し暮らし、一定期間を終えて成人したときに、アーミッシュの世界に戻るか、そのまま他の場で生きるかを自分で決定する。
だから自由を奪われるわけではないのだ。
ただいったんアーミッシュの信仰を手放した者は、家族とは縁が切れる。

矛盾を感じて否定的な人はアメリカにもいるみたいだが、何を選択して生きるかは各人の自由だと思う。
危険なカルト集団ではないので害はない。
むしろ現代社会に疑問を呈する人間が多いのか、アーミッシュの信者は毎年増加しているという。
たしかにそのコミュニティでは時間に追われることもなく、日の出とともに起き、日の入りと共に仕事を終え家族で過ごし、祈りを捧げる日々は、心静かなみたされるものがあるのだろう。
一カ月くらいなら私だって暮らしてみたい気がする。

アーミッシュと同じような暮らしをしていたキリスト教一派にシェーカー教徒がいる。
彼らはイギリスからアメリカに渡った人たちで、シンプルに美しい生活をしていた。
シェーカー家具はその美しさで今も愛好する人がいるし、作っている木工芸家も多い。
しかしシェーカー教徒は今はほとんど絶滅種化しているようである。
ただその生活のシンプルさはミニマリストたちにとってはなんらかの指針となっていると聞く。

アーミッシュ人口が増え、シェーカーが消えつつあるその理由は何なのか?
ちょっと観点がことなるのだが、この本を読んだら、そっちの方も気になりました。
posted by 北杜の星 at 08:02| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月09日

田中慎弥「孤独論」

作家という職業は独りきりの座業。もともと孤独なものである。
しかし編集者との仕事上での付き合いが私的に発展したり、「文壇」という括りのなかで作家同志が仲良くなったりすることはある。
ふた昔前の「第三の新人」世代の作家たちの交流ぶりは、彼らによって面白おかしくいろいろ書かれていることで有名だ。

けれどこの芥川賞作家の田中慎弥にはそうした付き合いはほとんどないと思われる。
受賞後、故郷の下関から東京に居を移したそうだが、それまでは高校卒業後、就職もせずにひたすら実家で読書と小説を書くことしかせずに暮らしてきた。
母親はたまったものじゃなかったろうと思うが、幼いころに亡くなった父はほとんど過労死に近い死にかただったので、母親は息子が生きているだけで安心していたのかもしれない。
それにしても都会ではなく小さな地方都市でのことだもの、近所親戚の「目」は大変だったにちがいない。

そんな周囲と隔絶された世界でずっと生きてきた田中慎弥の「孤独論」、興味があって読んでみた。
うーん、なかなかアナクロニズムに徹した人ですね。
原稿は今でもPCを使わず原稿用紙に鉛筆の手書き。携帯もスマートフォンも持っていない。
固定電話とFAXで編集者とやりとりしている。

そういう人だもの、もちろんあらゆる立ち回りが今風ではない。
しかしこれを読んで爽やかなのは、彼には一切の媚びがないからだ。
迎合しない。奴隷にならない。孤独を恐れない。生きるための武器は「言葉」だとはっきり認識している。
潔さがなければできない生き方だろう。

「実家は最強のアドバンテージ」などと書いているのには、ちょと自己弁護が強すぎる気はするが、誰もがある種のシェルターは持っていることを考えると、まぁそれでもいいか。
33歳で文学新人賞を獲得するまで実家にパラサイトできた幸運は、彼自身が感じているはずだから。
現在の彼は、母と自分がようやくなんとか暮らせる糧を得られるようになったと言うから、これからは恩返しだよね。

「繋がり」とか「絆」とか世の中では(それが薄れているからこそ)大声で言いたてるけど、人間は本質的には孤独なものだ。
いつも友人に囲まれて独りになる時間の少ない人は、私に言わせると「思考が浅い」印象がある。
それは頭の良さとはまた違って、結論がでなくとも、「しっかり自分で考える」ことは必要で、考えるには独りの時間がないとできない。
いつも友人とつるんでいたらそれは不可能だ。
田中慎弥の世界は、そういう独りの時間から生まれたものだ。
こう人がいてもいい、とつくづく思える何かを、彼を好き嫌いは別として、ちゃんと持っている。
社会経験がない彼だからこそ書ける内省的な小説を書いてもらいたい。
posted by 北杜の星 at 07:36| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月24日

土井善晴「一汁一菜でよいという提案」

なんて素敵な本だったことだろう。
ここには日本のご飯の基本のみならず、日本人の食の哲学というか、食べることは生きることという強く優しい想いが伺える。

著者の土井善晴のお父さんは土井勝。私の母世代からすると、いわゆる料理研究家の先駆者として有名で、今では当たり前になったお節の黒豆をシワなく煮る方法などをわかりやすく教えてくれた人だった。
テレビが家庭に定着し、NHKの「今日の料理」の講師として、主婦から絶大な信頼を得ていた。
そのソフトな語り口は私もよく覚えている。
善晴氏はその後継ぎとして、お父さんがあまりにビッグネームだっただけに心配されたが、現在ではお父さんをしのぐほどの存在になっている。
その証拠に、こんなにも有意義な本を書く料理研究家となっている。
お父さんとは別の意味で、本当にビッグになったのだ。
高度経済成長期を過ぎたいまの私たちがどう生きるべきかの提案がここにある。

日本人の食卓はじつに多様だ。
伝統の和食に加え、洋食中華エスニックなど、外食で食べるだけではなく家で作って食べている。
そんな国は世界にあまりいないと思う。
イタリア人は一年365日毎日イタリア料理を家で食べているし、不味いことで知られるイギリス人だって毎日同じイギリス料理を食べている。
インドではカレーが常食で、家庭でパスタは作らないと思う。
なぜ日本人はこれほどいろんな国いの料理を作るようになったのだろうか?
(いろんな国の料理を作るから、調理器具や食器類も増えるんですよね)。
かくいう我が家のランチはイタリアンだし、ネパールカレーはかなり頻繁に作るし、時にはガレットなども焼いて食べている。。なんで?と自分でも思うのだけど。

しかし善晴氏はそんな必要はないのだと言う。
味噌汁をベースに、漬け物があって、主食のご飯があって、メインのおかずが一品あればそれで充足するのだと。
少ない料理を丁寧に作る・・
とくに味噌汁は日本人の食のベースとなるもので、ただ味噌を湯で溶くだけで味噌汁と呼べるほど、味噌の力は大きいのだそうだ。
(塩を湯で溶いても「塩汁」とは言わないとか)。

「食事」は食べると書くが、食べる行為だけで成り立っているのではない。
買い物に行き、下ごしらえをし、調理をし、食べ、後片付けをする。
食べることに関わる全てを「食事い」という言葉は指しているのだ。
もっと言えば、野菜などを作ることから始まるのかもしれないが、それは都会では無理なのでせめて感謝をして食べたい。

「食事」には日本人の美意識があった。
ハレとケの区別があった。
慎ましさと贅沢の区分けをきちんとしていた。
普通の暮らしの慎ましさが一汁一菜なのである。
そしてその一汁一菜にはちゃんと季節があった。

こういう本を読むのは本当にホッとする。
とくに歳をとって「今日は何を作ろうか」と言う時に、あまり考えなくてすむし、これで完結できるのがありがたい。
歳をとっていつも贅沢で美味しいものを食べるのは、なんだか強欲の塊のようで気味が悪い。少なくともそういうふうに老いたくはないと私は思っている。
そんな私にとってこの本は、清風のようなすがすがしい一冊だった。

どんな味噌汁を組み合わせればいいかも教えてくれてあるので、とても重宝します。
なによりもなによりも、ここには日本人の指標となる「食」があります。
お勧めの本です!!
posted by 北杜の星 at 07:32| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月03日

高橋弘希「スイミング・スクール」

表題の中編と短編の「短冊流し」が併載されている。
「短冊流し」は「指の骨」や「朝顔の日」に続いて、第155回芥川賞候補となったもの。
「指の骨」は評価が高く、読もうとは思っていたのだが、当時はなぜか戦争ものを手に取りたくない気分が強くて、とうとう読まずに終わってしまった。
結核病棟を舞台に、病を得て療養する妻を描いた「朝顔の日」は、文体といい内容といい私好みで、「想像でこれだけのものが書けるとは」と若い作家の力量に驚いた。

「スイミング・スクール」はどことなく齟齬のあった母と娘のその娘に娘が生まれ、なおのこと以前の母との関係のあれこれを思い浮かべる話。
その娘がスイミング・スクールに行きたいいというので通わせることに生った。
愛犬の死、母の死と実家の後片付け、若いころ弁当屋でバイトしていたこと・・盛りだくさんの出来事が交叉する。
どこにでもあるサラリーマン家庭のお話しだが、母親との関係を引き摺って生きてきた女性の一抹の不安が描かれている。
今は幼い娘は、自分を頼り自分を慕っているけれど、いつか自分と同じようになるのではという懸念。
そうした折に、自分が母に頬を打たれたように、娘の頬を打ってしまう。。

でも私、これはわりと陳腐な内容だと思った。文体も好きじゃない。
キレもないなぁ。
カセットテープの謎も、引っ張り過ぎでなんということはなかったし。
明確に伝わるものがない。

「短冊流し」のほうが短編ならではの緊張感があって、私は好きだった。
父と幼稚園に通う娘の生活に、母がいないことは察せられる。
そのうちその理由がはっきりしてくる。父の不貞から離婚を申し出た妻は、赤ん坊の次女を連れて仙台の実家へ帰った。
彼は長女の綾音と暮らしていたのだ。
綾音はある夜、高熱を出しひきつけの発作をおこして、救急搬送される。
仙台から妻がかけつけるが、一向に意識をとりもどさない綾音。

どうやらこの作家は「死」と「死の気配」を書きたいようだ。
日常のなかに潜む「死」。
この短編にはいつも不穏な空気が流れている。
一週間のルーティンとなっている朝食の卵料理にすら、その不穏さが感じられて、なんだか不気味だ。
不安と恐怖が「死」の兆しとなっている。

「短冊流し」のタイトルの意味は最後に出てくるが、これもちょっと陳腐かな。
もっと違う終わらせ方があったような気がするのだけど。
芥川賞にはやはり、弱かったと思う。
ちなみにこの回の受賞は、村田沙耶香の「コンビニ人間」だった。
posted by 北杜の星 at 07:41| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月29日

高峰秀子「私のごひいき」

「亀の子束子一つ、自分の気に入らない物はなに一つ、この家にはありません」と明言していた高峰秀子。
その言葉どおりの「ごひいき」の日常品がここに写真と文章とで紹介されている。
およそ20年間にわたって連載されたもので、全部で95点のアイテムがアイウエオ順に並べられている。

ノリつきメモ用紙、はさみ、ペーパーナイフ、消しゴム、修正液などの文具類がけっこう多いのは彼女が文筆家としての仕事も大切にいしていたためか。
その他に、耳かき綿棒やドア・ストッパーなどがあるが、なにより多いのが台所で使う品々だ。
彼女と夫である松山善三はずいぶんと卵好きだったようで、コレステロールもなんのその、朝食には必ず卵、すき焼きには2つすつ、卵かけご飯だって食べていた、
だから卵関係のアイテムは、茹で卵を作る時卵のお尻に穴を開けるもの、黄身と白身を分けるもの、ポーチドエッグを作るための容器・・
どれもあれば便利なものだけど、でもまぁそれがなくっても。。という感じではある。

台所用品ってむつかしい。確かにあると役立つけど、そういうものがどんどん増えるのは収納に困る。
なくていいものならなくていい・・といのが私の考えなので、天下の大女優さんには申し訳ないのだけれど、この本のなかで不用なものってわりとあった。
だけどさすがにそこは高峰秀子。どのアイテムもシンプルでいかにも使い勝手がよさそうだ。
旅行に行った折などで見つけたものもあって、そういうものに目がいくというのが、すぐれた生活人でもあった彼女らしい。

このなかにアメリカ旅行中に買った「石鹸置き」があって笑ってしまった。
というのはつい先週のこと、生活クラブの配達品のなかに「石鹸置き」があったからだ。私が注文したのではなく夫が勝手に注文していたものだった。
浴室の石鹸置きに水が溜まるのを、「これなら余分な水が落ちるよ」と容器に穴があいているから買ったらしいのだが、私は溜まった水は捨てればいいし、なによりもタイが濡れるのを防ぎたいために、「これは要らないよ」とすげなく断った。
彼はカタログを見ていろいろな注文をするのだけれど、そうした生活備品についてはちょっと私に相談してほしいと思う。
彼の思惑と私のは違うことがあるからだ。

だけど私にとっての便利であろうと思われる台所用品をあれこれ探してくれるのはありがたい。
目が悪くなってこれまで使わなかったピーラーなどの便利グッズを多用するようになったからだ。
「石鹸置き」のように「要らないよ」というこもあるが、「これ、ほしかったのよ」というのもあるからね。
そういうのを使ってみて、本当に「ごひいき」になれるものって、案外少なくて、帯に短しとか、隔靴掻痒なんてこともある。
だから高峰秀子はモノ選びの達人と言えるのだろう。

我が家のお役立ちでお気に入りって何だろう?と家の中を見回してみたのだが、うーん、ないもんですね。
強いてあげると、銅製の小さなおろし金。これは有次製のもので、ショウガやわさびを下ろすのにとてもいい。もう30年使っているので歯が摩耗してしまったのが残念で、もし京都に行くことがあったら買って来ようと考えている。
それとあと一つは、シルバーのタング・スクレーバー。
タング・スクレーバーというのは「舌こそげ」で、インドでは口腔内のお掃除として毎朝使っているらしい。
いろんな材料でできたものがあって、シルバーはそのなかでも最高級品だとか。
私の友人がアーユルヴェーダ医院で買ってプレゼントしてくれたもので、これももう30年来毎日使っている。
実用品はシンプルで作りのしっかりしたものがなによりで、買う時には値段が高いなと逡巡しても、結局は安い買い物となる場合が多いので、エイヤっと思いきることが必要だと思う。

これら台所用品のほとんどは高峰秀子が夫のために一日三回の料理を作るために揃えたモノ。
もし彼女一人ならば、料理はしなかったかもしれないと言う。
それが証拠に、ある日松山善三が留守のランチ時に、彼女はインスタントラーメンを片手鍋からそのまま食べて唇を火傷しそうになったとか。。
それを読んで、私もあり得るかも。。と思ってしまった。
料理ってつまりは自分のために作るのではないんですよね。
食べくれる人がいるから一生懸命に作るのだ。
だからせめて「美味しい」と言って食べてもらいたいものだけど、作れることが、幸せなのかもしれない。

美しい本でした。

posted by 北杜の星 at 07:35| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月16日

津村節子「紅梅」

7冊目の点字本。少し前に吉村昭を読んだので今回は奥さんの津村節子のもの。
これまであまり彼女の本は読んだことがないのだが、吉村昭の死に関する小説は興味があって読んでいる。
(彼女年代やそれ以前のいわゆる「女流作家」がちょっと苦手なんです)。

吉村昭の舌癌が見つかって、その治療をしている時の検査で、膵臓癌も発見されてからの闘病記録。
同じ作家として多忙を極める妻の気持ちが細やかに描かれている。
一応、小説のかたちをとっているけれど、完全なる私小説だ。

津村節子を読んでこなかったように、吉村昭の本も読んではいない。
とくに資料を綿密に調べた巨大軍艦や地震に関してのものには手が出なかった。
でも彼の短編は大好きで、若い頃に結核療養し絶えず死と向き合って生きた彼ならではの人生観に基づく小説は素晴らしいと思う。
それと、私には彼のことを「人生の達人」ととらえているところがあって、そういう意味でも興味があったのだ。
吉祥寺の街で数回ほどお見かけしたこともある。

井の頭公園に隣接した自宅には、夫と妻の書斎があり、夫は自分の書斎を気にいっていた。
庭には紅梅が見えた。
手術で膵臓摘出、十二指腸と胃の部分的切除・・
舌癌は根治したものの、抗がん剤の副作用で体は酷いダメージを受け、免疫療法にまで手を出すが、結局は最期を自宅でということになった。
担当医であった国立大学付属病院の教授が往診にやって来たが、それは往診というよりも、家族に引導を渡すためであった。
敏感な夫はそれを察知し、「もう、死ぬ」と言って、弱った体のどこにそんな力が残っていたのか、カテーテルや点滴の管を自分で引っこ抜き、妻がマッサージしていた体を回転させて、まるで妻の手から逃れるように死んでいった。。

すごい覚悟である。
そうしたいと考えていたとしても、なかなかそんなふうにできるものではない。
最後のその場面を読むと、どんな言葉をなくしてしまう。

それにしても、癌治療の凄まじさ。
外科医はあっさり手術をしましょうと言うけれど、抗がん剤を使いましょうと言うけれど、余命の貴重な時間のQOLをどうしてくれるのか?!と、腹立たしくなってくる。
そんな医師たちを信頼している患者と家族が哀れで悲しい気がする。

死期を前に経済的なことに細かくなった夫は、遺される妻のために、相続税や所得税や二人のお手伝いの給与などの心配をしている。
家族と近しい友人への遺書もまた、悲しい。

作家である夫と妻は毎年頭に、担当編集者たちを集めて自宅で新年会を開いていたそうだ。
料理をするのも運ぶのも妻。
その席で、夫が「育子、育子(小説内の妻の名)」と呼んでいたよら、妻の編集者が「えらそうに、呼ばないでください」と憤然と言ったとか。
自分の担当作家がそんなふうに呼ばれるのが、いたたまれなかったのだろう。
ある作家は彼らのように夫婦で作家の家庭を「地獄だ」と言ったというが、吉村昭と津村節子にとってはそうではなかったのだ。

しかし妻は、夫が妻に絶望して死んだのだと罪悪感に苛まされる。。

これ、印字本でも読んだのだけど、点字で読んで、最後の場面に涙してしまいました。
印字では泣かなかったのにね。不思議です。
posted by 北杜の星 at 07:15| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月17日

鳥海佳代子「小児科医は自分の子どもに薬を飲ませない」

小さな子どもをもつ親は子どもの具合が悪いと、とても心配になるものだ。
周囲に育児経験の豊富な人がいないと、訊ねることもできない。
だから救急車を呼ぶことになる。
確かにほんの風邪と侮れない病気も幼い子にはおきるので油断がならないのだが、しばらく様子を見ると、症状が治まることもある。
その見極めがむつかしいし、病気になるとお医者さん、そして薬という救いを求めてしまいがちだ。

けれどそうした治療が本当に必要なのだろうか?
また、どうしても必要で医者に行ったときに、必ず質問すべきことは何か?
本当に予防接種はしなければならないのか?
・・そうした疑問を、お母さんであり小児科医である著者が詳しく説明してくれるのが、この本。

生後1年の赤ちゃんが受ける予防接種を知り、びっくりしたことがある。
ナント、10種類くらいのワクチンを注射するというのだ。
衛生状態が悪くて、医療の発達していない途上国ならいざ知らず、この日本でそれは必要なことなのだろうか?
疑問に感じるお母さん方はいて、ワクチンはうけさせたくないと言う人もいる。
そんなお母さん方を保健所の人が「絶対に受けるように」と説得するのだそうだ。
しかも「受けていないと、何が起こっても知りませんよ」と脅迫じみた言いかたで説得するという。
それでなくても不安なお母さんだ。我が子にもしものことがあって、それが自分の責任だとしたらと怖くなり、疑問に思いつつ赤ちゃんにワクチンを受けさせることになる。

最近、多動児が多いのは幼い時のたくさんのワクチンが影響しているのでは?という説があるらしい。
ホメオパシーではそんな多動児に適切なレメディを与えると、多動が減少し落ち着くと聞く。
小さな体には、ある意味毒であるワクチンはtoo muchで害をもたらすのではないだろうかと、私は心配している。
子どもは病気になると症状が激化し重症化することがある。それを避けるためのワクチンなのだが、そうした病気を経験することで免疫が強くなり、丈夫な子に育つということでもある。
どんなに医学が発達しようとも、丘ちゃんの突然死の確率は一定で起きるのだそうだ。とても辛く悲しいことだけれど。
風邪をひいたからと言って、幼い子どもに、抗生物質を処方するような小児科医には注意した方がいいと思う。
そんな小さな頃から抗生物質を摂取していると耐性ができてしまうし、そこまでいかなくても腸内環境が悪くなってしまうからだ。
腸は免疫に大切な臓器だ。その腸が弱くなっては丈夫な子には育たない。

大人も子どもも、医者にかかる時には「本当にその治療・薬が必要なのか?」と医者に問うてみるべきだ。
私の周囲で病気になる人を見てみると、検査好き、薬好きの人が多いんですよね。
医薬で治ることももちろんあるのだが医源病もあるので、注意したい。
ともかく、幼い子どもを持つお母さんは一度、こうした本を読んでみてはどうだろうか?
posted by 北杜の星 at 08:11| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月05日

竹内早希子「奇跡の醤(ひしお)」

陸前高田に200年続く老舗醤油屋、八木澤商店はある。
しかし2011年3月11日の東日本大震災で建物だけでなく、醤油の種ともいうべき醤(ひしお)を失った。
社員たちのなかには家族を津波で失くした者もいる。
誰もが打ちひしがれて茫然とするなか、9代目の若き経営者となる河野通洋は「絶対、復活してやる」と誓った。
再建のめども立たないのに、採用予定の新入社員を受け入れた。

醤油は生きものだ。
とくに八木澤商店の醤油は「本物」の醤油として高い評価を受けて来た。
杉桶や蔵に長年住みついた微生物、受け継がれてきた醤・・
それらがなにもかもなくなり、どうやって以前と同じ醤油が造られるのか?

再建するにはもちろん金がかかる。銀行の融資、県からの融資、八木澤商店の古くからのファンからの支援を受けることで、なんとか新しい工場を造ることができた。
しかしなによりも八木澤商店の強みは社員たちの強い信頼関係だった。
そこには住む土地を愛する人間同志の絆があった。

そしてこれこそが「奇跡」なのだが、醤が見つかったのだ。
震災の一カ月前、研究のために八木澤商店の醤を取りに来て保管していた研究者がいたのだった。
その醤も津波で浸水の被害にあっていたのだが、さいわいなことに密閉度があって、波にさらわれもせずに無事な様子だった。
喜んだもののはたして本当に醤として生きているのか。これを種として増やせるのか。
不安が広がる。

苦難の連続である。しかし、帯文にあるように、これはけっして「被災の記録」ではない。「成長の物語」なのだ。
やっと工場が再建できたが、それは陸前高田ではなかったことが、社員の心を悲しませた。
高田は津波後の整地のため、町に多量の土で覆うための工事が必要で、再び人々が住めるには何年もかかる状態だったのでしかたないことだったのだが、高田から一関まで通う社員たちに、割り切れないわだかまりがあったのは否定できない。
その頃は、被災してから遮二無二頑張ってきた疲れが心身に現れる時期でもあったのだろう。ぼろぼろと社員たちが辞めて行った。
通洋も夜眠れない、食欲がなく痩せるという症状がひどくなり、心療内科を訪れている。
傷を負わない人など誰もいなかった。

そうした困難の末、やっと醤ができあがった。
それまでツユやタレを他の所の醤油を買って造っていたのだが、やはり不評で、伝統ある八木澤商店の評判を落としていただけに、醤油造りに不可欠な醤を自分たちの手でいっときも早く造りたかった。
奇跡は起こった。
以前と同じような醤油ができあがったのだ。
以前は「生」だったが、低い温度で短時間火入れしてみたら、前の「生揚醤油」とまったく同じ味の醤油となったのだ。
この不思議さもある意味、奇跡なのかもしれない。
通洋はなるべく早い時期に、杉桶とタガを作る職人を探し出して、タンクではなくやはり杉桶で醤油を造りたいと願っているのだが。。

しかし奇跡は誰にも起きるものではないと思う。
一生懸命に努力した者の上に、奇跡は起きる。神様は奇跡を起こしていいかどうかを、じっと見ていらっしゃるのだ。
八木澤商店とその社員たちには、奇跡を受け入れる資格が十分にあったのだ。
これを読むとつくづくそれがわかる。

「青い海、青い空」の陸前高田。上品で美しかったあの町がふたたび蘇るには、まだまだ時間がかかるかもしれないが、彼らが住もうと望むかぎり、必ずできると信じる。
この著者は八木澤争点と取引のあった安全な野菜宅配会社で仕事をしてきた。(このなかに「らでぃっしゅぼーや」が出てくるが、そこなのかな?私は今は山梨に住むようになったので辞めたが、「らでぃっしゅぼーや」は最初の2ヶ月目からの過員で、東京ではずっと取っ手いた)。
再建なった八木澤祖父店で「らでぃっしゅぼーや」社長が挨拶しているが、そこにも大きな信頼関係が培われてきたことがわかる。
500mlが1600円以上するので安くはないが、八木澤商店を応援するために注文してみよう。
「奇跡」の醤の味はどんなのだろうか。
posted by 北杜の星 at 08:03| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月30日

ちるちんびと2016年1月号「OMソーラー」

OMソーラーとは自然と共生する次世代の暖房システムである。
太陽熱で屋根と屋根に設置したパネルを暖め、その熱を天井裏のダクトに集めたら、ファンで床下に送り込む。
床下に集まった暖かい空気が床暖房となる。
そのために屋根は黒く塗られる必要があるし、床下はベタ基礎のコンクリートにする必要がある。

OMソーラーは建築家の奥村昭雄氏が30年まえに考案した。
八ヶ岳南麓にある我が家もOMソーラー家だ。
この家の前、私たちは1989年、長野県の蓼科に山荘を建設した。そのときにOMソーラーをと考えて、日照のシュミレーションをしてもらったのだが、残念ながら周囲に高い木々が多くて日照不足と言われ、諦めた経緯があった。
OMの代わりに灯油の低温水床暖房とした。これはこれで心地よかったのだが、暖房費が原油価格に左右されるのが気にくわないし、空気を汚すのも気になった。
だから山から下りてきて2003年にここに家を建てる時には、迷わずOMにしたのだった。
北杜市は日本一、日照時間が長いことで有名なので、日照にはなんの問題もない。

ひと言で言うとOMは「快適」だ。
マイナス気温になろうとも天気さえ良ければ、昼間の集熱で室温は28度くらいになる。
朝着ていた服を、午後になると一枚一枚脱いで、Tシャツだけになる。
夜中には床下の蓄熱が減少して、起床時には17〜20度くらいを保つ。
電気の床暖房ほど乾燥しないようだ。
それとこれはOMを設置した人がみな言うことなのだが、不思議なことに電化製品などの故障が少ない。

もっとも困るのは、天気の悪い日が続くことや雪が降って屋根のパネルに雪が積もって融けない場合だ。
だから我が家でもっとも「寒いねぇ」と言い交わすのは、3月末ごろの曇天で日照が少ない季節。外は春の気配なのに室内は肌寒いのだ。

意外だがOMソーラーのシステムは冬に快適なだけではない。じつは夏も素晴らしいのだ。
夏は集熱にしないで、天井にたまった暖気を外に逃がすことができる。このためまるでエアコンを入れているようにヒンヤリするのだ。
部屋に入ってきた人が「クーラー、ついてるの?」と訊くくらい涼しくなる。
それでも暑い夜は、外気取りいれもできる。(東京のような熱帯夜だとダメだけど、ここ八ヶ岳では夜はすごく涼しい)。

このOM、現在もどんどん進化している。 
私たちが家を建てた十数年前には、ファンは強制ファンで電力を使わなければいけなかったが、今はファンを回すために太陽光発電ができるようになったので、暖房に関してはオフ・グリ
ッドになる。
また、エアコン一台で補助暖房ができるし、冷房をして家全体に回すsこともできるようになったそうだ。

残念なおはこのOMソーラーのシステムは、改築工事ではできないこと。
新築時の土台かからOM用としないといけない。
基礎にコンクリートをたくさん使うので、どうしても建築コストがかさんでしまう。
しかしイニシャルコストが高くても、ランニングコストでカバーできるのだから、悪くはないと思う。

クリーンで環境に負荷をかけない。コストがかからない。。こんないいことはない。
この本にはOMソーラーの家が紹介されているが、どの家もナチュラルな素材を使って心地よさそうだ。
OMソーラーを選ぶ人って、ある共通性をもっているようで、なんだか連帯感を持ってしまう。
これからもどんどん進化するのかもしれないOMソーラー・システム、もし家を新築する場合はお勧めです。
一般住宅だけでなく、公共施設や幼稚園や病院などにもいいと思う。
お日様が当たる土地ならどこでも大丈夫!
posted by 北杜の星 at 07:42| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月13日

津村記久子「浮遊霊ブラジル」

驚いた!
津村記久子がこれほど進化していたとは。

働く若い女性の心理を描く津村記久子の小説には定評があった。
それは彼女自身が自分の仕事を通して感じる日常そのものだったのだと思う。
けれど勤めともの書きの両立は難しかったようで、ペン一本の道を選んだ。
以来、おせっかいにも私は心配していたのだ。
「これから彼女は、何を書いていくのだろう?」と。
発表される作品のなかには、「うーん、どうなんだろ、これ」と思わぬでもないものもあった。

でもその心配、まったくの余計なお世話だったみたい。
この短編小説集の7編の完成度の高いこと!
収録されている「給水塔と亀」は川端康成文学賞を受賞したそうだが(私は知らなかったのだけど)、7編はバラエティに富みながら、ちょっとしたユーモアがあって、リアルでない世界を描いても静謐な空気が感じられる。
津村記久子の若さでこれほどのものが書けるのは、実際の体験だけでなく、作家としての資質の高さだろう。

定年退職をして故郷の町に帰って来た男が、引っ越し荷物を受け取り、アパートの管理人の亀を飼おうとする「給水塔と亀」。
うどん屋の主人と客との微妙な距離を描く「うどん屋のジェンダー、またはコネルさん」(これ、好きだった)。
初めての海外旅行前に死んでしまった「私」が、念願の土地に浮遊霊となって。。表題の「浮遊霊ブラジル」。
サッカー関連記事の翻訳をしていて、一人のウルグアイ選手の再婚相手が、元同級生だったと知り。。「アイトール・ベラスコの新しい妻」。
・・など並ぶ。

私がもっとも気にいったのが中編の「運命」。
どこに居ても、旅行に行った先でも、道を尋ねられる人っているけど、この主人公もそう。
肌の色が違う、あきらかに旅行客だと見てとれるのに、道を訊かれる。
でもそんな現実世界から、赤ん坊の頃の記憶などどこかシュールな場所に運ばれる感じがなんとも心地よく面白い。
この「おかしさ」に私は共感できて、ここらあたりが津村記久子を読み続ける理由なんだろう。
それと彼女の作品には変な湿っぽさがないのがいい。
どんな内容であっても適度な乾きがあって、それがクスリとしたユーモアになっているのだおt思う。

私も結構、どこでも道を訊かれる。
イタリアでも訊かれたし、パリでもイタリア人観光客から「サン・ジェルマンへはどう行くのか」と尋ねられた。
もちろん日本でも、歩いていたり信号待ちのときに訊ねられる。
道を訊かれやすい人には共通項があるのだろうか?
あるとしたらまず、「美人でないこと」なんだろうな。
だって美人には声かけにくいものね。、
私は中肉中背の丸顔、最新ファッションに身を包んでいるわけではないけど、それほど生活に疲れた風でない。つまりは「ごく、フツー」。
この「フツー」というのがいいのか、悪いのか、道を尋ねられる最適条件のような気がする。
それともボーっとして急いでないから、声をかけやすいのかな?

ともかく、この津村記久子、短編集を読む充実感が味わえる一冊でした。
posted by 北杜の星 at 07:47| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月02日

辻村深月「東京會館とわたし(下)」

今週のうちに「東京會館とわたし」の下巻が読めてよかった。
連作で各章が独立しているとはいえ、あまり時間をおくと気が抜けてしまう。
上巻はタイトルに「旧館」としてあったが、下巻は「新館」となっている。
東京會館旧館は大正11年竣工。新館は昭和46年、谷口吉郎設計で建てられた。
谷口は東京會館の設計にあたり、たんに建物としての會館ではなく、宴会や社交での思い出の背景となるべく「場」としてというコンセプトで臨んだという。
旧館で使われていたマテリアルや家具なども少し残しながら、まったく新しい建物を造ったそうだ。

亡き夫と迎えるはずだった金婚式の日、一人の老婦人が東京會館にあるパーティに出席するために出かけた。
闘病中の夫は旧館を壊して新館ができることを、残念がっていた。
新館に入った婦人は以前と違う建物に初めは戸惑っていたものの、しだいにその美しさに圧倒されてゆく。
そして彼女はパーティには出ず、夫と時々食事をしていた食堂に一人で入って行く。

人見知りの新米ボーイが、あれほどの大スターである越路吹雪の緊張ぶりを目のあたりにする。
越路吹雪はコンサートの前になるとガタガタ震え、背中におまじないの「虎」という字をマネージャーの岩谷時子から書いてもらわないと、舞台に上がれなかった。
「さぁ、虎になっていらっしゃい」と背中を押してもらる越路吹雪から、ボーイは何を感じ、得たのか。

2011年3月11日、仲良し4人組の初老の女性たちは着物姿で銀座を楽しんでいた。
そこにあの大地震。電車は動かず、ホテルもレストランも喫茶店もいっぱい。
思いあぐねた彼女たちが辿りついたのが、東京會館。
彼女たちは若い頃に東京會館の料理教室に通っていた。
主人公の女性は見合いをして結婚を決めた彼から「東京會館で料理を習ってほしい」と言われたのだ。
食べることが好きで舌の肥えた彼は結婚後、家庭で美味しいものが食べたかったのだろう。
「東京會館なら」と4人はそこへ向かい、一晩を過ごす。

上巻に較べると、実名がかなり出てくる。
芥川賞直木賞受賞者にとっては候補になった時から「受賞がきまったら、東京會館へ」と言われる。
何度も何度もそう言われ続けて、落選してきた作家なら「東京會館って本当にあるのか?」という気持ちにもなる。
あの角田光代がそうだったように。
そんな作家たちにとっては、帝国ホテルでもホテル・オークラではだめで、東京會館こそ価値ある場なのだ。

けれど現在、東京會館はまたも新築中である。
完成は2019年とのことだ。
その間、芥川賞と直木賞の受賞式は帝国ホテルで行われる。
新生新館がどんな設計になるのか?これまでのようにみんあから愛される集いの建物となるのか。
旧い建物に愛着がある人にとってはどれほど素晴らしい新館であっても、必ずしも満足はできないかもしえないけれど。

それにしても100年経たないうちに、2度の建て替えとは、耐震性の問題があるのだろうが、つくづく日本という国は、スクラップ・アンド・ビルドの国なんだなぁと思ってしまう。
ホテル・オークラも建て替わるし、なんだかさみしい。
今度の新館はせめて100年は持ちこたえてほしいし、それだけの年月に耐えうる設計であってほしいものだ。
posted by 北杜の星 at 07:38| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月28日

辻村深月「東京會館とわたし」

東京駅に近い丸の内にある東京會館。
それまで社交というものが貴族など特別な階級のものであったのを、庶民(といっても決して大衆ではないのだが)のための宴会や披露宴などの集まりを目的として作られた。
大正末期に建設さた直後に、関東大震災に罹災した。
昭和になってからは戦争の足音とともに、政府軍部によって使われ、戦後はアメリカに接収された。
東京會館はそうした日本の歴史のずっと見つめてきた場所である。

芥川賞直木賞の受賞記者会見や贈呈式は東京會館で行われる。
直木賞受賞の辻村さんも心躍らせて、東京會館のパーティに出席したことだろう。
そのときからなのか?東京會館を舞台にした小説を書こうと思ったのか?
東京會館に客として集まる人々、東京會館で働く人々・・
時系列に並ぶ東京會館にまつわるエピソードがなんとも素敵で、激動の時代を生きるということの大変さと、それを克服する勇気や達成感が、読む者の心を明るくしてくれる。
ライブラリーで借りて読んでいるので、まだ上巻しか読了していないけれど、一編一編が独立している連作集なので気にはならないが、下巻が待ち遠しいのは言うまでもない。

ヴァイオリニストのクライスラーのコンサートに行くために、故郷金沢からやっとの思いで出て来た文学青年。
彼は東京で文学活動をしていたものの、実家の跡を継ぐために金沢に戻ったのだが、後悔いと忸怩たる念が押し寄せるばかり。
そんなときのクライスラーだった。
聴く前と後での彼の心はどう変化したか・・
(この章には梶井基次郎についての記述もあって面白かったです)。

古いサービス係の男性は民間初の社交場の東京會館に、帝国ホテルからやって来た。ホテルマンとしての腕を買われての転職。
しかし震災後やっと復活した會館は政府の運営となってしまう。
フランス料理の「プルニエ」も閉店。結婚式場の美容室経営者はパーマネント禁止となる。
日本が暗いトンネルに入ろうとする直前の東京會館。

そんな頃にも政府や軍の関係者の結婚披露宴が開かれることがあった。
しかし披露宴で出される料理の材料は、結婚する者の両家が用意しなければ揃わなかった。
それでも東京會館を人生のスタート台とする若いカップル。彼らの未来は・・

やがて敗戦。東京會館ではアメリカ軍の高級将校たちでいっぱいとなっている。
彼らのためにバーではバーテンダーたちが苦手な英語を操りながら、将校たちに軽んじられながら頑張っている。
ある朝、一杯やりながらご機嫌な将校たちの前にあの、マッカーサーがやって来た。
朝から酒とはないごとかと怒っている。
デモバーは朝からオープンだ。なんとか朝のカクテルを楽しんでもらおうと考案したのが「モーニング・フィズ」。
以来「モーニング・フィズ」は東京會館のバーの名物となり・・

菓子職人がパティシェではなくベーカーと呼ばれた時代。
東京會館のベーカー長は経営の方からある依頼を受ける。
それはお持ち帰り用のお菓子を作ってくれとのことだった。しかしそれでは納得できるものが出来ないからと断固拒否。
最終的には作ったのだが、それが思わぬほどの好評で・・

エピソードは東京會館の歴史の長さほどたくさんあることだろう。
それらをフィクションといっても、関係者への緻密な取材を重ねて、辻村深月はこれを描いたのだと思う。
どの章を読んでも、主人公たちがいまにもあの階段を歩き、エレベーターに乗り、フランス料理を食べている場面が目に浮かぶ。

これはまた、仕事をする人間を描く小説集でもある。
下巻が届いているとのメールがあったので、明日そうそうに取に行きます。楽しみ!
posted by 北杜の星 at 07:44| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月14日

辻原登「籠の鸚鵡」

昭和のバブルが始まる少し前、紀州和歌山の小さな町で繰り広げられる人間たちの欲望と思惑。
「冬の旅」以来、人間の暗部を描き続ける辻原登だが、今回もノヴェル・ノワールに徹している。
なにが彼をこのテーマに駆り立てるのか?
「冬の旅」の底なしの暗さには絶望しか感じられず、読後感が重くやりきれなかったのだが、「籠の鸚鵡」は最後の最後のほのかな灯りに、安堵のため息をついた。

関西国際空港建設の埋め立て土砂にまつわる事件とドラマ。
不動産業者、暴力団抗争、バー、役場の出納室長・・
こう並べるだけで、絵に描いたようなストーリーが思い浮かぶだろうが、そう、そのまんまのお話なのだ。
ただこれには単なる架空のお話ではなく、リアリティがあるのがスゴイところ。
緻密な資料で、現実の事件を参考にしているのだろう。暴力団の抗争は当時の山口系と一和会そのものだ。
それと、和歌山出身の辻原だから書ける和歌山の土地土地の風景もこの作品の魅力乃「一部だ。(湯治の温泉宿なんて、いいんです)。

詐欺、不倫、恐喝そして殺人。
こう展開するんだろうなの通りにドンドンと犯罪はエスカレートしていく。
ミステリーのような展開なので、あまりストーリーは書かないが、さすが作者の筆には力があって、ハラハラドキドキで読ませられる。
これだけ怒涛のごとくの話なのに、どこかシンと静かな気配があって、品が悪くない。
これが辻原登という作家の個性なのだろう。


だけど犯罪小説が続いているので、ここらあたりで仕切り直しの、ちょっと明るく軽いものを読みたいな。
引き出しをたくさん持っている辻原登だから、自由自在に書けるはず。
一息つけさせてくださいい。
posted by 北杜の星 at 07:51| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月31日

高山なおみ「ウズベキスタン日記 空想料理の世界へ」

武田百合子の「犬が星見た」をバイブルのように読んできた高山なおみが、百合子と泰淳の後を追うように旅した記録がこの本。
この前に「ロシア日記」が発刊されている。
ロシアには韓国籍の船で韓国経由でロシアに入り、そこからシベリア鉄道で2週間の旅をしたのだが、それは5年前、東日本大震災の2か月後のことだった。
そして第二弾の砂漠へのこの旅はその2年後。
同行者はロシアと同じく画家の川原さんだ。
今回も韓国経由でウズベキスタンの首都タシケントへ。
ロシア旅行と同じくウズベキスタンでも女性通訳がずっと随行した。

旧ロシアとはいえ、前回のシベリア鉄道の旅とはかなり趣が異なる。
それはやはりウズベキスタンが砂漠の国だからだろう。
なにしろ乾燥している。日中の気温は40度を軽く超える。
それでも食べ、飲み、歩き、人と出会い、百合子の足跡をたどり、高山なおみらしくさまざまなものを見聞している。

料理家なので食べることは仕事のうち。
でもウズベキスタン料理って油が強いんですね。
高山さんはお腹を壊してしまった。
読みながら「そんなに食べて平気なの?」「アイスクリームはヤバイよ」と気が気でなかったのだけど案の定、お腹はピーピーに。
そして旅の終わりには川原さんまで同じ状況になってしまった。

そんなときにも、砂漠で飲む熱いお茶は美味しかった。
ぐりーん・ティとブラック・ティがあるらしいが(ウズベキスタンではティをチーと発音するらしい)、どちらも乾燥した喉と体中の細胞に沁み渡る。
(宮本輝のシルクロード紀行文「ひとたびはポプラに臥す」に書いてあったが、灼熱の砂漠を旅するときに冷たい飲み物を飲むと体を壊すのだそうだ。必ず熱いものを飲まなくれはいけないとか)。

ひなびた小さな村で出会った人々の素朴な優しさ、バザールの店の母と娘たち、運転手の絶妙な人との距離のとりかた・・
そしてそれらを受け止める高山さんと川原さんの感受性。

旅したのが前回のロシアと同じく6月。(百合子たちの旅と同じシーズンを選んだのだろう)。
だからだろう、野菜や果物が豊富である。きゅうりやトマトが新鮮だ。
肉は羊、牛・・煮込みが多いみたいだが。脂も多い。
宿の朝食には果物も出たが、ウズベキスタンの人は朝食には果物は食べないのだそうだ。
これは理屈には合っているのかもしれない。
長い時間の空腹の後の朝食には、繊維が多い物を避けるほうがいいとも言う。
だから野菜や果物を摂るのならジュース。それも今はやりのスムージーには繊維が多すぎるので、サラリとしたジュースが一番。
繊維は夜摂るのがいいと聞く。眠っている間に繊維が腸で作用して、朝起きるとお通じとなるとか。
そういえば、日本でも昔から朝は水分たっぷりで消化の良いお粥を食べるし、外国では生ジュースを飲むものね。
ウズベキスタンの人もそれを知っているのか。

砂漠の国の人だからか、ウズベキスタンの人は噴水が大好き。
街では噴水がライトアップされて、涼しくなる夜には人が集まるらしい。
雨も大好き。旅では最後に一度だけ通り雨に会ったそうだが、子どもたちは雨の中に飛び出して跳ねまわっていたそうだ、
今年の夏は雨続きの八ヶ岳でうんざりしたのだけど、そんなこと言ってはいけないのですね。
ときにはウズベキスタンに想いを馳せましょう。

私の友人にシニア・ボランティアの日本語教師として、ウズベキスタンに2年間JAICAから派遣されて滞在した人がいます。
今度、もっと詳しくウズベキスタンの話を聴いてみたいものです。
posted by 北杜の星 at 07:49| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月03日

高山なおみ「ロシア日記」

昭和44年6月、作家武田泰淳と夫人の百合子は、泰淳の古くからの友人竹内好(中国文学者)とともに旧ソ連に旅立った。
「白夜祭りとシルクロードの旅」というツアーには、添乗員を入れて10人。ほぼ一カ月の旅。
泰淳は百合子に「連れて行ってやるのだから日記を書くのだぞ」と言い渡し、百合子が詳細に書いたのが「犬が星見た」という名紀行エッセイだ。
「犬が星見た」という不思議なタイトルは、輝く星を一心不乱に見上げる犬のように天真爛漫な百合子の姿からつけられている。
この「犬が星見た」の本をバイブルのように読んできたのが、料理研究家の高山なおみだ。
彼女はついに2011年、百合子たちが行ったのと同じ6月に、友人の画家川原真由美さんと一緒だった。
あの東北大震災からまだ3カ月、彼女たちの心はまだ乱れていたと想像する。

百合子たちが旅行した頃はシベリアへはまず、横浜港から船でナホトカへ。そこからハバロフスクまで列車というコースだった。
しかし現在では新潟からも稚内からの航行もある。
高山さんたちはそのどちらでもなく、鳥取県の境港から韓国の船で韓国の東海経由というめずらしいルートを選択した。
東海からウラジオストックへ。そしてそこら念願のシベリア鉄道の旅が始まった。

(私がヨーロッパに行ったのも昭和44年。泰淳と百合子の3カ月後のこと。「ナホトカ号」に揺られ、激しい船酔いに苦しめられて着いたナホトカ。そこからハバロフスクまでの列車から見た白樺林の美しさは今も忘れられない。日本に生えている白樺の幹よりずっとずっと白かった。
でも私はハバロフスクからは鉄道ではなく、ビュイーンと飛行機でモスクワへ行ったのだが、若かったのだからシベリア鉄道を経験してもよかったかなと思うときがある。)

高山さんたちのシベリア鉄道は43年前の百合子たちの旅行と較べると、ずいぶんと快適だったはずだ。
寝台車は新しいし、なにより乗務員が笑顔を見せると言うのがスゴイ、信じられない。
旧ソ連のサービスは本当に最悪で、飛行機でも空港でもホテルでもレストランでも、まず笑顔を見たことがなかったもの。
あんな面白くもない顔をして1日のほとんどをすごすのは、なんて不幸な人生なんだろうと、かえって同情したほどだった。
でも高山さんと川原だんたち、ちゃんと微笑んでもらっていて、「あぁ、ロシアは変わったんだな」。
行く先々の通訳さんたちもとてもフレンドリーだ。
シベリア鉄道の食事はほとんど停車駅で調達している。駅に売りに来ている農家の人の新鮮野菜やピクルスやピロシキなどが本当に美味しそう。
列車内のレストランよりいいみたい。
シベリア鉄道といえばサモワールがあるので有名だが、そのお湯で紅茶を入れたりしている。
(私の友人が20年くらい前にシベリア鉄道に高校生だった息子さんと二人で乗った。食堂車のメニューにはいろんな料理が書かれていたが、何を注文しても「ニエット」、無いと言われたそうで、毎日毎日い同じものしか出なかったそうだ。)

途中ウラジオストックで泊、バイカル湖畔の村リストヴァンカ村にも泊。ここでは地元の人の家庭でロシア料理教室を習っている。
でもここまでの旅の疲れと暑さのために、高山さんは風邪をひいてしまって苦しそう。(この旅行に来るにあたあっての仕事もきっと超多忙だったに違いない)。
それでも彼女にとっては食べるのも仕事のうち。いろいろなロシアの食べものを経験した。
ロシア料理といえば一番に思い浮かべるのがボルシチだけど、どうもロシアの人たちはボルシチではなく他のスープが好きなようで、一度もボルシチはなかったとのこと。

6月だというのに、ずいぶん暑かったようだ。
そんなに暑いのにロシアの人たちは帽子をかぶっていなかったとか。それを高山さんは訝っているのだが、そうなんですよね。今、ヨーロッパの人って帽子は被らないんですよね。
どんなに暑くても、フランス人もイタリア人も帽子は被っていない。
イタリアの友人からは「帽子をかぶるのは日本人か台湾人だけだ」と言われたことがある。えーっ!?と驚いた。
彼らが帽子をかぶるのは真冬の寒い寒いときに、毛糸の帽子を被るくらい。それもあのお洒落なミラネーゼがたんに防寒のためだけにかぶっているという印象だ。
日本では帽子はお洒落というイメージだけど、あちらでは完全にout of fashionみたい。

旅行は2週間。ウラジオストックで終わっている。
でも終わっているのは今回の分。ウラジオストックからウズベキスタンへのシルクロードの旅はまたあらためて、ということで、「ウズベキスタン日記 空想料理の故郷へ」の本も刊行されている。
旅には時として、奇跡のようなことが起こることがある。
高山さんも偶然に泰淳と百合子さんが泊ったホテルのその部屋を見ることができたのだった。
優しい川原さんが部屋を変わってもらってその部屋に移ろうかと言うのに対して高山さんは「ううん、いい。泊ってはいけないような気がする」と答えているが、その気持ちはわかるようなきがする。そしてそこに泊まれるのに泊らなかった高山さんだからこそ、私は高山さんが好きなんだろうなと思った。

「犬が星見た」をいま一度、読み返してみようかな。
同行した銭高組の銭高老人はもうとっくにいないし、あの旅行の後で竹内好は亡くなったし、泰淳も病気になった。
百合子にとっては最後の夫婦での大きな旅行だった。
旅って、行けるときに行っておくものだと、つくづく思う。「行こうと思ったのに。。」で終わるのってつまんない。

ウズベキスタン日記も読みます!
posted by 北杜の星 at 07:39| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月29日

東邦出版社刊「自然栽培VOL7」

このところ玄米を食べている。
というのは、7月に湿疹が出て、それは昨年苦しめられた自家感作性皮膚炎とは違うものなのだが、湿疹が出るという症状は同じ。
病名は蕁麻疹と医師から言われ、病院が処方してくれた抗ヒスタミン剤は1日半飲んだだけでギブアップしてしまった。
だって吐き気、胃重、身体の倦怠感んがひどくて、よくみんなあんなに強く副作用の出る薬を飲めるなと思うほど体にダメージを受けた。
抗ヒスタミン剤でこうなのだから、ステロイドならどうなっていたことか。。
まぁ、薬が体に合わないと知りつつ飲んだ私が悪いのだが、ちょっとした人体実験のつもりもあったのだ。
でもやはり薬は私にはダメと納得。一日半のデトックスと湿疹を治すために私がとった療法は、玄米菜食だった。

さいわい私の家のすぐそばにはとてもいい自然食品店があって、完全無農薬の野菜(今年は人参が不出来で大きくならないばかりか、繊維ばっかり水気がない。でもお天気と相談しながらの野菜作りなのでしかたないのです)や米、その他ムソーやオーサワジャパンの商品を扱っている。
米は同じ北杜市のたんぼで、最近増えた「農業女子」3人組が作るものを購入。炊いてみるとこれがすこぶるの美味!
醤油をつけて焼きむすびにしたり、黒ゴマ塩をかけたり、梅干しで食べたり、あとは昆布と干し椎茸や煎り大豆の出汁で炊いた野菜。
それを食べ始めて三日目に、もうスゴイ大量の排便があって、「これは治ったな」と確信。
その日以来湿疹は消えていった。

この本の副題は「もう病気と闘わない 食で治す」というもの。
もちろん、すべての病気が食だけで治るとは限らないかもしれない。人間は必ず死ぬ生きものですからね。
でも食はとても大切だ。
私の湿疹がでた原因は、このところの過食だったのだ。しかもフレンチやイタリアンの外食が続くだけなく家ごはんもご馳走が多かったから。
内臓が悲鳴をあげていたのだ。
年齢を考えに入れないでバカバカ食べているから、こうなる。いくつになってもこの繰り返しで、とてもハズカシイ。。
(だけどこのように体が反応するのはいいことなんですよ。鈍感だともっとシリアスな病気になるまで気がつかない)。

だからこそ私にはときどきこういう本や、東城百合子さんの「あなたと健康」などを読む必要がある。読んで反省しなくっちゃ。
もっとも玄米と野菜ならどんなものでもいいというわけではない。スーパーで「安全・安心」などと書いてあるものはほとんどが失格である。
きちんとJAS規格の「有機野菜」や「自然農法」で作られた米・野菜を食べるべし。
すると免疫力がアップ、腸内がきれいになり、体内の酸化物質が減って アトピーや化学物質過敏症が改善される。つまり体が浄化される。いや、体だけではなくそれは精神にも作用するから不思議なのだけど。

この本にはあの青森で無農薬のりんご栽培をすることで有名な木村秋則さんも記事を書いている。
彼はたんに無農薬ではなく自然栽培でりんごを育て、自然栽培を広めるためにも尽力されている人だ。
ところで、「有機栽培」と「自然栽培」の違いをご存じでしょうか?
「有機栽培」というのは無化学肥料、無化学土壌改良剤、無化学農薬で栽培されているが、堆肥などの有機肥料は与えている。
しかし「自然栽培」は肥料もまったく使わずに栽培する農法である。
木村さんは有機栽培の害について別の本で語っておられたが、「有機」ならと選択した米や野菜や果物より「自然栽培」で生産されたものの方が、パワーがあるみたいだ。

「自然栽培」といっても、ほったらかしというわけではけっしてない。
草取りをするかしないかは自然栽培に従事するひとによっても違うらしいが、いろいろ手はかかるようだ。
怠け者の農法ではないのです。

私の家の近くのある田んぼは草ボーボー。
でもこれが自然栽培の田んぼか、はたまた単に人手がなくて草取りできないためなのかの判断がつかない。
限界集落なのでおじいちゃん、おばあちゃんばかり。
うーん、どっちなのかな?
posted by 北杜の星 at 07:24| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする