2017年05月22日

群ようこ「かもめ食堂」

11冊目の点字本。
これを読み終わる頃には。ちょっとスピードが上がったのが実感できて、これからは地元の点字図書館だけでなく他県他館の本も借りられるようになるかもしれない。
それだと新刊本が借り受け期間20日間以内で読めるかもしれない。
と言っても、点訳するタイムラグがあるので、どうしても数カ月後になるのだけど。

「かもめ食堂」は本で読むのはこれが初めて。
封切された時、映画を見た。
なによりも驚いたのが、これ以上ないというキャスティングと、食器や調理器具やインテリア、それと料理のセンスの良いことだった。
さすが北欧はデザインの国。すべてが素晴らしいコーディネートだった。スタイリストがよほど優秀だったのだろう。
それらの中には我が家にある鍋や皿もちょっと画面に出てきて、「あっ!」とうれしくなったものだ。
あんまり日本映画を観ない私だが、「かもめ食堂」はもう一度観たいなぁ。
(ここのライブラリーにDVDがあるみたいなので、借りよう!)

印字本は一冊だが、点字本は2巻に分かれている。
その一つを読んで「あぁ、これって映画のまま、とうか映画化は本のままなのね」と思った。
映画化された原作が映画とはかけ離れているのはよくあることで、その最悪ケースは、村田喜代子「鍋の中」。
黒澤明監督によって「八月の狂詩曲」という、なんとも安っぽいヒューマニズムに化けてしまっていてびっくりした。
原作者の村田喜代子も怒り心頭だったと聞く。
でも「かもめ食堂」はそんなことはまったくなくて、本と映画がぴったりだった。

でも、でもですね。。
一冊目の最後の頁で「あれー?これってエンディング?なんで?なんで?」
もしかしたら、これって第2巻のほう?私、第1巻を飛ばして後半を読んじゃったの?

そうでした。第1巻のほうには、サチエやミドリがフィンランドにやってきた経緯が書かれていた。
豪華な食事ではなくふつうのご飯を供する食堂を持ちたいと思っていたサチエが、宝くじに当たってフィンランドに店を構えるようになったこと。
サチエとミドりの「ガッチャマン」出会い。
そんなこんなが第1巻でわかった。
それにしてもこの本、まるで映画を目的に書かれたんじゃないかと思うほど、サチエは小林聡美、ミドリは片桐はいり、マサコはもたいまさこ、そのもの。
みんなナチュラルな演技だった。

サチエが日本のソウル・フードと呼ぶ「オニギリ」。
誰が何と言ってもこれだけは譲らなかったサチエの「オニギリ」。
外国人にとってはとても珍妙なものに映るらしい。とうてい食べものとは思えないようだ。
海苔は黒い紙だし、まず海苔の黒とご飯の白という強いコントラストは食べもの概念から外れている。
中の梅干しやおあかかも、彼らの嗜好には合わないかも。
でもそんな「オニギリ」を信じてメニューに載せ続けるサチエを、心から応援したくなる。

それと可笑しかったのは、合気道の達人の父に育てられ、自身も心得の尾あるサチエが毎日膝行法をしている傍で、ミドリがヨガっぽい動きをすると、サチエがすかさず「ヨガはダメですよ」と言うところ。
武道の動きとヨガの動きは違うんでしょうね。

この2冊、点字で全300頁弱を6日間で読了。
やったぁ!!という達成感でいっぱいです。
posted by 北杜の星 at 07:58| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月06日

宮下奈都「死すかな雨」

「羊と鋼の森」で本屋大賞受賞となった宮下奈都。
こんな言い方は失礼だが、私にとっては「彼女、化けちゃったよ」という感じがないでもなかった。
けっして彼女の小説を評価しないのではない。むしろその反対で、ずっと彼女の小説を読んできて「あぁ、佳い小品を書く人なんだな」と大好きではあった作家なのだ。
それでもこんなベストセラーを書く人になるとは、私の見る目がなかったと反省。
(ちなみに彼女の作品で私が一番好きなのは、全然売れなかったそうだが、「田舎の紳士服店のモデルの妻」です。これは彼女自身も力を入れて書いたようで、でも理解されなかったとどこかで言っていた)。

この本の帯には「本屋大賞第一作」とあるが、それは違う。
これは彼女の2004年のデビュー作ななのである。これまで本になっていなかったのか?
文學界新人賞に応募して佳作となったものだ。
100ページそこそこのごく短い小説。

主人公の青年はある日、パチンコ屋の駐輪場の屋台のたいやきを買った。
素晴らしく美味しかった。
焼く人を見ると、そこには若い女性のこよみさんがいた。
やがて少しずつ話すようになった頃、こよんさんは交通事故で病院に搬送されたが、意識不明が続いた。
ようやく意識が戻ったものの、事故前の記憶はあるのだが、事故後は今日のことを翌日には忘れている人になってしまった。
二人は寄り添うように一緒に暮らし始めるが。。

というストーリーだが、単なるお涙頂戴ではないし、ところどころに「ふふふ」と小さな笑いがこみあげるユーモアもある。
でもなんだろ?ちょっとイージーな物語で、この題材でこう書けば、もしかしたら賞が狙えるかも、という魂胆が透けて見えるというか、まぁ、ちょっとつまんない。
なぜかというと、ここにはみんな良い人しかでてこないんだなぁ。「怖さ」がない。
(屋台にこわいオニイサンたちが来て子よみさんを脅すが、そういう怖さとは違います)。
こういう話はどこかに「怖さ」がないと、気が抜けたビールになってしまう。

なんだかんだと、いちゃもんつけている私だけど、宮下奈都がこの中で書いていることはわかるのです。
人間を形作るくものは遺伝子などではなく、会った人々、聴いた音楽、味わった食べもの、訪れた土地などから成り立っているのだということ。
たとえその記憶がはっきりと残っていなくても、脳や体のどこかにそれらが集積された痕跡はあるはず。
「忘れても忘れても育っていくもの」がある限り、こよみさんと青年の暮らしは続けられるのだろう。

この本には予約がたくさん入っていますというラベルが貼ってある。
本屋大賞の後だもの、みんな読みたいのだ。
これからライブラリーに返却に行きます。
posted by 北杜の星 at 07:30| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月31日

宮本輝「草花たちの静かな誓い」

久しぶりに読む宮本輝。
私の感覚では宮本輝は芥川賞というよりも直木賞に近いストーリー・テラーだ。
彼の書いたもののなかでは初期の「錦繍」が好きだ。
最初、蔵王のロープウェイで別れた元妻と出会う場面の文章の素晴らしさ。小説の導入部としてもとても映像的だった。
あの文章を読んで、「この人は残る小説家になるだろうな」と生意気にも思った。
その文章に関しては小川洋子がエッセイのなかで、同じようなことを書いて賞賛していた。
宮本輝の小説はあまり読んでいないが、彼のシルクロード紀行文「ひとたびはポプラに臥す」は大の大のお気に入りで、何度も読んだ。
新聞社のカメラマンたち、彼の息子、通訳との旅は、まだまだシルクロードが整備されていない時代、けれどパキスタンを抜けてフンザまで抜けられたある意味、平和な時代の旅だった。
今もときおり読み返すことがあるが、全然古くなっていない。

さてこの「草花たちの静かな誓い」。
ミステリー仕立てなので筋はあまり書かない方がいい。でもかなり前の部分で誰が誰なのかはわかるのだけど。
ロスアンジェルス在住の菊枝叔母さんが日本旅行中に突然亡くなった。
甥の弦矢が渡米すると、莫大な財産が彼に遺されているのがわかった。(家を含めると45億円!)
しかし6歳のときに白血病で亡くなったとばかり思っていた菊枝叔母さんの娘は、じつは生きていることを知る。
娘のレイラは誘拐されたのだった。
そこには隠された事実が。。
(この事実がどうにも落ち着きの悪い読後感を導いて理うと思う)。

この小説はロス近郊の高級住宅地が舞台。
その高級さがどんなものかの取材を、宮本輝派丹念にしたのだろう。そこに住む知り合いがいたのかな?
地元不動産屋の評価額が10億円以上という豪邸。
そこで庭を任されている日系の庭師やぷ得トルコ人女性のハウスキーパー、レイラを探すよう依頼した私立探偵、弁護士・・
脇役は少ないが、しっかりした人物像をつくっている。
アメリカの法律もいろいろ知ることができて興味深い。

菊枝叔母さんはその豪邸の庭を草花でいっぱいにするつもりだったようだ。
彼女はいつも娘に、草花には人間と同じような意識があるのだと話していた。
弦矢も庭の花々を見ながら、草花は宇宙の一部ではなく、宇宙ものものだと実感する。

エンターテイメントとして大いに楽しめる小説。
菊枝叔母さんの作って冷凍保存してあるスープの美味しそうなこと!
私も今日あたり、かぶのスープをつくろうかな?といっても菊枝叔母さんのような本格的ではなく、超簡単なものだけど。
(トロリ感を出すために冷ご飯をちょっと入れて煮込み、フードプロセッサーにかけるのがコツ)。
posted by 北杜の星 at 08:10| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月30日

森川すいめい「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」

「精神科医、『自殺希少地帯を行く」という副題のとおり、精神科医である著者のフィールドワークがルポされている。
このタイトルに惹かれて読むことにしたのだが、かなり面白かった。
日本の自殺者の多さはかなり以前から言われているが、同じ県であっても地域によって自殺の多い土地もあれば少ない土地もある。
その差はどこからきているのか?住人たちに違いがあるのか?

そう、あるみたいなんですね。その土地土地による差が。
人にやさしくて至れり尽くせりのところが自殺希少地帯と思いそうだが、そうではないようだ。
むしろ人と人との距離が適正に守られているところの方が、自殺は少ないらしい。

例えば、人口2千人の町(村?)で、名前は知らないが顔は知っていて、挨拶はする程度。
自分の意見は相手にかまわずに述べる。(ひとの言うことはきかない)。
同意見に迎合しないので、そういう土地には派閥ができない。
クールに見えるが、自分にできないことを頼まれたら、からなず他のひとに訊いてみる。
助けるときはとことん助ける。

著者はある土地に行き、櫛を忘れたことに気付いて、町の雑貨屋さんに櫛を買いに行った。
けれどその店には櫛は置いていなかった。
あきらめて帰りかけたら、その店の主人は家の奥から4本の櫛を持って来て「どれがいいか?」と尋ねたという。
あっけにとられて返事ができないでいるとその主人は「あ、この黒いのがいいよね」と言って、水で洗って彼に手渡したそうだ。
また、自殺希少地帯の近くでヒッチハイクをしたら、車を止めて乗せてくれたのは、すべてその土地のひとの車だったとか。

クールだがあいさつを言い交わし、天気の話をしたりする関係が、人を孤独にさせない。
ある町にはいたるとこいろに「ベンチ」がある。住人は歩いて疲れたらベンチに座る。
坐っていると前を人がとおるのでちょっと話をする。
また、村や町には屋根つきのバスの停留所があるが、家を出てそこに坐って人と会話をする。
なんとくことのないちょっとした会話。でもそれが人を救うのだ。


ふだんは放っておいてくれる。
でも必要とあらば手を貸す。
・・そんな人間関係があるところがどうも、自殺希少地帯のようなのだ。
そこではみんなかなり我が強そうだ。我を通すだけの風通しの良さがあるということかもしれない。
自分勝手といえば自分勝手なのだが、助けたといって恩着せがましさはない。自分が自分の意思でしているというスタンスなのだ。

もっともある村人は「私はあの村が大嫌いだから出た。」と言う。
嫌いな人が出てゆくから、そこには自殺する人がいないのだと。
うーん、そういうことも言えるのかな?
だけど私にはなんだかそういう地帯って、心地よさそうに映るんですけど。
posted by 北杜の星 at 07:56| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月12日

森見登美彦「夜行」

これ、今月決まる直木賞の候補作品なんですね。
候補になる前に借り出していたので、予約はまだ全然入っていなかくてラッキーだった。

十年前に京都の鞍馬の火祭に出かけた英会話スクールの学生たち6人連れ。
そのなかの一人の女子学生が突然いなくなり、以来ずっと行方不明のまま。
今回主人公の呼びかけで、残りの5人がまた鞍馬に集まった。

それぞれが語る旅先での経験談は、いつも誰かがいなくなる。
尾道、奥飛騨、津軽、天竜峡・・
みんなの共通項は旅先いで偶然見た、岸田道生という画家の版画「夜行」だった。
その版画には、暗い夜の中で一人の女性が手を振っているというもの。あたかも、あちらの世界に読んでいるような構図の絵だ、

話には結論がない。
確かにあったことかも、どうかすると定かではない。
生活しているこちらの世界と行方の知れなくなった彼らの世界が、ポジフィルムとネガフィルムのように陰と陽に思える。
しかし夜の闇は強く濃く、「世界はいつも夜なのよ」という言葉が、謎を深くする。
最後まで着地点はははっきりしない。

不可思議さに惹きつけられる作品だった。
説明のつかないことが説明のつかないままに、納得できる感じ。
ラストの主人公に起きることが、どんでん返しだとしたら、ますますすべては霧の中。
生にはぽっかり空いた穴がある。その怖さを知るひとには、これは単なるファンタジーとは受け取れないだろう。
私はこういうお話が大好きなので、これ、存分に楽しめました。

でも、直木賞にはちょっと弱いような気がするのだけど。。
まぁ賞はこれだけが対象となるものではなく、これまでの評価を含めてのものだとしたら、森見さん、そろそろ受賞してもおかしくない時期ではある。

posted by 北杜の星 at 07:46| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月10日

町屋良平「青が破れる」

どうも判然としない小説だった。
中途半端というよりも、どうとらえていいかわかりかねる感じ。
良いのか悪いのか、面白いのかつまらないのか、それさえもわからない。
これ、文藝賞を受賞してるんですよね。文藝賞の選者は、町田康、保坂和志、藤沢周という私のお気に入りの作家で、彼らが絶賛したとか。
本当かいな?と訝しいのだが、私の「読み」が足らないのか?
絶賛の個所がどのあたりかも理解できない。

ボクシングをしている主人公の「おれ」。
おれの友人とその難病にかかっている恋人。
おれより優秀なボクシング仲間。
ピザ宅配で知り合った女性に呼び出されてのときたまの関係と彼女の息子・・

登場人物はそう多くはない。
そのなかで起きることはけっこう起伏があって、何人かが死に、残された者たちの生が続く。。というのが一応のテーマなのだと思うのだけど、何か理由のはっきりしない反発心がこれを読むと湧いてくるのはなぜなのだろう?
私だけなのか?

ひらがなが多用される文章にも反発を覚える。
ふつう、ひらがなが多いと、ゆったり落ち着いて静かな気持ちになるのだけど、ここでは作為的過ぎるように思えて、ちょっとイラついてしまうのだ。
それでいて、全体に荒っぽいため、バランスが悪い。

うーん、私では評価できない小説です。
次作を読んだら作者の意図がわかるのかな?
少なくとも次作を読もうと思うくらいには、「読める」人なんですけどね。
この気にかかるということが、つまりは作品としては成功しているということならば、これ成功作かもしれません。
posted by 北杜の星 at 07:49| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月21日

マイケル・ブース「限りなく完璧に近い人々」

「なぜ北欧の暮らしは世界一幸せなのか?」が副頽。
じつは私はこういう本はあまり好きではないのだ。
だって他の国がいかに素晴らしいかを知ったとしても、私のこの国が良くなるわけはないし、知れば知るほどなーんか虚しくなるだけだから。
隣の芝生の青さを羨んでもしかたない。。
それでも時どき読んでしまうのは、虚しさのなかに巣くう腹立たしさをなんとかこの国に反映したいと思うからなのかもしれない。
ごまめの歯ぎしりだけど、たくさんのごまめが集まれば何かを変えることができるかもしれいもの。

マイケル・ブースという名前にひっかかるものがあった。
調べてみると、「英国一家、日本を食べる」のあの著者だった。
彼はイギリス人、でもデンマーク人の女性と結婚し現在はデンマーク暮らしだそうだ。
イギリスは今は経済が大変で以前ほどではないというが、それでもまだまだ福祉的には国民は恵まれているはず、そのイギリス人である彼が北欧デンマークに住んで感じる「幸福指数の高さ」。
この本ではそうした北欧5カ国の人々の暮らしをユーモラスに書いている。
でもこれ、500ページぎっしりの読み応えのある本で、読むのに4日かかりました。
なおこの本はオバマ大統領がホワイトハウスの晩さん会で引用したとのこと。アメリカでも「お手本」になる部分があるのだろう。

アイスランド、デンマーク、ノルウェイ、スウェーデン、フィンランド。
私たちは北欧というと、ひと括りにしまいがちだが、この本を読むとそれぞれに個性的で国民性の違いが大きいのがわかる。
著者がデンマーク在住なのでかなりのスペースをデンマークに割いているのは当然だが、どの国に関しても賞賛ばかりでなくその欠点についても容赦はない。

税金は高い、生産性が悪い(休暇が多いんですね)、高齢化、移民問題ももちろんあるしドラッグ問題だってある。
それでも北欧の人たちの満足度が高いのはなぜか?
なにしろデンマークの国民で人生が大変と考えている人は、1パーセントにすぎないのだ!
税金がどれほど高くとも、教育、医療、福祉など暮らしや将来に不安がないというのは、どれだけ安心なことか。日本の若者の不安度不満度(ほとんど諦めているみたいなのが悲しい)を蚊が得ると、本当にうらやましい。
そのうえ長い休暇があるのだから、過労死などは起こらないだろうし、ほとんどの人たちが持っている郊外の小ぢんまりとした別荘やキャンピングカーでm夏を過ごすことができる。

税金の高さは凄まじい。なにしろ最高税率は50%。
労働者人口の20パーセントは仕事をしていなくて、失業手当や障害者手当を支給されている。
そんな国、どうやって回しているんだ?!と日本人の私は不思議に思ってしまう。つくづく日本の国の税金の使い方の不透明さに唖然となる。
デンマークでは総選挙の投票率が87%だという。
みなが政治に関心をもっているのだ。

税金が高いということは、金持ちと貧乏人の格差が少ないということ。
だからデンマークでパーティをすると、集まる人たちの職業がじつにさまざま。教師や議員などもいるし肉体労働の人もいる。そこでの話題もおそらくさまざまなのだろう。
平等意識が高く、他人への信頼度も高い。

もっとも現在はグローバル社会。経済問題は世界中どこも同じで存在する。移民問題は北欧にも迫っている。
北欧システムがいつまでどこまで今の状態で続けられるかは、誰にもわからない。
それでもすぐ近い将来のこの国の少子化や社会保障制度などには、北欧モデルは参考になるところがたくさんあるはずだ。
この本を読んでいるとそれが決して不可能ではないと思えるのだけど、日本の政治家を思い浮かべると「うーん」と唸ってしまう。
利権ではなく理念を持つ政治家を持つには、それなりの意識の国民がいなければ無理なのだろう。
それはとりもなおさずに、私たち一人一人の問題なのだと思う。
posted by 北杜の星 at 07:54| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月07日

森絵都「みかづき」

昭和30年代半ば、世の中に公団ができ、団塊世代が受験に向かい始めた頃、千葉の小学校の用務員だった吾郎は放課後、勉強のわからない子どもたちを教えていた。
吾郎の教え方が評判になり、塾を立ち上げたい千明から、その塾への参加を請われた。
吾郎はやがて、蕗子という娘を女手一人で育てる千明と結婚、共に塾を経営することになる。
けれど二人の教育方針は異なっていた。
公教育へのアンチテーゼとしての塾を目指す千明に、吾郎は次第に違和感を覚えて袂を分かつようになる。
吾郎の塾は支校を増やし、大きくなってゆく。
と同時にさまざまな問題も起きて、それなりの苦悩も生じるのだが。。

小説の視点は吾郎から千明に移り、最後は孫の一郎へと繋がる。
これは「塾」という教育機関を時代の変遷とともに描きつつ、三代にわたる家族を描く小説でもある。
高度成長まっただ中の昭和の時代と、平成への40年余り。
この間にとっぷり浸って生きた私にはすごい臨場感で読めた。
「そう、そういう時代だったよね」とわかる部分が多かった。
私の通っていた塾はいわゆる「私塾」で、今のような大きな規模の全国展開などの塾ではなかく、むしろ最初の放課後の吾郎の教室のようなものだったけれど、当時、塾通いをする子どもはそうはいなかった。
私は幼稚園も受験を経て、3年保育を電車に一人乗って通わされていたけれど、今考えると、私の母親って教育ママだったのかもしれない。
早生まれの小さな子どもを一人で毎日電車で幼稚園に通わせるなんて、危険きわまりないと今ならほとんど虐待だよね。
もしその経験が私の人生に役に立っているとしたら、まぁ、独立心が強い人間になったかなというくらい。

でもあの頃は、みんな上昇志向が強かったし、未来が輝くものとしてあった。
頑張れば頑張るほど、結果が出た時代。
結果を出すためには、なによりも教育だったのだ。

吾郎の孫の一郎は塾の仕事に従事しながらも、吾郎や千明とは異なる塾を目指している。
経済的に塾に通う得ない子どもたちのため、何ができるかを考えているし、それを実行に移している。
現在、国立大学に進学するためには、塾通いが必須となっているらしいが、その塾へ通うにはお金がかかる。国公立大学は貧困家庭の子どもには通えない。
(国公立大学の学費の高騰も激しいし)。

この本、教育とは何か?何のためなのか?を考えるには素晴らしい一冊。
やれ、ゆとり教育は間違っていたとか、公教育の現場には紆余曲折が多い。振り回される子どもたちはどうすればいいのか。
塾だからこその自由な教育というものがあるのかもしれない。
できるなら学校や塾の先生に読んでもらいたい。

森さんの人生における価値観がこれを読むとよくわかります。
読んでよかった、森さんの力作長編。
posted by 北杜の星 at 07:44| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

森昭「歯はみがいてはいけない」

八ヶ岳に引っ越してからも4年前まで歯科はずっとお世話になっていた先生のところに通っていた。
その歯科医は「朝起きた直後と、夜寝る前にしっかり歯を磨けばいい」と言っていた。
でも世間では「歯は毎食後に磨くこと」というのが常識なので、先生の言うことよりその常識に従っていた。
ただ食後すぐに磨くのは歯に悪いと知ったので、食後30分以上たってから磨くようになった。

けれどこの本の著者は、歯を磨くのは食べかすをとるためではないので、食後そのために磨いてはいけないのだと書く。
食後の口内は食べものによって酸性化していて、歯が柔らかくなっている。それをブラシでこすることで歯が摩耗してしまうからというのもあるが、もっと大切なのは、せっかく食後には「よい唾液」が出ているのに、歯磨きをすることで唾液がなくなり、消化に悪いだけでなく、歯自体が守れなくなるのだそうだ。
虫歯にならないためにその唾液が大きな役割をしているのだという。
それと口内には菌がいっぱいなのだが、その菌を唾液がコントロールして「口内フローラル」のバランスをとっているのだ。

現在の欧米の歯科では、虫歯の治療がメインではなく、いかに歯周病を防ぐかが治療の基本となっているらしい。
そのためには、歯ブラシではなく、デンタルフロスを使用すること。
歯ブラシは食べかすを取るのが目的だが、虫歯は唾液が防いでくれる。だからデンタルフロスや歯間ブラシで「プラーグ・コントロール」をすることが大切。
私たちは外科的治療巧い先生を「上手な歯医者さん」と思っているが、どうもそうではないようだ。
歯周病を防ぐ、悪化させないためにどうすればよいかの適切なアドバイスができる先生を選ぶこと。
歯科医ですら、歯は食後すぐに磨くものと信じ切っている人がいるそうなので、歯科医院の選択を誤ってはいけない。

歯周病を防ぐのがなぜ重要かというと、歯周病がさまざまな病気の原因になるからだ。
口内の有毒な菌が肺炎、脳梗塞、糖尿病、心臓病、はてはアルツハイマーの原因となっているとたら、恐ろしいことではないだろうか。
現に歯周病が改善されたら、糖尿病も改善されたという例は多いという。
(糖尿病だから歯周病になるということもあるが)。
抗生物質を投与すると、歯周病が治るという症例があるらしいが、善玉菌まで殺す可能性があったり、他の副作用があったりして、抗生物質を使うのは最終手段だと著者は書いているが、外科的治療に頼らなくて、薬で歯周病が治る日が来るのかもしれない。

・プラーグ(歯垢)ができるのは、飲食後24時間。
・唾液がプラーグをコントロールしてくれ、その能力は飲食後にもっとも高まっている。
・プラーグは夜寝ている時にできる

この3点を考えると、私の東京の歯科の先生はまったく正しかったのだ!
起床直後と就寝前の2回のしっかりしたデンタル・フロス中心の歯磨き・・
ちなみに夫はこれを実行していて(ものぐさなので昼食後などに歯磨きできない性格なのだ)、虫歯がないんですよね。
東京の歯科医院には、文学座の俳優さんや(北村和夫さんにはよくお会いしたものだ)、声楽家たち、千葉ロッテ・マリーンズの選手たちが通っていたが、歯のブリッジを入れた後でも何の違和感なくすぐに慣れるほど、歯の調整が上手な先生だった。
そうか、あの先生はとっても良い先生だったんだね!
そこの歯科助手の女性の歯垢取りは抜群に巧かったと、私と夫はこちらの歯科医院に行った後に話すのだが、良い先生には良い助手がつくものなのでsね。
つくづく、あの先生が懐かしいが、でも東京まで毎回通うのも大変だし。。
せめて、歯磨きの件についてちゃんと実行することにしよう。

それにしてもこの本を読むと、医学界のいろんな癒着が「お前もか!」という感じでわかるのが悲しい。
この本、読む価値大いにありの一冊です。
posted by 北杜の星 at 07:18| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月17日

三浦哲郎「燈火」

大好きな幻戯書房の銀河叢書のうちの一冊。
銀河叢書とは、敗戦後70年を過ぎてなにもかものスピードが速くなって、美しい言葉もボロボロと失われていくなか、文学的想像力を刺激する埋もれた作品を精選し紹介するもので、これまで十数冊が発刊されている。
並ぶのは私好みの作家、例えば木山捷平、田中小実昌、小島信夫らなのだから堪えられない。
そしてここに三浦哲郎が初登場した。

正直にいえば、三浦哲郎をよく読んできたとは言えない。
彼の自伝的代表作は私にとtっては少しばかり情緒というか情感が多すぎる印象だったからだ。
しかし生家において、二人の姉が自殺、二人の兄が失踪という境遇で、そのことを小説に書くとしたなら、そうなるのは仕方ないことだったのかもしれない。
この「燈火」もほとんど自分の家庭と家族を描く連作短編集なのだが、驚いた。
三浦哲郎ってこれほどの書き手だったの!?
なぜ、これまで読んでこなかったのか、本当に後悔した。
文体と言葉の簡潔さ、それでいて過不足ない事象の描写は心象すべてを表している。
ただ残念ながらこの作品は未完に終わっている。
あるところに連載していたのだが途中で病気になり中断。そのままになったらしい。
だがそれでも十分、作品の素晴らしさに変わりはない。

主人公の作家馬淵は故郷の北の街で、ある女性との会食直後に、大量の吐血をして倒れた。胃潰瘍だった。
劇的な始まりなのだが、劇的なことばかりが続くわけではない。
むしろ家族の細々とした日常の、ささやかなできごとが綴られているのだ。
染めるのをやめた妻の白髪、長女の結婚、次女の独立、故郷に住む弱視の姉の火の不始末、旧友の死・・
ありふれたことばかりといえば、ありふれたことばかり。
それでもそうした出来事から派生する波はあるのだ。

作者の長女の方がこの本が出版された経緯について後記されている。
そして佐伯一麦が「日常の時間の厚み」という解説文を書いている。
佐伯一麦も日常を描く氏小説家である。二人に共通するものがあるのだろう。
・・と思ったところで、思い出した。
佐伯一麦は現在、山梨文学賞の小説部門の選考委員を務めているのだった。
三浦哲郎は亡くなるまでずっと選考委員だった。それを引き継いだのが佐伯一麦。
今年選考委員の一人であった津島佑子も亡くなったが、彼女の後任は誰になるのだろう?

これほどの書き手を数冊しか読まずに過ごしてきたとは。。情けないです。
狭量な私はこういうヘマをときどきしてしまうんですね。残念さを挽回するために他の作品を読んでみます。
posted by 北杜の星 at 07:43| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月26日

室井佑月「息子ってヤツは」

室井佑月の本を読むのはこれが初めて。
でも彼女がテレビのコメンテイターとして出演しているのを見る限りでは、ストレートに意見を述べ、それが私とほぼ同意見なこともあって、わりと好きな女性である。
彼女が作家の高橋源一郎と結婚してて子どもを産み、すぐに離婚というのは知っていたのだが、その息子さん、今はすでに高校生だとか。
シングルマザーとして仕事をしつつ子育てをしてきた彼女の、これは子育てエッセイである。
それも「お受験」エッセイ。

私に子どもがいないせいか、「お受験」にはなんとなく反発を覚えるところがあって、なにも小さな時から塾へ行かせなくてもと考えるのだが、室井さんには室井さんの考えがあったようだ。
それは、親として子に残せるものは教育だけ。前を向いて「自分は何のために生れてきたのか」を問い生きていける人間になってほしいと願ったからだ。
それで小学3年生のときから学習塾へ通わせ、お尻をたたき、中学受験に挑んだ。

でもやみくもなお受験ママではないんですね、彼女。
一人息子を盲愛してはいるが、盲信しているわけではない。自分のこともちゃんとわかっている。
息子は自分という母親といつも一緒ではよくないと、地方の中・高一貫校にターゲットを絞ったのである。
こういう理性は本当にリッパ。

とはいえ、息子は勉強嫌い。ゲームをしたり、ダラダラしてなかなか勉強に熱が入らない。(まぁ、これが普通だと思うのだけど)。
だけど、ここが彼女のユニークな点。
「勉強しろ」とは言わない。(最初は言ったようだが)。
「あんたって、勉強すきだから」という言葉を繰り返し言い聞かせたのだ。
学校から帰ってふてくされながら宿題をしているときには、[宿題をするのは当たり前と思っていても)、「へぇ学校から帰ってきたのに、また勉強しているの?ほんと、勉強が好きなんだから」とつぶやいて見せる。
するとあらあら、「オレって、勉強好きなのかも」と言うようになった!

この洗脳戦略は室井さんが銀座の高級クラブのホステスをしていたのきに学習したのだそうだ。
男って、洗脳されやすいらしい。
息子にもこれは成功したようだ。
(でも、母息子のバトルはこれからもおおいに続く。。)

巧いなぁ、室井さん。
私も夫にこの戦法をつかってみようかな。「あなたって本当はすごーく料理が上手なのね」とか毎日言っちゃって。。

中学合格、地方から休みに帰って来てもあの年齢の男の子が母親にやさしい言葉をかけてくるはずがない。
返事すらしないもの。内心「うるさいなぁ」「面倒だなぁ」と思っているのが、ときおり言葉や態度に表れる。
それでもやはり、そこは母と息子。絶対に切っても切れない「ナニカ」は横たわっているような気がして、息子っていいじゃん!と思う。
現在彼女の息子はソフトボールとギターに夢中な高校一年生。
これから大学受験が控えているが、もう母親の言う通りにはならないでしょう。自分で自分の道を考え見つけるしかない。
そのための「道」をつけてあげるのが親の役割。そしてその役割をしっかり果たした室井さんだと私は思います。

エライし、巧い。人間操縦法に長けているひとですね、室井さんは。
でもそれ以上に、息子を愛し、そして信じているのだと思う。なんやかや言っても、二人の信頼がつたわってくるエッセイでした。
子育中の方にはお勧めです。
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2016年08月26日

森まゆみ「昭和の親が教えてくれたこと」

タイトルを見ると、なんだか教訓を垂れている印象を受けるかもしれないが、全然んそういうことはない。
あの森まゆみさんだもの、そんな上から目線があろうはずがない。
1954年生まれというから私よりは数歳若い。でも育った時代はほぼ同じ。日本が戦後からようやく抜け出そうとした頃、まだまだ貧しくて暮らしはつましかったが、そこにはささやかな「庶民の哲学」がった。
それが人と人との間の潤滑油になっていた。
ましてや「東京の下町」の駒込動坂下の長屋で育った森さん、ご近所さんとの付き合い、助け合いのなかで自然と身についたことがたくさんある。
私もそうだが私たちの親は大正末期から昭和の初めに生れた人たちだ。戦後の新しい時代いとはいえ育児法は古いものだった。
その古さに抵抗反抗したものだったが、今思うと懐かしいし、ある意味ありがたかったかな。

森さんの幼いころを描くこのエッセイ集にはいろんな「言葉」「言い回し」が章の題になっている。
「起きて半畳、寝て一畳」「すまじきものは宮仕え」「遠くの親戚より近くの他人」「お百姓さんが汗水たらして・・」「お里が知れる」「明日ありと思う心の仇桜」「親しき仲にも礼儀あり」・・
あった、あった。私の親も何かにつけてよく言っていたなぁ。
言われるたびに「ぅんもう、またか」と思っていたけど、幼いころに聞いた言葉は今でもちゃんと刷り込まれている。

私の時代には子どもは家の手伝いをしていた、というかさせられていた。母親が買い忘れたモノをちょっと買いに行かされたり、玄関周りの掃除もさせられた。
森さんも同じで、掃除をする時には彼女のお母さんはいつも「隣の半分まで掃くんだよ」と言ったそうだ。
「自分の前だけきれいになればいいというのはいけない。しかし隣の前を全部掃くのはおこがましい。やりすぎだ。」というのがその理由。
いいですねぇ、こうした「程の良さ」。
これぞ人とのお付き合いの「間合い」というもの。「庶民の哲学」の深さです。

森さんの両親はどちらも歯科医師だった。当然おかあさんはとても忙しい。
だからご近所さんが助けてくれた。隣の家でご飯を食べさせてもらったり、学校から家ではなく他所の家にランドセルを置いて遊んだり。。
当時は働く女性を専業主婦がよく助けていたものだそうだ。
仕事を持つ女性がともすれば専業主婦を見下して、両者が敵対するバカなことはなかった。(それはある一時期あったけど現在は少なくなっていて、女性同士の連帯が強くなっていると思う)。
隣の家でご飯を食べる。その代わりに風呂を立てて入れてあげる。(隣は銭湯に行っていた)。

(余談だが、ある有名な女性の学者が書いていたのだが、仕事関係で知り合った人はどんなに親しくなっても距離があって、例えば入院したとして、お見舞いには来てくれるが、下着までは洗ってくれない。でも子育てで知り合ったお母さん仲間の友人はパンツまで洗ってくれた、と。それに主婦の人脈の深さ太さにはつくづく感嘆するものがあったという。仕事を通しての友人がどんなに多くても、そこまで深くはなれないと思う。)

「風呂を立てる」という言葉も今はなくなりましたね。
消えた言葉というのも結構ある。
以前は「弁当をつかう」とか「出汁をひく」「米を研ぐ」と言ってたけど。。

私はとても森まゆみが好き。
彼女の価値観、社会に対するスタンスと行動など共感するものは多い。
そうした彼女をつくりあげたげたのが、彼女の生まれ育った界隈ということがこれを読むと再認識できる。
そして今でもその地を愛し続けられる彼女の幸せを思うと、土地に執着しなくて生きて来た私には、本当にうらやましいものがあります。
原田氏病にかかったいうけど、大丈夫なのかな?
私と同じで、自然療法の自然治癒で治そうとする彼女、いつまでも元気でいてもらいたいです。
posted by 北杜の星 at 07:38| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月01日

宮坂信之「ステロイドがわかる本」

この本を読んだのには二つの理由がある。
一つは、友人が自己免疫系病気の治療にステロイド投薬を受けることにしたのと、もう一つは2週間前から私の皮膚に湿疹が出始めたこと。
昨年の皮膚病は自家感作性皮膚炎というもので、それはホメオパシーで治ったのだが、もしかして再発かとビクビクしていた。
この暑いのに東京のホメオパスの先生との相談会に行くのはいやだなぁと思い、でももしこちらの病院の皮膚科に行くとなると、ステロイドを使われるんだろうなと、これはもっといやだとビクビクしていた。
でも昨年とは微妙に異なる症状で、自家感作性皮膚炎は左右対称なのに右側だけにしかでていない。だけどそれはそれで帯状疱疹という可能性もある。。
診察の結果は、蕁麻疹とのこと。食べものアレルギーの蕁麻疹ではなくて、古い蕁麻疹の「種」のようなのが体の中に残っていて、それがストレスや疲れで出てくるのだそう。
もし慢性化すると厄介みたい。(皮膚疾患ってアトピーを見てもわかるように、どれも厄介なんですけどね)。
放っておいても数日すれば消えるし、もし慢性化を防ぐのなら抗ヒスタミン剤を服用してくださいと言われて、かなりホッとした。
私は幼いことから蕁麻疹がよく出る子だった。今でも太陽湿疹や寒冷蕁麻疹に悩まされている。
(症状、とくに肌の症状というのは体の内の毒素を出しているのだから、出し切るのが本当の治療だと思っている。)

ステロイドは怖い!というのは今では誰もが知っていて、できるならば避けたいと思っている。
でもステロイドは医師がきちんと経過を観察しながら塗布したり服用すれば、安全とも言われている。
薬はどんな薬にも、漢方薬にも副作用はあるのだから、ステロイドだって諸刃の刃。
じっさいに私のまわりにも、副作用で困ったというひともいれば、ステロイドで湿疹が消えて痒みから解放されたと喜ぶひともいる。
それでは、どうすればいいか?
膠原病・リウマチ専門医である著者が、病気別にステロイドとどう付き合うかを教えてくれるこの本は、これからステロイド治療を始めようとするひと、治療中のひとが読めば、役立つかもしれない。
専門だけあって自己免疫の病気が大部分を占めているが、皮膚科、耳鼻科、呼吸器内科、腎臓内科など多くの病気にステロイドは対応している。

ステロイドはご存じのように副腎から出るホルモンである。
投与される量にもよるが、2週間くらい服用すると、副腎からのステロイドは出ることをストップしてしまう。人間の体って怠け者なんですね。外から入ると内ではつくらなくなる。
一度つくるのをストップすると再びつくれるようになるには時間がかかる。つまり体にステロイド・ホルモンがまったく供給されなくなる期間ができるということ。
これがよく云われるような「急にステロイドを止めるのはよくない」の原因なのである。
自己判断ではなく、医師の管理の元に量を少しずつ減らしながら終わらせることが肝心。

しかし服用中にも副作用が起こる場合はある。
ムーンフェイス、肥満(手足は細くなる)、皮膚が薄くなったり血管壁が弱くなるので打ちあざがでやすくなるなどなど。
けれどこれは軽度副作用なので普通は治療は継続される。
(私にはこれが「軽度」とは思えないのだけど。これらを起こすかなりの異変が体のなかで起きているのだと思う)。
重症副作用は深刻だ。
感染症にかかりやすくなる、糖尿病、消化性潰瘍、骨粗しょう症、無菌性骨壊死、筋委縮、精神病(気分のムラやうつ病など)、脂質異常、白内障・・
挙げればきりがないくらいの副作用がある。

この本にはこういう副作用は「長期」「多量」に続ければとあるが、どれくらいの期間を「長期」と云うのかは、明記されていない。
人間には個体差があるし、年齢によっても副作用の出方はことなるはずだ。
日本では病気になると「標準治療」が行われ、ステロイドの投薬もそうした「標準治療」のガイドラインに沿って行われるのだろうが、そこではちゃんと個人差がはっきりしているのだろうか?
(多分わかっていないから、「経過観察」なのだと思うのだけど)。
ただこの標準治療というのがあるから、他の外来に行ってセコンド・オピニオンを得ようとしても、同じ意見しか返ってこない場合が多いため、「やはり、この治療しかないのね」ということになってしまう。

ちなみに「一つ目」の私の友人のステロイド治療は、医師から薦められたものではなく、あくまでも「自己判断」でステロイド治療を受けるかどうかを自分で決めさせられたのだそうだ。
「えー、それって医師はなんのためにいるの?」「責任回避じゃない?」と私は納得できないのだが、イマドキの医師ってそうなの?
でもそれってやっぱり、ステロイドの副作用があるってことですよね。
何を選択して、何を拒否するかを患者にゆだねるということは、患者にもっともっと知識をもちなさいということである。
しっかりいろんな資料を調べて研究する必要があるのかも。
さいわい最近では大学の研究室や専門医の意見がネットで調べられるようになってきた。
重度であっても軽度であっても、副作用が私の友人に出ないことを祈ります。
posted by 北杜の星 at 07:48| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月06日

三崎亜記「ニセモノの妻」

三崎亜記の作品はよくSF的と評される。
でも私はそうは思わない。
SFなら「なんでもあり」になってしまって、つまらない。
彼の作品は日常をちょっと上下逆さにしたり裏表にしたりすることで、それまで想像もしなかった世界に読者を運んでくれるから面白いのだと思う。
架空の世界であっても、ベースはあくまで「日常」なのではないだろうか。

この4つの短編集もそう。4組の夫婦を描くもの。
普通に暮らしているはずの夫婦に起こる不思議で怖いこと。ぜったいに起こらないことが起こったとき、彼らがどう考えどう行動するか。
奇想天外が起こると、それはホラーだったりミステリーだったり。
しかもそれが起こるのが夫婦になのだから、せつなくもあるのです。

買ったばかりの新築マンションに引っ越した夫婦。でもマンションにはどの部屋にも灯りがない。誰にも会わない。
ある日突然6年一緒に暮らした妻が「私はニセモノかもしれない」と言い、二人してホンモノの妻を探しに。
「あなたとは傾きが違うのよね」と「坂」主義の妻が言う。世の中は坂主義と階段主義が対立。
どういうわけかできた断層が、家族を分断する。。

・・というお話を詳しく説明するのは野暮というもの。
これを楽しめるかばからしいと思うかは読者次第だ。
ただ、三崎亜記を読んでいつも心配なのが、「いつまでこれが続けられうのだろう」「ネタ切れしないの?」ということ。
奇想天外がalwaysになると、驚きがなくなってカラクリがわかり、飽きられるんじゃないかとヒヤヒヤするのだ。
でも彼の強みがあるとしたら、上に書いたように彼が物語を「日常」から拡げていることだろう。
日常ならいくらでもどこにでも誰にでもある。枯渇することはないはず。
要はマンネリにならないことかな。

今回はこう来たのなら、次回はどう来るか?この楽しみが三崎亜記にはあるんです。


posted by 北杜の星 at 07:20| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月17日

町田康「リフォームの爆発」

町田康が東京都心から熱海の山のなかに引っ越したのは、当時飼っていた10頭の猫のためだった。
買ったのは中古の家でかなりたくさんの部屋数があり、茶室までついているもの。それを入居にあたって改築をした。
猫たちのうち何頭かは死んで現在は、猫6頭と犬2頭がいる。
それらすべてが保護の必要のある見るに見かねて飼うことになった犬猫たちだ。
町田康、それ以上に彼の奥さんはやさしいひとで、気の毒な生き物を見過ごすことができないのである。

そして今回、また家をリフォームすることとなった。それも大々的に。
家中に不具合が出たためだ。
まず、人と寝食を共にしたい居場所がない二頭の大型犬のため。
人を怖がる猫6頭のための茶室・物置小屋や連絡通路の傷みによる逃亡と倒壊の懸念。
そして細長いダイニングキッチンで食事をする苦しみと悲しみ。
ダイニングキッチンの暗さによる絶望と虚無。
これらを改善するためのリフォームなんですね。
(この家、ずいぶんとイレギュラーな造りのようで、私に言わせると「町田さん、なんでこんな家を買ったのよ」と言いたくなるんですけど)。

町田康はこれまでも自分でもいろいろ側庭などの工事をしている。
彼のことだもの、すればするほど失敗の穴が拡がり、奥さんからはあきれられ、自分も嫌気がさして不貞腐れることとなる。
ならばプロの職人さんたちに依頼をしよう!と考えたのは正解。まぁ自分で手に負える規模のリフォームではないのだからそれは当然。
でもこれが一筋縄ではいかないのは町田康ファンなら誰もが想像できる。
職人さんたちとのあれやこれやの折衝が大変なのだ。
彼らの一挙手一投足にビビってしまう。でもちゃんと自らお茶出しもしているんです。

でもかなりリフォームというか建築のことを勉強したものと思われる。そうでなければこのような詳細なリフォーム・エッセイは書けないだろう。
もし「リフォーム文学」というジャンルの賞があるならば、これは間違いなしの大賞受賞だ。
まずただのエッセイではなく、本の導入部はエッセイではなく小説といってもいいくらいの構成となっている。
町田康はこれを書くにあたって、新しいエッセイのかたちを作ろうとしたのではないか。意欲作ですね。

リフォーム後のスピンクたちがどう感じているか、それは次の「スピンク・シリーズ」でわかることでしょう。
楽しみです。
posted by 北杜の星 at 07:51| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月11日

本谷有希子「異類婚姻譚」

これまで三度芥川賞の候補となりながら逃してきた本谷有希子。
応援していた私は「やっと」の思いで、胸をなでおろした。
若いころから(今でも30代なかばで充分若いけど)才能あふれる人で、彼女の舞台なら観てみたいものだと、演劇嫌いの私が願ったほど。
でもそういう意味では今回の受賞作品はこれまでのエキセントリックな主人公の言動が薄まっている印象があって、ちょっと肩透かしかもと読み始めた。
ハチャメチャ、ヒリヒリの彼女の小説の特性が弱いかな、と。

それでも大いに楽しめたのは、作品をとおしてのものすごい「気持ち悪さ」だ。
「気持ち悪い」のが楽しいとは変な言い方だが、この「違和感」がなんとも本谷作品らしいところ。
そして「気持ち悪さ」の根源が何かを問うのが、このお話し。

結婚して4年の夫婦、サンちゃんと「旦那」。
子どもはなく、サンちゃんは専業主婦で安楽に暮らしている。
旦那はけっこうな稼ぎの仕事をしているが、だからだろうか、家では何もしたくないと言う。面倒なことはとにかく避けて、テレビのバラエティ番組を見ている。
ある日サンちゃんは自分と旦那の顔が似て来たのに気付く。
顔の造作は一定ではなく、見るごとに変化したり、元にもどったり。
そして何もしようとしなかった夫が突然、大量の揚げ物をつくるようになって。。

日常が異化していく。
それが妻に何かを気付かせる。
同化する夫婦と、やっぱり「異類」である二人の人間の結婚性格。違和が大きくなればなるほど疑問も大きくなる。
。。気持ち悪さがピークになるのが、隣人の猫を山に「逃がして」やりに行く場面。
猫を逃がすのは、なにかの暗喩か?
いろんなエピソードが出てくるが、その都度少しずつ、裂け目が広がるとろこにリアリティが感じられて笑える。(本谷作品にはいつもこの「わらい」があるんですよね。)

毒が薄まったような印象を最初受けたけど、やはりこれはまぎれもない本谷有希子でした。
読みやすくなっているので、読者層が増えるのではないでしょうか?
本を読む人をとにかく多くしたい。そのためにはレベルを落とすのではなく、読みやすくする努力を作家たちはしてもいいのでは?と思います。
純文学好きだけが本好きとはかぎらないのですから。
ちなみに私はそういうジャンルがあるとすればですが「純文学」大好き人間です。
posted by 北杜の星 at 07:38| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月18日

村田喜代子「焼野まで」

熊本地震の被害が時を経るごとに大きくなる。
日本には多くの断層があって、いつどこで同じことが起こっても不思議ではない。
「私でなくてよかった」ではなく、「もし私だったら」と受け止めることが大切。
そうすれば支援のしかたも違ってくると思う。
そしてこんな危険な国に原発はいらないと、声を大にしてみんなで言おう。

2011年3月11日の東日本大震災の数日後、作家の村田喜代子に子宮体がんが見つかった。
彼女は手術ではなく、四次元放射線ピンポイント治療を選択し、以来癌は消えている。
彼女はこのことを「光線」という小説に書いている。
しかし「光線」には書ききれなかったのか、今回のこの「焼野まで」で再び治療を受けた日々のことを描いているのだ。

一行目に「オンコロジー・センターのX線照射台に仰臥して・・」とあり、驚いた。
オンコロジー・センターは鹿児島にある、植松医師が開発した放射線ピンポイント治療を行う病院である。
かねてより私は癌になったらここに行こうと考えている。(山梨医大の肺がんのピンポイント照射もとても有能なので、近場なので最近はある種の癌に関しては山梨医大もいいかなと思っているが)。

でも村田喜代子は作家だ。自分の治療をしっかりと小説に仕立てていて、風景や心理描写はさすがだ。
焼野という言葉にはいろんな意味を含ませている。
福島の原発事故の放射能、自分の治療のための放射能、そして鹿児島(街の名は明記されていないし、火山も別の名前になっている)の火山。
目には見えない光線は人を脅かし、病気を治癒させる。爆発を繰り返す火の山への畏怖・・

放射線治療には「宿酔」と呼ばれる副作用があって、これは人により程度が異なる。
主人公はとてもひどい宿酔に苦しむ。
吐き気、食欲不振、疲労感・・夫が帰って一人になったウィークリー・マンションで、じっと耐えるしかない。
そのなかに、とうに亡くなった祖母や叔母が現れる。まるで幻視のように。
その他にも、やはり癌にかかっている元仕事仲間の男友達からの電話、センターで知り合った女性と街の銭湯に行く話し(鹿児島では銭湯はほとんどが温泉らしい)が織り込まれる。
そのあいだずっと降り積む火山の灰・・

うーん、放射線治療も大変なのだ。彼女のように苦しむのなら、彼女も書いているようにウィークリー・マンションは何でも自分でしなくてはならないので大変だ。
近くの病院に入院してそこからオンコロジー・センターに通う方がいい。(センターは治療のみ、年中休みなし)。
でも彼女の衰弱ぶりがどんなものかわかったが、それ以上にわかったのが、火山灰のものすごさ。
半端な積もり方ではない。よくあの降灰に耐えて住んでいるなという感じだが、住んでいる人はもう慣れっこになっているのか。

これは闘病小説ではありません。
村田喜代子らしい「こちらの世界」と「あちらの世界」の狭間が、病気というリアルさとともに描かれている。
子宮体がんに放射線治療は効果がないと治療に大反対の看護師の娘との気持ちの行き違いもとてもリアルで、母と娘の関係の難しさを考えさせられました。
posted by 北杜の星 at 08:03| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月06日

松生恒夫「朝の腸内リセットがカラダを変える」

私はかねがね「腸」が大切、と考えてきた。
このところ「腸」の機能がたんなる消化だけでなく、「免疫」にも大きく関与していることが医師や研究者から言われるようになったのは、喜ばしいことだ。
25年も前に、東城百合子さん主宰の「あなたと健康社」のびわの葉温灸の講習で、「腸」がいかに重要かを鍼灸の先生から教えてもらって以来、私の「腸」信仰はずっと続いているのだ。

この著者の松生恒夫氏は腸の専門医。
これまで30年間、「腸」を診てきたエキスパートだ。
現在は「松生クリニック」を開業、「便秘外来」を設けている。

便秘の人、それも便秘の女性は多い。
食事やストレスなど原因は様々だが、便秘は体にとても悪いので改善努力をするほうがいいと思う。
なぜなら排出できない食べもののカスの毒素が溜まるから。その毒素が善い腸内細菌を殺し、悪い細菌を増やし、免疫を下げるから。
二日に一回、三日に一回であっても定期的に排便がある場合は「便秘」とは言わないという説もあるが、絶対にそうではないと思う。
毎日食事をしているのだから、毎日排便があるのが正常である。

排便は腸の大ぜん動によって起きる。
その回数は1日に数回。
最大なのは「朝」だそうだ。
胃に食べものが入ることによって大ぜん動が連動して起きるので、朝食後1時間以内に便意が起きる。
しかも大ぜん動は10分〜30分しか続かないので、それを逃がさないようにすることが大事だという。
朝忙しいのにとりまぎれてトイレに行く機会を失わないこと。
(日本の家にはトイレが1か所だけなのが困りものですよね。外国のようにバスルームが2か所も3か所もあればいいのですが)。

でも朝食をとることで便意をもよおすよりは、朝起きて一杯の水を飲んでトイレ、という方が本当は健康な体である。
排便をしてから朝食を摂るのが、体にはいいのだと昔ながらの養生訓では言われている。
(ここらあたりが医師との違いか)。

腸には神経細胞が多いので、ストレスがかかりやすい。
現代でストレス無しの暮らしはほぼ不可能。でも毒素を溜めるとますますストレスは大きくなる。
ここにも書いてあるが「汗のデトックスはわずか3パーセント、便は75パーセント」なのだそうだ。

免疫を高めるためにも、「腸」のことをもっと考えよう!
posted by 北杜の星 at 07:13| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月21日

村田沙耶香「消滅世界」

前作「殺人出産」は奇妙な仮想世界を描いたものだったが、この「消滅世界」もそれ以上にSFっぽい設定となっている。
「殺人出産」では10人の子どもを出産すると、殺したい人間を一人殺せるという物語だった。
これはそれほど奇想天外ではなく、今のセックスレスの風潮などを聞くと、近未来にはこういう社会もあり得るかも。。という気になって来る。

雨音は離婚した母によって育てらた。母は今ではとてもめずらしく古風な「交尾」という手段で雨音を産み、機会あるごとに好きな人と結婚しその人の子どもを産む幸せを雨音に言い聞かせた。
しかし雨音の生きる社会では夫婦の「交尾」は近親相姦の異常行為とみなされていた。
夫婦は「家族」であって、恋愛や「交尾」は家の外で行うものだった。
だから夫にも妻にも恋人がいるのが普通だった。
しかも直接的な「交尾」をする恋人同士は稀で、恋愛感情すら「ヒト」ではなくアニメやテレビのなかのキャラクターが対象のことが多かった。
雨音は結婚したが、「正常」な慣習によって人工授精を予定していた。

しかしあることが起こり、彼ら夫婦は千葉の「実験都市」に引っ越しをすることになった。
そこはもっと進んだ社会で、男性が人工子宮で出産でき、雨音の夫はその大一号となり無事出産する。。
その実験都市で生れた子どもは「子どもちゃん」として社会が育て、大人なたちは男でも女でも「おかあぁん」と呼ばれ、みんなで子どもを見守り育てるのだった。。

「正常」とはなにか?
正常な価値観、正常な習慣、正常な家族・・「正常」の概念は時とともに変化してきた。
現在の私たちだって、平安時代や江戸時代、いやほんの戦前までの「正常」とはかけ離れた価値観の中で生きている。
いまや同性婚が認められる世にまでなった。そんなのはつい20年前までは考えもしなかっただろう。
村田沙耶香は「崩壊世界」において、「正常」とは何かと向き合っている。

私たちは多かれ少なかれみんな「洗脳」されて、「正常」をインプットされている。
古い時代の洗脳者の母、今の洗脳者の雨音。どちらが正常なのか。
「お母さんは洗脳されていないの?洗脳されてない脳なんて、この世の中に存在するの?どうせなら、この世界に一番適した狂い方で、発狂するのがいちばん楽なのに」。
そう、雨音は自分が生きる「実験都市」が狂っているのを知っているのかもしれない。

これ、面白かったです。
でもちょっと中だるみがあって途中、退屈だったかな?
こうした仮想世界を小説として引っ張るには、250ページは長過ぎるような気がするのだけど。。
posted by 北杜の星 at 07:06| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月15日

村木厚子・秋山訓子「女性官僚という生き方」

上級国家公務員のキャリアとして省庁で働く女性たちが語る「女性官僚という生き方」が集められている。
霞が関といえば長時間労働で有名である。
以前の大蔵省の年度末の労働の凄まじさはいつもニュースとなっていた。過労死したり自殺したりする人もいた。
しかしこれは現在もそうは変わっていない。
そんな職場で女性、しかも結婚をし子どもを産み育てる女性たちは、どのように仕事と家庭を両立させてきたのか?
若い女性官僚が増えるなか、まずは先輩格の前厚生労働事務次官だった村木厚子氏のインタビューからこの本は始まる。
聞き手は朝日新聞編集委員の秋山訓子氏だ。
(村木氏といえば、あのでっち上げも甚だしい大阪地検の誤認逮捕で有名だが、ここではその話は出て来ない。)

四大を卒業すると、女性は就職先が見つからなかった時代、村木氏は官僚になる道を選び労働省に入った。
彼女の前には、一人の女性キャリアがいただけだった。
「普通」に結婚をし子どもをもちたいと思った彼女は、「労働省」という省庁だからこそできたという。
ロールモデルとしての「労働省」だから、前例をつくれたのかもしれない。
しかし半端な仕事ぶりではない。体力気力の限界じゃないかと思われる状況の連続だ。

他にも内閣人事局、経済産業省、衆議院調査局、財務省の女性官僚たちが登場するが、少し驚くのが、防衛省や警察庁での女性キャリアだ。
男の世界の防衛省や警察庁という印象だが、このところ入省する女性はだんだん増えているらしい。
(警察庁では剣道などの武道が義務付けられているそう)。
どの省庁も仕事時間はものすごく長い。実家の近くに住み親の援助が受けられればまだなんとかなるが、そうでなければ上の子は夫に預け、自分は下の子を連れて国内外に転勤ということもある。
同じ職場の夫、もしくは別の省庁でもアレンジできる場合は、一家そろっての海外勤務が実現する。
むしろ海外での方が、長時間労働が少なくて、「家庭生活」を遅れるようである。

こうした仕事ぶりを改善しようとする動きが出始めている。女性官僚が増えたためだし、彼女たちは横の連絡情報網をお互いに持ち、さまざまなケースを話し合う場を持とうとしている。
とくに若い世代ほど、親に頼ろうとはしないそうで、保育園や託児所の利用が多い。
子どもが赤ん坊や幼稚園の方がまだラクだと彼女たちは言う。経費はかかるが預かってくれる時間が長いからだ。けれど小学生になると下校時間が早くなり、いわゆるカギっ子で過ごさなければならなくなるので、そのほうが気がかりだそうだ。
自分の給料全部を使っても、子どもを預ける場所を確保し、仕事を続けようとするその努力は、本当にすごいと思う。
モチベーションの高さが一般企業勤務とはどこか違っている気がする。
村木氏も言っているように、公務員の仕事は「国民のニーズを政策に落とす「翻訳」係」だと言う。
この本の中のかなりの数の女性たちが「世の中のためになりたい」「世の中を良くしたい」と幼いころから願って、入省している。
たしかに、モチベーションが高いはずだ。

政治家の方たちにお願いです。
国会での質疑への原稿を書くために、官僚たちは夜中明け方まで資料を見ながら仕事をする羽目になっています。
戦略的な時間というのがあるのでしょうが、なるべく夜遅い依頼はやめて、彼女たちをはやく家に帰してあげて下さい。
(彼女たちの子どもたちはみんな、そんな母親を認めて応援している。健気ですね。母の一生懸命を見ていれば自然そうなるのかもしれません。)

とにかく、私なんかとはエネルギーの絶対量が違う!
官僚にあまり良いイメージを持たない私でしたが、これを読んで良かったです。官僚を見直しました。
ただ、こういう官僚たちが勤続年数を重ねて、「官僚的」という悪い方に変化しなければいいのですが。。
posted by 北杜の星 at 07:14| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする