2017年05月23日

山田仁史「いかもの喰い」

「いかもの」とは普通、人が食べないものをわざと、または好んで食べること、または食べる人」を指す。
つまりは悪食のこと。
世間では「ゲテモノ」「ゲテモノ喰い」というものもある。
いかものとゲテモノはどう違うのか。

ゲテモノとは上手に対する下手という意味で、昆虫食などがそうのようだ。
昔のバンカラ学生が「闇鍋」と称して、そうしたゲテモノを入れて驚かせたと聞くが、この本に書かれている「いかもの喰い」はそういう遊びではない。
著者は宗教民俗学者。
人類のタブーともいえる宗教儀礼的、または薬効のための食文化を考察している。

人類三大いかもの喰いとは、「犬喰い」「土喰い」そして「人喰い」だそうだ。
中国人は机以外の四足なら何でも食べると言われるので、犬を食べたのかもしれない。しかし犬喰いは中国だけではなく、ヨーロッパにも日本にもあった。
興味深かったのは、「食べられる犬と飼われる犬」の境界だ。
そこに必ずしも法則性があるわけではない。
「崇敬ゆえに食べられたり、穢れいるといって避けられたり、数が減ったら大事にされたり」・・
また為政者の「おふれ」によっても犬の扱いは時々で異なった。
(私が思うに、名前をつけたら食べられないんじゃないかな)。

妊娠した女性が土を食べたくなるというのは聞いたことがあるが、土喰いはじつは地球上のかなりの地域にあて、南米や東南アジアなどに広がっている。
ジャワには粘土製焼き菓子があるという。土をそのまま食べるのではなく、加工料理してまで食べるとは知らなかった。
嗜好品としての土、薬効としての土などの土喰いは、でも、禁忌とは思えない。

しかし「人喰い」はタブー中のタブーと考えられている。
確かに人喰い文化を持つ種族が東南アジアにいることは有名だが、彼らが日常の蛋白源として人を食べていたわけではない。
人身御供のような宗教儀礼が目的のことが多かったし、食べるのは肝臓、心臓、脳髄など部位が限られていたそうだ。

この本、想像以上に面白かったです。
「宗教民俗学」という分野は知らなかったので、こうしたアプローチから宗教、民族、食文化を俯瞰する本は楽しかった。
個人的には、犬は食べられるかもしれない。でも猫はダメだなぁ。
土は平気のような気がする。
ヒトと蛇は絶対に食べたくない。。と今は思っているけれど、不時着した飛行機の乗客が人肉を食べた事実もあるのだから、「絶対」ということは言わないでおこう。
posted by 北杜の星 at 07:31| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月15日

よしもとばなな「毎日っていいな」

誰にでもある日常。
その日常のあるがままを慈しみ感謝できる人は幸せだ。
何ごともない人生はない。ましてや数十年を生きた人間にとってはなおさらのこと。
それでも自分の日常にマイナス感情を持たずに暮らす人、それがよしもとばななだと思う。
だから彼女の小説やエッセイの読者は、彼女から安らぎや慰めを得られるのだ。

このなかにはいくつもの別れが書かれている。
仲良くしていた近所の友人が、夫の転勤で離れ住むことになる。
遠くの友人への最期のお見舞い。
そして父母の死。。

過去が折り重なってゆく。年齢を減れば減るほどその重なりは増す。
「昔とは父母のいませし頃を云い」という川柳があるが、親を亡くすと、つくづくその想いが強くなる。
けれどそれはつらいことだけではなく、楽しかった「昔」でもあるのだ。自分が絶対的に守られる安心感に包まれていた幼い頃。
そうした「昔」を懐かしむことで、毎日が豊かになってくれる。

それにしてもよしもとさん、立ってごはんを食べるほど、五分きざみでスケジュールが押しているほど忙しいにもかかわらず、いろんなところに行っている。
もちろんそのなかには仕事もあるのだろうけれど、けっこうプライベートな旅行もある。
なかでもおかしかったのは、お姉さんと一緒に行ったある温泉宿のこと。
この宿は知人に紹介されたのだが、フツー、こんな宿を人に教えるかというヒドイもの。
出されたご飯は黄色だった。米が古かったからだ。(黄色くなる米ってどれくらい古いの?)
風呂場はヌルヌル。これは温泉成分でヌルヌルしてたんじゃなくて、あきらかに掃除がしていなかった。。
布団は埃っぽく、喘息が出そうだった。。
でもさすが、よしもとさん。
こんな宿のこんなことが、結局は思い出になるのだと善意に解釈している。

そう、旅ってそういうものなんですよね。
ヒドイこと困ったことが起きて、その時はどうしようと思うのだけれど、終わってしまうと、うまくいったことよりも、うまくいかなかったことの方が印象に残っているもの。
だから旅はあまり計画しすぎない方がいいし、偶然が多い方がいい。
それにはあまりに高級な旅行はしないことだと思う。
至れりつくせりの旅は偶然が絡むことが少なくなって面白くない。快適かもしれないが思い出が少なくなる。
よしもとさんは流行作家なのだから経済的には恵まれていると思われるが、こんな旅行をしているのだから、素敵なひとだ。

ところで、先週我が家に筍を届けれくれた若い友人は、この春の大学卒業旅行を二度したそうで、その一つはナント、プレミアム・エコノミーのシートだったとか。
大学生のブンザイでそんなこと許されるのか!?と私はまるで佐藤愛子のように憤った。
その席のチケットしか残ってなかったというのだけどね。
一度目は友人と一緒のイタリアツアー、帰国して4日したらすぐに二度目のフランス・スペインへの独り旅。
まぁ社会人になったらそんな時間は取れなくなるから、今のうちと考えたのかもしれないけれど。

このエッセイは毎日新聞の「日曜くらぶ」で連載されたもの。(だからこのタイトル?」
「あとがき」にもあるように、日曜日の朝には、悲しいことや重いことは読みたくないだろうと、なるべく楽しい話を集めてみたそうだ。
だから、いろんな人たちとの別れも、その思い出は暗くはなくて救われる。
彼女がイタリアで「banana」「 banana」と人気なのが理解できる。
元気になりたいときには、よしもとさんを読もう!
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2017年04月17日

山下澄人「シンセイカイ」

第156回芥川総受賞作品。
前回の受賞作である村田沙耶香の「コンビニ人間」はまだライブラリーの予約多数だというのに、これはすんなり借りられた。
人気がないのか?
でも私はこれまで2冊しか読んでいないものの、山下澄人の作風の前衛さはいかにも芥川賞向きだと思ってきた。
今村夏子の「あひる」にあげたいと、心情的には望んだが、まぁこれで妥当だった。

山下澄人が倉本聡の富良野塾の第二期生だったことはよく知られているが、この「シンセカイ」は入塾の最初の1年間を描いたもの。
ここには富良野塾の名前は明記されていないが、読んだ人ならすぐにそうとわかるだろう。
第一期生たちとの十数人での共同生活は密室の群像劇のようだ。
事実、町の人たちはここを「収容所」と呼んでいる。

俳優や脚本家志望の若い男女たち。
授業料は必要ないが、自分の食い扶持は自分で稼ぐため、近隣農家の農作業に出かけていく。
しかしどうやら、メインの仕事はログハウスの建設みたいである。
塾に受かった者たちはみな、トラックの運転ができたり、工務店の息子だったり、体が大きかったあり。。

一日食費300円での重労働に、スミトは栄養不良で倒れ、持病のぜんそく発作も出る。
ここの誰もが【先生】に対しては、ある感情を持っているが、当然それを言葉に出すことはできない。
みんな【先生】の「アイツは向いていない」のジャッジメントをなによりも怖れている。
そんななか、無口で無愛想なスミトはなぜか【先生】から「おもしろいヤツ」と認められているのだが。。

私はなによりもこういう集団生活が大嫌いなので、読んでいてだんだんと息苦しくなる。
【先生】の存在が、お山の大将というか、裸の王様のようでハズカシイ。
こんなところで君臨して、神様のようになる人間が、ハズカシイ。
そういう人間に従属するのもハズカシイ。
しかし文学がそのハズカシサを書くものだとしたら、これは成功しているのだろう。

2年間を【谷】で過ごした第一期生が卒業して出て行き、スミトらが第三期生を迎える立場となるところで、この小説は終わる。
みんなもう1年を、頑張るのかなぁ。
俳優や脚本家というのはそれほどの目標なのか?
【先生】はその目標に向かって、共に歩いてくれているのだと、信じるしかない。
そう信じれる人だけが【谷】に残れるのだろうけれど。。
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2017年01月23日

やまぎん情報開発研究所「庄内のレストラン」

なんか、この本、熱い空気を感じる。
その熱がどこから発生するか、これを読むとわかるのだが、それはみんなの庄内への郷土愛の強さなのだ。
庄内地方は山形県の日本海側に位置し、狭いエリアに海、里、川、山がある。
自然に恵まれ、清涼な空気と水がはぐくんだ地産の食べものの宝庫だそうだ。
その庄内に奥田シェフのイタリアン・レストラン「アル・ケッチャーノ」があることは有名。
この本をはその奥田シェフご推薦の庄内の食事処がたくさん紹介されている。
といっても、豪華なレストランばかりではなく、普通の町の食堂のようなところだっていくつもjある。
(第一、「アル・ケッチャーノ」だって外観はちっとも高級ではない。国道沿いの「ちょっとハンバーグが美味しい店」風な店にしか見えない)。

私は庄内へはたった一度行っただけ。
それも山形への旅行が目的ではなくて、新潟まで来たからそのついでに足を延ばして鶴岡へでも行って、古い町を見学し「アル・ケッチャーノ」でランチをしようということだった。
鶴岡を見て食事をし、すぐにまた新潟に戻った。
でも「あぁ、いいところだな。豊かそうなところだな」という印象があった。

その豊かさのおおもとが、これを読むと理解できるんですね。
こういう豊かさを持つ人々は「強い」と思う。
基本がしっかりしているなかでの暮らしがあるからだ。そしてしっかりしたものの上だからこそできた文化と歴史に知性が感じられる。

どの店も行きたくなるが、どちらかというと洋食系ではなく普通の和食屋さんがいい。
庄内の野菜を使ってのおかずなど本当に美味しそうだ。
このなかに「平田牧場」の「とんや」という店があるのを見て、「あ、平牧って山形だっけ?!」と気がついた。
平牧の豚肉は「平牧金華豚」「平牧三元豚」で有名なブランド豚肉だ。六本木のミッドタウンにもとんかつのお店があって大人気だし、都内のレストランでも「平牧の豚肉です」と恭しくメニューに載っている。
たしかに平牧の豚肉はとっても美味しい。脂があっさりしているのでさっぱり食べられるのだ。。
我が家はいつもこの平牧の豚肉を食べているのが自慢だ。ハッチ君もミンチが大好き。
この平牧の豚肉、じつは「生活クラブ生協」で注文して届くもので、これがあるから生活クラブはやめられない、とまで思うくらいの品質なのである。
生活クラブの役員さんが平牧での豚の飼育について話してくれたことがあるが、なるほど、こんなふうに育てられた豚なら旨いはずだよなと感心した。
それと豚からの排泄物はちゃんと地産の米や野菜に還元されるようなシステムになっているのだとか。
つまり、庄内のなかでうまく循環しているのだ。

本の後ろには庄内のレストランを支える生産者が紹介されている。
この人たちとレストランが固いきずなで結ばれているからこそ、美味しい食べものを提供できるのだ。
づくづく庄内という土地の底力を感じる。
今度は是非、庄内を目的地として訪れてみたいものだ。
posted by 北杜の星 at 07:48| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月16日

吉田修一「犯罪小説集」

「悪人」は吉田修一にとっては金字塔のような作品だった。
作家が人間の底に巣くう「悪」に心動かされるのには、なるほどなと納得できるものがある。
吉田週一は「悪人」の少し前あたりくらいから、そうした小説に手を染め始めていたようだ。
最近では辻原登も同じで、犯罪に関する作品が多くなっているようだが。

それはそれで書くテーマとしては理解できる。
だけどこのところの吉田修一は、ちょっとマンネリではないだろうか。
「悪人」があまりに売れて、編集者もこの路線を継続して行きたいと考えているのかもしれない。
でも、この「犯罪小説集」はいただけない。
なんというか、新聞の三面記事をちょこっと脚色しましたという感じなのだ。

失踪した女の子と、縁日で偽ブランドのバッグを売る外国人母息子。
元同級生のスナックのママの、痴情のもつれからの殺人。
名家の男がギャンブルにはまって。
故郷の田舎に戻ったものの、閉鎖的な土地の住人とうまくいかなくなって、とうとう壊れていって、数人の村人を殺してしまう。
元プロ野球選手が落ちぶれて、借金を重ねる。

・・という5篇の短編なのだが、これをう読んだだけで「なんだかなぁ」と思いませんか?
私も、もっと思うべきだったんですよね。そうすればこんなつまんない小説を読まなくてすんだのに。
読む間からストーリーがわかっていて、しかもすごく雑に書き上げたという印象しか持てない小説集だった。

私はけっして吉田修一が嫌いではないのです。
初期の「最後の息子」や「パーク・ライフ」「春、バーニ^ズで」などは、本当に好きだった。
軽くてセンスがあって、それでいてどこかハッとするような切り口で人生を見せてくれた。
あのセンスはどこにいってしまったんだろう?
どこか面白悲しいあのユーモアも、今は全然ない。

作家にとって、ベストセラーというものはある意味、怖いものですね。
「悪人」があんなに売れなければ、もっと違う吉田修一ができたのかもしれない。。
(「悪人」はスゴイ小説だと認めますけど)。

残念です。こんな吉田修一なんて読みたくないよ!
posted by 北杜の星 at 08:20| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月14日

山崎宏「老健が、親の認知祖父からあなたを救う!」

老健とは介護老人健康施設のこと。
養護老人ホームや特別養護老人ホームなどと並ぶ、高齢者のための入所介護施設である。
けれど特養などは知られているが、老健はあまり知られていないのではないだろうか。
知っている人でも「老健は3カ月までしか、居られないんでしょ」と言う人が多い。
老健を中間施設と考えているからだ。
病院から在宅まで、または病院から特養までの、止まり木みたいな短期入所施設だと。

でもそれは誤解のようだ。
たしかに回転をよくして利益をあげるために、3カ月を上限とする老健もあることはあるが、しっかり最期の看取りまで面倒をみてくれる老健だtって多いのだ。
そういう施設にはちゃんと厚生労働省がそれなりの処遇をしてくれているらしい。

親または配偶者が認知症などで介護が必要となった場合、取るべき方方法の選択肢はいくつかある。
有料老人ホーム、グループホーム、特養・・
この著者はそんなとき「老健」を提案する。
特養は安いがそれゆえに待ちが数百人、5年も6年も待たなければならないし、ケアが残念ながらそうすぐれているわけではない。
有料は普通のサラリーマンでは料金が高い。入居一時金が何千万円もしたり一カ月30万円するところもある。
老健なら、待ちは早ければ2週間、遅くても30日くらい。費用だって約15万円前後だ。これなら普通のサラリーマンや寡婦の年金で充分まかなえる。
しかも老健ではリハビリだってしっかりしてくれるのだ。

私は老健という施設にとても感謝し、好印象を持っている。
夫の父は90歳のとき、腰の圧迫骨折で入院した。それまでは病院近くの新宿区でちゃんと自分のことは自分ででき、経済管理もしながらリッパに暮らしていた。友人と会い美味しいものを食べ、生活を楽しんでいた。
それが入院のたった2週間で、肉体も精神も崩壊してしまったのだ。あっという間のできごとだった。
その時私たち夫婦はすでに八ヶ岳暮らしだったので、義父の住民票を山梨に移し、ケア・マネージャーに相談しながら行く末をいろいろ考えた。
ひとまずは、甲府の温泉病院に骨折のリハビリ治療ということで入院させた。
その間に老健の申し込みをすることに。そしてその先は特養ということで、ケアマネさんに予約を入れてもらうなどお世話になった。
温泉病院の入院期限は3カ月。その間に老健に入れるものかと心配したが、さいわいにも間に合って、我が家から車で40分くらいのところにある老健に入所できた。

病院では車椅子やベッドに拘束されて食欲がなく、表情も消えていた義父が、老健で見る見る元気になっていった。
車椅子を自分で動かすことができるようになったばかりでなく、車椅子からトイレの座面に自力で坐れるようになったのだ。
動くようになったからか、ご飯を食べるようになって、なによりも顔が明るくなった。
週に一度行くたびに、なにか心身に良い進展があるのを見つけるのが楽しみだった。
夏はアイスクリーム、涼しくなってからはコーヒーをうれしがった。
嫁である私のことも息子のことも認識はできていなかったけれど、よく会いに来てくれる人だとはわかるのか、行くといつもとても喜んでくれた。
老健のスタッフのケアのきめ細やかさと優しい対応は、義父にとっても安心できるものだっと思うし、家族にとっても大きな慰めとなった。

在宅介護は貴いものだとは思うけれど、はたして本人にとってそれほどいいかどうか、わからないところがある。
家族が仕事で出かけた後に、独りで寝かされるばかりの状態では、刺激が無さ過ぎるのではないだろうか。
私の知る限り老健では、スタッフたちが常に義父に声を掛けてくれたし、リハビリもできた。
体の機能が高まれば精神もよくなる。義父を見るたびに「ここで良かった」と思ったものだ。

結局、義父の老健滞在は1年に満たなかった。心臓発作で救急搬送されたからだ。
でももし老健で最期を迎えたとしたら、ちゃんと看取ってもらったと思う。
「次の行き先(特養など)が決まってさえいれば、いつまで居てもいいんですよ」とその老健では言っていた。

だから著者の老健への薦めは、私は大賛成!
全国の老健はざっと4千軒。総定員は35万人んだそうだ。
でもみんなが老健に入所希望したら、いまの特養のような凄まじいウェイティングとなるんじゃないのかと、私は心配なんですけど。。
posted by 北杜の星 at 08:03| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月25日

山下澄人「壁抜けの谷」

「ぼくはその男に話さなかったことがある。事務所も実は見つけられなかったのだ。それも移転や、他の何かに変わっていたというのではなく、たしかそこが事務所だったと記憶していた場所は、山、だった。小さな丘とでもいうような山ではあったけれど、ぞれでも昨日今日できたものとは思えず、ぼくは山の前でしばらくいて、しばらくどころかかなりいたはずだ。」

この小説がどんな小説かは、上に記した本文に集約されていると思う。
まるでラテン・アメリカ文学を読んでいるような気持ちだった。
記憶が薄れているのか、それともその事実が本当にあったことなのか?それともじつはなかったことなのか?
読めば読むほど曖昧さの渦に巻き込まれてしまう。

「ぼく」と「わたし」が交叉しながら、時間と場所を行きつ戻りつ、何度も何度も同じエピソードが繰り返される。
ぼくとわたしの周辺の友人、知人、犬、猫たちが、グルグルグルグル歩きまわる。
明確なものはなにもない。

ぼくの親友の長谷川が突然死んだ。
小学校の帰り路で声を掛けられて以来の親しい友人だったのに、亡くなった後で、彼の職業も妻子の有無も知らないことに気づいた。
いろんなことを一緒にし、話し合ったはずなのに、その記憶が定かではない。
長谷川が死んでからわかること、わからなかったこと。。

わたしの母は誰とでも寝る。わたしは誰の子か?そしてわたしが産むのは誰の子を産んだのか?

からまった糸はほぐれてくれない。むしろますますからまるばかり。
ポキポキ短い文章は情緒を排して書かれているのだが、底に流れるのはどこか優しくて愛おしくて悲しい感情。
山下澄人は目下、私のもっとも気になる作家だ。
これまで2冊くらいしか読んではいないのだけれど、彼の小説を一言で言うならば「手垢のついていない小説」だと思う。
彼が「新しい小説」を目指しているのかどうかは知らない。
けれど何か新しいものを生み出そうとしている作家、という印象を受けるのだ。
難解というのではないけれど、わかりやすいとは言えない小説。
この「壁抜けの谷」もけっしてわかりやすくはないのだが、わりとすんなり頭に入ったのは、複雑なようで案外にシンプルな人と人とのつながりが描かれているからではないだろうか。

会話の「え」「え」「は」「は」というやり取りに奇妙ンはリズムがあって、ちょっとおかしい。

山下澄人、これからも気になる作家のようです。
posted by 北杜の星 at 07:36| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月19日

山口創「人は皮膚から癒される」

ここ1年半ほど、皮膚の調子がよくない。
もともと幼いころから夏には太陽湿疹、冬には寒冷ジンマシンが出て、だから暑いのも寒いのもダメ。
食べものアレルギーにもすぐ反応したけれど、これはだんだんおさまって、大好きな筍を食べても以前のようなぶつぶつは顔に出なくなったのはうれしい。
昨年は自家感作性皮膚炎、今年はジンマシン・・今も下着の縫い目が当たるところには湿疹が出たり引っ込んだりしている。乾燥もひどい。まぁ痒くないからどうってことないけど。
精神的なストレスも皮膚に表れているようだ。

「人は皮膚から癒される」。
人が人を癒す手段はいろいろある。言葉によっても大いに慰められるし、笑顔一つで心が軽くなることもある。心が細っているときに誰かが温かいスープを作ってくれたらどんなに感謝することか・・どんなことでも人は癒し癒される。
なので癒すのが皮膚であっても、それはあり得るだろうと思ったのだが、この本を読むと、皮膚は私が思った以上の癒しのパワーを持っているようだ。

病院患者が痛みに耐えている時、心が弱っている時、看護師さんがそっと触れるだけで痛みが薄らぎ心が晴れることがあるけれど、それはちゃんと化学的な証明が可能なのだ。
愛情をもって皮膚に触れると、脳からオキシトシンというホルモンが分泌されて、リラックスしたり癒されたりするのだという。
必ずしも触らなくても、傍に寄るだけでもその脳内物質はでるらしい。
皮膚と脳というか人間の感情はそのように繋がっている。

日本人はともすれば体を使ったコミュニケーションが下手だ。
西洋人は会うと握手をしたり、抱き合ったり、頬と頬をくっつけて、肌と肌を触れ合わす機会が多い。
たぶん、そうすることでお互いの距離を縮めているのだろう。
日本人の習慣にないことだが皮膚と皮膚を触れ合う行為には、人を親密にさせるところがある。
日本に対人関係で悩む人が多いのは、こういうところからきているのか?

皮膚は肌とも言うが、肌という言葉には皮膚にはないニュアンスがある。
肌が合う、合わない。ひと肌脱ぐ、職人肌、肌で感じる・・
そこには肌の精神性が読み取れる。
じっさいに、幼少時の肌のコミュニケーションが少なかったひとは、自尊感情が低いと書いてあるし、摂食障害に苦しむ人もそのようだ。
触覚は感情と直結しているということ。大切なのは「皮膚を拓く」ことだそうだ。

この本、最初は人間科学のお話しかと読んでいたらだんだんと皮膚を離れて、哲学的になってきた。
つまりは「幸福とは何か」を追求する本のようだ。
でもそれが決して押しつけがましくなくて、素直に心に響く。
著者の善き心が伝わって来て、それに癒された感じだ。

一灯の歓び・・思いがけずいい本でした。
posted by 北杜の星 at 07:32| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月07日

山本朋文「認知症がとまった!?」

著者の山本氏は週刊朝日記者。
2014年62歳の時に東京医科歯科大学のもの忘れ外来を訪れ、浅田隆教授よりMCI(認知症初期症状)と診断された。
かねてよりもの忘れがあったものの、トシだろうと思っていたのだが、あるとき仕事上のダブルブッキングをしてしまい、こんなことはこれまでなかったと不安になって診療を受けたのだった。
以来初めは筑波大学での認知能力アップのトレーニングを受けていたのだが、お茶の水に東京医科歯科大学と連携する「オリーブクリニック」ができて、そちらに移り、さまざまな訓練を受けている。
その経緯を週刊朝日に「ボケてたまるか」という連載記事にし、それが本にもなったことで、NHKテレビの特集番組で取り上げたり、海外メディアからも取材をうけるようになった。
また講演依頼が増え、シンポジウムなどにも積極的に参加している。
そしてこの本が第二弾。やはり週刊朝日に連載されたものがまとめられている。

オリーブクリニックでは同じMCIや認知症の仲間たちとさまざまな訓練を受けている。
音楽療法、筋肉トレーニング、芸術療法・・
音痴なので苦手だった音楽だが、先生の指導のもとに古楽器の演奏ができるようになり、今ではレパートリーが10曲も!
何が効いているのかはわからないが、本山氏は山本氏筋トレを信頼しているようだ。
本山式筋トレとは現役ボディビルダーで筑波大学大学院でスポーツ医学を学んだ本山輝幸氏の発案したもの。
認知症には効果があると言われているが、相当キツイらしい。しかしそのキツサが脳に伝わるのだ。
しかし筋肉をつければいいのではない。
運動習慣のあるひとで認知症になる人だってたくさんいる。
大切なのは、筋肉が感覚神経と繋がることで、そうでなければ脳は活性化しないという。

何が効果的なのか?そもそもトレーニングがMCIの進行を止めているのか・
結論ははっきりしない。
でも、しないよりはする方がずっといい。事実改善されたのではと思われるフシもある。
もっともまだ大阪への新幹線で財布を忘れたり(それが遺失物として届けられるのだから日本は素晴らしい)、友人との約束を忘れたりはあるけれど。

MCIや認知症と診断された場合の反応は大きく3つに分けられるという。
「早期発見・早期絶望型」・・何をやっても駄目だとあきらめる。
「否認型」・・事実を受け止めようとはしない。(これは本人だけでなく家族もそうだと思う)。
「徹底抗戦型」・・効果があると思われることは何でも試してみる。
山本氏は三番目のようだ。(多分私もそうなるような気がする)。

現在日本の65歳以上の四分の一が認知症とその予備軍(MCI)と言われている。
850万人というものすごい数だ。
今やガンよりも認知症になる方がずっとずっと怖れられている。
けれどMCIや認知症になってもあきらめてはいけない。方法はあるのだ。事実イギリスでの認知症は減少しているという。

認知症が社会にもっと理解されるためにも、山本氏の活動を応援したい。
いつ自分に降りかかるかもしれない問題だもの。
こうやっていろんなトレーニングをして進行をなんとか食い止めている間に、近い将来必ず、認知症治療薬が出てくると思う。

女優の沢田亜矢子さんもMCIだと聞くが、みんな頑張れ!!
願わくば、オリーブクリニックのようなメモリー・クリニックが日本全国に開設されて、誰もがケアやトレーニングを受けられるようになればいい。
posted by 北杜の星 at 07:42| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月30日

山根明弘「猫はすごい」

裏の山荘のYさんが「あなた、猫好でしょ。これは知人が書いた本なんだけど、よかったら読んで」と、朝日新書のこれを持って来て下さった。
数年前まで犬を飼っていたYさんだが「猫歴のほうが本当は長いの」とのことだ。
早速読んでみた。

空前の猫ブームだそうだ。もうすぐ猫の数が犬のそれを上回るらしい。
招き猫など独特の猫文化をもつ日本は世界でもかなりユニークな猫好きの国のようだ。そしてこの文化は今に始まったことではなく江戸の時代から続くものだと言う。
動物行動学が専門の動物学者である著者は、九州の相島という小さな島で数年間ノラ猫の行動を観察した経験を持っていて、そのときに猫の能力の高さを知り、猫の魅力にぞっこんとなったようだ。
幼いころに飼っていた小鳥を猫に食べられた過去から、猫は嫌いな動物だったにもかかわらず。

彼の観察した相島のノラ猫とペットである飼い猫の間には相似点も相違点もある。それは当然だ。
しかし飼い猫であっても猫の身体能力は見事に発揮されている。犬とは違い、野生が残っているのだと思う。
嗅覚は犬にはかなわないものの人間の10万倍だというし、視覚はご存じのように真っ暗闇でもちゃんと見える。なによりスゴイのが動体視力。そして動体視力に合わせて動ける跳躍力は1.5、メートルだし走るスピードは時速50qにもなるから、ほとんど野生そのものといっていいくらい。
そんな能力の高い猫と一緒に家で暮らしているなんて、ちょっとびっくり。
家でゴロゴロ眠っては食べている飼い猫からは想像できないかもしれないけれど、そんな飼い猫がときたま見せる昆虫や鳥などの小動物を捕獲する動きの俊敏さに驚いたことのある飼い主は多いはずだ。

能ある鷹は爪を隠すというけど、その爪もスゴイんです。木登りができるし、獲物をしっかり押さえて放さない。
猫が噛めば犬より深い傷を負うらしいが、その牙はおそろしいほど。
それと、これは長年猫を飼っていてづくづく感じて来たのだが、猫はじつに辛抱強い。じっと待てるし、要求は必ず貫徹させる。
この辛抱強さは、痛みや苦しみにも発揮されているようで、どんなに体がきつくてもへこたれない。これもじっと我慢している。
弱みを最期まで人に見せない猫の態度に、これまで幾度も教えられたような気がする。
今は20歳で年老いた我が家のハッチ君にだって、いろいろ学ぶ毎日だ。

相島では著者が研究観察していた20年前には島民500名、ノラ猫およそ200匹だった。今ではどちらの数も減っている。
島では島民と猫が共存していたそうだ。猫を飼い猫化するのではなく、ノラはノラのままの猫の暮らしをしていたという。
その共存の仕方を町や都会にも応用できないものか。殺処分は減っているとはいえたくさんの猫が毎年殺されている現実を考えるとき、著者の相島での体験が行かされれば良いと思う。
不幸な殺処分を少なくするための去勢手術も最近では改善されているようで、オスは睾丸を取るのではなくていわゆるパイプカット手術を施す方向になっているし、メスは卵巣を摘出するのではなく子宮を摘出する手術が施されるようになっているのだそうだ。
そうするとオスはオスのまま、メスはメスのままの従来の性衝動や性行為を持ちながら、子どもは生まれない。
ノラ猫はその性格や行動を変えることなく生きていけることになる。
(もっともこうした手術そのものが不必要になればいいのだけれど、それは今のところ理想論だ)。

≪朗報≫
いつも私は高齢になってからこそ、日々の慰めと尾生きがいのために犬や猫と一緒の生活をしたいものだと思っているのだけれどl、人間の方が先に死んだ場合を考えると飼うのを諦めざるをえないと思っている。
でも著者はこの本で、『ペット信託』というシステムを紹介してくれている。
これは飼い主が病気になったり亡くなったときのことを考えて、猫の養育費を第三者に委託して資金管理するもので、福岡の行政書士の服部薫さんが始めたものだ。
こういう組織や団体が日本各所にあればいいですよね。
最近のイタリア中部の地震において、動物保護団体が飼い主の家族から依頼を受けてがれきを探したところ、15日ぶりで脱水症状の猫を救出したとニュースで知ったけど、そうしてシステムがあるのは羨ましいことだ。

ノラ猫に優しい社会は人間にも優しく快適な社会だと私は信じている。
まず猫がどんな動物なのか?ということをこの本で知って飼い始めても、飼い始めてこれを読んでも、どっちにしても面白くて勉強になること間違いなし。
猫って強く、美しく、そしてメッチャかわいい生きものです!
posted by 北杜の星 at 07:38| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月19日

山田詠美「珠玉の短編」

タイトルを見てぎょっとした。
自分の本に「珠玉」ってつけるか?
私が読んでいる時にたまたまこれを見た夫も「スゴイ題だな」と言った。
まさか、いかに奔放な山田さんでもそれはないでしょ。

はい。なかったのです。
このタイトルには深い(深くもないか)意味があったのです。
夏耳漱子という小説家は文豪の格調高さをあえて避け美文などもってのほか、エログロ小説を書いている。
ほとんどの人は眉をひそめるのだがカルト的な存在として、熱狂的なファンもいる。
そんな彼女が文芸誌に短編を載せたのだが、その目次の彼女の短編タイトルの横に、あろうことか編集者が「珠玉の短編」と添え文を付けていたのだ。
自分の小説が「珠玉」!?
驚き腹立たしい彼女は編集者をののしるが、しだいに「珠玉」に絡め捕られていき、文章文体が変化する・・
(作家にとっての「言葉」というものがどんなものか、「あとがきにかえて」を読むとよりわかりますが)。

滑稽なのだが作家という職業の苦労も垣間見れて、笑い飛ばせない気の毒さがひしひしと。。
でもやっぱり笑っちゃえるところが、山田詠美のスゴイとこ。
私のまわりで山田詠美を読まないひとってずいぶんいる。
多分彼女のあのイメージで作品を判断しているのだと思う。
だけど彼女の小説は本当に繊細で、性を描いてもそこには人間の根っこがあるため、決して薄汚くないのだ。
大好きな大好きな作家だ。

その山田詠美が第42回川端康成文学賞を受賞した。
川端賞は優れた短編に贈られる賞で、日本の文学賞のなかで私がもっとも評価している賞。(あの西村賢太がこの賞を欲しくて欲しくてしょうがないと聞く)、
その受賞作の「新鮮てるてる坊主」もこの本のなかに収録されている。

たしかに「新鮮てるてる坊主」はオチといい、物語といい心理描写といい緻密で、その緻密さがラストの怖さに繋がっているのだが、面白い短編だった。
これを受賞作にした選考委員のセンスに脱帽します。

11の短編は概して「奇妙な小説」というジャンルになるのでしょうね。
こういうのが好きな私は思う存分堪能しました。
posted by 北杜の星 at 08:05| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月05日

吉田修一「橋を渡る」

デビュー当時の作風からはずいぶん変化した吉田修一だが、このところはずっと「悪」についての小説を発表している。
この「橋を渡る」の3章に登場する3人の主人公たちも、悪に直面している。
その悪は誰が見てもわかりきった悪もあれば、「良心」の領域とも言える悪もある。

人は自分が正しいと思いたい生きものだと思う。(私がそうだから)
また正しくないことに出会ったとしても、みないふり、知らないふりをする場合がある。
ビール会社の営業マン、都議会議員の妻、婚約中のTVディレクター。彼らは悪とどう向き合うのか、または避けるのか?

東京都議会での女性議員への「産めないのか」のセクハラやじ、血液からips細胞をつくりだす研究、香港の反政府学生デモ、マララさんのノーベル平和賞受賞・・
まだ記憶に新しいニュースがこの作品には出てくる。
そしてそれが最終の4章につながってゆく。
4章で話はそれまでの日常的な雰囲気から突然、70年後の近未来に飛ぶ。
あれらのニュースの「その後」がどうなったか?70年後に生きる人たちにそれがどう影響を与えたか?
70年前の微妙な関係性のなかでの生きかたに、光はあるのか?

「橋を渡る」というタイトルは大きな意味を持つ。
人はある決意をもって橋を渡る。もしくは渡らない。
私たちは渡ったこと、渡らなかったことを悔いるのだろうか。無理に正当化するかもしれない。
でももしその橋そのものが、いつまでそこにあるのか。もし橋が流されたとしたらどうなるのか。

最初は4章の唐突さに戸惑いながら読んでいたが、だんだんと、あぁ世の中というのはこんなふうに繋がってゆくものなんだと思った。
あのとき言わなかった言葉、しなかった行為。
もしかしたら、あのとき未来が変えられたかもしれない・・
それを考えると、なんだかむくむくと闘志がわいてきて、社会に対してちゃんと意思表示をしよう!と云う気になる。
そう思わせるのが、この作品の「希望」なのかもしれない。、
posted by 北杜の星 at 06:56| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月23日

吉田篤弘「台所のラジオ」

12の短編をゆるやかにつなぐものがあるとすればそれは、台所のラジオ。
人生で足踏み状態の人たちの肩をそっと押してくれるこの短編集には、いつもの吉田篤弘らしいあたたかさがみちている。
台所のラジオというなんだかレトロっぽい雰囲気にぴったりの文章が、とても素敵だ。

でも、でも、私はあえて吉田さん二苦言を呈したいのです。
決して嫌いな作家さんではない。むしろ彼の小説がへこんだ心に作用して元気になったことだってある。
だけど、なんといえばいいんだろ?
私には、吉田篤弘という人はもっともっと骨の太いものが書けるのじゃないかと、ずっと思っているんです。

本職の装丁家としてのセンス、小説家としての文章・・どちらも本当に素晴らしい。
それでも、小説に関してはどこか食い足らない。吉田篤弘の力量はこんなもんじゃないでしょ、と思うからだ。
彼の小説、悪くないんですよ。全然悪くない。
だけど表層的というか、上っ面をさらりと撫ぜただけって印象があって、読後感はいいんだけど、後から思いだすと何も思いだせない。
空気感が伝わってくるだけ。
もったいないなぁ。

・・これはけっして悪口ではないのです。期待しているんです。
この「台所のラジオ」はタイトルどおりの雰囲気がどの小説にも流れていて、好きだった。

要はもうちょっと、「ガツン」が欲しいだけ。
もっともあまり「ガツン」だと吉田篤弘じゃなくなるというファンもいるでしょうけどね。

posted by 北杜の星 at 07:35| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月10日

柳美里「ねこのおうち」

NHKの岩合さんの世界猫歩きの番組が火をつけたのか、最近はすごい猫ブーム。
猫好きな私はそれはそれで嬉しいのだが心配もある。
ブームに乗って飼い始めたはいいが、事情が変わって飼えなくなった時には、たくさんの猫たちはどうなってしまうのだろう?と危惧するからだ。
犬を捨てるひとがいるが、猫はもっと捨てやすい生きものなんですよね。だから心配。

この「ねこのおうち」にもそうした捨てられた猫たちが描かれている。
まず、ある夫婦に飼われているチンチラが家出した一時期に野良猫と交尾し生れた雑種の猫が捨てられる。まだピンクのネズミみたいな生れたて。
でもやさしいおばあさんに拾われてミーコと名付けかわいがられる。いつもおばあさんと一緒。ミーコもおばあさんもとても幸せそうだ。
しかし蜜月は続かない。おばあさんが認知症となって子どもたちがどこかへ連れて行ってしまったのだ。
ミーコは再び公園で野良猫となり、そこで6匹の子猫を産むものの、猫嫌いの人に毒まんじゅうを仕掛けられて死んでしまう。
公園に残された子猫たち・・

登校拒否の引きこもりの女子高校生。
一人暮らしの若い男性。
離婚し夜の仕事をする母と一緒の男の子。
癌で死を告知された妻と彼女に寄りそう夫。
老人ホーム。

猫はそこにいるだけで、大きな慰めとなる。何にもしなくていい。ただそこにいてくれるだけでいい。
人間だとそうはいかない。
何もしない、役に立たないと、文句の一つも言いたくなる。
猫に話す声はだれもが甘いが、配偶者にそんな声はとうてい出せない。(出すと気持ち悪い)

猫は犬とはなにかが違う。同じペットという生きものとして見ても、猫と犬は絶対違うのだ。
犬は飼い主とその家族の「役に立とう」と健気に自分で勉めているいるところがある。自分の役割を果たそうとするように。
でも猫は猫であることが存在の全部。猫でいることが役割なのだ。
猫は猫でいるだけで完結している。
あのサイズも人間が触れるのにちょうどいいし、あの毛の柔らかさ、からだのあたたかさもいい。
癒されるという言葉はあまりに多用されすぎて好きな言葉ではないから使いたくないけれど、猫は本当に癒され慰めになる生きものだ。

それにしても柳美里がこんな胸がキュンとなる小説を書くなんて意外だった。
どこかヒリヒリ痛くて、東由多加の闘病三部作は読んでいられないほど緊張したものだ。
彼女の生活がそれなりに落ち着いてきたのだろうか。
生きにくい、生きるのが下手な彼女に、それでもいろんな人たちが手を差し伸べてなんとかやれてきたのだと思うけど、そんな彼女に猫という支えができたのならよかったと思う。

最終章にあるように、老人ホームで犬や猫と一緒にお年寄りが最期の日々を過ごせるならうれしい。
殺処分になる犬や猫も少しは救われる。
現在は捨て犬や猫の支援施設では、飼いたいという申し出があっても70歳以上だと引き渡してくれないケースが多い。
でもこれまでの人生を生きものと共に過ごした人だからこそ、晩年も一緒に暮らしたいはず。
ここらあたりの改善を社会でなんとかできないものかと思うのだけど。
だからせめて老人ホームなら世話をするスタッフもいることだし、可能なんじゃないかな?
動物嫌いの人は別棟に区分けすればいいし、食堂などの共有スペースに入れないようにすればいい。
私、そんな老人ホームに入りたいです。
posted by 北杜の星 at 07:22| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月09日

矢作直樹/稲葉耶季「こっちの世界、あっちの世界」

お盆は亡くなった人があちらの世界からこちらの世界の家族の元に帰って来ると言われている。
そのために迎え火をしたりする。
亡き人たちはどこから戻って来るのか?
この時期、ちょっと考えてみたくて、この本。


矢作直樹氏は元東京大学医学部大学院教授で東大付属病院の救急部・集中治療部部長。
稲葉耶季氏は静岡や沖縄で裁判所判事を務めた。

二人の共通項は、人には体、心、魂があって、この世とあの世の境目はないというもの。
矢作氏には「人は死なない」という医師にしてはびっくりするようなタイトルのベストセラーがあり、稲葉氏には「食べない、死なない、争わない」という著書がある。
その二人の対談集がこれ。
こういう話しが駄目な人は多いだろうし、無関心の人もいるだろう。
そういう人にこそ、ロジカルな職業を持って生きてきた二人の対談を読んでみてもらいたい。

私は体と心とそして魂を信じている。
特定の宗教ではなく「神様」がいるとも思っている。
神様も魂も見たことはないので、立証はできない。臨死体験もないのでこの世とあの世の境がどうなっているのかはわからない。
でもわからないのなら、神様や魂がある、と思ってもいいのではないか?
神様や魂が、死の恐怖と向き合うために人間が作り上げた想念だとしても、それで安らかになれるのならいいと思うのだ。
アバウトな神様・魂の肯定なので特定の宗教への信仰心は持てないけど、自分としてはこれで充分だ。

二人の対談は魂の部分についてはほとんどが同意見だが、医療に関してはかなりつっこんだ対談となっている。
というのも、稲葉氏はホメオパスになるためにホメオパシーの勉強をされていて、現代医療とくに抗がん剤には否定的な立場である。
一方矢作氏は抗がん剤の効用を認めている。癌細胞分裂の速い小児がんや血液のがんには、抗がん剤の効果が認められるからだ。
このやりとりはどちらも迎合しない意見でなかなか興味深い。
矢作氏の弟さんがいっさいの治療を拒んで、がんで安らかに亡くなったというが、医師としての立場より家族として弟さんを見守った矢作氏の気持ちに心打たれる。

稲葉氏は不食ではないが、きわめて少食だそうだ。
不食や少食はある日突然に、(何かの啓示なのか)起きるという。
食欲は本能の一部だが、「欲望」でもある。美味しい物を食べたいという欲望。
生きる上で欲望を減らすと、不食・少食に行きつくのだろう。そうした人の魂は高いところにあるのだと思う。
食べものに意地汚い私にはとうてい到達できそうもないが、それでもこの年齢になると、ご馳走を毎日食べたくはなくなる。
旅行に行って美味しい食事をするのはせいぜい二日でいい。(そうした場合でも朝食は少なくする)。それ以上続くと辟易してしまうようになった。
今年は二泊三日の断食に行ってみようと考えている。
最近、皮膚に湿疹が出ることが多くなった。多分体に毒素がたまっているための症状だと思う。
内臓疾患だけでなく、関節などにも「悪いもの」が溜まりやすいので、これからの老後を健やかに過ごすためにも、デトックスが必要だ。
稲賀氏も矢作氏も玄米菜食の食生活だという。

概ね、賛成できる対談だったが、一つだけどうしても拒絶反応があったのが、矢作氏の皇国史観だ。
日本人の変質は幕末維新から始まったというのはその通りだが、日本人の高い精神性を取り戻すために何をすべきかという部分が、私には受け入れらない。
日本人の精神性だけが世界で高いわけではないし、それを取り戻すために必要なのが高天原から繋がるものだなんて思想はいやだしコワい。
現在、だんだんとまたそういう考えが張り込ぼうとしているのは、なおさらコワイです。


posted by 北杜の星 at 07:53| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月25日

山崎ナオコーラ「かわいい夫」

私が山崎ナオコーラを初めて読んだのはずいぶんと遅くて、「この世は二人組ではできあがらない」だった。ということは彼女がデビューして6年も過ぎたころだ。
ペンネームの「ナオコーラ」がどうにもイヤで敬遠していた。
こういうところが私の狭量なところで、食わず嫌い、読まず嫌いで失っているものがたくさんあるのだと思う。
そういう意味で、山崎ナオコーラを読書歴に加えたのは、偶然とはいえ正解、大正解だった。ある日、読んでみようと思い立ったのだった。
なによりも文章がよかった。平易な言葉で書かれた深い心理描写。その描写にはべたつきがない。
私の後に読んだ夫も「この人はいいね。」と言っていた。

「かわいい夫」はエッセイ集だ。
ひたすら結婚して間もない夫が出てくる。
だからといって「夫自慢」ではない。
そもそも世間的にみて、自慢の種になるようなところがないのだ。
小さな書店の書店員、仕事が大好き。でも給料はとても安い。労働時間も長く、夏休みも正月休みもほとんどない。せいぜい一泊二日の旅行しかできない。
そしてその旅行の費用は妻がもつことになる。

でも、それでいいのだ。
山崎さんは夫に、経済的豊さを求めて結婚したのではないからだ。
自分の本の売れ行きが落ちて、都内のマンションから郊外の部屋に引っ越しをしなくてはいけなくなっても、読者におもねるようなベストセラー小説は書けそうもない。
薄給の夫と実家の両親を支えるのはちっともやぶさかでない。
またこの夫という男性、なかなか大物だ。
全然卑屈になっていない。そうしたことに価値観を置いていないんですね。どんなときにも卑屈にならない、尊大にならない人間って、いるようでいないものだ。
「かわいい夫」というタイトルはちょっと驚くが、「かわいい」のもっと上を行く、超然とした人だ。

山崎さんはきっとこういう小さな者の小さな生活を大切にしたいと考えているのだろう。
読書人口が減少する一方の昨今、自分の本の売れ行き、夫の書店員という職業・・不安定な暮らしかもしれない。
でもこの本には彼女の心意気を感じる。それはこの本が「夏葉社」からでていることだ。
夏葉社は吉祥寺にあるとっても小さい出版社。発刊されている本も多くない。
けれどここの本のすくい取りかたが素敵で、しかも本自体の佇まいがあって、私はこの出版社の大ファン。
ベストセラーは決して生みださない出版社をあえて選ぶ山崎さんに、大いなる敬意を覚えます。

ちょっと長いけどこの本のなかから文章を抜粋しますね。これを読むと彼女のことがよくわかると思う。
「私は夫と結婚してから、雑誌やネットで評価されているレストランに行かなくなった。・・(中略)夫と外食するなら、自分たちの家の近くの、偶然入った「町の洋食屋さん」の良さを、自分たちなりに発見して愛しむ方が楽しい、と気がついた。
これは「町の本屋さん」で働く夫と一緒に過ごすうちにだんだん身についてきた感性なのではないかな、と思う。
世界で一番素敵な本なんて読まなくていい。たまたま出会った本を、自分なりの読み方で、深く読み込んでいく方が、ずっと素敵な読書になる。」

彼女は結婚する以前は、結婚相手は自分とぴったりの世界で唯一の人だと思っていたと言う。
でも今は、夫が世界一自分に合う人かどうかは問題いではなく、ただ側にいてくれる人を愛し抜きたいだけだと。
うーん、でもそう思えるのって、自分に合っているからですよね。多分、世界一。
「かわいい夫」はつまり、山崎ナオコーラのノロケなんです。
でもこれがちっともイヤミじゃなくって、なんだか涙ぐみそうになるくらい素敵だったのです。
こういう結婚が出来たということが、人生の歓び。いつまでもこの歓びが続きますように。
posted by 北杜の星 at 08:04| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月22日

吉田恵理子「ランチタイムが楽しみなフランス人たち」

著者はパリと東京に拠点を置くワインとフードライター。
フランス国立ランス大学高等美食学研究院に学び、大学院資格同等のディプロマをもつ。
(大学に美食研究院があるとは、さすがフランス)

フランスはワインとグルメの国といわれる。
そんなフランスに住むひとたちがどんなランチを食べているのか、ちょっと興味がある。
日本人のランチ事情とどう違うのかも知りたい。

ランチするところとしては、レストラン、ビストロ、ブラッスリー、カフェ、セルフサービスやファストフードなどの簡便な店・・
そのときの腹具合や懐具合によりその選択はさまざま。(でもまぁ、普通のサラリーマンやOLが高級なレストランにランチしに行きはしない)。
もし日本人が観光客としてそうした場所に行くとしたら、どんなことに気をつけ、どんなふうに注文すればよいのか?
いつも隣のテーブルの人の食べているお皿を指差して、「あれと同じもの」と言うのはあまりに能がない。
美味しいものをたべたければそれなりのちょっとしたお勉強も必要だ。
少なくともメニューの肉か魚の区別くらいはできるフランス語を知っておきたい。
(食事処にきているのだから、何か食べたいのだろうとわかるので、そう心配はしないでいいと思うけど)。

マナーが気がかりという人もいるだろう。
カトラリーの置き場所は国によって違うし、パンをナイフで切るところも切らないところもある。
もっともしてはいけないことは、音を立てて食べること。
日本人はお茶や汁をすするし、蕎麦は盛大な音を立てて食べるが、あれを外国でするとレストラン中が凍りつきますよ。
もうひとつしてはいけないのは、お皿を手に持つことだ。
これも日本人はお茶碗を左手に持ったり、小鉢を持ったりして食べるので、つい持ってしまうが、あれはとても悪いマナーだ。
左手に持っていいお皿は、ソーサーだけ。
それとこれは日本人がおおいに戸惑うのだが、ラテンの国の食堂には、よほど高級なところは別としてパン皿は置いていない。
じゃぁどこに置くか?
テーブルの上にそのまま置けばいいのだ。
汚い?いいえ、汚くはありません。テーブルクロスは客ごとに替えるから。
それにもし替えてなくても、外国人は日本人ほど神経質ではないので全然気にしない。

ここに写真付きで紹介されているランチのなんと美味しそうなこと!
気取ったものはまったくない。ステーク・エ・フリットなどはステーキ肉の上にどっさりフライドポテトが乗っているだけ。じつに愛想がない。でもこれこそ、フランス人の普段の食事なのである。
フランス人は太っていない。たしかに、イタリア人と比べるとスリム。
それはランチ時にしっかり食べて、夕食は軽くの習慣があるからだそうだ。(イタリア人もそうなのだけどイタリア人はパスタ喰いだからなぁ、太るよな)。

ランチの値段は約1500円程度か。
日本人がコンビニのおにぎりで済ますのとは、やはり値が張る。
でも美しく、美味しく、パン食べ放題で、ワインは2杯までなら大目にみられる・・というフランス人のランチは、恵まれている。
ランチタイムが待ち遠しくなるのがわかる。

だけどね、4年前に我が家に一週間近く泊りに来たエリックというフランス人は、日本滞在中、ラーメン屋、牛丼屋、てんやの天丼などが500円くらいで、しかもすこぶる美味しくて、日本のように素敵な国はない、と言っていたんですよ。
うーん、どちらを評価していいものか。。
お国変われば品変わるなのか?
でも彼はフォアグラは大嫌い、ワインは全然飲まない、カフェもあんまり飲まないという「変なフランス人」だったな。

どちらにしてもランチタイムが楽しみと感じられれば、いいのですが。
posted by 北杜の星 at 07:28| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月09日

吉村尚美「平熱37℃で病気知らず」

昔の体温計は水銀がスーッと上がって熱を測った。
37℃のところに赤いマークがつけてあって、それ以上だと熱があると判断していた。
それ以下は平熱。

現在日本人の平熱はかなり下がっている。35℃前半よという人が女性に結構多い。
私はと言えば朝は36℃を境にしたあたりなのだが、一日の中でもっとも体温が上がる夕方になると37℃を超えることもある。この乱高下がとてもキツイ。夫は私のことを「キミは変温動物だね」と言う。
体温調整は人間の基礎代謝の大きな部分を占めているので、私が太らないのは体温調整に多大なエネルギーを使っているからかもしれない。

フランス人は平熱が37℃だと聞いたことがある。ワインがいいのか、チーズがいいのかはわからないが、愛に生きる国の人らしくホットなのかな。
日本人だって1950年代には平熱が、36.89℃だtったというからびっくりだ。ほとんど平熱37℃。
いつのまにみんな低体温になってしまったのか?

理由はさまざま、ひとつだけではなく複合的なものだろう。
ストレスが多い。
不規則な生活。
運動不足。
過食。
これらが原因みたい。

よく低体温と冷えを混同しがちだが、まったく違うことだと著者は言う。
でもどちらも病気を引き起こすものなのは変わりない。
癌は低体温だと罹りやすくなるし、脳血管系の疾病もリスクが高くなる。
過食がいけないとは意外なようだが、消化にエネルギーを費やして体温維持ができなくなるというメカニズムだそうだ。
「腹八分」と思った時にはすでに満腹ということがあるので、「腹六分」を心がけよと書いてあるが、うーん、六分とはむつかしい。。

私の体温は一日のうちで変化するだけでなく、夏と冬の季節ごとにも変動があって、気温が30℃を超えると体温が上がり青菜に塩になってしまうし、冬の寒さには体がかたまってしまう。
温度差にも弱くて、温度差アレルギーのために、夏でも冬でも午前中はくしゃみが止まらない。
こんな体質を改善するために、今月からホメオパシーは体温調整のためのレメディを出してもらっている。飲み始めてまだ4日。結果がたのしみだ。
でも飲み始める前から大風邪をひいて、久しぶりに38.5℃の熱が出た。熱に強い私もさすがに本を読みながら寝ていた。
これまでは熱が出るといつも口唇ヘルペスができていたのだが、前回のホメオパシーでヘルペスのためのレメディを処方されて飲んでいたためか、今回はまったく出なかった。ヘルペス・ウィルスが弱まったのかしら。
ヘルペス対応は、もともとが自家感作性皮膚炎という湿疹だったので、湿疹関連の症状すべてを治すというスタンスなのだと思います。他にも太陽湿疹や寒冷ジンマシンにも対応してもらっています。
ホメオパシーってつくづくスゴイと回を重ねるごとに実感しています。
(今回のレメディは他にもあって、原爆の放射能の害をなくすのが含まれるそう。、私は広島の被爆二世なのです。ホメオパシーでは広島と長崎では異なるレメディがあるようですが、確かに広島に落とされた原爆はウラン型、長崎はプルトニウムですから、同じ放射能でも異なる影響があるのでしょう。)

とにかく、平熱を上げる努力をして病気知らずの体になりましょう!

posted by 北杜の星 at 07:40| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月06日

吉田修一「森は知っている」

過酷な幼児体験を持つ鷹野は小さな南の島の高校生。
しかしただの高校生ではない。
同級生の柳とともにある組織の一員となるべく教育されているのだ。
そろそろ彼らは正式のメンバーになる時期。ミッションンを待つ身である。
正式メンバーになると胸に爆弾を埋め込まれ、もし24時間以上連絡が途絶えると組織を裏切ったと見なされ、遠隔装置で爆発ボタンが押されてしまう。
彼らが信頼されるのは24時間だけ。
そして35歳になったら解放されて、残りの人生を自由に過ごすことができる・・

というスパイ小説を吉田修一が書くとは!
東西イデオロギーの壁が崩壊して以来、外国のスパイ小説は様変わりをした。
最近では「産業スパイ」を扱うものが増えてきている。
「森は知っている」もそう。情報を得てそれをより高い値で買ってくれる企業を探す。企業間の競争、産業スパイ組織間のせめぎ合い。
ハラハラドキドキの連続だ。

スパイものとしては定石通りと言えば定石通り。
組織を裏切る者もいれば、非情に徹しきれない者もいる。
そういう欲と情があるからこそ人間くさい物語になるのだ。

面白かった!
もともと私は国際陰謀小説が大好きで、A・Jクイネルやラドラムの大ファン。昔はよく読んだものだ。
荒唐無稽なできごとが連続するがそれらのある部分は当時の世界情勢の裏側を暗示しているものが多かった。
単にストーリーを作るのではなく、ちゃんとした資料に基づいて書かれたと思しき部分がかなりあったのだ。
ミステリーよりエスピオナージュのほうが断然私好みだったなぁ。

スパイものってラストはいつもどこかもの悲しい。
彼らの行く末はどうなるのか?
ハッピーエンディングであっても、ついその続きを想像してしまう。
posted by 北杜の星 at 07:50| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月17日

柚木麻子「ナイルバーチの女子会」

どうもこれじゃぁちょっと弱いよなと読後感じていたので、二度の候補となったものの直木賞を逃した際には残念だったけれどそれなりに納得した。次作に期待しようと。
期待は裏切られなかった。この「ナイルバーチの女子会」はスゴイ小説だった。
痛々しさを上回る怖さに次のページを繰るのがもどかしく、350ページを一気読み。
山本周五郎賞を受賞したというが、これもなるほど納得。

才色兼備、パーフェクトな頭脳と顔やスタイルを持つ30歳の栄利子は大手商社の営業キャリアウーマン。父も同じ商社の子会社の社長というエリート、東京生まれの東京育ち。
一方翔子は栄利子と同じ年齢だが地方出身の専業主婦。「おひょうのダメ奥さん日記」というブログを書いている。
栄利子はこの肩の力が抜けた、それでいてどこかセンスを感じさせるブログを毎日訪問している。
二人の住むエリアは同じのようだと気付いた栄利子は「偶然」カフェで翔子と出会い、その会話から翔子を「親友」と勘違いをして、以後ストーカーのように翔子を追いまわす。
次第に栄利子を気味悪がる翔子・・

人と人との距離をうまく取れない人がいる。
近過ぎるとうっとうしいし、遠すぎるともどかしい。
栄利子は過去にも同級生の女の子をストーカー行為で傷つけたことがある。
家族に恵まれなかった翔子はやっと自分が自然体でいられる夫と結婚したものの、あまりに自堕落に日々を送っている。
二人に共通するのは、同性の友だちがいないこと。
それを必死に求めるのが栄利子。どうでもいいようでやはり求めるのが翔子。
彼女たちの間には他にも二人の女性がいて、一人は過去に栄利子に傷つけられた女性、もう一人は女性の友人に囲まれて生きることだけを考える若い女性。
みんな同性の友人を意識しながら生きている。楽しい「女子会」に参加したいと。

この本のタイトルのナイルバーチとは、「スズキ目アカメ属の淡水魚。淡白な味で知られる食用魚だが、一つの生態系を壊してしまうほどの凶暴性を持つ、要注意外来生物」。
栄利子は仕事でナイルバーチを輸入するためにアフリカへ出張する。(安い回転寿司屋で「えんがわ」というのはナイルバーチのものだそうだ)。
淡白そうに見えてじつは獰猛なのは栄リ子だが、ある意味、女はみんなそうなのかもしれない。
傷つける方も傷つけられる方も、同じものを求めているのにそれに気付かない。
そして男は何の役にも立たない存在となってしまう。

正直言って、栄利子と翔子、どちらにも感情移入はできなかった。共感材料がなさすぎる。
それなのに彼女たちの痛みがギシギシと伝わってきた。こういうのはめずらしい。
感情移入できない作品は好きになれないこいとが多いのだが、これは作者の意気込みの大きさなのだろうか、圧倒されるものがあった。
柚木麻子という作家さん、ものすごく成長したと思う。文章も巧くなっている。
山本周五郎賞の選考委員は私の好みの作家たちではないのだけれど、これまでの受賞作品はどれも素晴らしいものだ。
柚木さん、山本周五郎賞受賞おめでとうございます。
posted by 北杜の星 at 08:20| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする