2013年10月05日

津村記久子「これから祈りにいきます」

中篇「サイガマのウィッカーマン」と短篇「バイアブランアの地層と少女」が収録されている。
どちらも「祈る」ことが最終テーマとなっている。
若い子でも祈るのか?と思う向きがあるだろうが、祈らずにはいられないことって誰にもあるはず。
高校生でも大学生でも、男の子でも女の子でも「祈る」ことはある。
だからこの本のタイトルが「これから祈りにいきます」なのだ。

「サイガマのウィッカーマン」の男子高校生の主人公シゲルは祈らないではいられない状況にある。
いつまでも若いと勘違いしている父は不倫をしていてあまり家に帰らない。
天然な母はその不倫に気付いていない。
弟は不登校のひきこもり。
気になる女の子イシヅカの父親は植物状態で入院していて、彼女はアルバイトのかけもちで頑張っている。
シゲルも公民館で掃除のバイトをしている。

こんな閉塞状態のシゲルが住む町には、冬至の日にお祭りがあってサイガマさまを祀るのだが、シゲルはサイガマは下等な神様だと思っている。
なぜなら祭りには「なくしたくない体の部分」を象ったものを作って奉納しないと、願いが叶わないからだ。
たとえば足が悪くて足の機能を失いたくないと思ったら、足の形を粘土で作る必要がある。それを火に投じて願をかけるというわけ。
そんな条件を出す神様はどうも信用できない。
祭りに反発していたシゲルだが、公民館のバイトで祭りの準備をしていくうちに・・

というストーリー。
饒舌な部分と、突き放したような描写が交差する文体はいつもの津村記久子だ。
深刻な状況がでもどこかおかしいのは、筆にユーモアがあるから。
シゲルやイシヅカの淡々とした付き合いには、シゲルの微妙な心理が作用していて、シゲルっていい子だ。
最初は「なんだなんだ、この母親は」と思いながら読んでいたシゲルの母親だが、彼女の存在が案外味があって、私は好きだったな。
彼女のような抜けさ加減は、悪くない。
津村さんのお母さんにもどこか通じるところがあるような・・(これは以前読んだ津村と深澤真紀の「ダメをみがく」を読んで感じたこと)。

祈るか祈らないかというと・・私は「祈り」ます。
自分が困ったときよりも、友だちが困難なときにその人のために祈ることが多いです。
別に私がイイヒトだからじゃなく、自分のために祈るのは、なんだかちょっと照れくさく気がひけるし、きっと私のためには誰かが祈ってくれていると信じているから。
小さき人間の願いなのだから、神様は聞き届けてくださると思っています。
でもふだん祈らない人が、ナニカあったときだけ祈るのは、ちょっと虫が良すぎる。心の広い神様でもそう考えるのではないかな?
だからいつも祈る習慣を持つことが大切。
そのときに、「試験に受かりますように」といのるのではなくて、「一生懸命勉強しますから、見守ってください」と祈るのが正しいお祈りのしかただそうす。
映画「ニューシネマ・パラダイス」のワンシーンに、自転車で坂を下るときには「神様がお助けくださっている」が、坂を上るときには「神様は見守ってくださる」という台詞がありますが、ッ笑いながら観たけれど、あれはつくづく本当だと思います。
そう受け止めると人生、素敵に過ごせますよね。
posted by 北杜の星 at 07:14| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月19日

平安寿子「こんなわたしで、ごめんなさい」

コメディ・タッチで女性の悩みを描く7つの短編集。

このニュアンスはいつもの平安寿子だ。
とくに若い女性たちの周囲との心の行き違いを、軽く深刻ぶらないで書いている。
婚活、巨乳、美人、はっきりものを言い過ぎる怖い女性・・
どうってことないことを人は悩むもの。
それも周囲の価値観に合わせようとするために悩んでいる。

結婚しなくてはいけないものなのか。
巨乳の女はイヤラシイのか。
美人は得なのか損なのか。
お嬢様フリフリお洋服をオバサンが着てはいけないのか。
幸福は人それぞれのはずなのに、葛藤があるのは世間というものがあるから。
そんな世間のジョーシキを破ろうとする女性たちへの応援歌がこの本だ。

若い女性が読むと、私のことを書いてくれたのではと感涙するのかもしれない。
そういう部分がたしかにある。だから平ファンがたくさんいるのだと思う。
でも私のような年齢になり一癖も二癖も身につけたニンゲンには、この作家の「本当」が見えてこなくて歯がゆい。
彼女の「本当」に書きたいのはこれなのだろうかと。
いつも食い足らなさを抱えながらもそれでも彼女の小説を手に取るのは、いつか「化ける」日を待っているからだ。
本音で自分のことが書ける日が来ることを願っているからだ。
この「自分のこと」というのは私小説という意味ではない。作家が書くものはすべて私小説だと言った評論家がいて、私もそう考えているけれど、でもそういうことではなく、自分のやむにやまれぬ部分をこれは書きたいという作家の本能のようなもの、それが今の彼女にはないような気がする。

平安寿子は私の高校時代の友人の妹さんだ。
高校生までは、人と目を合わすことも挨拶をすることさえもできない少女だったと友人からも聞いていたし、彼女のクラスメイトからも聞いていた。(彼女が作家になるずっと前から)。
そんな内面を持つ彼女の「本当」を私は読みたい。
彼女も60歳を過ぎた。いま書かなくていつ書くの?と言いたい。
(多少なりとも彼女の本音が垣間見えるのが「神様のすること」、これは認めています)。
posted by 北杜の星 at 07:12| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月12日

鶴田静「宮沢賢治の菜食思想」

この本の著者の鶴田静さんはヴェジェタリアン。
以前ロンドンに2年間住んでいた頃、周りの友人達の影響でヴェジェタリアンとなったそうだ。
現在は千葉の田舎で夫であるアメリカ人フォトグラファーと野菜を作りながら、菜食の啓蒙運動をしている。
私は西荻窪に住んでいたのだが、私の友人で彼女を知る人は多い。
というのも鶴田さんは西荻において友だち数人と共同で食堂を経営していたからだ。
ナチュラルで美味しいメニューを提供する食堂だったらしい。

この本はヴェジェタリアンの大先輩の宮沢賢治の「菜食思想」を、彼の生き方や作品を引用しながら検証したもので、読み応え充分だった。
私は幼い頃、とにかく宮沢賢治が大好きでよく読んだものだが、易しそうにみえる童話でも実はムツカシイ賢治をどれだけ本当に理解していたか、いま考えてみると不安なのだが、でも幼いながらも彼の宇宙に繋がるナニカを感じていたのだと思う。
その繋がりのなかには動物の命に関するお話がたくさんあった。

ヴェジェタリアンの本質は単に野菜を食べることではない。本質は食べるために動物の命を奪わないことだと鶴田さんは言う。
屠殺される牛や豚の苦しみを考えると、肉食はできなくなると。
私たち夫婦はもう15年ほど前、菜食をしていた。
完全ヴィーガンではなく、lacto-ovoヴェジェタリアンと呼ばれる卵と乳製品は摂取するというユルイものだった。私たちは好きなチーズをあきらめる気はなかったからだ。
もともと卵をあまり好きでない私は、卵は生命体そのものだから積極的には食べなかったが、出されると拒絶はしていなかった。
しかし今は何でも食べる。
ナニゴトも「主義」を貫くのは大変で、「主義」を前面に持ってくると自分が窮屈なだけでなく、他者に対しての寛容さを欠くということがわかったからだ。
友人の家に招待されて肉を出されたら、美味しいねと感謝しながら食べる人間のほうが素敵だし、幸福ではないだろうか。
でも他人様の「主義」は尊重しているので、その人がヴェジェタリアンなのは一向に構わない。

農業指導員でもあった賢治は自分でも野菜を作ったが、それらの野菜は当時とてもハイカラなものだった。
キャベツ、カリフラワー、アスパラ、トマト・・
彼はどのように調理して食べたのだろうか?
でもはたして賢治は本当のヴェジェタリアンだったのか?
私は他の書物で読んだことがあるのだが、賢治の好物は鰻で、鰻丼を前にするとじつに幸せそうに食べていたらしい。

賢治と同時代人としてロシアのトルストイがいるが、鶴田さんはトルストイの「菜食思想」についても言及している。
トルストイは50歳以降にヴェへタリアンとなったようだ。
彼の内省はヴェジェタリアンであることから生まれたのだろうか。

この本で初めて知ったのだけれど、賢治の「アメニモマケズ」の詩の中の「一日四合の玄米」と箇所が、戦時中の食糧難に政府によって「一日三合の玄米」とに書き換えられたのだそうだ。
ひとの詩を勝手に書き換えちゃいけないでしょ。
だけど一日四合というのは、他におかずがたくさんある今の食卓にはずいぶんと多く感じられる。

現在の私は菜食主義者ではないけれど、夏の間はほとんど頂きものの野菜ばかりで過ごしている。
その野菜もそろそろ端境期。秋から冬への移行が間近だ。
posted by 北杜の星 at 07:30| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月16日

津島佑子「ヤマネコ・ドーム」

アメリカ兵と日本人女性のあいだに生まれた戦争孤児のミッチとカズ。
彼らは施設に居たが「ママ」に引き取られた。
「ママ」のところには、これまた父親のいない「ママ」のいとこの娘のヨン子がいた。
彼らが遊んでいたある日、オレンジ色のスカートをはいた施設のミキちゃんが池に落ちて溺死した。
ミキちゃんのそばには、施設の子ではないのだがやはり父親のいないター坊がいた。
以後数十年の間に、オレンジ色の服を着た5人の女性たちが殺される・・

津島佑子はミステリーを書いたのではない。
歴史に埋もれて忘れ去られた戦争孤児たちが生きた戦後を書いているのだ。
時系列がバラバラで、場所もたくさん移り変わり、語り手が見えぬ相手に話しかける構成はけっしてわかりいやすいものではなく、かなり実験的。
それでもぐいぐいと引き込まれて、一気呵成に読んだ。

ここにはあまりにたくさんのことが盛り込まれている。
幼いときに施設を離れてアメリカに養子に行った子どもたち、そのなかにはベトナムで行方不明になった子もいる。
彼らが成長するにしたがって舞台が東京、北海道、パリ、ローマ、ベトナム、インドなどと変わる。
バラバラであるはずの彼らを結びつけるのが、あのミキちゃんの事件だ。
あれは本当にター坊の仕業なのか?
いや、もしかしたらあれは自分がしたことなのかもしれない。
ミッチとカズとヨン子はお互いの共犯意識に苦しみながらも、新たな事件が起こるたびにその結びつきを強めていく。

忘れられたこと、目に見えないこと、触れられないこと・・
それらは記憶になくとも見えなくとも触らなくとも、そこに存在する。
地震でおこった原発の放射能のように。

この小説が内包している問題はとても多くて大きい。
盛り込みすぎじゃないかというほどの問題が出てくる。
戦争孤児、ベトナム、ヒロシマ・ナガサキ、放射能。。
日本の経済成長と共に大人になったミッチやカズやヨン子たちの生きかた。
混沌とした世の中をどう私たちは生きればよいのか。答えは提示されていないが、考える材料は与えてくれている。

読んでいて感じたのは、ここには見事に「父親」がいないということ。
孤児なのだから母親もいないのではあるが、施設の母親替わりの人はいるし、ミッチたちを引き取った「ママ」もいるし、ヨン子の母もいる。
ター坊には絶対的に彼を守ってくれる母がいる。
けれど「父親」はどこにもいないのだ。
このあたり、とても津島佑子らしいと思った。

posted by 北杜の星 at 07:15| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月08日

旦敬介「旅立つ理由」

この本、もううっとりしっぱなし。
誰か(池澤夏樹だったかな)の書評を読んで手に取ったのだが、こんな紀行小説、これまで読んだことがないと思った。
紀行文を読むと、自分もその地に旅している気分になるものがあるが、これはそういうのとも違う。
むしろ決して自分で訪れることのないだろう地に憧れるというか、夢見る気持ちになってしまうものだ。

ラテン・アメリカ文学の翻訳者の旦敬介氏がANAの機内誌「翼の王国」に連載したもので、フィクションなのだが、この主人公というのは旦さんのことなのではないかと錯覚するほどで、きっと彼が旅してきた経験が強く出ているからだろう。
フィレンツェやローマも登場するがほとんどがケニアとウガンダの国境の村やブラジル、メキシコの片田舎など僻遠の土地が舞台となっている。
そして21の短編が連なっていることに気付くころには、彼や彼女らの関係が明らかになってゆく。

人は自ら旅立つこともある。
しかしなんらかの事情で故郷を離れることを余儀なくされる場合がある。政変で難民になることもある。
つまり旅立たつことを強いられる人たちがいる。彼らはどのように新しい土地に馴染むのか。
そんな人たちの暮らしとその周辺の人たちとの繋がりは、実際にその土地で少しの間住んでみないとわからないものだろう。
土地の流儀、民族の伝統や習慣、そういうことが過不足なく描写されている。
主人公の日本人男性とその息子がときおり出てくるものの、ほとんどが現地の人たちというのが不思議な雰囲気をかもし出している。

赤道直下の白い道、海から吹く風、混雑する市場、国境の食堂、大量の食材が置かれた台所・・
簡潔で品の良い文章が風や光や匂いまでも運んでくれる。
けれどここでもっとも感じられるのは、出会う人たちの眼差しや汗だ。
つくづく旅というのは、観光名所の景色ではなく、人間だと思う。
各編には門内ユキエさんの色鮮やかな素敵なイラストが添えられていて、これもイメージを増大させてくれる。

夫が先に読んでいて、あまりに良さそうだったので私が横取りして読んだのだが、本当にいい本でした。
内容がいい本というのは、その佇まいもいいのですね。とても美しい本でもあります。
「旅立つ理由」、お奨めします。
posted by 北杜の星 at 07:33| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月24日

津原泰水「たまさか人形堂それから」

少し前に義妹(弟の奥さん)からメールがあった。
なんでも弟が趣味で作っているボルト・ナット人形が津原泰水のこの本に出てきて、弟の名前が後ページに他の著名人形作家たちと並んでいるのだそうだ。
本屋で立ち読みでもしてみてくれと書いてあったけど、ここ八ヶ岳の本屋の棚にあるはずもなく(田舎の本屋さんには雑誌やハウツー本か大ベストセラー本くらいしか並んでいないのです)、AMAZONで購入。

ボルト・ナット人形とはそもそも何?
我が弟とはいえ、年齢が離れているのと長く共に暮らしていないので、彼の趣味や交際範囲などまったくわからないのだが、作者の津原氏は広島出身とのこと。
広島に住んでいる弟とはなんらかの経緯で、ボルト・ナット人形が津原氏の手に渡ったのだろう。
ボルト・ナット人形は字のごとく、いろんな大きさのボルトやナットを組み合わせ溶接し作ったもので、ギター少年だった弟はギタリストのジョン・スコフィールドを作っていて、それがこの本の「小田巻姫」の章に使われているという次第。
ジョンスコを知る人が見ると、あきらかにジョンスコとわかるくらい、特徴が現れているらしい。
(でも私の弟はロックやブルーズ派で、フュージョン系のアーティストも好きだとは知らなかった。。)

こういう類の本をあまり読まないし、特別人形が好きなわけでもなのだが、知らないことばかりだったので面白く読んだ。
祖父の人形店を継いだ、人形には素人の澪。
店に資金提供をしている、ぬいぐるみの天才の冨永くん。
腕はいいがなにやら訳ありの師村さん。
ときおり出入りするラヴドール作りの東前さん。(ラヴドールとはダッチワイフのことだそうです)

リカちゃん人形、市松人形、ボルト・ナット人形、木目込み人形、藤娘・・
いろんな客がいろんな人形を持って、修理を頼んで来る。
人形の素材や作り方や歴史。その時代の背景。そしてもちろん人形の持ち主のそれぞれの人形物語がある。
どれをとっても、人形って奥が深いと思わされる。

でも私がこの小説で最も気に入ったのは、軽妙な会話だ。
牽制したり、気持ちを探ったり、心を配ったり・・クスリと笑ってしまうセンスある会話。
澪はこうした会話のなかでだんだんと人形店店主として成長してゆく。

この本には「たまさか人形堂物語」という前作があって、これはそのシリーズの2作目だそうだ。
でも前作を読んでいなくても充分楽しめる。
これってこの先3作目が出るのかな?
澪と東前さんがどうなるか。。気にかかるんですけど。
意外に繊細な冨永くんは私好みだし。。
posted by 北杜の星 at 07:31| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月18日

津村記久子・深澤真紀「ダメをみがく」

「女子の呪いを解く方法」というのがこの本のサブタイトル。
たしかに、世間からの女子の呪いってある。がんじがらめにしているのが自分自身ということだってあるにはあるけれど、幼い頃から親や周囲の人にインプットされ続けてきた呪いが解けると、どんなに人生ラクだろうか。

津村記久子は働く女を描く作家だ。
就職ー失業ー再就職という流れのなかで、小説を書いてきた。
同世代の同じ立場の女性のファンが多い。
ただ芥川賞を受賞して以来の忙しさに、最近会社勤めを辞めている。
一方、深澤真紀は編集者を経て、現在は企画会社経営。
あの「草食男子」という言葉をつくり、TVのコメンテイターなどでも活躍している。

この二人が「女子の呪い」について対談しているのがこの本。
最初の会社のこと、うまくいかない実家とのこと、仕事をするということ・・
深澤は津村よりひと回り上の世代だが、同じ問題を抱えているためか二人の会話の噛みあい具合が面白い。
どちらも最初の会社での女性上司には悩まされた。
津村のほうはとにかく理不尽に扱われ、どうにも耐えられず数ヶ月で退社。当時は掃除のおばさんと、よく行くコンビニのレジの女性に癒された暮らしだったとか。
深澤の上司は感情的だったり部下の手柄を自分の手柄にするような女性だったが、仕事の面で教えられるところも多くあり、複雑な想いのようである。
どちらにしても、分かり合えない人間からはひたすら逃げるしかないみたい。

けっこう親の問題が多く取り上げられている。そしてその対処の仕方が違っているのが興味深い。
津村は突拍子もない母親に対してある日突然爆発してしまう。そして「こういうふうに言ってほしくない」「これはしてほしくない」とはっきりと言い渡した。
母親が津村を本当に理解しているとは思えないが、一応今のところは態度が改善されているようだ。
それに対して深澤は何も言えない。一見、深澤は津村より断然強そうな性格なのだが、親への長い間の不平不満の想いが強すぎるのか、ただ親を避けることで問題を回避している。彼女の親は彼女がそういうふうに自分たちを嫌っているのに気付いてもいないかもしれない。
きっと深澤のほうが親から受けた傷が大きいのだろう。
津村記久子って案外、強い人だ。
関西と関東の人間の違いのようなものもあるかもしれない。

世の中の人からちょっとずれた「ダメさ」を感じて生きている二人のこの対談集、私はずっとずっと上の世代だけれども、彼女たちの置かれている状況や気持ちはよくわかる。
「でも、頑張って」としか言いようがないし、彼女たちは頑張り続けるのだろう。
これまでほとんどの津村の作品を読んできた私には、あの小説の中のあのエピソードは実話だったのだなとわかる話がたくさん出てきて、今度また読み返しえみたくなった。
意地悪女性上司がどんなふうに描かれていたか。。
会社を辞めた津村記久子の小説がこののちどうなるか?少し心配な気もするし楽しみなような気もする。
posted by 北杜の星 at 07:29| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月06日

高樹のぶ子「せつないカモメたち」

映画館で働くバツイチ女性、占部香代子。
彼女はある日映画館のトイレで呻いていた女子中学生アヤを見つける。
どうもアヤは同級生からイジメを受けているらしく、映画館の暗闇の中でも、金属製の洗濯バサミで体中を痛めつけられていたようなのだ。
しかしアヤは親にも教師にも決してイジメのことは話さない。
それは彼女のプライドから来ている。プライドゆえに孤高を保ち、それがより酷いイジメに繋がっている。

両親が別居し父と暮らしているアや。母は弟を連れて家を出た。
父は仕事が忙しく、アヤのことに関心をもたずにきた。だからアヤのリストカットにも気付かない。
教師たちはイジメの事実を知っても、解決方法がわからない。
アヤが香代子だけにイジメを告白するのは、もしかしたら必死に助けを求めているからかもしれない。
口では決して決して「助けてとは言わない彼女だけど。

ここにいる大人たちの情けないこと。
現実でも、学校でイジメ自殺が起こると、学校側は保身で頭が一杯になり、とうてい生徒のことを考えているとは思えないことがあるが、これに出てくる教頭など、イジメの気配を感じていながら、何もしようとしない。
それはアヤの父だって母だって同じ。
最後の最後でアヤの命がけの必死さがようやく届くのだけど、お粗末な話だ。

子どもはどこかでシグナルを送っている。
注意深くその子を見ているとそれに気がつくのだけど、大人は自分の事情で忙しくて見逃している。
大人の勝手さと無力さを子どもは子どもなりにわかっている。そのあきらめが悲しい。

香代子の束の間の心のざわめきも、別のあきらめによって消えていった。。
前と同じ映画館の仕事の日々が続くのか。
冷めているようで、アヤを放っておけない温かい香代子って、私は好きだった。
人は突き放せないくせに、自分で自分を突き放す香代子のクールさ、カッコイイです。
posted by 北杜の星 at 07:29| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月03日

辻佐保子「辻邦生のために」

辻佐保子は1999年に亡くなった辻邦生の奥さんで、美術史家としてビザンツや中世美術の研究をしてきた人。
「いつも書く人」であった邦生とのおしどり夫婦ぶりは有名だった。
私は佐保子さんの文章が好きでこれまでいく冊か読んできたが、これもとてもよかった。

この本には二人が過ごした高輪のマンションや磯崎新の設計による軽井沢の山荘やパリのアパルトマンがでてくるが、新婚生活を送った国立の家がなかなかユニーク。
邦生の弟の設計で建てた家なのだが、設計ミスのため玄関がなく、寝室の窓をまたいで出入りしていたそうだ。
こういうの、設計ミスというのかな。欠陥住宅なのでは。。
自身の研究だって大変だったと思うのだが、佐保子さんはいつも邦生の仕事を最優先してきた。
そういうところは1920年代の生まれが影響しているのか古風である。

「夏の砦」や「回廊にて」や「異郷にて」などの辻作品は読んでいるが、ペンダンティックな感じがあって(私には高尚過ぎるということです)、夢中になったことはない。
ユーモアや遊びの部分が欠片もなくて、息が詰まるというのが正直なところ。
でもこの本の佐保子さんの文章を読むと、彼のとても意外な面を知ることができた。
大きな大きなクマのぬいぐるみが好きだったこと。
服に頓着しない邦生を連れて洋品店に行き、数着のジャケットなどを求めたら、店員さんが「長い海外旅行にいらっしゃるのですか?」と訊ねた。
邦生は小さな声で「いや、ムショ帰りで」と答えたそうだが、これには笑うよりも唖然としてしまった。彼の作品からは想像もつかない冗談だ。
隣にいた佐保子さん、さぞ驚いたことだろう。

旧制松本高校以来の親友、北杜夫との変わらぬ友情や、夫妻でキオス島を訪れたとき、ギリシャ在住だった池澤夏樹がその旅をアレンジしてくれた話などが出てくる。(池澤のお父さんの福永武彦と辻邦生は学習院でともに教鞭をとっていたから、その関係なのか)。
1999年7月、辻邦生は中軽井沢のスーパー・ツルヤで倒れて、そのまま帰らぬ人となった。
ツルヤは私も夏によく行ったお気に入りのスーパーで、現在はその場所に店はなくなったが、辻邦生のことを友人から聞いて胸が痛んだ。

この本は2002年5月末に発刊されているが、佐保子さんはその年の末に亡くなった。
後を追う、という言葉があるが、佐保子さんは辻邦生のためになすべきことをなし終えて、夫のもとに旅立ったのではないだろうか。
そんな気がする。つくづく仲のよい夫婦だった。
posted by 北杜の星 at 07:34| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月08日

辻原登「冬の旅」

これ、じつは紹介するかどうかためらった。
だってすごーく暗くて、救いがないんだもの。
暗く重い内容の小説はたくさんあるけれど、この暗さ(重くはない)には向き合いたくないような。。
今は春。窓の外を見れば、ここ八ヶ岳の遅い花々が美しく咲いている。
この風景と小説のあまりのギャップの大きさに、心が萎えた。

なんで辻原登はこんな本を書いたのだろうか?
一人の男の、これでもかという不幸な人生。
ホモと誤解され解雇、結婚した妻は失踪、路上生活、犯罪・・
おきまりと言えばおきまりのコースだ。
しかし誰にでも躓きはあるし、その躓きは乗り越えられないものでもないはず。
それなのにこの本の主人公、緒方隆雄は躓きの連続なのだ。
それはもう運命としか思えない。人には自分ではどうしようもない運命というものが決められていて、他の道を歩くことができないよう生まれついているのではないか。
その運命の前では、人は無力なのか。

2008年6月8日、午前9時。緒方が滋賀刑務所を出所するところからこの小説は始まっている。
父の出奔、セクシャリティ、新興宗教、阪神淡路大震災、あいりん地区、SM、などさまざまな出来事がバブル経済が終焉を迎えた時代を背景に描かれる。
大きな波に翻弄され溺れ、浮かび上がることができない緒方のような人がたくさんいるのかもしれない。
数年前の「年越し派遣村」に集まった大勢の人たちは、現在どこでなにをしているのだろうか。
普通のサラリーマン生活から路上生活への道筋は、案外簡単な一本の線なのか。
誰でもホームレスになり得る怖さと脆さを感じてしまい、他人事ではない思いだ。

「おれの人生、どこで躓いたんや」。
その「どこ」がわかったとて、いまさらどうなるものでもないのだが、緒方のつぶやきは悲痛だ。
ラストはものすごく衝撃的で、これが緒方の求めた「自由」なのかと呆然としてしまった。

ずっと以前、アニエス・ヴァルダ監督の「冬の旅」という映画を見たけれど、あれもどこにも救いのないものだったことを思い出した。
これは冬に読む本なのかな?
だけど冬に読んだら、もっと気重になる。
うーんと、強い精神力をもつ人にはお奨めですが、心が弱っている人は避けるほうがいいかもしれません。
週の初めにこんな暗い小説をご紹介するのはどんなものかと、少々気になりましたが、悪い作品ではないので書きました。
どうぞ、よい一週間をお過ごし下さい。
posted by 北杜の星 at 07:12| 山梨 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月10日

立川談四楼「談志が死んだ」

談志が死んだ・・ダンシガシンダ。
頭から読んでもお尻から読んでも、ダンシガシンダ。
談志が死んだのは2011年11月21日。
家族だけでの密葬のため、その死は数日間弟子たちにも秘められていた。

落語協会脱退と立川流創立の原因となった談四楼が、40年以上にもわたる談志との喜怒哀楽の師弟関係を書いたこの本、滅法面白かった。
私の後でちょっと手に取った夫も「つい、最後まで読んじゃったよ」と言っていたほど、面白さに引きずり込まれる本だった。

まぁ誰でも察していたとは思うけど、談志のムチャクチャなこと!
こんなお師匠さんに仕えるのは、どんなに大変だったことだろうか。
無理難題は日常茶飯、いつも怒鳴っているけどなんで怒っているかわからない理不尽さ。
よくみんな耐えたもんだ。

私と夫は落語は嫌いではないが、寄席に行くほどのファンではない。
でも落語家のなかでは二人とも談志は好きだった。
というのは私たちはとてもせっかちでノロマが嫌いという性格をしている。そんな性格に談志のスピーディさは心地よかったのだ。
私にとっては「変にこなれていない」というのもよかった。
私は江戸文化の川柳や歌舞伎や落語の「変にこなれた」感じがどうも苦手で、それは私が洒脱さに欠けるせいなのだが、どうも生理に合わない。
でも談志にはその気味悪さ(私にとっての気味悪さです)がなく、彼の落語にはロジカルなところさえ感じられて好きだったし、あの小気味よさは独特のものがあった。
しかし談志の芸は歳をとったらキツイものがあっただろう。
ふつう落語家は歳を重ねることが「味」になるが、談志の落語は老いは衰えに通じる。
それは本人が一番自覚していただろうし、弟子たちにもわかっていただろう。

しかしそこが談志の談志たるところ。
弱気にはならない。いや弱気を見せない。むしろより理不尽になっていった。
そしてそのとばっちりは古い弟子の談四楼に来て、辛抱の限界を超えそうなことも起きた。

談四楼は談志の悪口を結構言っていたらしい。
それを指摘した新しい方の弟子に談四楼は言っている。
「短いと師匠と弟子だが、古くなると親子になるんだ」と。
つまり息子が父親の悪口を言って、何が悪いかということだ。
それって、なんとなく理解できるような気がする。
愛憎入り交ざっているんでしょうね。
「オレが死んだら、オレの悪口で三時間はもつ」と談志は言ったらしいが、どうも3時間以上はゆうにもつみたい。
談志のケチさ加減がよく出てくる。
あるお客から座右の銘をと色紙を出され談志が書いたのが「拾う、貰う、取る」だったとか。
それってホンネだったのかもと思われるくらいのケチぶり。

弟子たちが実名で出てくるが、あの師匠にしてこの弟子たちあり。じつにムチャクチャな人間達の集団である。
抱腹絶倒のできごとが次から次へと起こる。
でも結局みんなお師匠さんが好きだったのか、お師匠さんの芸が好きだったのか。
どちらにしてもそれが師匠を持つ、ということなのだろう。
大変さにため息が出るが、ほんのちょっぴり羨ましいような気もする。

談志のお別れの会での祭壇の大きな写真を私は覚えている。
高座に上がって体を少し右に傾け、すこぶるつきの笑顔を見せているものだった。
あんなに邪気のない笑顔ってないというくらい、素晴らしい笑顔。
弟子たちはそんな談志もちゃんと知っていたのだろうな。

私には目の持病があって、いつまで本を読んでいられるかわからないのだが、もし字が読めなくなったら、落語を聞こうと思っている。
古今のいろんな落語家のCDが出ているので、一生楽しめると思う。
その頃になると「変にこなれた」感じが許せるようになっていると思うし。。

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2013年02月28日

谷川直子「おしかくさま」

第49回文藝賞を受賞し、とにかく面白いと評判のこの「おしかくさま」、確かに不思議な面白さを持っている小説だった。
なにしろ「おしかくさま」はお金の神様なのだ。
そしてATMが祠というかお社。
その日の恵方というのがあって、どこのATMにご利益があるかを教えてくれる。
「おしかくさま」にお願いすれば、ザクザクとお金が手に入るという宗教が、恥もなくあからさま過ぎて、とっても笑える。

離婚をしてからウツでひきこもりのミナミと妹とその娘、そしてミナミの父と母の5人が入れ替わりで小説の語り部になっている。
父は「おしかくさま」の神の使いとして、教団の女性たちから崇められていて、彼女たちの家に出入りしているのを浮気と勘違いした母が、ミナミに父の尾行を依頼する。
シッチャカメッチャカのストーリーなのだが、テーマは真面目で、宗教とお金の問題、大震災への寄付金について、命である動物の肉を食べるということ、お金で人間は幸せになれるかという永遠の問いかけ、などが散りばめられている。
でもそのテーマが重くは扱われていない。
どうかするとドタバタ喜劇ぶりに、ワッハッハで終わってしまいそう。

こうも「お金」「お金」といわれると、「お金」のありがたさが薄れるくらいだ。
第一「おしかくさま」は詐欺臭い。
ここでの女性たちはみんな、案外にしたたかでしっかりしている。
だからミナミは再生できるし、「おしかくさま」の女たちもアッケンカランとしていられるのだ。

これ、確かに面白い。
でもナンダロ、この何かが私にはどうも肌に合わないところがあった。ミナミは好きだなんだけどなぁ。
拝金主義がイヤなのではない。それはそれでユーモアいっぱいでかわいい。
時事的な問題が多すぎるからかな。この本の中にはAKB48など当世のアレコレがいろいろ出てくるのだが
、文学にこうまで時事的要素を入れてしまうと、違和を覚えてしまう。

義捐金」に関して、その額がいくらくらいが妥当かという論議がこの中でされていることに興味を覚えた。
もちろん額はその人の経済状態によって違うものだろう。
でも私はあるキリスト作家の言った言葉がとても心に残った。
それは「あなたがちょっと大変、という額をしなさい。それがせめて『痛み』を共にするということ」。
痛みが全然伴わない額の義捐金は、施し(ほどこし)でしかないのかもしれない。

ちょっと下世話な話題ですが、谷川直子さんって作家の高橋源一郎さんの元妻だそうだ。
離婚後にウツになったのも、ミナミと同じ。
このような小説が書けるようになったのだから、ウツは消えてお元気になられたのだろう。
じつは文藝賞の選考委員には高橋源一郎がいるのだが、彼はこの作品に関しては投票を棄権したそうだ。

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2013年02月13日

トム・ミューラー「エキストラバージンの嘘と真実」

この本を知ったのはあるイタリア食材の通販会社が送ってくれるメルマガだった。
この会社は若い女性が一人で経営している小さなところで、アイテムは少ないが高品質なものばかりを扱っていてそれなりに値段も高いのだが、美味しいものばかりなので私たちは時おり利用している。
もちろんエキストラヴァージン・オリーブ・オイルも売っている。

そのオリーブ・オイル、この本の副題にもあるように「スキャンダルにまみれたオリーブオイルの世界」なのだそうだ。
昨年の秋、私たち夫婦は南イタリアのプーリアを2週間旅行した。
見渡す限りのオリーブ畑だった。誇張でもなんでもなく地平線の彼方までオリーブの樹が整然と並んでいた。
それまでもトスカーナやウンブリアでオリーブ畑は見ていたが、あれほどの規模で拡がるものは初めて見たので、ただただ驚きながら車窓から眺めた。
あんなにオリーブの樹があるということは、どれだけの量のオリーブオイルが採れることか・・
それなのに何故オリーブ・オイルに偽装が必要なのか?

じつは良いエキストラヴァージン・オリーブ・オイルを作るのは大変なのだ。
他のオイル、例えばひまわり油やゴマ油や菜種などはシード、種から作るもの。けれどオリーブオイルはフルーツ、実を圧搾して作るものである。
樹を管理し良い実をつけさせるのは大変な労力が必要だし、エキストラヴァージンとして実を低温圧搾してオイルを抽出するのは効率が悪い。
だからエキストラバージンと称して、他のオイルを混ぜる偽装が横行することになる。
トルコから大量のヘーゼルナッツ油が船で送られてきて、オリーブオイルと混合し、精製し、色をつけたり人工的な香をつけたりしてエキストラバージンとしてスーパーなどに卸す。
もちろんイタリア政府には厳しいエキストラヴァージン・オリーブオイルの基準があるので、これは違法だ。

この本を読むと、安いEVオリーブオイルはいかにも怪しいと思わなくてはならないようだ。
大きな有名メーカーでも安心はできない。
オイルだけではない。
日本で売っている安い「イタリア産 トマト缶」などもすこぶる怪しい。中国産トマトを使用している可能性があるからだ。(中国は世界最大のトマト輸出国だそう)
パスタだって安いものはイタリア産のデュラス小麦ではないかもしれない。
値段が安いものには、それなりの理由があるのだ。
「毒でなければなにを売ってもかまわない」という業者を排するには、消費者が確かな目と舌をもつことが大切だろう。
健康に良いと消費量が多くなっているオリーブオイルなのに、摂れば摂るほど体に悪いということになっては大変だ。
この本には悲しい偽装だけではなく、EVオリーブオイルの歴史、真っ当な生産者たち、良いEVの見分け方などが書かれている。

ちなみに我が家ではEVオリーブオイルをよく使うので(昼食は毎日イタリアン)、5リットル缶で購入している。
そのEVは500ml瓶詰めもあって、その値段は2600円。でも5リットルの缶ならその三分の二以下の安い値段で買うことができる。
低温圧搾で、絞った後で漉していないので、ちょっと青臭く舌にピリッとした刺激があり、人によっては好きでないかもしれないが、私たちは大好きなので、もうここ数年はずっとこれに決めている。缶の最後のほうになると澱が残るのが困るが、自然なので仕方ない。
産地はプーリア州だ。

素晴らしいEVとしてはトスカーナ産の「ラウデミオ」という超高級なものがあるが、これは正規に買うと500mlで4千円くらいする。
安いところでは3千円で売るところがあるが、賞味期限が残り少なかったりする場合があるようだ。
「ラウデミオ」は確かにスゴイと思う。
でも私の料理には上品過ぎるかな。これは出来上がった料理にかけたり、サラダに使ったり、火を通さずに使うわなければもったいないEVだ。

杉並区阿佐ヶ谷にはウンブリアの上質なEVを扱う小さなお店がある。
そこのお嬢さんはイタリア人と結婚し、イタリア中部のウンブリアの小さな田舎村に住んでいて、その周辺で採れる上質なEVオリーブオイルとはちみつを売っているのだが、そういうオイルは間違いなく美味だと思う。
(一度行きたいと思いながら、まだ一度も足を運んだことがないのですけど)。
お嬢さんは朝田今日子さんという方で、本を出していらして、素敵なイタリアの田舎暮らしやその地の食べ物について書かれています。
食べ物といってもそこらで売っているものではなくて、豚を屠るところから始まったり、「食」の本質が見える本なので興味深く読めます。

夫が仕事をしていたペルージャの設計事務所の所長の家の庭には、樹齢800年ほどのオリーブの樹がたくさんあって、毎年秋になると季節労働者が実を摘みに来てくれ、それを近くの抽出所に持っていって、自家製EVを作っていた。
(EVだけではなく、庭のぶどうの樹からワインも作っていた。でもそういう暮らし方が「普通」だったんですよね)。

偽装をする悪いヤツもいるけれど、ものすごい努力をして本物をつくろうとしている人たちもいる。
エキストラヴァージン・オリーブオイルの未来は消費者である私たちにかかっているといえるでしょう。
安いからといって飛びつかないこと。
posted by 北杜の星 at 07:51| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月18日

津村記久子「ウェストウィング」

津村記久子は大好きな作家さんだ。
働く女性の日常を細やかに書く彼女の作品には、同世代からの期待が大きいのではないだろうか。
この「ウェストウィング」はこれまでの彼女の小説の中でもっとも長いもの。
良かったなぁ、最初から最後まで同じテンションで楽しめた。

取り壊しも噂される古い雑居ビル。
このビルの西棟(ウェストウィング)で働く事務職OLのネゴロは30代の独身女性。
彼女の仕事をサポートするはずの後輩OLは、ちっとも役に立たないどころか、なんとある日トイレで出産してしまう。
小学5年生のヒロシはこのビルにある学習塾に通う母子家庭の男の子。母親の期待が背中に重い。
20代の男性フカホリはビル内の事務所で単調な仕事を繰り返す毎日を送っている。
彼ら3人はビルの倉庫として使われている一室を、休息所として見つけ出し、束の間そこでホッとする時間をもつ。
といっても3人が一堂に会するわけではない。
彼らは顔を合わさない。部屋に手紙を置いて、ちょっとした物を交換しながら、次第にその関係を深めてゆくのだ。

なんでもない普通の日常にも、いろんなことが起こる。
トイレでの出産もそうだし、ゲリラ豪雨や感染症(?)など事件災害が降って湧く。
ハラハラドキドキ感は前作の「とにかくうちに帰ります」に似ているところもあるかな。
でもこういうことが起こると、人って繋がろうとするもの。
津村記久子はその繋がりを描かせるととても巧い。
今回も適度に乾いた筆で、そのなかにポッと温かさと光を感じさせてくれる。
こういうふうな、いかにも「感動」というのではない、さりげなくそれでいて心に沁みるって好きだ。

3人の人物設定もいいが、この古い建物の雰囲気がまたいい。
ネゴロやフカホリのような会社もあれば、ヒロシの通う学習塾もあるし、昔ながらの喫茶店も、なにやら怪しい占い師の店などもあって、まさしく雑居ビルとはよくいったもの。
ピッカピカのどこも明るいオフィスビルとは違って、光もあれば陰もある。
人の生活の成り立ちがこのビルにははっきり見える。
私も「ノリエール」で本を読みながらコーヒーを飲みたい。長居をしてお腹が空いたらナポリタンでも頼もうか。。
posted by 北杜の星 at 07:52| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月10日

田中慎弥「夜蜘蛛」

第148回芥川・直木賞候補作品が発表された。
芥川賞候補には舞城王太郎がまたもノミネート。そろそろ獲らせてあげたいが、大好きな小野正嗣も入っているので複雑だ。しかしこの二人はもはや全然「新人」とは言えないんだけど。
直木賞は有川浩や西加奈子が候補となっている。以前に較べると直木賞作家は本当に若くなった。こんなに早くご褒美をあげていいの?という気持ちもないではないが、賞が新たなるステップアップになるのなら、まあいいかな。

田中慎弥の芥川賞受賞からちょうど1年。
受賞会見の言葉がそう悪評判でなかったのにはホッとした。
その後掌編小説集を出したが、受賞後第一作目となるのはこの長編「夜蜘蛛」だそうだ。

なにやら怖そうな、暗そうなタイトル。
これまでも父と子の関係を描いてきた田中慎弥だが、今回はそのテーマがより重く深く、戦争と介護に向き合っている。
構成としては作者と思しき作家の元に、一人の男から新聞社を通じて連絡があり、その男の手紙を紹介するというもの。
記者と一緒に作家はその男と会ってはみるものの、やはり会って話すよりは手紙を読んでくれと言うことになって送られてきたのだ。
その手紙には男の父親の一生が書かれていた。
3回召集され日中戦争で脚を負傷した父が、老いて息子である男の家に同居することになる。
やがて老いは激しくなり、失禁を氏オムツをするようになる。しかし頭はボケてはいないようだ。
妻や娘の間に立って男は父の老いを見つめざるをえない。
そんな折、昭和天皇の崩御がおこった。
父の胸の中にはずっと「乃木大将」があった。明治天皇に殉死した乃木大将だ。

戦争中の中国で、死体の山のなかで脚を被弾し死人を装って助かった父の、その時の描写と、風呂で大便をしてしまった父の表情の描写。
この二箇所を読むだけでこの本の価値があるというくらい、臨場感が迫ってくる。
戦争を扱ってはいるがこれは社会的なものではなく、あくまでも個人的体験を描いているのだと思う。
その個人的体験がそれ以上に個人的な老いと介護という問題と一緒になったとき、父と息子の内面の軌跡が顕わになってくる。

作品ごとに文体を変える田中慎弥だが、今回もそれは成功しているようだ。丁寧すぎるほどの手紙の文章に最初はいらだったが、だんだんと慣れて引き込まれていった。
「親に似ていても殺せ」と言われている夜蜘蛛らしいが、そんな言葉を私は知らなかった。
掌編小説集はあれはあれで面白かったが、やはりこういう凝縮された小説の方が田中慎弥らしい。
posted by 北杜の星 at 07:47| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月03日

中央道笹子トンネル事故

昨日朝起こった中央道笹子トンネルの事故は本当に衝撃的でした。
事故に遭われて亡くなった方たちがお気の毒でたまりません。
どんなに自分が運転を気をつけても、こうしたことが起こるのならば、どうすればいいのか。。

笹子トンネルは私たち八ヶ岳に住む人間にとってはいつも通る道。
東京へ行くとき、帰るとき。
つい先週の水曜日も走ったばかりです。
東京から帰るときには、笹子トンネルを抜けると「あぁ、帰った」とちょっとホッとします。

笹子は古いトンネルです。
年月劣化が進んでいてもおかしくないくらい古い。
しかも交通量が増えて振動が多くなっている。
天井板を止めてあるビスが緩んでも不思議ではないかもしれません。
こんなトンネルは日本中にきっとたくさんあるはず。
これからはトンネルを車で通るたびに、天井や壁が崩落しないか気にかかるでしょう。

この事故はショックで、まだ気持ちが平静になりません。
私たちを心配して電話やメールをくれた友人たち、ありがとう。
私たちは大丈夫。
でも到底他人事とは思えない事故で、胸ふさがれる日曜日でした。

ごめんなさい。
月曜日にこのような記事を読んでもらうのは心苦しいのですが、どうしても書かずにはいられませんでした。
どうぞ、いろんなことに気をつけて、新しい一週間をお過ごし下さい。
posted by 北杜の星 at 09:08| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月30日

辻原登「父、断章」

これまで辻原登の自伝的小説を読んだ覚えがない。
彼の中国ものはどちらかというと苦手で、それというのは彼のせいではなく私に中国に対する素養のないことが原因なのだが、でもそれ以外のものは彼の文章の確かさが好きで、時おり読んできた。
だから自伝的短篇集とあるのに、少し驚いた。

でもこれはあくまでも自伝「的」であって、自伝そのものではないのだと思う。
「父、断章」は父が実名で登場するし、かなり実話に近いと思われる。
「母、断章」もそうかと読み進めていると、ラストの人魚が泳ぐところで、これは創作だと気付かされた。
後の短編も注意して読むと(中国ものの「虫王」が別として)、やはりこれは私小説そのままではないとわかる。

この「虚」と「実」の混ざり具合が、背景となる紀伊半島の熊野という土地と相まって、なおのこと独特の雰囲気を醸しだしている。
辻原登という作家、やはり巧者だ。
わかりやすい物語で平易な文章だが、これに騙されてはいけない。
「母、断章」以降の短編を読むうちに、私はだんだんと疑い深くなっていった。

この本は読み終わったあといつまでも、書かれた風景が目に浮かぶ。
川で泳ぐ人魚、家族で旅行する先の川湯温泉、松阪から熊野へのドライブ、東京駅で見た夏の帽子・・
これら記憶は断片だけど、断片と断片が結ばれるとき、記憶は一つの物語となって私たちの前に現れる。

それにしても辻原というペンネームが、父親のライバルの政治家の名前だとは・・
posted by 北杜の星 at 07:41| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月20日

高峰秀子「忍ばずの女」

高峰秀子が亡くなって1年9ヶ月。
5歳で映画デビューし、昭和の時代ずっとトップスターだった人だ。
小学校へ通う時間すらなかったというが、彼女の文才は素晴らしくそのエッセイのファンは多い。
高峰秀子は私の母と同じ歳。なので私はそれほど彼女の映画を観てはいない。
母に連れられて数本を見た程度である。
自分が丸顔なので、丸顔が嫌いで、高峰秀子の顔の丸いのを見ても、そう美しくは思えなかった記憶がある。

あれほどの映画女優だったのに、高峰秀子は女優が嫌いだった。
はやく女優なんてやめてしまいたいと思っていた。
しかし義母が金の亡者で、彼女を金の卵とみなし彼女をずっと束縛し続けた。それだけではなく親類縁者が十数人も彼女に依存して暮らしていたので、やめるわけにはいかなかった。

そんなにイヤな女優であったが、仕事をおざなりにしていたわけではけっしてない。
これほど研究熱心に勉強した人はいないのではないかというくらい、いろんな方面から演技をとらえ様としていた。
この本は、そんな高峰秀子という役者の演技論が書かれている。
なによりも大げさな演技を嫌った。
老け役をするときには、整形外科に行って年寄りの骨格や筋肉がどうなっているかを知ろうとした。
彼女自身は女優を嫌っていただろうが、おそらくは演じることの天性の才能があったのだと思う。

その才能の一つが、「見る」ことだったのではないか。
じっと観察する冷静な目が備わった人だったのだろう。
最近編纂された高峰秀子の本にはかならず「斎藤明美という作家の前書きや後書きがついているが、この本のあとがきも斎藤明美によって書かれている。
彼女は高峰と松山の養女である。
養女になって以来彼女は世間から「うまくとりいって養女になって」と中傷され続けている。とくに高峰の死後それは増すばかりらしい。
でもそんなことを言う人は、高峰秀子の何を知っているのだろうか。
高峰秀子は幼い頃から人間不信の塊で生き抜いてきた人である。人間を洞察することに関して彼女ほど年季の入った人はいない。人間を見間違う人ではない。
そんな高峰が養女に見込んだのだ。
世の中には卑しく嫉妬深い人間がいるが、そんな人間の言うことなんか「ゴミ」なのだから、気にすることはない。

斎藤明美にはこの先も高峰秀子が過去に書いて今は絶版になっているものの、復刻を是非全うして欲しいと思う。
「忍ばすの女」もその一冊で、このタイトルは高峰秀子の書いた初めての脚本だ。
それがこの本の後半に載っている。
これは彼女が「かあちゃん」と読んでいた女性の半生を描くものである。

この文庫本は友人にもらったもの。
彼女「これ持っているのに、また買ってしまったのよ」と。
私も同じ本を三度買ったときには、あまりのことにしばらく落ち込みました。
posted by 北杜の星 at 06:55| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月09日

高樹のぶ子「マルセル」

この本は友人が貸してくれたもの。
1968年に実際に起きた事件をもとに書いた樹のぶ子初のミステリーだそうだ。
1968年というと私は10代、本を貸してくれた友人は20代半ばだった。
ずいぶんと新聞を賑わせたはずなのに、二人とも覚えていない。
1968年(昭和43年)12月の暮れも押し迫った27日、「ロートレック展」が開催されている京都近代美術館よりロートレックの人気作品「マルセル」が盗まれた。
絵画は時効成立後に戻ってきたが、犯人は結局わからずじまい。つまり事件は迷宮入りとなった。
樹のぶ子はこの毎日新聞連載小説において、犯人とその動機をさぐり、それにエンターテイメントとしての大胆な肉付けをした。
500ページ以上の長編だが一気に読めた。

千晶は新聞記者。
同じく記者だった父の遺品を整理しているときに、「マルセル」の絵葉書と盗難事件に関する取材ノートを見つけた。
事件が起こって何年も経ったあとでも、なぜ父はこの事件を追い続けたのか。
千晶は偶然降りたった京都で、この不可解な事件を追うことが父を知ること、また父からは死んだと聞かされてきた母のことに繋がることに気付く。

絵画の贋作づくりとその組織。
謎は謎を呼び、千晶は東京・神戸・京都・パリへとなにかに導かれるように移動する。
ハラハラドキドキは、ミステリー初作品としてはなかなかのもの。
それに加えて「恋愛小説の名手」と称される樹らしく、千晶の恋のお話が絡む。

壮大なスケールの小説であると同時にこれには、千晶という一人の若い仕事を持つ女性の細やかな暮らしの部分があって、そのことがこの小説に奥深さを与えていると思う。
もし男性作家によって書かれたとしたら、これほどこれは成功しなかったかもしれない。
3分の2くらいに短くできると思うけど、新聞連載だったのだからこれは我慢しよう。楽しめる一冊でした。
posted by 北杜の星 at 07:32| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月07日

津村記久子「やりたいことは二度寝だけ」

これが津村記久子の初エッセイ集だそうだ。
ある若手女性作家は最近やたらとエッセイばかり書いてお茶を濁しているが、ちゃんと小説や詩を書いたらどうかと言いたくなる。
小説家はまず小説を第一義にしてもらいたいものだ。
でも好きな作家がどんな日常を送って、どんなことを考えているかは、やはり知りたいもの。
そういう意味でこのエッセイ集は津村記久子という人がわかるので、面白い。

会社員をしながら小説を書く。
そりゃ、大変でないわけがない。
時間のやりくりだけでも苦労があることだろう。
だけどこの本を読むと、作家という普通でない職業を持つ人とはとうてい思えないほど、どうってことのない毎日みたいだ。
というか普通の人の方がもっと楽しいことしてるんじゃない?というくらい。

なにも特別なことの起こらないそうした日常で、エッセイの題材をどうするか?
津村記久子はうまいことを考えた。
自分がネットで検索する事項を題材にして書けばいい。うん、これは新しい手だ。
これならどこにも行かなくても、誰となにかしなくても、毎日していることだ、いくらでも書ける。
そんなもの面白くない?いえいえ、それがなかなか面白いんです。
何を検索するかで、彼女の日常が透けて見えてくる。

トイレのことをいつも気に掛けている。
離婚した母と弟がいる。
スペイン人と結婚した友人がいて、スペイン語を勉強している。(その結婚披露宴に参列し、花嫁が「父への手紙」を読んだとき、一番泣いていたのが、新郎のスペイン人の友人たちだったそうで、おかしな人たちと思って、スペインやスペイン語にも興味をもったみたい)。
最近信心深くなって、初詣に行ったり、前厄を気にしたり、歩いていてお地蔵さんをみると手を合わせたりする。
妖精に関する本を愛読している。
・・ずいぶんといろんな彼女のことを知ってしまった。

この普通さが津村記久子の小説の原点なのだろう。
普通であっても理不尽なことはたくさん起こる。それが職場であればなおのこと。
それは人間関係だけではない。コピー機だってとっても理不尽に動いてくれないときがある。
そういうことと折り合いをつけながら、変に生々しくなく淡々と描かれる彼女の小説が私は大好きだ。
「ワーカーズ・ダイジェスト」もよかった。「とにかくうちに帰ります」もとってもよかった。
初期の作品はもっと乾いた感じがあって、会話部分は鋭かったかな。ああいうのも悪くなかったのでまた読んでみたい。
posted by 北杜の星 at 06:35| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする