2013年06月29日

よしもとばなな「さきちゃんたちの夜」

早紀、紗季、沙季、咲、崎、さき。
ここに6人のさきちゃんたちがいる。
でも彼女たちはきっと、ようこちゃんでも、かおりちゃんでも、ゆかちゃんでもかまわないのだと思う。
誰もが同じように暮らしている。同じことに笑い、同じことに泣いている。
だからこそこの6人のさきちゃんたちが限りなく愛しい。

担当していた親しい作家が行方不明になってしまったさきちゃん。
鬼の人形ばかり作っていた叔母が亡くなり、その家の後始末に出向いたさきちゃん。
祖父母が週末に無料で供していた癒しのスープを継ごうとしているさきちゃん。
バツイチのシェフから「天使」と呼ばれる、子宮ガンで子どもができなくなったさきちゃん。
双子の兄を亡くしたさきの部屋に家出をしてやってきた兄の娘のさきちゃん。

つらさ、悲しみ、不安・・
人生に立ちふさがるさまざまな壁。
けれどその壁はもしかしたら、小さな奇跡が起きて乗り越えられるかもしれない。
少なくとも奇跡が起きることを信じられるかもしれない。

けっして文章が巧いわけではないのだけれど、よしもとばななの小説を読むといつも幸せな気持ちになれる。
いい匂いの風が吹いて心が爽やかになる。
これがよしもとファンが多い理由だと思う。
性善説と性悪説があるとしたら、よしもとばななは絶対に性善説の人。
そのことがビンビンと伝わってくるのがうれしい。
「読まなければよかった」と思ったことが一度もない作家だ。
そして彼女のだらだら文章すら彼女の小説には必要なのかもしれないと感じてしまう。
「さきちゃんたちの夜」はすべての女性へのやさしい応援歌として、胸に染む本だ。
posted by 北杜の星 at 07:48| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月17日

吉村龍一「光る牙」

真冬の北海道日高山脈からカメラマンが下山しないとの連絡に、森林保護官の孝也は上司の山崎とともに救助に向かった。
しかし二人が見たのは、大きな爪痕を残す無残な死体だった。
羆、それもかなり大きな羆に襲われたものだ。
「食害事件」として、警察や羆研究の大学教授や地元の猟友会メンバーと山に入った。
山崎の判断で羆を仕留めることができ、事件は落着したと思われた。
しかし山崎は納得できなかった。
そうこうするうちに、またも羆が出たという。。

すごい臨場感だ。
冬山の自然、孝也と山崎の息遣い、羆の咆哮・・
羆が現れてからの格闘より現れる前の気配のほうがより怖い。
「来るぞ、来るぞ」がドキドキする。

ここに書かれている警察と学者の事件の結論の出し方が、いわゆる「お役所仕事」で、じっさいにこういうことがあるのかどうか私にはわからないのだが、彼らに比べると山崎の判断や決断の賢明さが素晴らしい。
元自衛官で孝也の父親世代の山崎は寡黙で多くを語らず、孝也にも手取り足取り教えるわけではないが、道具の扱いなど態度で示すやり方が立派。
この小説の主人公は孝也ではなく、山崎と羆だと思う。

それにしても禁止されている「括り罠」を仕掛けてまで、自分の楽しみのために大きな動物を殺そうとする人間の醜さ。
そういう人間が羆に殺されようとも、さして同情はできない。
羆の執着心の強さ、復讐心の大きさに驚くが、彼らは頭の良い動物なのだろう。
こういう小説の常で、追われ殺される彼らに哀れをおぼえてしまう。

読み始めると最後までノン・ストップで読了。
こういう小説は一気呵成に読まなくっちゃ、という感じ。
でも読んでいる間ずっと肩に力が入っていたんですね、疲れました。
posted by 北杜の星 at 07:35| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月12日

山下澄人「ギッちょん」

山下澄人は初読みの作家。
この「ギッちょん」は昨年の芥川賞候補となっている。
もう完全に参ってしまった!「何、コレ!?」。こんな小説は初体験だ。
こんな手法が小説にはまだあったんだという思いと、その斬新さがストーリーの邪魔を全然していないことに驚いた。とにかく驚いた。
山下澄人は演劇畑の人だそうで、最近になって小説を書き始めたという。これは2作目のようだ。

本の初めの幼年時代の主人公が、中年でホームレスとなり、62歳で死を迎える寸前までが描かれているのだが、主人公の過去と現在の往還がとても変わっている。
ふつう過去を書くときには、章を変えたり、メモワールの形で書くものだが、ここでは現在の行の次に、改行なしで過去が続いているのだ。
最初は「ん?」という感じだったがだんだんと慣れて、「あぁ、あの結果がこうなったのだな」と理解できるようになる。
不思議なことに、慣れると違和感がまったくない。

ギッちょんは主人公の幼なじみ。小さくて足が悪い男の子だ。
主人公は彼のことをとくに思い出すわけではない。本当にギッちょんが存在したかどうかも確かでないみたいなのだが、でも多分、ギッちょんは主人公の細胞のなかに入り込んでいて、思い出す必要さえないような気が私にはする。
ギッちょんの次によく登場するのが、主人公の父親だ。
仕事を突然辞めて帰って母とケンカをし、母は妹を連れて実家に帰った。その父が主人公のために作ってくれる焼き飯には煮干が入っていて、主人公はそれが嫌いだ。
一緒に釣りに行ったり、父との時間は母との時間よりずいぶんと濃い。

ストーリーはオーソドックスで、一人の男性の一生というもの。
ならず者を傷つけたり、恋人と手に手を取り合ってアメリカへ行ったり(この恋人がじつは。。というものなのだが)、一代記としてはめずらしくはない。
でもこの主人公がとにかくやさしいのだ。
彼の目線は、例えばギッちょんをバカにしていないし、弱い者や貧しい者、とても大きすぎる人間などに対して、いつも同じ高さにある。
それは猫に対しても同じで、おそらくはこの作者は大の猫好きなのではないか。
山下澄人というひとは、とてつもなくやさしい人だと思う。(こう言うと、ご本人は否定するだろうが)。
このストーリーはじっさいには暗く重い。ハッピーな小説ではない。
それなのに読後感が温かいのは、このやさしさが隅々に感じられるからだろう。
これを読むと、どんな人もいとおしくなる。

笑ったのが、大男がアメリカン・ダイナーで注文する食べ物の量!
ホントカイナって感じだけど、この量でいかにその男が大きいかの説明となっている。
こういうちょっとした「遊び」が全体に軽やかさを出していて面白いと思った。

また一人、好きな作家が増えたのがうれしい。
posted by 北杜の星 at 07:39| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月21日

山田詠美「明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち」

山田詠美の心理描写にはいつもうっとりしてしまう。
なんでこんなにわかるの?どうしてこういう気持ちをこういうふうに言葉で表せるの?
また彼女の比喩の巧いこと。
だから彼女の小説にはアフォリズムがそこかしこに溢れていて、それら全部をノートに書き写したいほど。
いつかこのブログでイトヤマさんと小川洋子には駄作がないと書いたが、山田詠美の小説にも駄作がないんですね。

この本は家族の一人の死を扱っている。
読みながらふと思ったのは、これは山田詠美なりの3・11への作家としての答えなのかもしれないということ。
震災や戦争で亡くなる何千人、何万人という人たち。でもそんな「総数」に意味はない。
たった一人の大切な人の死は、たった一人であっても世界のすべてであって決して何千分の一でも何万分の一でもないのだから。

夫と離婚した母と子ども二人(澄生、真澄)と妻に死なれた父と息子(創太)が一つの家族となった。
やがて家には娘の千絵が生まれた。
「幸せであると同時に、幸せと思われることも重要だと」感じる彼らは、傍目にも絵に描いたような幸せ家族だった。
みんながそれぞれの役割を知っていて、その役を完璧に演じていた。
そしてそういう家族の要、「幸福を留めるためのネジ」となっていたのが、長男の澄生だった。
しかしある日、澄生は雷に打たれて死んでしまう。

ネジを失くした家族の束はバラバラになってゆく。
澄生をどの子どもよりも特別視していた母はアルコール依存症となり、父の事業は思わしくなくなる。
死を乗り越え、穏やかな日常をとりもどせることもあるかもしれない。しかし澄川家にとって「澄生の死は減って行く死ではなく、増えて行く死」だったし、「死に見張られる人生」を送らねばならなくなった。
それに忘れようとしても壊れてしまった母が絶えずそのことを思い出させてくれるのだ。

4章にわかれていて、第一章「私」では長女の真澄、第二章の「おれ」では次男の創太、第三章では「あたし」の千絵が主人公となりそれぞれの視線で家族と澄生の死を描いている。
そして最終章は「皆」。ここで父、母、三人のこどもたち全員が集まる。

澄川家のなかで私が心を寄せたのが、父の連れ子だった創太だ。
彼はごく幼い頃に実母を亡くしているので、新しいママができたのがうれしくてたまらない。
彼は家族の中で「わいわい族」となって、うれしく楽しくはしゃぎまわる役目だった。
けれど彼は知っていた。ママが一番好きなのは、頼りにしているのは澄生だと。もちろん創太は兄も姉も大好きなのだけど。
だから澄生が雷に打たれて突然亡くなったことは寂しくもあるが、次は自分の番だとも思ったのだ。
それなのに、ママは自分を求めずして壊れてしまった。
もし創太がママの実の子ならば、真澄や千絵のように母に対して批判的になるかもしれない。
しかし彼はひたすらママを愛し、愛されることを望んでいるのだ。それがとてもせつなかった。

幸福はこんなにも突然に簡単に失われてしまう。
どんなに月日がたっても、同じ形で戻ってくることは絶対にないのだ。
それならば私たちはどうすればいいのか?どうやって再び幸福を手に入れるのか?
この長編にははっきりとした答えはないけれど、ヒントは見つかるような気がする。

今回の山田詠美も本当に素晴らしかったです。
posted by 北杜の星 at 07:34| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月01日

山口道宏・著編「無縁介護」

このゴールデンウィークに故郷に帰って、両親の老いに今さらながら驚いた人もいるのではないだろうか。
世話をする家族が一緒に住んでいれば安心だが、そうでなければ、もし何かあったときの介護はどうなるのか、遠距離だとかなり困難な課題である。
この「無縁介護」という本は介護の仕事に携わる人たちが、家族や面倒をみる人のいない老人たちの介護について書いているもので、子どものいない私たち夫婦には他人事ではない事実が並べられていて、身につまされる。
もっとも子供がいても音信普通、親戚がいても無視という場合だって多いようで、その人生の越し方に暗澹となるのだが。

この本の副題は「単身高齢社会の老い・孤立・貧困」というもの。
「無縁」の老人は「貧困」という問題を併せ持っている。そして社会的に孤立している。
彼らは介護保険があることすら知らないことがある。また知っていても、ここが日本の福祉の最大ネックなのだが、すべてが「申請」方式なのである。
自分が役所に行って「申請」をし、膨大な申請書類に一つずつ記入し、すべてを揃えなければならないのだ。
これは介護保険だけでなく年金もそうで、老人や心身に障害を持つ人にとってはかなりの負担となっている。
(私は目に持病があるので、今でも横書き書類に記入するのは難しいため、今後こういう公の書類にどう対峙していいか悩んでしまう)。

ケアマネージャーやヘルパーの人たちが親身に介護しようとしても、縦割りの役所仕事の壁に阻まれることが多い。
そのうえ最近では、介護は「在宅」の方向に向かっているようで、家族の誰もいない単身老人はどうすればいいのか。
また家族がいるにしても、仕事があれば「在宅」で介護などとうてい無理である。
国は「自助」「共助」と言うが、それができないからこそ必要な介護保険制度なのではないのか。「公助」こそが福祉だと思うのだけど。

私の親世代に関しては、福祉はまだ充実していた。
ありがたい、と感じ感謝することは多かった。
しかし私世代はそうはいかないだろう。事実年々福祉に対する予算は削られてきている。社会が不景気で老人が増えると、とてもとても賄いきれないはずだ。
高いお金を出して有料老人ホームに入れる人はいいとして、平均的なサラリーマン家庭にとっては高嶺の花だ。

いったいどうすればいいのか?
考えれば考えるほど気持ちが落ち込む。
でも救いがあるとしたら、この本の記事を書いた介護の現場で働く人たちだ。
彼らは本当に一生懸命に頑張っている。
大震災の時もそうだったが、「官」はダメでも「民」がこの国を支えているのだ。
せめてこういう人たちに報うべき十分なお給料をあげて欲しいと思う。
posted by 北杜の星 at 08:01| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月16日

山内令南「癌だましい」

麻美は老人ホームに勤める45歳。
食道癌のステージWと告知された。
人生で初めての病気である。
可愛がってくれた祖母も両親も兄も亡くなり、戦前に建てられた古家に一人住んでいる。

これはけっして闘病記ではない。
なぜなら麻美は病気と闘うための治療は何一つしていないからだ。手術、抗がん剤、放射線治療、なにも受けない。
ただひたすら「食べる」ことだけを考えている。
「食いたい、食いたい」。けれど飲み込めない。
麻美にとって「生きることは食べること」、ただそれだけだ。
それは祖母が教えてくれたことでもある。

家族が誰一人居なくなっても、麻美は自分で食べるものはすべて自分でしつらえてきた。
特大ランチジャーを携えて、それを食べることを目的に職場に行った。
その彼女の食は、今ではコンビニやスーパーで惣菜を買うように変わってしまった。それでも「食べたい」。
病気を治すために、少しでも食べなくっちゃと考える患者がいるが、麻美はそれとも違う。
彼女にたった一つの哲学があるとしたらそれは、食べること。食べることが存在のすべてなのだ。
消化器系の癌ではないので食欲はあるから、なおさら壮絶だ。

ともすると露悪的な麻美の描写は、作者の病気に対する距離のとり方からきていると思う。
病気そのものに密着することを避けている。
だから凄まじさのなかに、人間の本能に対する滑稽さが表現されているのではないか。

もう一編「癌ふるい」という短篇が収録されているが、これは自分の病気を知らせた友人への「メールに、彼らが返信してくれた内容を並べたもので、それぞれの返信に採点がされている。
これを読むと、こういう場合にどんなことを書けば相手を慰められるか、また傷つけてしまうかがわかって、勉強になるというか、心しなければと考えさせられた。
この「癌だましい」は第112回文学界受賞作品。
作者はその10日後に、世を去った。
でもそのことを抜きにしても、この本は衝撃的で文学的な作品だと思う。
posted by 北杜の星 at 07:18| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月01日

吉田修一「路(ルウ)」

台湾新幹線をめぐる日本人と台湾人の繋がりや想いを描く長編小説。

幾組かの若い男女がいる。
春香は大学生のときに台湾に一人旅をし、そのときに知り合った台湾人青年から連絡先を書いたメモをもらったのだが、それを失くしてしまった。
彼女は自分の連絡先を教えていないので、もう二度と会えない。
その後悔がずっと彼女には残っていた。けれど今は東京に恋人がいる。
商社勤務となり、会社が台湾新幹線受注となって、台湾に長期出張となった。

勝一郎は台湾育ち。同じ台湾育ちの妻は亡くなった。子どもはいない。
今は一人暮らしの不便を感じつつ、悠々自適に暮らしている。
しかし彼には六十年以上、自分の言ったある言葉が忘れられない。
旧制高校で一緒だった中野に対して放った言葉だ。
日本に統治されていた台湾では、台湾人は日本名を持っていた。中野も台湾人だった。
あんなに親友同士だったのに、なぜあのとき、あのようなことを言ってしまったのか・・

他にも新幹線の整備士になる若い青年や、日本からの春香の同僚や、現地採用の若い女の子など、いろんな人たちが新幹線の完成を願っている。
けれどレール敷設は仏独、車両は日本という混合工事に加え、台湾の「スケジュール」無視のスローさに、日本側は悩まされるのだった。
(台湾ではものごとが「スケジュール」通りにいくと、かえって手抜きしたんだと思われ、遅れると「あぁ、ちゃんとやったから遅れたんだな」と納得するそうだ。こういうところの国民性の違いが面白かった)。

でもこの「路」の魅力はストーリーではない、と言えば吉田修一に失礼だろうか。
だけど褒めているんです。
だってこの本からは台湾の太陽の光、風、匂いなどが濃密に漂っくるのだ。
普通なかなか知ることのできない台湾の若い人たちの暮らしぶりもわかる。
旅行本を読むよりこの本を読むほうが役に立ちそうだ。
吉田修一は台湾に長期滞在をした経験があるのかな?
一度や二度の短期取材ではとてもこうは書け得ないだろう。

夫に「台北にはスタバもイタリアンもあるよ。面白そうだよ」と暗に行こうよと言ってみたら、「そんなら東京と同じだから、台湾にまで行くことないよ」と返されてしまった。
でもね、春香たちの食べる台湾料理の美味しそうなこと!
台湾の食べ物って北京料理などと較べると上品ではないが、パワーがあるというかワイルドな感じで私は大好き。
これは台湾に行かなくっちゃ経験できないでしょ。

と、これを読むときっと台湾に行きたくなる。
台湾観光局は吉田修一を表彰してもいいかも。
posted by 北杜の星 at 07:56| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月30日

山折哲雄「ひとり達人のススメ」

宗教学者山折哲雄氏のこの本には、「ひとり」と向き合うことの大切さが書かれている。
日本では一人で居ると「さみしいだろうに」とか「かわいそう」とか言われることが多い。
「孤独死」や「孤老死」はとても悲惨なことのように扱われる。
しかしはたしてそれはそれほど悲惨で不幸なことなのだろうか?
少なくともそれまで自分で自分の生活ができたというのは、素晴らしいことと私など思うのだけれど。
山折氏も私のように考えるひとのようである。
彼は「ひとりとは思考すること。そして考えるとは心を震わせること」と言っている。

ヨーロッパの公園のベンチに、日がな一日座っている老人を見かけることがある。
確かに寂しい姿に見える。事実寂しいのだと思う。
けれど彼らは「個」としての人間は孤独なものとわかっているのだ。
だから成人した子どもを独立した人間だと理解しているので、子どもを私物化することがない。
親と子が「個」として付き合うことで満足している。それは「家族」とは別の問題である。
地方に住む私の古くからの友人が「娘は遠くには嫁にやらない」などと言うのを聞くと、唖然としてしまう。
「それはあなたの決めることじゃないでしょ!」。
近くに子どもを置いて、自分のために何かをしてもらおうと考えるなんてとんでもないことだ。
そういう人間には「ひとり」「孤独」の大切さがわかっていないのだろう。
山折氏は「日本人は「ひとり」を突き詰めて考える必要がある」と言うが、まったくそのとおり。
彼は「ひとり」に向き合うことは死生観をもつことに繋がるという。
「そうすれば楽しく人生を終える覚悟で生きられるし、最期に幸せな状況を手に入れられる」と。

日本の家族間では、「死」や「死んだ後の葬式」についての話題がタブーとなっている家庭がある。
そんな人たちは「死」を受容できないのだろう。
誰にもおとずれる「死」とその周辺のことを自分できちんと整理し、それを家族に伝えておくことは、ある年齢になれば当然すべきことである。
Living will を書くもいい、遺書を書くもいい、これだけは言い置いておきたいことをメモするもいい。
自分なりの方法で最期をつくりあげるのは大切だ。
そしてそれはまだ元気なうちからしておく方がいい。いつなんどき何が起こるかわからないのだから。

この本で印象的だったのが下の一文だった。
聴覚と視覚のどちらかを選べと言われたらどちらを選ぶかと問われたときの答えとして、「聴覚を選んだ人は神に近い。視覚は悪魔に近い」のだとか。
「耳を澄ますといろんなことに気づく。
私たちは目に見えないものは存在しないという科学的な教育が普及するようになり、だんだん視覚が重要な役割をきたすようになった」と。
緑内障の進行が止まらない私にとって、視覚がなくなるのはとても怖いこと。
でもこういうふうに考えると、聴覚が残ることでなにか神に近いものが手に入れられる可能性を信じたくなる。

「長生きするようになった現在は『老と病と死』がゆっくりやってくるプロセスをじっと凝視めることになる時代でもある」という山折氏の言葉は、私の年齢ではそろそろ他人事ではない。
posted by 北杜の星 at 08:07| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月23日

山口正介「江分利満家の崩壊」

山口正介氏は18年ほど前に亡くなった作家山口瞳の一人息子。
瞳の作品の中に「庄助」という名前で登場することが多い人だ。
少年や青年だと思っていたがすでに還暦を過ぎた年齢になっているのだが、考えてみると瞳がほぼ私の親世代なのだからそれも当然か。

山口瞳はサラリーマンのような小市民的な人間をよく描いていた。
彼自身が寿屋(サントリー)の広告会社「サン・アド」のコピーライターとして仕事をしていたこともあるし、実家の浮き沈みの激しさを嫌悪していたからでもある。
思えば当時のサラリーマンはのどかだった。
もちろん日本がまだ経済成長していない時代だからそれなりの悲哀や苦労はあっだたろうが、「トリス・バー」でグダグダ言っていればそれでおさまるものだった。
行きつけの飲み屋や小料理屋には話を聞いてくれる女将や大将が居てくれた。
そんな時代はもうノスタルジックなものでしかなくなったのかもしれない。

昭和のそんな時期、山口家はじつは大変だったというのがこの本の内容。
理由は瞳の妻、正介の母である治子だ。
彼女は瞳と新興大学校の「鎌倉アカデミー」で知り合い結婚したのだが、正介を産んだ後の妊娠で2度ほど人工中絶をしている。
それをすすめたのが瞳というのだが、それ以来彼女は重度の神経症となってしまう。
一人で外出できない。一人で乗り物に乗れない。一人で留守番ができない。
もしそうなったらパニック症候群を起こしてしまうのだ。
だから瞳はもとより息子の正介氏は彼女のために大いなる制約を受けながら暮らしていた。

成功した物書きの家がじつはこういう状態だった。
母と息子の相克は結構激しかったそうだ。
正介氏が急病になっても、一人で留守番のできない救急車に乗れない母は、救急車を呼ぶよう懇願する息子を拒否。
病状は悪化したが母は自分本位でちっとも悪びれない。
第一この母親は息子が生まれたときに酷いアレルギーで皮膚がゴワゴワしているのが気味悪いと、一度も風呂に入れなかったというから驚きだ。
正介氏を風呂に入れたのは祖母だった。

しかしこのやっかいな母の神経症も皮肉なことに瞳が亡くなった後は少しだけ軽減する。
まるで夫が原因だったように。
治子はある日正介氏に告白する。中絶後神経症になった彼女に瞳はこう言ったと。
「あなたの家はみんなおかしいので、あなたも、おかしくなると思っていた」。

老いた母は膝の手術、早期胃がんや胆管ポリープの手術を繰り返した。
最後は癌だったが、医師のすすめで手術も抗がん剤も放射線治療も行わなかった。
そして瞳と同じホスピスに入った。

これは正介氏の小さなころからの母の長い長い介護の物語なのだ。
だからタイトルにあるような「崩壊」のお話ではないと思う。
一人っ子だから他に担ってくれる人がいない苦労はあるにしても、誰もが通る道なのだ。期間がちょっと長かっただけ。

山口瞳の文章は簡潔で素晴らしいものだった。
正介氏の文章はあんまりスムースに読めない感じ。
文章というものは遺伝しないものなのですね。
posted by 北杜の星 at 07:21| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月13日

柳美里「対談集 沈黙より軽い言葉を発するなかれ」

私にとっての柳美里のイメージは、人間関係をうまく構築できなくて切羽詰った痛々しいほとんど引きこもりのような暗い人ってかんじなのだけど、この対談集の彼女は意外にも明るくしっかりしていて、しかも対談上手なのには驚いた。
(以前彼女の読者が家の前に夜遅く座り込んでいたので、帰宅した彼女がファミレスに連れて行き話をしたら、「死なないで」でと言いに来たのに、元気で笑う人なんですね、とガッカリされたそうだ)。
その理由としては対談相手の人選があるのかもしれない。
反対意見を戦わすのではなく、彼女自身と価値観や社会意識が似通った人たちを選んでいて、変に尖る必要がなく気持ちが波立たない穏やかさがある。
「沈黙より軽い言葉を発するなかれ」といういささか大仰なタイトルは、あの3・11以降の表現者たちが心するところのものなのだろう。

柳美里は3・11の震災1ヵ月後から福島に通い、2012年3月からは南相馬のFM局の番組で毎週金曜日にパーソナリティをつとめているそうだ。
この番組は彼女が相馬在住や出身者、相馬ゆかりの人たちにインタビューする30分番組だが、この中で彼女は聞き役に徹している。
聞いているうちに立ちのぼる言葉からの気配や感情が直に心に触れてくるという。

対談相手と対談内容は以下のとおり。
相馬で教師であり詩人の和合亮一「震災と向き合うための『詩』の解体」。
精神科医の岸田秀「原発事故と『閉鎖的共同性』」。
映画監督の岩井俊一「3・11以後の『日常』と『非日常』」。
連合赤軍をテーマにした「レッド」を描いた漫画家の山本直樹「作品に描かれた『性』と『死』」。
映画監督原一男「フィクションだから本当のことを」。
元外務省主任分析官佐藤優「死者に向けて書くということ」。
脚本演出家の今野勉「テレビ界の閉塞と女性キャスター」。
女優寺島しのぶ「書くという仕事と演じるという仕事」。

どの人との対談もおもしろかったが、映像に関わる人たちの言葉が印象的だった。
言葉を連ねても説明的になるだけの場合があるが、映像ってたった一コマのシーンがインパクトをもつ。
そういうものをつくる人だからこその言葉は興味深い。
posted by 北杜の星 at 07:19| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月29日

横田増生「評伝ナンシー関」

ナンシー関が亡くなってもう10年になる。
彼女の訃報を聞いたとき、「まだ40歳前なのに」と思う気持ちと、「ずいぶん忙しそうだったし、健康管理してなさそうだったもの」と思う気持ちがない交ぜになった。
それからじわりと悲しくさみしくなった。
私はもともとキッチュなものやサブカル的なものが好きだ。
だからナンシーの最初の頃から彼女に注目していた。
あの消しゴム版画と文章のすごさ。
まったく稀有な人だった。
この本はナンシー関没後10年の節目として出版された。
青森のサブカル好きな少女がどのようにして「ナンシー関」になったかの軌跡を追っている。

90年代、テレビに登場する歌手やタレントや司会者などを、その独特のセンスと毒舌でバッさバッさと斬っていたナンシー。
そこには彼女なりの基準があった。
そしてその基準は私にはとてもよく理解できた。
(さだまさしに関する文章などまさしく私と同じ感覚なので、うれしくてしょうがない)。
この本の副題は「心に一人のナンシーを」というものだが、私の心の中にもナンシーが一人ちゃんと居て、いまテレビにでている「あの人」を、ナンシーならどう評するかが想像できるような気がする。

消しゴム版画家として超一流だけど、じつは文章が本当にスゴイ人だった。
もって廻った表現は全然なくて、短い言葉でいつも核心を突いていた。
この本にも書かれているように、あの宮部みゆきもナンシーの文章にインスパイヤーされているそうだ。
文章というほどの長いものでなくて、ほんの一言であっても、そのスゴサは際立っている。
数あるナンシーの本の中でも私が好きなのが、「ナンシー関の記憶スケッチ」。
街行く人などに、例えば「鶏」の絵を描いてもらうのだが、人間の記憶がいかにいい加減なものか・・
もうとても「鶏」とは思えない、抱腹絶倒の絵が並ぶのだが、その絵に添えられたナンシーの一言批評があまりにも的確で、涙を流してヒーヒー笑い転げたものだ。
そういう言葉のセンスが彼女は素晴らしかった。

ナンシー関は決してメイン・ストリームの人ではないと思う。
それなのに「週刊朝日」や「週刊文春」のようなメジャーな雑誌のコラムニストとして活躍してしまった。
そして超多忙になった。
それが彼女の夭折の原因だった。

ただこの本の著者に問いたい。
ナンシー関に愛情を持ってこれを書いたのか?
ナンシーが結婚しなかったのを、彼女の容姿が原因だったと何度も何度も書いているが、女性に対してそういう視線しか持てないなんて悲しいし、そのような短絡的な見方は優れた書き手とは認めがたい。
ナンシー関という大きな才能の持ち主に対して、失礼だと思う。
10年という節目にナンシー関とまた会えてうれしかったが、この点に対しては納得できない。
posted by 北杜の星 at 07:18| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月21日

吉田修一「太陽は動かない」

驚いたのなんのって。
だってこれ、スパイ小説。
吉田修一がスパイ小説を書くなどとは、想像もしていなかった。
「悪人」「横道世之介」で新しい読者を掴んだ彼が、また新たなジャンルに乗り出したのか・・

旧ソ連が崩壊して、エスピオナージュ小説は衰勢となった感がある。
スパイといえばKGBとCIAという図式が薄れたからか。(実際にはいまだしのぎを削っているのだけれど)。
この「太陽は動かない」に登場するスパイもイデオロギー的なスパイではなく、産業スパイが主人公となっている。
どちらかの国や企業のスパイというのでもなくて、集めた情報を有利に買ってくれるほうに売るという、まぁ美意識がないとも言えるスパイなのだ。

AN通信というのは隠れ蓑。実際は最新テクノロジーなどの情報を集める組織だ。
鷹野一彦はその組織で働いているのだが、ある情報のまわりでいろいろ暗躍する人物がいることを察知する。
それは自然エネルギーの開発に関するもので、これまでの100倍の効率の太陽光パネルや宇宙からのマイクロ波での発電という情報だった。
鷹野と彼の部下の田岡はその情報の収集に乗り出す・・

スパイ小説らしいスパイ小説だった。
大掛かりなアクションあり、謎の超美人が出たり、正義感あふれる一年生議員がいたり、鷹野を管理する影の人物がいたり、エンターテイメントとしてはなかなかのもの。
NHKがCNNのようなニュースネットワークを設立しようとして出来なかったという実話と、この組織の繋がりが少々弱い気はするが、ハラハラドキドキのさせ具合は絶妙かも。
この小説の登場人物のキャラを見ると、これはシリーズ化しておかしくないと思う。

エスピオナージュものを久しぶりで読んだ。
もう30年くらい前には、王道のル・カレやアーチャーなどを含めずいぶん読んでいた。
ラドラムやA・J・クィネルの国際陰謀小説も大好きだった。
とくにクィネルのクリーシーには夢中で、いつか必ずマルタ共和国のゴゾ島に行くぞ!と思ったものだ。
ゴゾでうさぎ料理を食べ、「ワイノット」とTONYを逆さ読みにした主がいるバー(実際にTONYさんがいるらしい)を覗きたいという望みは今も捨てきれないでいるのだけど、夫はマルタには興味がもてないようで、「行こう」とは言ってくれない。
マルタって公用語は国民投票で英語になったが、イタリアのすぐ近くなので、ラジオやテレビはイタリアの放送があるのでマルタの人はみんなイタリアア語を話すし、食べ物もイタリアン。
イタリア大好きな夫にも悪くないところだと思うのだけどなぁ。。
地中海文明、十字軍、マルタの騎士団など歴史の宝庫でもある。いつかいつか行きたい。
posted by 北杜の星 at 08:14| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月29日

柚月裕子「臨床真理」

少し前同じ作者の「検事の本懐」を読んで楽しめたので、彼女の別の何かをと、この「臨床真理」(臨床心理の間違いではありません)を選んだ。
これが第7回「このミステリーがすごい!大賞」を受賞したと帯にあったから。
このブログに何度か書いているのだが、私はミステリーが好きではない。ほとんどの場合読んだことを後悔する。
SFやファンタジーやホラーは嫌いじゃないのに、どうもミステリーとは肌が合わないのだ。

そして、これ。
私のミステリー嫌いに拍車がかかった。
「このミステリーがすごい!大賞」って、一体どんな賞なの?
どんな基準で選んで、選者が誰なのか?
信じられないくらいつまらなかった。
いくら新人とはいえ、あんまりな。
これは「このミステリーがひどい!大賞」の間違いじゃない?

ちょっとストーリーを書いてみると、
臨床心理士の美帆は司というある福祉施設に住む二十歳の青年を担当することになった。
同じ施設の少女が自殺したことを受け入れることができず、心を閉ざしたのだ。
司は人が話す言葉の色が見えるという。嘘や疑い、憎しみなどがその色によってわかるらしい。
美帆は司をなんとか救いたいと、少女の自殺の真相を探ることに・・

出だしはまぁまぁ。
それがだんだんとつまらなくなって、犯人が誰かという段階でそのつまらなさはほとんど限界に達した。
犯罪の内容があまりにおぞましいのも読んでいていやな気分になる。当然読後感は最悪。
ホント、これのどこを評価したのか私には理解できない。

ただ言えることは、柚月裕子という作家さん、これを書いたときよりは現在のほうが格段に進歩している。
「検事の本懐」は悪くなかったもの。
その進歩に免じて、次を読むかどうか。。決めかねています。

posted by 北杜の星 at 07:51| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月20日

よしもとばなな・中村うさぎ他/斉藤学「私のままでママをやる」


台風の被害は大丈夫でしたでしょうか?
ここ八ヶ岳の南麓でも、ものすごい雨が降りました。
でも風は思ったほどひどくなく、夫の作ったガレージの屋根は今回は無事でした。(昨年の台風では壊れてすっ飛んでしまったのです)。
昨日は私は東京でしたが、いつもより早い時間の列車で帰宅したので、中央線運転見合わせの憂き目にはあわずにすみました。
不運な乗客は一夜を列車内で過ごされたそうで、お気の毒です。
さて今日のブログはなかなか読みでのある対談集です。

このタイトルを見ると育児の本と勘違いする人が多いと思うが、子どものことは書いてあるけれどけっしてHow to 子育ての本ではない。
第一部と第二部にわかれていて、はじめにはよしもとばななと精神科医斉藤学の対談。
つぎが中村うさぎ、内田春菊、倉田真由美の3人と斉藤学との公開対談となっている。
また第二部には斎藤先生の患者さんたちとの治療ミーティングのようなものも含まれている。
私がとても面白いと思ったのが、第二部のほう。とくに中村うさぎの支配願望に興味をそそられた。
彼女は姿かたちはとても女らしいが、男性性が強い人間のようだ。

内田春菊の生い立ちはご存知の方も多いと思うが、義父からの性的虐待を受けたこと、それを止めようとしてくれなかった実母への不信感に包まれて生長した。27歳のときに決別して以来母には会っていない。
倉田真由美はごく普通の家庭に育ったものの、それでも母親との関係には微妙な点がある。
中村うさぎはとにかく父親と仲が悪かった。すぐに暴力をふるい支配的な父親とは性格が似ていて、「父親をとりこむ娘」として、母親を軽蔑してきたという。父親の代わりとなって母を殴ったことがあるという。

このなかで子どもを持たないのは中村うさぎただ一人。
彼女の子ども不要理由は、私の理由とよく似ている。
自分の欲望を満たすことで精一杯なので、子どものためになんか生きたくない」「〈出産は〉痛いし大変だ」・・
つまりとっても子ども的な理由なのである。
だからか中村うさぎの言うことには、うなづけることが多かった。
(こんな人間が親になってはいけないという見本のようなもので、少なくともそのことがわかっているだけマシかも)。

斉藤学先生とここで対談しているのは全員女性なので、「母性」や「女性性」について語られている。
しかし時代が変われば母性や女性性のありかたは変化する。
したがって「共依存」の実体にも変化が起こる。
アディクション(依存症)にはさまざまなアディクションがるが、世間への「共依存母」というとなにやら、よくできた母親像を思い浮かべるが、そうしたことにとらわれる時代は終わって、多様化した家族として、そんなものからは解放されて自由になってもいいのではないだろうか。

私は子どもを作らず夫婦別姓でずっと暮らしてきた。(今は籍を共にしたが、それでも夫の本籍地に組み入れられたのにはホゾを噛む思いをしている)
これまでずいぶんと「なぜ結婚しないの?」「なぜ子どもがいらないの」と聞かれてきた。
結婚したり子供を持つことに対して理由は聞かれないのに、フェアじゃないこと甚だしい。
なんて風通しの悪い保守的な国なのだろうとうんざりして暮らしてきた。
だから子どもを持たずゲイと結婚している中村うさぎのような人には、パチパチと拍手したくなるのだ。

みんな自分の生まれ育った家庭を引き摺って生長しているのだ。
こんな当たり前のことを思い知った対談集だった。
よしもとばななと斉藤学の対談は、総まとめって感じで、いかにもよしもとさんらしいもので、読んでいて彼女のあたたかさに安心感が持てた。
自分が母親になる前は、小説に書く母親を理想化して描いていたというくだりには、そんなものだろうなと理解できた。
これは母親だけでなく、女を知らない男性作家が女を書くときにも起こりがちなこと。

タイトルのイメージとは違うなかなかハードな読みものでした。
posted by 北杜の星 at 07:15| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月07日

山上徹「食文化とおもてなし」

人類の歴史は食べ物を得るためにあったといっても過言ではない。
ほとんどの時代を、我々は飢えて過ごしてきた。
「衣食足りて、礼節を知る」ということわざが日本にはあるが、やっと餓えなくても暮らせるようになった日本人、本当に「礼節を知る」ようになったのだろうか。

それはともかく、食がいきわたるようになって「食文化」が生まれ、やがて「おもてなし」がハレの日の慣習となっていった。
食文化はその土地土地の気候風土と切り離せない。だから「おもてなし」にも土地独特のおもてなし方がある。

この本は「食文化とおもてなし」というタイトルから受ける印象よりは少し学術的な気がする。
大きく分けて8つの章からなっている。
「日本の風土と食文化」「食生活の変貌と地域の食材」「おもてなしの心と京料理・日本料理」「年中行事のおもてなしと食文化」「祇園祭と祭礼のおもてなし」「五節句と冠婚葬祭のおもてなし」「能登の文化とおもてなしの輸出力」「宗教のタブーと食文化」。
京都に関する食とおもてなしが多いのは、著者が同志社女子大の特任教授であり、能登が出てくるのは彼が能登出身のため。

文化は伝統でもある。
だから著者は京都のハレとケについて多くのページを割いている。
しかし昨今、ファーストフードなどの安直な食べ物が世の中にたくさん出回っている。この傾向は多くなることはあれ減少はしないと思う。
土地固有の食べ物が消えていき、フランチャイズ店の同じものばかりとなっていくのは、とてもさみしい。

しかし一方で「道の駅」が人気となっていると聞く。
国土交通省と自治体で造る「道の駅」には、そのエリアで採れた物産が並んでいる。
私の住む北杜市の白州という町の「白州・道の駅」は週末になると他県ナンバーの車ですごい混雑ふりとなり、新鮮で値段の安い野菜はあっというまに売れきれるし、無料で汲める南アルプスの天然水には長蛇の列だ。
ウィークデーには地元の人も結構行って、あれこれ買っている。
そういうのを見ると、まだまだ日本の食は大丈夫なのかなと希望がもてる。

「おもてなし」というととても大変そうだが、昔は、その大変なことをするのがハレの日の「おもてなし」だったのだろう。
私の父の実家は山口県の岩国の方だが、そこでは祭りなどの寄りの時には岩国寿司と呼ばれる押し寿司を大きな木枠で作った。一度に何升ものご飯を炊いた。銀シャリをたくさん炊くというのが、なによりの贅沢だったのだ。
母の実家は福山だがそこは岡山に近いせいか、祭り寿司と言われる、いわゆる散らし寿司(バラ寿司)。
必ず穴子や酢で〆たさよりなどの瀬戸内の小魚が入っていた。
押し寿司にしてもバラ寿司にしても材料費はともかくも、手間は相当なものだ。
しかしそれをあえてするのが「おもてなし」なのである。それがつまり「こころづくし」ということ。

我が家は食客が多いが、とてもとても「おもてなし」にはなっていない。
雑駁な性格なので、あるものでチャチャッと一緒に、という程度。
せめて「五節句」とかクリスマスくらいは、きちんとした「おもてなし」をしたいものだが。。
posted by 北杜の星 at 07:39| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月28日

山崎ナオコーラ「私の中の男の子」

「雪村には19歳まで性別がなかった。第二次性徴期はあったし、体は膨らんだし、性交の経験もしたが、性別はなかった。」

この冒頭の文章を読んだとき、「あれ、これって最近読んだ村田沙耶香の『ハコブネ』みたい」と思った。
表紙を見てみると帯には村田沙耶香の推薦文が書かれていた。
「ハコブネ」の主人公の一人は第二次性徴期すら否定し、自分を無性化しようと苦しんでいたが、「私の中の男の子」の雪村は女性性と男性性のバランスが複雑だ。

男の中にも女性性はあるし、女のなかにも男性性はある。
私の人間の好みで言うと、女性性の強い男性、男性性の強い女性に惹かれるところがある。
マッチョな男は苦手だし、あまりに女らしさの匂い立つ女には「かなわん」と思ってしまう。

19歳の女子大生雪村は作家である。
彼女は小説を書くときには、男でありたいと願っている。彼女の小説はいつも「俺」「僕」が主人公。
それが高じて著者近影のかわりに、編集者の紺野を使っているくらい。
紺野は雪村を作家として育てようと、いろいろサポートしている。
その紺野に雪村は異性愛を抱くようになる。

自分に必要なのが男という一つのセクシャリティだけなら問題は小さい。
単なる性同一性障害にすぎないからだ。
しかし雪村の場合は複雑だ。
小説を書くのは男。紺野を愛すのは女。
その複雑さは彼女を混乱させる。そして思いもよらない行動をとらせる。乳房を切除してしまうのだ。
(ここらあたりのストーリーの展開がよかったのかどうかは疑問)。

雪村にとって救いなのは、時田という男友達と理解し合い、親友になれたこと。
それは時田の大きな心のおかげかもしれないが、セクシャリティを超えたところで成り立つ人間関係に、ホッとするものがある。
後半ネパールの山に登るところとか、スポーツジムのインストラクターとの付き合いなど、バタバタっとラストにもってきましたという印象でちょっと納得しかねる。

この小説が成功か失敗かというと、申し訳ないが私は失敗作だと思う。
ただテーマはとても興味深いので、もっと練り直して別の作品に仕立てて欲しい。きっと面白い小説になることだろう。
「ハコブネ」の主人公達には感情移入ができたが、雪村にはできなかったというのは、彼女に魅力が今一つないからではないだろうか。

村田沙耶香にしても山崎ナオコーラにしてもこうした主題で書くということは、現在このことを自分の中で問題視する人間が増えているからだろうか。
posted by 北杜の星 at 07:34| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月18日

矢部武「アメリカのベジタリアンはなぜ太っているのか」

世界先進国の肥満順位が数ヶ月前発表された。
1位はもちろんアメリカ。
2位メキシコ、3位チリ、4位ニュージーランド、5位イギリス。
意外なことに「マンマの味」のパスタを食べるイタリア人は、ベスト・テンにも入っていない。
なんでもイタリア女性は以前より少しスリムになったそうだ。

痩せるためのダイエット方法はたくさんある。
そのなかでも、ベジタリアンになるのはちょっとインテリっぽくてカッコいい。
だから大好きな肉をやめて野菜を食べる人がアメリカでは増えているという。
しかし、なのである。
それでも彼らは依然と太っているのだ。なぜ?

この本のタイトルを見ると、いかにもダイエット本のようだが、そうではない。
著者の矢部武氏は15年以上の滞米生活の後帰国し、米紙の東京支局記者を経て、フリーのジャーナリストになった。
アメリカのことをよく知っている人だ。
その彼がアメリカの「建前」と「本音」など、アメリカ人の思考の矛盾をあぶりだすのがこの本。

能力主義なのになぜ外見を重視して整形をするのか?
キリスト教国なのになぜ戦争マニアなのか?
レディ・ファーストと言いながら実は男性社会なのはなぜなのか?
豊かなのになぜ格差が激しいのか?

どれも「そういえばそうだ。なぜなんだろう?」の疑問点ばかりだ。
さしてアメリカ好きではなく、どちらかというとヨーロッパ志向の私だからなのか、アメリカ人の人の良さや陽気さは時に単純さに感じられる。
ピカピカに白く輝く並びの良い歯。中年になってもシワのないつややかな肌。
アメリカ人のスタンダードはハリウッド的に思えてしかたない。
(ヨーロッパの女優さんは、シワもシミも隠さず、加齢をも演技に含ませて、実に堂々としてると思いませんか?私はこっちのほうが断然好き。もっともジーナ・ローランズは歳をとってなお素敵ですけど。)

このなかにも書いてあることで、私も同感なこと。
それは「なぜ明るく前向きじゃなければならないのか?」ということ。
いいこともあれば悪いこともあるのが人生。そうそういつも前ばかり向いていられない。
第一そんな人間ばかりだと、文学なんて成立しないよね。そんな社会なんて私はいやだ。

離婚するためにあれほど猛然と努力できるのなら、壊れた夫婦仲を取り戻す努力もしてみては?と言いたくなる時がある。
神様の前で誓ったくせに、そんなに簡単に離婚していいの?
そして新しいパートナーをゲットすることにこれまた猛然と努力するのだ。
あ〜ぁ、疲れる人たちだよね。

だけどこの本に出てくるほとんどの点で、だんだん日本もアメリカ化しつつあるのではないか。
このところお腹周りが気になる私も、気をつけなくっちゃ。
posted by 北杜の星 at 08:02| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月10日

由井りょう子「石巻赤十字病菌の100日間」

宮城県石巻市にある石巻赤十字病院には、3・11の震災直後から、たくさんの人びとが押し寄せた。
ロビーは簡易ベッドで埋め尽くされ、廊下にも病院スタッフが歩けないくらいの人だった。
病人やけが人だけではない。町でただ一箇所、電気が灯っている場所として、またトイレを借りようとしてやって来た人もたくさんいた。
そんな災害時に病院はなにをしたか、なにができたか、これは極限状態で医療関係者が行った最高の医療活動の記録である。

災害医療コーディネーターの責務を負う石井正医師のリーダーシップは驚嘆に値するとして、野戦病院化した阿鼻叫喚の医療現場に必要なのは、役割をきちんと果たせる医師や看護師、その他薬剤師、給食係などのコメディカルだが、石巻赤十字病院では彼らは役割以上のことをしてのけた。
自らも被災し、家族の安否さえ確認できないなか、目の前に現れる終わりのない患者たちに、精一杯できることをした。
だからといってこれは美談なんかではない。シビアな状態にあっても、自分の為すべきことを為した人たちのことなのだ。
時にそれは医療行為を超えることもあった。

食料がない、ガスが使えない、そんな給食室で料理を作ったスタッフたち。
病院に来られなくて近くの避難所で孤軍奮闘した看護師。
避難所を回って、薬を届けた薬剤師。
それでも手術や人工透析のために患者を他所の病院に回さなければならかった口惜しさ。

これを読むと使命感をもつ人間の強さをつくづく感じる。
プロの医療従事者だけではなく、まだ卵の看護学校生徒もじつに立派なのである。
私が同じ立場で、同じことができるだろうか?

日本という国は、政治家や「官」は本当に情けなくて、私はしばしば絶望的になるのだが、「民」は大丈夫、信頼できる。つまり普通の人間が素晴らしいということ。
「民」の底力は凄いものがある。
優先順位が何かを即座に判断し、でき得る限りのことをお互いにする勇気がここにはある。
日本ってまだまだ捨てたものじゃない。。
そう思えた貴重な本だった。

ただ震災と津波の被害だけなら、いつか必ず復興できると希望が湧くのだが、福島の原発があるために、復興に大きな影が差している。
まだ未解決な問題は山積しているのだ。
posted by 北杜の星 at 07:11| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月03日

柚月裕子「検事の本懐」

大阪地検の証拠改ざん事件や過去の数々の冤罪事件で、どうも検察によい印象をもてないところがある。
また私には、いわゆる社会派弁護士と呼ばれる法律家の秘書をしている友人がいて、彼女からいろいろと検察庁の理不尽さを聞いていることもあり、検事はワルモノと考えているふしがあるのだ。
でももちろん弁護士の中にも悪徳弁護士はいるのだから、一概に検事が悪で弁護士が善とは言えない。
この柚月裕子の「検事の本懐」を読めば、こんな立派な志の検事さんがいるのだと、小説の中の人物とはいえ、世の中に希望が持てる気がしてくる。

佐方貞人は二十代の若手弁護士。
いつも髪はくしゃくしゃ、スーツはよれよれ、ともすれば無能に見られるが、じつは直属の上司からは有能の評価が高い。
彼の父親は広島で弁護士をしていたが、顧問をしている会社の創業社長の遺産を横領したと実刑を受け、服役中に癌で亡くなっている。
佐方は祖父母によって育てられた過去を持つ。
担当する事件を彼はどう捜査し立件するのか。

5話からなる連作短編集。
県警上層部に渦巻く男同士の嫉妬、連続放火事件の真相と真犯人、卑劣な警察官から脅迫されている同級生の窮地を救う方法、特捜部を舞台にした検事の本当の正義とは、恩義に報うということはどういうことなのか。
それぞれに佐方貞人の「検事の本懐」が発揮される。
けれどこの短編集にメインテーマがあるとするならば、それは恩を忘れず恩に報いるということではないだろうか。
昔受けた恩義のために、横領という汚名を着ながらも秘密を守り通した佐方の父親の描き方にそれを感じる。

どんな職業にも、どんな人間にも「本懐」は大切なこと。
それが生きる指標となれば、その人の人生、そうは間違わなくてすむ。
煮え湯を飲まされたり、冷や飯を食わされたりすることがあるかもしれないが、でも真のプライドは保っていられるはずだ。
そういう意味で佐方の父親も佐方も、「本懐」を全うしたひとである。

「拳を握る」では政治献金事件を扱う東京特捜部が出てくるのだが、この特捜部は私が考えている検察そのもの。
初めから自分達でシナリオを書いて、そのとおりに犯人をつくり上げて逮捕しようとする・・
あぁ、怖い、怖い。


柚月裕子は初読みの作家さんだったが、なかなか骨太で読み応えがあった。
広島が舞台となっている箇所が多く、広島弁が私には懐かしかった。誰かが監修したのか、ちゃんとネイティヴな広島弁でした。
posted by 北杜の星 at 08:45| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月24日

読売新聞社会部「贖罪」

読売新聞で1年以上にわたって連載された「罪と罰」という特集をまとめ加筆したのがこの本。
裁判員制度が施行されてもうすぐ3年だが、「量刑」判断をどうすればよいかを考えるために、この特集は組まれた。
誰もが裁判員になる可能性がある現在、人が人を裁く、しかも法の素人の一般人が裁かなければいけないという困難さの、なにかの指標にこの本はなるだろうかと読み始めた。

犯罪を犯した人間が有罪となると、執行猶予は別として、刑務所に収監される。
それは「応報」と「教育矯正」を目的としているといわれている。
それでは刑期を終え出所すると、それで罪は消えるのだろうか。
刑期を終えたことが、すなわち罰の終わりとなるのだろうか。
例えば殺人を犯した加害者を、その被害者家族は許せるか。
忘れたくても忘れられない悲しみや苦しみや憎しみと、どう折り合いをつければいいのか。
「忘れたい」罪を犯した人間と、「忘れられない」被害者。
その溝は犯人が出所した後も、ずっと続く。

殺人のような取り返しのつかない罪を犯した人間のほうが、罪を悔いているようだ。
自分の罪が決して贖えないことを彼らは知っている。
それに較べると、薬物依存や性犯罪者は何度も同じことを繰り返す。
特に幼児を対象にした性犯罪者の再犯率の多さに目を奪われる。なんらかの脳の器質的欠陥があるのじゃないかと思うくらいだ。
こういう人間が出所するととてもじゃないが安心できないので、彼の行動を監視するのはある意味仕方ないことだろう。

けれど罪を自覚し、必死で自らを矯正しようとする人たちもたくさんいる。
そうした人たちに世間の風はやはり冷たい。
出所後の生きにくさこそが、「罰」なのではないかと思ってしまう。

最近司法の場では、厳刑を言い渡すことが多くなっている。
私は厳刑は犯罪の抑止力にはならないと考えているのだが、被害者と被害者家族へのシンパシーからなのか、世論も厳刑に賛成傾向が強くなっている。
アムネスティの会員だった私だが、「死刑制度廃絶」に関しては、アムネスティの会員間でも意見は分かれていた。
20年ほど前までは、死刑の判決が下っても執行はされなかった。それが後藤田法務大臣の頃から、死刑執行が増えた。
日本の法律に死刑がある限り、被害者は極刑を求めるのかもしれない。そしてそれが執行されることを望む。
でも贖罪の意味を考えるとき、死刑が果たして適切なのかどうかは疑問だ。
生きていてこその贖罪、生きているかぎりの贖罪という気がするのだけれど、加害者にとっても被害者にとってもやはりとても難しい問題である。
posted by 北杜の星 at 07:32| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。