2015年07月13日

たかぎりょうこ「リバウンドの女王、人生最後のダイエット」

ダイエットをしたことがないという女性はあまりいないかもしれない。
じっさいにダイエットをしないまでも、したい、しなくっちゃと思っているのではないだろうか。
私は身長158cm(1cmくらいは縮んだかな)体重43sなのでダイエットの必要はないものの、この下っ腹のぜい肉はなんとかならないものかと考えている。
でもダイエットはリバウンドが怖い。
ダイエットをするたびに体重を増やす人がたくさんいるからだ。
この本の著者のたかぎさんも、そう。
「ダイエットは得意」というくらい何度も何度もダイエットとリバウンドを繰り返してきた。
こんなに体重増減が激しいと、体に悪影響を及ぼさないかと心配になるほどだ。

たかぎさんは身長154cm、体重48sをずっとキープしてきた。
けれど結婚後、家事を夫がするようになってから、昼は仕事場で菓子パン、夜はお店のお惣菜という買い食い生活を続けていて、気づけば体重が58sになっていたという。
そして会社をクビになったストレスで、65→68へ数字は膨らんだ。
精神的にウツになった彼女はなんとかしなくてはと「早起きグループ」に参加。
毎朝歩くことで次第に体重が落ちて、ウツからも抜け出した。

そこで落ち着けばよかったのに、太っている自分への嫌悪感から、お決まりの食べては吐くようになり拒食症へ。体重は36sに落ち込んだ。
怪しい薬にも手を出した。
ご主人の言葉に自分の異常性を知り、心療内科の診察を受け始めた。

めでたし、めでたし、と思っていたら、あれよあれよと言う間にまたまた60→70→80→85へ。
154cmで85なんて、どんなんだ!と想像もできないが、寝転ぶ写真はまるで「トド」(ごめんなさい)
そんなとき雑誌「クロワッサン」のダイエット企画に参加することに。
またもダイエットに成功するも、「リバウンドの女王」はこれでは終わらなかった。
そして「人生最後のダイエット」・・現在は53sになったとか。

これ、読んでいて疲れました。
読むだけで疲れるんだからご本人はさぞかし大変だったはず。
たかぎさんが痩せたいと思う理由は「もてたい」「好きな服を着ておしゃれしたい」というのが本音だそうだ。
女性ならわからないでもない。私のような年齢になれば「もてたい」とは考えないけれど、好きな服は着たい。

たかぎさんの文章を読んで頭に浮かび続けていたのが、いま30代の人を中心に社会現象になっているミニマリズムということだった。
ミニマリストたちは極力モノを持たない生活をしている。
家具も道具も服も必要最小限で暮らすシンプル・ライフをしている彼らは、他人からの自分がどう見えるかとかに興味がないのだ。
だから毎日同じ服を着ていてもちっとも関係がない。むしろモノをたくさん持つことで自由度を失うと考えている。
そんな彼らには欲望が少ない。欲望が少ないことが自由への道。
もし、たかぎさんがミニマリストたちのように、欲望が少なくなったら、苦労や努力なしに自然と痩せるのではないだろうか。
ミニマリストたちで太っている人はいないそうである。
欲望というのはモノを所有したいだけではない。食欲もリッパな欲望だからだ。

このミニマリズム、一時の流行ではないような気がする。発展し成熟した社会はこれからこういう方向へ舵取りしてゆくのではないかと思われる。

posted by 北杜の星 at 07:39| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月08日

高山なおみ「きえもの日記」

「きえもの」とはテレビドラマなどの撮影時に使われる食べ物のこと。
高山なおみは木皿泉脚本のドラマ「昨夜のカレー、明日のパン」において、料理監修の仕事を務めた。
それまでも映画で同じ仕事をしたことはあるが、テレビは初めてだった。

私はテレビドラマをまったく見ない人間なので、「昨夜のカレー、明日のパン」を知らなかったばかりでなく、木皿泉という脚本家が夫婦ユニットというこすら知らなかった。
(木皿泉の小説は読んだことあるのに。)オハズカシイ。。
その私がなにゆえこの本を読んだか?
それは高山なおみの文章が大好きだからだ。
彼女の感覚の素直さとそれをそのまま表現した文章には、どこも気負ったところがなく自然体。それは彼女の作る料理に通じている。

高山なおみは吉祥寺周辺に住まいがあるんですね。
駅のアトレ(以前のロンロン)にお惣菜を買いに行ったりしている。
家は借家で、大家さんの庭には柿の木があるようだ。その柿の木で忙しい日々の季節の変わり目を知る。
彼女の夫はゴミなどを利用しての造形作家だそうだが、広島出身で日常の高山さんとの会話がまんま広島弁なのがカワイイ。
多忙な時間の合間に夫婦で食べる食事は、たとえばカレーならジャワカレーとバーモントカレーのルゥを混ぜて使ったり、ごく普通で気取りがない。

でも仕事は大変だ。それもテレビドラマの現場である。
雑誌の撮影ならば一皿作ればそれで済むが、「きえもの」はそうはいかない。役者さんが何度もNGを出せばその都度、料理の差し替えが必要となる。
湯気の出るものは湯気がたくさん出る工夫が必要。(もっとも今はCGで湯気は簡単に描けるそうだが)。
じっさいに役者さんが食べるものだから、彩がよいだけでなく美味しくなければいけない。
真夏の暑い場所で料理をし、撮影の長い待ち時間に耐え、体はへとへと。
ドラマは7話で終了だったからよかったものの、10話だと倒れたかもしれない。
それでも監督以下全員と一つのものを作り上げる歓びは大きかった。そしてもちろん素晴らしい木皿脚本。

もし「昨夜のカレー、明日のパン」を見た人には、この本とてもうれしいものだろう。
見ていない私ですら、あの料理が映像でどのように映っているかを見たいと思うもの。
それを食べる役者さんの顔も見てみたい。
この本にはドラマで作った料理の写真やレシピが載っている。

ドラマの最後のほうで役者さんがインスタントラーメンに卵を落とすシーンがあったそうだ。
高山さんはラーメンについて、こんなことを書いている。
「インスタントラーメンには、人の生き死ににかかわる秘密があるって私も思う。なんでなんだろう。あのぼんやりとした情けない味。すぐに麺が伸びて汁を吸ってしまうところも。
蕎麦でも、うどんでも、お粥でもおにぎりでもない、弱っているとき悲しいときに似合う、いちばん気高い料理の景色。
だからインスタントラーメンはぜったいにおいしすぎちゃあいけない。」

ふーん、そうなのか。
インスタントラーメンを食べなくなって久しい私はこれを読んで、昔食べた「明星チャルメラ」を思い出した。
小さなオイルが付いていたあれを、ときどき夜食に食べていた時期があった。ああいうものを食べても翌朝そんなにお腹がもたれなかったのは、やっぱり若かったからか。
スイセイさんはサッポロ味噌ラーメン、醤油ラーメン、塩ラーメン全部合わせて、ラーメンを作ってくれたそうだ。
どんな味なんだろう?想像できないというか、想像したくないような。。
またドラマのスタッフが「焼きそばはUFO派ですか、ぺヤング派ですか?」と訊くのもなんだかおかしかった。焼きそばにも派閥があるんですね。
目隠しして食べて、これはUFOとかわかるのかな?
posted by 北杜の星 at 08:02| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月08日

立花隆ほか「揺らぐ世界」

この「ちくまプリマー選書」はプリマーの名の通り入門書である。
「学びたい」と願う人のためにものごとを初歩から普遍的に説き起こす本だ。
このプリマー選書に「中学生のための大学講座」というシリーズができている。
知の最前線にいる学者たちが、大学でのクオリティそのままの講義を中学生に向けてするという企画で、これまでに「何のために学ぶのか」「考える方法」「科学は未来をひらく」の3冊が発刊されている。
この4巻目となる「揺らぐ世界」では、「人種」「宗教」「格差」「グローバリゼーション」などについての講義がなされているのだが、中学生に理解できるだろうかと思わぬでもないが、もし本としてではなく講義として直接自分の耳で聴いたなら、興味が持てたはずだ。
知的好奇心を満足させられる快感を得たのではないだろうか。
ものごとは知ろうとしなければ知ることはできない。そのガイドをしてくれるここに並ぶ人たちの論旨と方向性は「揺らぐ世界」にあって揺らぎがないものだ。
といっても全独善的でも押し付け場ましくもない、とても公平なモノだと思う。

立花隆(ジャーナリスト) 「ヒロシマ・ナガサキ・アウシュビッツ」
岡真理(現代アラブ文学専攻) 「”ナタバ”から60年」
橋爪大三郎(社会学者) 「世界がわかる宗教社会学」
森達也(映画監督) 「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」
藤原帰一(政治学者) 「民主化とピープルパワー」
川田順造(文化人類学者) 「人類学者として、3・11以後の世界を考える」
伊豫谷登士翁(社会学者) 「グローバルに考えるということ」

どれも非常に興味深かった。
とくに岡真理氏のパレスチナ問題の根底に横たわるものがよく理解できた。次の項で読んだ橋爪大三郎氏のユダヤ教とリンクする部分があって、より理解度が深まった。
日本の問題としては森達也氏のオウム事件をきっかけとして、日本人が悪に対して寛容さがなくなり正義を振り回すようになった。その責任は社会の不安をおありたてるテレビやメディアにあるのではないか。
テレビや新聞は営利企業なので読者数や視聴率が大切。それを得るために殺人などの事件を大々的に過剰に報道するため、人々は治安の悪さに不安を募らせ、街のいたるところに監視カメラを設置するようになった。
しかし日本では実は、殺人事件は戦後すぐのピーク時の三分の一に減っているのだそうだ。
とくに若者の犯罪は世界的にもとても少ないという。(知らなかった・・日本の犯罪率はどんどん高くなっているのだと思っていた。)
そして罪を犯した人間に対して、日本は厳罰化する傾向にある。死刑も在置されている。
先進国で死刑制度があるのはアメリカと日本だけ。アメリカでは州によっては死刑廃止している。
しかし日本人の8割以上が死刑に賛成という。
厳罰化しても死刑制度を設けても、犯罪の抑止力にはならない。それどころか犯罪は増えるというのに。

18歳から選挙権があるようになるかもしれない。
それならばなおのこと、中学生の時から世界に横たわる様々な問題を考えるのは、自分の一票を大切にするためにも必要かもしれない。
このシリーズ、他のも読みたいです。

posted by 北杜の星 at 07:38| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月05日

ttkk(Kaori)「今日も嫌がらせ弁当」

反抗期高校生の次女に、毎日作ったシングルマザーの「嫌がらせ弁当」3年間の記録がこの本。
この本はttkkさんのブログがもとで、このブログはなんと一日100万ものアクセスがあったそうだ。
この人気ブログのことは知らなかった私だがタイトルの「嫌がらせ弁当」に興味ひかれて、ライブラリー予約した次第。

嫌がらせ弁当って、ご飯に梅干し一個が乗っかっているだけとか生卵だけが入っているとかの意地悪弁当かと思ったが、全然違った。
彩豊かなすべて手づくりの美味しそうなお弁当なのだ。
ただ目を引くのは、これが「キャラ弁」ということ。つまり人の顔とかがその日のお弁当のテーマに添って入っているのだ。もちろん食品でつくられているのですべて食べられるもの。

このお弁当を食べる娘さんは長女と違って無口でクール。
ましてや遅い反抗期で母親に向けては「ウザイ」としか言わなかったり、返事をぜずに無視したり。
そんな娘の性格にとって「キャラ弁」は恥ずかしい、止めてもらいたいものだった。
でも止めない母がここに居た!毎日毎日朝5時起きして作る嫌がらせキャラ弁は、母と娘のバトルであり、コミュニケーションだったから。

決して裕福な家庭ではない。
八丈島でのシングルマザーと娘二人。ttkkさんは島のお土産品工場で働き、家で内職もしている。
作っても作っても「美味しい」と言わない娘に、お弁当を作りつづける3年間。

スゴイ!リッパ!でもちょっとカナシイ。
このちょっとカナシイのが親というものなんでしょうね。
憎たらしい娘なのに。ときには本気で腹が立つこともあるだろうに。
親のありがたさは若い頃にはわからない。きっと娘さんは感謝をしているとは思うけど、母の本当の気持ちがわかるのはもっとずっと大人になってからだろう。

早起きして、一生懸命、あなたのために作ってますよ・・
ではなく、「嫌がらせ」と銘打つところが、恩着せがましくなくて素敵だ。
お弁当を毎朝作るのを、きっとttkkさんは楽しんでいたに違いない。だからこんなにもユーモアたっぷりなのだ。
(単純に「今度は何を作ろうかと考えるだけで、意欲が湧くよね。)

そして2015年1月27日(火)、高校最後のお弁当の日がやって来た。
3年間の母の想いをこめて作ったお弁当は、一人ではとうて食べきれない量。
白いご飯とおかずの豪華二段重ね。ご飯の上には表彰状が書かれていた。
「表彰状   娘殿
  あなたは
  嫌がらせのお弁当を
  残さず三年間
  食べ続けました。
  その忍耐を称え
  ここに表彰します。」
最後のお弁当のおかずの段には、
・プチトマト
・ポテトサラダ
・蓮根の味噌バター炒め
・明日葉の生ハム巻き
・たまご焼き
・ウィンナー
・長芋の肉巻きフライ

笑えます!泣けます!
母の愛情とユーモア。
こんなお弁当を3年間作ってもらった娘の幸せ。
どんな贈りものをもらったら、一生幸せでいられることでしょう。
ttkkさんのブログは現在も続いているようです。
  
posted by 北杜の星 at 07:26| 山梨 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月02日

津村記久子「二度寝は遠くにありて想うもの」

一人の地味で普通な日常のエッセイ集。

ときに東京へ行ったり、編集者と会ったりするものの、これが芥川賞作家の暮らしかと訝るほどに平凡な毎日。
でもだからこそ彼女と同年齢の女性たちの共感を得ているのだろう。
仕事をする若い女性が津村記久子の小説を読むと、「そうよ、そうなのよ」とまるで自分を代弁してくれているような気持ちになるだと思う。
そんな彼女が仕事を辞めて筆一本の生活になった。
だけど心配は不要。これまでの仕事生活のあれこれ、例えば上司とのシリアスな問題のほかにも、コピー機などの機器にてこずる経験などはしっかり作品に活かせる人だと私は疑わない。
ごく普通の日常を俯瞰しながら切りとる感性は、やはり「作家」ならではのものだ。
そしてこれは彼女が関西人だからなのかもしれないが、文章にはそこはかとないユーモアが漂っている。
別に彼女は面白がらせようとしているわけではないのだろうが、自虐ともいえるそのユーモアが私は好きだ。

ただエッセイを読んでいると、「こんなに何の社会的問題意識がなくていいものか」と、老婆心が起こって来る。
現在の日本は一見平和そうでも、言論は抑圧されつつあるし、きな臭い雰囲気がそこかしこに見え隠れする。
ある作家が「今の日本の若い作家は内へ内へと内ばかりにこもっていて、外へ意識を向けようとしない」と言っていたけれど、確かにその通り。
グローバルは政治や経済だけのことではない。もう少し意識が社会的であってもいいような気もするのだけどな。。
見ようとしなければ見えれないこと、知ろうとしなければ知らないで終わることがたくさんあることに気づいてほしい。
・・平和すぎるこういうエッセイを読むと、かえって不安になるのです。

津村記久子がときおり書くことに、「よく道を尋ねられる」というのがある。ここにも出てくる。
自分では「気安い顔」のせいだと言っている。
じつは私もよく道を訊かれるのですよ。それって私も「気安い顔」だからなのか。
顔や姿が美しかったら遠巻きに眺めるだけで近寄りはしない。ましてや話しかけないはずだ。
それをしょっちゅう話しかけられると言うのは、相手に警戒心んを覚えさせない顔をしているからだろう。(ちなみに私はまんまる丸顔)。

これはヨーロッパ、とくにイタリア人の特性なのだろうが、イタリアでイタリア人から道を訊かれることがある。
これって日本人は絶対しないと思う。
それだけではない。ある時など、パリのシテ島でイタリア人から「あれはどこになる?」と訊ねられた。
「私は知らないから、誰か他の人に訊ねて」と(これが精一杯の私のイタリア語)で答えると、なんの屈託もなく「グラッツェ」と離れて行った。
パリで、日本人が、イタリア語で、返事をしたことにこれっぽっちの疑問も持たないなんて!
そうえいばイスタンブールのブルー・モスクの前のベンチに座っていた時、イタリア観光客の団体が来た。
座るところを探していた初老女性に「どうぞお座り下さい」とこれもイタリア語で言ってあげたら、彼女もなんの疑問もなく「グラッツェ」と座ったのだ。
トルコで、日本人が、イタリア語で、カタコトだけど話をしているんですよ。「?」とフツーは思うでしょ。
イタリア人というのは宇宙人です。

津村記久子はそんな宇宙人とは程遠い女性。
真っ当な「普通さ」を、真っ当な観察眼で、しっかり文章にできる作家さんです。
posted by 北杜の星 at 07:58| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月30日

瀧羽麻子「サンチャゴの東 渋谷の西」

瀧羽麻子という作家さんはこれが初読み。
「サンチャゴの東 渋谷の西」というタイトルに惹かれてライブラリーから借りてきた。
表紙のイラストを見るとライト・ノベルかという印象だったが、読んでみると心の機微が細かく描かれていて思いのほか良かった。
タイトルの小説があるわけではなく、並ぶ6つの短篇にはすべて土地の名前がついている。
「サンチャゴの雪」、津軽のリュウニー」、「上海の仏蘭西料理店」、「瀬戸内海の魔女」、「アントワープの迷子」、「渋谷で待つ」。

全編を読むと、どこの土地であれ、出会い、別れ、人々の営みは同じだなと思わされる。
でも出張で訪れたサンチャゴの空港のタクシー待ちの列で、初恋の相手に出会ったらびっくりするよね。
これぞ運命の出会いと思ってしまうのも無理はないけど、出会いがほんの偶然にしかすぎないのか必然だったのかを決めるのも、運命なのかもしれない。

サンチャゴも津軽も上海もアントワープにも行ったことがないけれど、「瀬戸内海の魔女」の島には数年前友人と二人で行った。
ここでは島の固有名詞は出て来ないが、アートの島、直島のことだ。
ベネッセが島全体に現代アート美術館や「家プロジェクト」と呼ぶ芸術家たちによる建物などがつくり、日本からだけでなく外国人もたくさん見学に来ている。
その島にやはりベネッセが経営する高級リゾートホテルがあるのだが、「瀬戸内海の魔女」はこのホテルのスウィートに泊まったのだ。
ホテルはあまりにも値段が高くて、私たちはランチだけを楽しんだ。
季節が春で、瀬戸の海がうららかに光っていた。

小説や映画のよいところは、一度でも訪れたところが出てくると、親近感がわくだけでなく、思い出の追体験ができることだ。
もし世界中を旅した人ならその思い出と思い出を喚起させものをたくさん持っているのだろう。うらやましい。

サンチャゴか、一生行かずに終わるんだろうな。
この本、なかなかの佳作でした。
posted by 北杜の星 at 07:42| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月17日

東城百合子「自然療法」

この本これまで何冊友人にプレゼントしたことか。
といっても病院大好き、薬を信奉しているという人には差し上げない。
医者にかかってもどうもねとか、なるべく自然な方法で長続きできるものがいいという人にだけ贈っている。

自然療法を日本全国に広めた東城百合子さんはその名を知る人からすると「百合子先生」と崇められている。
御自身が病弱だったことから、玄米菜食と自然の手当を実行し、健康を手に入れた後には是非みんなに知ってもらいたいと「自然療法」運動に尽力してこられた。
今年90歳くらいだろうか。
その声は張りがあり、話し始めると止まらないエネルギーには感嘆するばかり。
世田谷の成城学園にある「あなたと健康社」は東城百合子が主宰するところで、料理教室や健康に関する講演、枇杷の葉温灸の講習、売店などがある。
私はここで枇杷の葉温灸を教えてもらい、何度も救われてきた。
肩こり、首痛、腰痛、胃のもたれなどなどによく効くし、なによりとてもとても気持ち良い。

この「自然療法」には枇杷の葉温灸だけでなく、身近にある草や木、台所にある野菜などを使って、誰でもできる健康法が紹介されている。
里芋を使っての里芋パスター、これはねんざなどには非常に効いて痛みが消える。
こんにゃく湿布はこんにゃくをお湯で温めてタオルにくるんで肝臓や背中の腎臓などに当て、湿布の後に冷たいタオルでさっと拭くもので、疲労回復によい。枇杷の葉温灸と比べると簡単だし煙がでないので部屋が臭くならない。
風邪でノドが痛い時に焼き葱を咽喉に貼るのは知っている人が多いが、熱があるときに青菜を頭にかぶせるのはご存知だろうか。これは青菜(キャベツの葉でもいい)が熱を冷ますからで、脳卒中を起こしたときに救急車がくるまでの緊急手当てとしてもいいそうだ。

我が家では身体がとことん弱った時には玄米クリームを食べる。
一度自分で作ったことがあるがとても大変だったので、以来自然食品店で買うようになった。
(元気じゃない時に大変なことをするってそんなエネルギーがないんですよね。)
梅肉エキスは毎日耳かき一杯程度を夫婦で摂っている。これは腸を強くするのに最適な食品だ。
合成ビタミンなどのサプリメントよりこういうものの方が断然いいと思う。

この本には病気によってのそれぞれの療法が述べられている。
食事は玄米菜食が基本だが、手当は様々な方法があるので役立つことが多い。
なぜ何度も読んでいるこの本を今回ブログで紹介したかと言うと、私の皮膚湿疹が治らないからだ。
病院に行っても治らない、薬を塗っても治らない、ということで、「そうだ、『自然療法』があった」と思いだしたのだ。
本によると皮膚には、梅肉エキスを一日三回、ハト麦茶や枇杷葉茶やくず湯がいいらしい。
また痒いときには手で掻かず、大根の輪切りで肌をこずると酵素が痒みに効くという。(冷たいだけでも気持ちよさそう)。

どうしても治らない病気はある。人間はいつか必ずなにかで死ぬのだからそれは仕方ない。
でも病気やけがには自然治癒するものだってある。というか、本来人間の身体はそういうものだと思う。
自然素材で出来てている人間の身体には自然のものを使って治したい。
私の皮膚の湿疹は、「出たがっている」のだ。それを薬で抑えても根本的な解決にはならず、同じ条件下になるとまた出てくるに決まっている。
おおもとを治さずに症状だけとっても仕方ないではないか。(もっともひどい症状の場合には軽減させることは必要だけど)。
それにステロイドのようなホルモン剤は身体の中のホルモンバランスが崩れてしまうのが心配だ。

この「自然療法」を家庭に一冊常備しておくと、なにかの時に助けられます。
自然食品店などに置いてあるので、一度手にとって読んでみてください。
posted by 北杜の星 at 07:24| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月13日

田中慎弥「宰相A」

これは意欲作と呼ぶべきか怪作と呼ぶべきか。
読む人によって評価は分かれるのではないだろうか。

作者自身を彷彿とさせる作家Tは母の墓参りの途中で、突然パラレルワールドに迷い込む。
そこはアンゴロサクソン系人種が統治する国家で、Tのような人間は旧日本人と呼ばれみんな居住区に押し込まれている。
しかし旧日本人の人口は支配するアンゴロサクソンより数が多いので、反乱を防ぐために宰相はAという旧日本人がなっている。
もちろんAは傀儡だ。
Aはいつも演説をするのだが、「戦争こそ平和の基盤だ」と民衆を煽っている。

作家Tは小説を書くための紙と鉛筆を求めるが、旧日本人に書くことは許可されていない。
Tは旧日本人の英雄Jに瓜二つで、Jの生まれ変わりと祭り上げられ、かれはしだいに反体制運動のリーダーとなってゆく。
しかし結末は・・

おおいなるパロディととってもいいかもしれない。
現在でもこの国を本当に支配しているのは、どこかの国のような気がする。
宰相Aはあの首相Aだとして読むと、なにやらツジツマガがあっているのが怖いけれど。
この小説の意図がどこにあるのか、田中慎弥に訊いてみたいところだ。

そういえばあの首相って、田中慎弥の住む山口県下関市が選挙区だった?
そうだとするとますますこれは、パロディですね。
宰相Aの「戦争主義的世界的平和主義」は首相Aに通じるものなぁ。

この国の未来小説ではないことを祈るのみです。
ただ田中慎弥が政治的な意味を持ってこれを書いたのだとしたら、私は個人的にもっと違うものを彼には書いてほしいものだと考えています。

春だから明るい気持ちになれる小説を読んだほうがいいかも。(拷問場面は怖かったぁ)
posted by 北杜の星 at 07:27| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月30日

デイビッド・パールマターほか著「いつものパンがあなたを殺す」

この本、いろんなところで紹介されている。
先日東京で友人たちと会ったさいにも、この本のことが話題に登ったが、タイトルがセンセーショナルだから気になる。
もっともパン屋さんはたまったものじゃないだろうけど。

パンが名指しされているがパンだけではなく、パスタ、シリアルなど小麦由来のグルテンを含む食べもの全般に加え、多量の炭水化物(糖質)がやり玉にあがっている。
つまりグルテンを食べていると、脳の障害(アルツハイマーなど)が起こりますよということ。
最近世の中は炭水化物が悪者になっていて、炭水化物を除去する食事を推奨、啓蒙する本がとても増えている。
もともと人類は穀物を栽培する以前は森の中で生活していて、狩猟した動物性食品と果実と少しの野菜を食べて何万年も生き延びてきた。
それが栽培された穀物を摂取することで、病気が生まれたというのがこの本の主旨だ。

つい先ごろアメリカ当局は「コレステロールは悪くない」と発表した。
この本でにおいてもコレステロールが低いと認知症になるリスクが高いと書かれている。
コレステロールを恐れず、質の良い脂やオイルを摂るべきだと。
砂糖やチョコ、バナナなど果物などを食べると身体にも脳にも悪い。小麦はたとえ全粒粉であっても同じ悪い作用があるそうで、精白されているかどうかは問題ではないらしい。
そして炭水化物をたくさん摂って肉や卵や脂肪を避けていると起こる弊害がじゅんじゅんと述べられている。

私、これが全部間違っているとは思わない。
検証された事実もあるだろう。
でも人類はもう何万年もの間、栽培された穀物を食べてきたことも本当だ。その長い間には身体が穀物に順応しているってことないだろうか。
肉だって魚だって果実だって、現在私たちが得ているもののほとんどは、牧畜や養殖や栽培だ。
こういう偏った栄養学はあと何年かすると「あれは、間違いでした」と笑い話になりはしないかなと思ってしまう。

第一ここの著者の奨める四週間メニューが出ているが、食事だけではなく何種類ものサプリメントを摂らなければならないようで、食事の完全性を疑ってしまう。
何種類ものサプリがなければ完結しない食事っておかしいよ。
糖尿病の既病があったり肥満の人などは試す価値があると思うが、こう極端なモノを私は信じないなぁ。
栄養学はコロコロ変わる。なので私はあまり信用していない。
私が食べ物に関して気をつけていることは、「陰陽」のバランスをとること、できるだけホールを食べることなどだ。住んでいる四里四方でとれたものを食べるのが理想だが、夏のお野菜では実現できるけれど、遠くイタリアの生ハムやフランスのチーズなど我が家ではずいぶん食べてるからこの点は良くないかも。
グルテンが悪いとなるとフランス人のパン好き、イタリア人のパスタ好きはどうなるの?ドイツ人やロシア人のライ麦パンも?
彼らがみんなアルツハイマーになるとは思えない。
もっとも、ラーメンとライスとか、パスタにパン(これは私の夫です)などの炭水化物過多はやめた方がいいけどね。あれは糖尿病になっちゃいます。

食生活の参考になる人もいるかもしれないけれど、うーん、この本を評価するとしたらまぁ、65点でしょうか。

posted by 北杜の星 at 07:41| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月19日

田中小実昌「くりかえすけど」

大好きな田中小実昌の未発表作品集がこれまた大好きな出版社、幻戯書房から出た。
しかも「銀河叢書」という新しいシリーズの第一回目の発刊本として。
「くりかえすけど」について書く前に「銀河叢書」のことをまず知ってもらいたいと思うので、少し長いけれどコピペするので以下の幻戯書房newsを読んでみてください。


読書人のための、新たな文芸書シリーズ
銀河叢書
2015年1月より、発刊いたします。

敗戦から七十年。
その時を身に沁みて知る人びとは減じ、日々生み出される膨大な言葉も、すぐに消費されています。人も言葉も、忘れ去られるスピードが加速するなか、歴史に対して素直に向き合う姿勢が、疎かにされています。そこにあるのは、より近く、より速くという他者への不寛容で、遠くから確かめるゆとりも、想像するやさしさも削がれています。
長いものに巻かれていれば、思考を停止させようと、儚くも居心地はいいことでしょう。しかし、これを疑う者は、居場所を追われることになりかねません。
自由とは、他者との関係において現実のものとなります。いろいろな個人の、さまざまな生のあり方を、社会へひろげてゆきたい。読者が素直になれる、そんな言葉を、ささやかながら後世に継いでゆきたい。

幻戯書房はこのたび、「銀河叢書」を創刊します。
シリーズのはじめとして、戦後七十年である二〇一五年は、戦争を知っていた作家たち≠主なテーマとして刊行します。星が光年を超えて地上を照らすように、時を経たいまだからこそ輝く言葉たち。そんな叡智の数々と未来の読者が、見たこともない「星座」を描く――
「銀河叢書」は、これまで埋もれていた、文学的想像力を刺激する優れた作品を、厳選して紹介してゆきます。それは、現在の状況に対する過去からの復讐、反時代的ゲリラとしてのシリーズです。

その「戦争を知っていた作家たち」の初めてとして発刊されたのが、この田中小実昌「くりかえすけど」と小島信夫「風の吹き抜ける部屋」である。
以後隔月で、舟橋聖一、島尾ミホ、石川達三、野坂昭如と続く予定だ。
なおこの叢書の条件として、単行本未掲載未発表ということなので、おかげで田中小実昌もこうして読めるのがうれしい。


さて、「くりかえすけど」。(以前の田中小実昌の小説の中に何度も何度も「くりかえすと」というフレーズが出てきていた、あれは「ポロポロ」だったかな?)
いつもコミさんの小説を説明するのは難しい。書いてあることが難解というわけではないのに、どこかノラリクラリとしていて、でもこのノラリクラリにだまされてはいけないのだ。
底には結構硬質なものが横たわっているからだ。
この作品集には戦中戦後、ほとんど私小説として書かれているのだが、広島県呉という軍需そのものの町に育ち、戦争に敗れ帰国し、戦争をした相手のアメリカ進駐軍基地に出入りし、そしてアメリカと繋がって生活するという主人公の不条理さが伝わるものだ。
戦争をした人間の愚かさ、その愚かさは「世間」そのもの。ノラリクラリのなかに痛烈なコミさんの戦争への拒絶がある。

NYタイムスの日本支局長が「日本のメディアは最悪」と言うように、テレビも新聞も政府の御用機関となってしまった感があるが、出版はこの幻戯書房のようにまだ頑張っているところがある。
辺見じゅんさんが亡くなった時はどうなるかと心配したが、立派にこうして不屈の精神で続いているのは心強いことだ。
ただこれはしかたないことかもしれないけれど、もうちょっと価格が安ければいいのになぁ。
「銀河叢書」シリーズはずっと大切に読んでもらいたいとしっかりした装丁になっていることもあって、税抜きで3200円。
小島信夫の本も買いたいけど、ちょっと、いやだいぶ悩む。。でも応援します!
posted by 北杜の星 at 07:08| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月12日

TOKYO INTELLIGENT TRIP「TOKYOブックカフェ紀行」

この本はシリーズもので、東京のインテリジェントなシーンを紹介するもの。(本がINTELLIGENTというのも短絡的のようなきがするけど)。
他に「TOKYO図書館紀行」「TOKYO本屋さん紀行」などが発刊されている。
そもそもこれは夫が借りてきた本だ。彼がブックカフェの設計を頼まれたので参考になればと考えたらしいが、役には立たなかったそうで私がページをめくってみた。
本が好き、お茶するのが好きな私には、ブックカフェは魅力的な場所。
しかしどちらも好きとはいっても、そこが心地よい場所となるには条件があると思う。
センス良い空間なのは大切だけどあまりピカピカしてたり、コジャレているのは落ち着かないし、だからといって埃っぽいのも困る。
どういうブックカフェがお好みか、この本の中で探してみるとよいだろう。

私は八ヶ岳南麓に移住する前は荻窪、西荻に暮らしていた。
中央線は「中央線文化」という独特の文化を作って来たところだ。
過去から現在にいたるまで文士、作家、編集者、学者がたくさん住んできた。
だから本屋、古本屋はそれこそゴマンとある。ブックカフェもかなり以前からできている。
でもなんというか、本好きの私でもその店に出入りするにはちょっと勇気が要る感じの店もあった。
雰囲気があり過ぎて、店主が個性的過ぎて、フツーの私には敷居が高かった。

だけどこの本に紹介されているブックカフェはそうではないのでご安心を。
コーヒーだけでなく、お酒と本という組み合わせも楽しめたり、ランチができる店も紹介されている。
場所もカルト的な中央線沿線だけでなく(別に私は中央線が嫌いなわけではなく、私なりに愛しているんですよ)、千代田区や港区などあって、お昼時やお勤め帰りに寄れるのがいい。

ブックカフェの写真が載っているがそれぞれの本棚の本の並べ方が面白い。
整然と並んでいるのもあれば、雑多に横に積んで置いてあるのもある。
こういうとところに店主の性格があらわ手ているのだろう。

私の家から車で10分のところにも素敵なブックカフェがある。
星野リゾートが経営している小淵沢リゾナーレというホテル内にあるブックカフェだ。
このホテルはちょっと変わっていて、建物がまるでイタリアの小さな山岳都市の家々のように連なっているのだ。設計したのはイタリア人建築家のマリオ・ベリーニ。
通りを散歩すればイタリアの町を散歩している気分になれる。
その通りにはいろんなショップがあって、ブックカフェもそのなかの一店なのだが、他の建物に人がいない時でもどういうわけかこのブックカフェには若い人がたくさん来ていて、いつもびっくりしてしまう。
高原リゾート地らしく、小説よりも庭の手入れの本とか自然に関する本とか紀行本とか、じっくり読むというより広げて見るといった本が多い。建築やインテリアの本もある。
田舎暮らしに飽きてちょっとセンスある都会っぽい風に吹かれたいときに、私たち夫婦はリゾナーレを散策する。
でもブックカフェでお茶はしなくて、立ち読みがほとんど。
美味しいケーキもあるのだからじっくりお茶を飲みながら本を読もうと思うんだけど、夫は「さぁ、行くぞ」と自分の読みたい本を読み終えたらさっさと帰るのだ。
そして家に帰ってお茶することになる。。
posted by 北杜の星 at 07:37| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月09日

高山なおみ「高山なおみのはなべろ読書記」

「料理家 高山なおみが、鼻とベロで味わった本の話しと、そこから生まれた料理の物語。全24話レシピつき」と帯文が書かれているように、これは読書記とエッセイと料理レシピが合体した本だ。
私、こういうの大好き。
読書記だけではつまんないし、あまり知らない人のエッセイといってもピンとこないし、新しい料理を作ることに怠慢な私には調味料や材料の分量が書いてあるレシピ本はどうもね、という気がしないでもないので、3つ一緒になった本ならば・・と読み始めたのだけれど、高山さんの文章、とても素直で読んでいて心地よくふうわりした気分になれた。
目で読むだけでなく、鼻も舌も利かせて本を読むって素敵だ。
おそらく高山なおみという人は鼻とベロとべろが鋭いだけではなく、感性すべてが鋭いに違いないのだろうけれど、その鋭さを表に出さずにいられる賢い人なのだと思う。
テレビも雑誌も見ないので彼女がどんな人が知らないが、この本でいっぺんにファンになった。

24冊の本が紹介されていて、それにまつわる話や単なる身辺雑記(たとえばご主人との散歩とか、ご主人が風邪で寝込んだ時のこととか。。ご主人がかなりの頻度で登場する)が書いてあるのだが、料理は必ずしも本に出てくるものではなく、本から触発されたものなどがほとんど。
24冊のなかには私が読んだ以下の本もあった。
戌井昭人「松竹梅」(豚のしょうが焼き)、吉田篤弘「それからはスープのことばかり考えて暮らした」(じゃがいものサラダのサンドイッチ)、堀江敏幸「なずな」(グラニュー糖トースト」、小川洋子「ことり」(豆のポタージュスープ)、梨木香歩「家守奇譚」(鶏肉の煮物)、武田百合子「犬が星見た」(ウズベキ風雑炊)、川上弘美「パレード」(そうめん)、よしもとばなな「スナックちどり」(豆の煮込み)、西加奈子「ふくわらい」(鍋焼きうどん)、最相葉月「セラピスト」(お弁当)、幸田文「みそっかす」(五目ご飯とかき玉汁)。

そして私が読もうと思ってまだ読んでいない本が2冊。
吉本隆明の「フランシス子へ」と山下澄人の「緑のさる」。
「フランシス子へ」は吉本の飼っていた猫が死んだ後に書かれたもの。高山さんは娘のよしもとばななさんから聞いた「バター入り卵焼き」をここで作っている。
コレステロールの塊みたいな食べ物だけど、確かに熱々のご飯に乗っけてお醤油をちょっとたらすとじつに美味しそう。
山下澄人のような純文学も読むんですね、高山さんは。この本からインスパイアされたのが「かぶの煮物」というのがなぜなんだろうと訝しいのだけれど、そのわからなさが山下澄人の小説っぽい。

料理はどれも気取らない、簡単にできるものばかり。
グラニュー糖トーストなんて、そこらへんのスーパーかコンビニの食パンと断ってある。こだわりの天然酵母のパンじゃダメでフカフカ真っ白のあの自然食品派から怒られそうな食パンじゃないといけないというのがいい。
豚のしょうが焼きレシピはちょっと目からうろこだったかな。
豚肉をフライパンで一枚一枚焼きつけて(たくさんのときはお皿に取って置いて)、それからフライパンに肉を戻してタレを回しかけるという作り方。
豚肉をタレに漬けこむんじゃないんだ。今度試してみよう。

私は漫画を読まないので知らないのだけれど、高野文子作品などについても書かている。
posted by 北杜の星 at 07:47| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月02日

多和田葉子「献灯使」

これは多和田葉子でなくては書けない小説集ではないだろうか。
このなかにある中短編と戯曲はすべてあの3・11から生まれている。
3・11以降もっとも早い時期に書かれた「不死の島」は表題作のベースとなる作品で、短いものだけに直接的な怖さを感じる。

未曾有の災厄に見舞われ都市からたくさんの人々が去った近未来のこの日本。
鎖国状態で外来語は禁止され、車もネットもない。長野から京都への中山道沿いに移住したひとも多い。
老人たちは100歳を超えても元気で現役、永遠の命を約束されたかのようだが、若者は体が弱く早死にしている。
小説家の義郎も100歳を超えているが、「貸し犬屋」から犬を借りて散歩するほど元気で、脆弱だが賢く美しい曾孫の無知の介護をしている。
無知の両親は若死にし祖父母は沖縄に移住したからだ。
どれほど脆弱かというと、無知は固形物は食べられずジュースを飲むのだが、それもいちどきにはのめないほど。
そんな無知が15歳になったとき「献灯使」として秘密裡に外国に行くことになる・・

地震や津波以上に原発事故の恐ろしい闇の未来が描かれている。
これがまったくのSFと言いきれないのがなおさら怖い。
それでもここには言葉の魔法があって、多和田葉子の言語感覚はこんな暗い世界にさえもユーモアを運ぶのだ。
思わずクスリとわらう箇所がたくさんあった。
「笑うなんて不謹慎かしら?」と思ってしまうほど、この作品のリアルさは真に迫っている。

多和田葉子は3・11が起こった時、居住地のベルリンにいたそうだ。
日本から遠く離れた土地にいて、押し寄せる情報の中で、何を考えたのか。
考えた結果が、やはり「言葉」だったのだと思う。
大災厄の前に言葉を失いつつ、言葉を信じるしかなかったのではないだろうか。
それがこの小説集として結実した。

無知のような若者が10年、20年後の今の子どもたちでなければいいと願わずにはいられない。
posted by 北杜の星 at 07:53| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月15日

田中りえ「ちくわのいいわけ」

田中りえは田中小実昌のお嬢さん。
知ってはいたが読むのは初めて。
正直、驚いた!そして後悔した。
なんでもっと早く読まなかったのか。この人、スゴイ。よくわからないのだけど、とってもスゴイ。
それなのに、彼女はもういない。2013年に癌で亡くなっていた。

軽さ、緩さ、どこにも力が入っていない間延びした感じの文章。
この感じは父親のコミさんに似ている気もするが、コミさんともやはり違う自然体そのもの。
スゴクなさそうでスゴイのがなかなかの曲者だし、事実そのままを書いたエッセイのようでいて、やはり小説のところが油断ならない。

シベリア鉄道で知り合ったドイツ人の夫と結婚しブレーメンに住み息子を産んで、離婚して日本に戻った。
その顛末を描いたのがこの小説なのだが、そこにたどり着くまでにずいぶんと道草をしている。
でもこの道草が面白い。
田中小実昌がロスアンジェルスで亡くなった経緯とか、東京の実家の同じ敷地に住む画家の伯父(母の兄)のことなどがすこぶる面白い。
名前は出てこないがこの画家とは日本画壇歳高齢の野見山暁治で、コミさんは野見山の妹と結婚していた。
私の友人に野見山さんと仲の良い人がいて、彼が東京にいるときには一緒に食事をしたり飲みに行ったりしていて、時々その話を聞いていたのだが、この本の中の野見山さんは意外と普通で姪の長い別居のことを心配したりしている。

でも普通といってもそこは芸術家。やはりどこか変。常識とはかけ離れている。この家族はみんな変なのだ。
なかでも一番変人なのはコミさんの妻、りえさんの母親ではないだろうか。
孫の世話はしない、夫が外国で死んでも現地に行こうとはしない、料理を作って誰かに食べさせようと思ったことがない・・
こんな変な人たちに加えて、ドイツ人の夫もどう解釈していいのかわからない変人奇人ぶりなのだから、りえさんがフツーに思えてしまうほど。

だけどこの本の最大の魅力は描かれている内容ではなくて、彼女の文章感覚だと思う。
これはどうしても伝えることができない。
是非読んで、体験してみてくださいというしかない。
ここには手垢のついていない文章がある。端正な美文がつまらなくなる。
こんなスゴイひと、知った時にはいなくなっているとは、本当に残念。。
posted by 北杜の星 at 08:33| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月09日

嶽本野ばら「通り魔」

暗く深い底に沈んでいっくような気持ちで読み終わった。
この感じは2年くらい前の辻原登の「冬の旅」と似ていた。悪い方悪い方へと転がってどこにも救いがない。
次のページを繰るのが怖いいが、その怖い予想通りの結末になるのだからますますやりきれない。
それにしてもあの嶽本野ばらがこんな重い小説を書いたとは。。

伊吹のお山を仰ぎ見ながら育った主人公にはコミュニケーション障害があった。
すごく重い障害ではないが、人と付き合うのが苦手で受け答えにも時間がかかるため、誤解を受けやすい。
高校に進んだものの自分がクラスメートから嫌われていることを知り、これ以上この関係は改善しないと見切りをつけ退学。
母が経営するスナックの客の縫製工場で裁断の技術校として正規採用された。
ほとんどが中国人の職場はかえって彼には気楽で、仕事も覚え順調に仕事をしていた。
彼のことをバカにせず優しくしてくれる同僚の若い女性に恋心を抱き、彼女が自分の実家のすぐ近くに住んでいることを知った彼は、彼女の住まいを覗き見するようになった。
そのことが警察沙汰になり工場を辞めざるをえなくなり上京。
しかしコミュニケーション障害の彼には肉体労働しかない。その仕事も常時はなく、だんだん追い詰められていった。
そして凶行は起きた。

誰一人自分の味方がいない寄る辺なさ。
仕事さえ見つかれば、彼なりに生きていけたはずなのに。
知りあう人知りあう人からバカにされ、信じ切っていた人間からも裏切られる。
母や父も自分を棄てた。

もちろん、残虐な犯行は許せない。
同じ境遇の人間みんなが彼と同じ行動をとるわけではない。
それでも、やるせないんだよね。
あんなに善良だった少年があんなことをするなんて。
誰か一人でも優しい言葉をかけ、ご飯でも食べさせてあげていれば。
これまでの私の人生においても多分、こういう人が一人か二人はいたのかもしれない。
そういう人に通りすがりの人間が手を差し伸べることはほとんど不可能だ。
それならどうすればいいのか?
この帯文にあるように「誰が悪い?」「みんなが悪い?}とあるが、本当誰のせいなのかと暗澹たる思いになった。

東京ではあの伊吹のお山が見えないことも彼にとっては絶望だったのかもしれない。
posted by 北杜の星 at 07:51| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月30日

高樹のぶ子「少女霊異記」

日本の古典に詳しくないので知らなかったが「日本霊異記」はこの国最古の仏教説話集だそうだ。
正式な名称を「日本国現報善悪霊異記」というらしい。ありがたそうでもありうさんくさそうでもあるタイトルだな。
この「日本霊異記」をこよなく愛する高畑明日香という20代の女性が主人公。
明日香は奈良町の壊れかけたような古い祖父母の家に一人で住んでいる。母はいるが名古屋に移り住んでしまった。
家の庭には大きな樹があって、餌付けをしたカラスの「ケイカイ」がいる。
明日香は薬師寺に勤めて1年。「若い人には退屈でしょ」と言われるが彼女は結構仕事を楽しんでいる。

そんな明日香がちょっとした事件を解決するというミステリーがこの本だ。
解決を助けてくれるのがカラスの「ケイカイ」。
それは神武天皇を導いたとされる八咫(やた)烏をもじっているのだろうか。

ミステリーを期待して読むと正直あんまり面白くないかもしれない。
でも明日香の地名好きにおつきあいするつもりで読めば、これは知的好奇心を満足させるものがある。
地名の由来は「日本霊異記」からのもので、そうか、地名とはこういう変遷を経て現在に至ったのだなとわかる。

このところ聖武天皇と光明皇后を描いた葉室麟の「緋の天空」を読んだばかりで、奈良づいている。
もともと私は大の奈良好きで、京都のちまちました風景より、奈良の大らかな風の渡りの方が性に合っているのだけれど、夫は「奈良はどこに行くにも道が混んでいて、しかもその道沿いが汚くていやだ」と言う。
わかんないヤツだなぁと憤慨するのだけれど、確かにそういうところもあることはある。
こういう本を読んで奈良好きになってほしいなぁと、年に一度は奈良に行きたいと願う私は思うのだけれど。。
posted by 北杜の星 at 07:49| 山梨 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月22日

嶽本野ばら「傲慢な婚活」

主人公は芸術家。
以前、大きな文学賞の候補となったこともある。
しかし芸術にこだわりストイックな彼は貧窮している。だから婚活することに。
すると資産家の若い女性から望まれ。。

と書くとなんだかコメディ小説のようだがそうではない。
この男、じつに傲慢な芸術家で自意識の塊。
芸術全般に対して強いこだわりを持っている。
こうしたところは嶽本野ばら本人ではないかと、とてもフィクションとは思えない。
ほとんどが私小説なのではないだろうか。

もともと嶽本野ばらというひとが自意識だらけのひと。
彼の小説にでてくるのは「少女」「お洋服」、そして「性描写」。
その「お洋服」はエミリー・テンプル・キュートとかヴィヴィアン・ウェストウッドのような少女劇画的なもの。
普通の大人ならちょっと引くような登場人物とストーリーなのだが、少女の痛々しさを表現する文体はしっかりしていてつまりは、際どいけれど踏みとどまっている印象なのだ。
ただこの「傲慢な婚活」もそうだが、登場人物も作品そのものも、読む人の好き嫌いは激しく分かれると思う。
私は嫌いじゃないのだけれど。
これも率直さが悪くなかった。

嶽本野ばらがマリファナ所持で有罪になった時には、いかにもな彼らしい感じがしてもうこれまでかと危惧したが、彼の感性は出版界でも貴重だったためか、復活できたのはよかった。
良くも悪くもこれが彼の個性なのだから、今後もこの調子で突き進んでほしい。
(意外に打たれ強いひとなのかもしれない)。
今後もいろんな展開ができそうな予感が私はしている。
けれど彼にはマイナー作家でいてほしいな。

posted by 北杜の星 at 07:50| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月16日

高橋便「白隠 江戸の社会改革者」

私が50代の時に数年通っていたN塾という呼吸法教室では、頭のてっぺんにバターを乗っけて、それが温まって解けたものが身体全体を覆うという、いわゆるイメージ療法をしていた。
教室に通っていたときには知らなかったのだが、それが白隠禅師の「ナンソコウラン」だということをある本で知った。
「ナンソコウラン」とは「軟蘇鴨卵」。
蘇というのはバターやチーズのような乳製品で、つまりは鴨の卵の大きさの軟らかい乳製品という意味である。
白隠は修業中の若い頃に心身を壊し、いわば養生訓を打ち立て、それは「内観の法」として知られている。

それを知っても、白隠禅師のことはほとんど知らなかった。
あれだけ「軟蘇鴨卵」でお世話になっているのだから、少しは知らなくっちゃと、ライブラリーでこの本を借りてきた。
江戸の社会変革者とあるであけあって確かに、それまでの禅宗の寺のありようを批判し改革しようとした人だった。
この本はそうした白隠の生い立ちから始まって仏門に入り活動する様子を描く評伝だ。
コンパクトで読み易く、それでいて内容は濃い。
変革者につきものの苦難の道が続いた一生だったようだ。

臨済宗の恵まれた制度下にある寺の腐敗、俗世と隔絶した場所でお経をあげるだけの僧。
白隠はそうした寺と僧を批判した。
改革のための書を著し各地を廻り、優れた弟子を育てた。
それでも晩年は後継者選びなどの雑事に悩まされたというから、難しいものだ。

五百年に一人の名僧と言われる白隠。
彼が生まれたのはほぼ250年前。
ということは白隠のような仏教者がでるにはまだあと250年も待たなければいけないの?
うーん。。

でも現在はお葬式を家族葬ですまし、墓も不要と考えるひとが多くなっているので、寺は自ずからなんらかの改革をしなくては存続できない時代かもしれない。
不透明なお布施や戒名料、税制などに納得できないのは、私だけではないはずだ。
仏教関係者はもっと積極的に社会参加をしてほしいと思う。
もちろんしている人はいるのだろうけれど、その活動があまりに少ないような気がする。
本を出したり人気者になっている話題のお坊さんもいるけど、言葉を並べるだけじゃなく体を動かしてもらいたいなぁ。
posted by 北杜の星 at 08:19| 山梨 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月18日

筒井康隆・町田康ほか「目探偵登場!」

このミステリー・アンソロジー、とっても面白かった。
ミステリー嫌いの私が言うのだから確かです。
まずこれを読もうとしたきっかけは13人の作家たちの顔ぶれ。
筒井康隆、町田康、津村記久子、木内昇、藤野可織、片岡義男、青木淳悟、海猫沢めろん、辻真先、谷崎由依、稲葉真弓、長野まゆみ、松浦寿輝、
すごいでしょ?
見ただけでわくわくしてしまう。

この中でも楽しみだったのが町田康、藤野可織、松浦寿輝。
町田はとにかく大ファンだし、こういう企画だときっとシッチャカメッチャカなものを書くだろうからという予想通りで、半七親分が登場。
藤野可織はこのところ注目している作家で、彼女の書評も的確で好きなのだ。
松浦寿輝は詩人で純文学作家というのがミステリーとどう結び付くのかが楽しみだった。

そもそもこのアンソロジーのユニークな点は、古今東西の探偵や刑事のパロディだったりオマージュだったりと、彼らへの偏愛ぶりにある。
帯文にもあるように、ホームズ、ポアロ、マーロウ、半七、明智小五郎、金田一耕助、コロンボ・・
ストレートに登場する人物もいれば、おばさんになってしまったコロンボもいて、13人の作家たちの個性のままに一筋縄ではいかない作品に仕立て上げられている。

やはり藤野可織の「わたしとVと刑事C」は予想に違わずものすごく面白かった。
人が殺される。いとも簡単に殺される。たくさん殺される。
そのたびにコロンボ的おばさんが古びたレインコートでやって来て、これまたいとも簡単に犯人を逮捕する。
そこにはなんの謎解きも経緯もない。
犯人がドジをしたからではないしコロンボおばさんが優秀な刑事だからでもない。
ただただ「殺す理由も殺される理由もたかが知れている」からという理由があるだけ。
・・これが一番好きというのは、きっと私がミステリー嫌いだからでしょうね。

松浦寿輝の「四人目の男」は雰囲気づくりが最高。
東欧プラハでで「事件」がちょっとゴシックな感じだったが、ラストは陶然となるくらい素敵だった。

それとい稲葉真弓のふくろうたち」も印象に残った。
(稲葉さんは最近お亡くなりになったのです。とても残念です)
「海松」と同じく志摩半島が舞台となっている小品だが、事件が起こるわけではない。
一人の未亡人が誰かに「覗き見」されているようなので、その犯人を見つけてほしいという依頼を受けた男が、森のなかで彼女の家を見張る。
しかしだんだん彼は犯人より彼女を望遠鏡で見るようになる。
不穏な空気が緊張をはらんで、なにか禍々しいことが起こりそうな予感に包まれるその空気感が見事だ。

こうして3点を挙げてみると、ミステリーの王道からは外れているような。。
べつにミステリーである必要がないというか。
でもこれはなかなかの楽しく読み応えのあるアンソロジーでした。
13人の人選がいいです。

posted by 北杜の星 at 07:45| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月08日

筒井康隆「繁栄の昭和」

筒井康隆、8年ぶりの短編集。
これ、とてもワクワク楽しめる本で、筒井がちっとも衰えていないのがうれしい。
全部で10の小説はバラエティに富んでいる。
本のタイトルが「繁栄の昭和」とあるように、全編に流れるのは「昭和」の雰囲気。
それも大正ロマンや大正デカダンを引きずる妖しい昭和だ。
江戸川乱歩のエロティシズム、海野十三のSFっぽさ。
それらが小説に纏いつくのだから、ますますワクワク度が高まる。

カフェー、探偵事務所、小人、不倫をする男爵夫人、サーカス、女装する美少年、映画、エノケン・・
昭和の小道具がずらりと揃ったら、それらを動かす筒井の筆が冴えわたるのだ。

ストーリーは紹介しない方がいいと思う。筋立てが楽しみなんだもの。
これは読んでのお楽しみ。
最初に「繁栄の昭和」で、事件の迷宮を持ってきたのは、この本の幕開けとして素晴らしい。
どこへ着地するのか待っている読者への謎と肩透かし。
あぁ、もうすごく見事!
ちょっとシュールで、わたしはこれが一番好きだった。
でもどれも軽く書かれているのに、こんなに充実して完成密度が高い。

私はこれを小淵沢〜東京への「あずさ」の中で読んだのだが、往きで読み終わらないように、復路にもとっておくように、加減をしながら読んだのだが努力が必要だったなぁ。
筒井康隆、まだまだ健在。大御所ぶりに変化なしです。
posted by 北杜の星 at 08:01| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする