2012年03月03日

柳美里「ピョンヤンの夏休み」

副題は「わたしが見た北朝鮮」。
作家柳美里が3回にわたって訪問した祖国北朝鮮のノンフィクション紀行本だ。
祖国といっても彼女は大韓民国籍。これまでなんどか韓国には行ったことはあるが北朝鮮訪問は初めて。
北と南に分断されているとはいえ、元は一つの国、一つの民族だ。そういう意味で北朝鮮も彼女の祖国には違いない。

1回目は2008年10月、2回目は2010年4月。どちらも一人だった。(同行者はいたが家族ではない)。
そして3回目は2010年8月、今度は10歳の息子と16歳年下の同居男性と一緒の旅行だった。
柳美里と息子と村上君、ずいぶんと変則的な「家族」である。
第一3人が違う苗字なのだから、入国手続きはややこしい。どんな関係かを質問されて疲れてしまう。
(妻子ある男性との婚姻外の息子は柳という苗字だが、日本風に「やなぎ」で国籍は日本)。

日本と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は国交がないので、直通の交通手段はもちろんない。
大連・瀋陽経由か北京経由、どちらも中国を経由して行くしかない。
彼女は「万景峰号」の一泊二日というルートで行きたかったらしいが、現在は日本政府による制裁のため就航していない。

1回目と2回めの訪朝で、柳美里は今度は是非息子とピョンヤンに来たいと思った。
ちょうど8月の夏休み、それは決行された。
一緒に歩きたいと思った大同江を歩き、白頭山に登り、朝鮮料理を食べた。
息子に見せたいものがたくさんあり、会わせたい人がたくさんいた。

そこには日本で報道されているような北朝鮮の暗さや餓えはどこにもない。
人々は楽しそうにそぞろ歩き、遊園地で遊んでいる。屋台の食べ物を頬張っている。
共産国のことだから、見せたいものしか見られないということはあるにしても(運転手がつき案内人がいる)、あの人たちがみんな「サクラ」とは思えない。
どうなっているんだ?!と狐に化かされたような気分になる。

柳美里は北朝鮮への旅でも、いつも東由多加とともにいる。
ご存知のように東氏は劇団東京キッドブラザーズの主宰者で、高校を中退した柳が15歳のときから生活を共にした男性である。
なんどか別れて他の人と暮らすことはあったし、この旅に行った息子は別の男性との間の子ども。
けれど東氏がガンの末期、柳が出産間近というシチュエーションで、共に暮らしていた。
この間のことは柳美里の「命」「魂」などの作品に詳しく描かれている。
「わたしは東由多加と死別したが、彼を失ったわけではない」と書くように、いつでもどこでも彼女のそばには彼がいる。

この本の中に鷺沢萌のことが出てきて、彼女のことをすっかり忘れてしまっていたのでハッとした。
そういえば鷺沢も在日の作家だった。
けれど在日であることを知って「ラッキー」と受け止めるような明るさがあったので、まさか自死してしまうとは思いもよらなかった。すごくショックだった。
柳美里の書いた鷺沢萌は、でも、人恋しくいつも寂しい人だったようだ。
posted by 北杜の星 at 09:21| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月23日

山田詠美「ジェントルマン」

陶然となって読み終わった。
これまでもずっと山田詠美を読んできてそのつど、なんて素敵な作家だろうと思っていたけれど、やはり彼女は恋愛を描くとその凄さが際立つ作家だ。
「ジェントルマン」には同性愛やゲイの売春や近親的な恋愛感情が全編にあるのだが、それらを汚らわしくなく描くのはさすが山田詠美。
その愛が背徳的であればあるほど、その切なさも増す。

漱太郎は眉目秀麗、文武両道、誰にも優しく誰からも敬愛される人物で、それは夢生と高校のクラスメートのときから変わらない。
そんな漱太郎を夢生と圭子だけは、どこか胡散臭いと感じ合い、同感覚を持った者同士ということで二人は以後親友となる。

ある日夢生は漱太郎の「悪」を目撃してしまう。
それは犯罪ともいうべきおぞましい罪だったのだが、夢生は激しく漱太郎に惹きつけらる。

やがて漱太郎はエリート銀行員となり、人も羨むような幸福な家庭を持つ。
圭子はバーのオーナーに。
夢生は華道家のアシスタントをしながら、圭子のバーを手伝っている。
三者それぞれの愛のかたちが、周りの人間を巻き込んで最終章へと進むのだが、それぞれみんな悲しい。

漱太郎の悪には目的や意図がない。反省や後悔もない。
あるのは衝動だけだ。
あれほどの完全なる「ジェントルマン」がなぜ衝動を自制できないのだろうか?
このことは私たちがニュースで耳にすることだが、地位も名誉もある人間が車内で痴漢行為を働いたり、優秀な学生が性犯罪を犯したりする。
頭で考えればそのような一瞬のことで人生をふいにしてしまうなんて愚かとわかるであろうに、そこには理性の欠片もないのだ。
どうしてなのか、理屈を超えるなにがそこにあるのか?快楽だけのためにするには、代償が大きすぎると思うのだけど。
捕まって初めて夢から覚めた気になるのかもしれない。
しかし漱太郎に快楽はあったのか?
彼の場合には快楽ですらなかったような気がする。もしかしたら代替行為だったのか。

テーマ、ストーリー、構成、人物、そしてなによりも文章。どこにも破綻がない小説だ。
山田詠美って、いま何度目かの絶頂期、成熟期にいるのじゃないかなと思わされた作品だった。
こんなにも完璧な小説が読めるなんて、とても幸せ。
私は女だからか、圭子の気持ちが心にいつまでも残った。
posted by 北杜の星 at 08:37| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月05日

楊逸「獅子頭」

我が家にもささやかなクリスマス・イルミネーションが灯りました。
規模がごく小さく地味ですが、これがあるのとないのとでは、クリスマス気分が違います。
世の中は節電モードだけど、3週間ほど一日数時間、大目に見てもらいましょう。

獅子頭という中国料理をご存知だろうか。
一言で言うと大きな肉団子。
獅子の頭に似ているからかそういう名前がついたみたいだが、中華スパイスの香りがして上からアンがとろりとかかっているものだ。
広い中国、どこでも獅子頭を食べるわけではないようで、上海あたりの料理だそうである。

主人公のニ順は中国東北部の食べるものも満足に無いような貧しい農家の息子。
そんな彼が雑技学校へ入学することになる。
雑技とは曲芸のようなもので、スターになると特別な途が拓かれる。
しかしニ順はある日事故を起こし、精神的なダメージとなって雑技学校を退くことになる。
でも公演で訪れた上海で食べた獅子頭の味に感激し、やがて料理の途に入るようになる。
それには妻の実家が料理店だったことが多いに影響している。
そうこうしているうちに、彼の獅子頭は評判となり、日本のレストランへ招聘されることに。
そのレストランで知り合った日本人女性の強引なアタックに、ニ順は中国に残した妻と子どもと別れることになるのだが・・

というのが大まかなストーリーなのだが、このニ順という男、読んでるこちらの背中がイガイガしてくるぐらい煮え切らない、というかすぐに押し流されてしまう軟弱な性格をしている。
二つの国の女性の間で揺れる男心・・といえばモテ男でカッコいいみたいだけど、全然冴えないのである。
帯分には「成長物語」とあるが、どうも最後までニ順が成長したとは考えにくい。
それに較べると日本人妻のはっきりさ加減と義母の優しさ、中国人妻の理屈に合った真っ当さが、やけに際立つ。
なんだろうね、母性愛をくすぐられる男っているのかも。

この本には中国料理に関するいろんな文化的なことも書かれていて、食に興味のある人には楽しい読みものだ。
それとここ10年くらいの中国事情もよくわかる。
朝日新聞の連載小説だったらしいが、新聞小説にしてはちょっとスカスカ過ぎるような気がする。
ま、獅子頭という料理自体が歯応えがないのだから、いいか。
posted by 北杜の星 at 07:22| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月28日

吉田修一「平成猿蟹合戦図」

「さるかに合戦」というのは、悪い猿が蟹を殺して、蟹の子どもたちに仕返しされるというお話だったと記憶している。
つまり、因果応報というか復讐の成功だ。
この「平成猿蟹合戦図」にも、幾人かの復讐が軸となっている。
しかも現代にあってこの復讐も成就するのである。しかもとても爽やかに。

新宿歌舞伎町の雑居ビルのすき間に、美月という若い女性が赤ん坊を抱えて座っていた。
ホストになった夫の朋生を探して、長崎の五島から出てきたのだ。
韓国バーのバーテンダーの新平が見かねて、自分の部屋につれて帰ってやった。
新平は明るく優しい気のいい男の子。でもちょっと軽薄。
その新平がひき逃げを目撃した。
新聞に載った写真を見て彼は驚く。自分の見たひき逃げ犯人とはまったくの別人だったからである。
しかももっと驚いたことには、真犯人は湊という人気チェリストだったのだ。
新平は朋生と一緒に、湊を強請ることに・・

歌舞伎町に暮らす人間たちと、復讐に関わる家族が繋がり、舞台は歌舞伎町から秋田へと移る。
前半と較べると後半はかなりニュアンスが変わって、思いがけない展開を見せる。
登場人物が多くて、大丈夫かな?と心配したけど、うまく整理されていてホッとした。

酷いことをされたら、された方は覚えている。ずっとずっと覚えている。
そして暗い想念の中で、復讐心を燃やす。
でもこんなに復讐が成功していいものか?
良い子の教育に悪いのではないか?
と思わぬでもないけれど、時にはこんな胸のスク物語があってもいいじゃないかとも思う。
それくらい、このお話は爽やかだ。

「悪人」で悪を取り上げた吉田修一が、ここでは「悪」に対する「復讐」を軽いかたちで書いている。
ミステリーのようにも読める、エンタメ作品といったら、吉田修一は不本意かもしれないけれど。

posted by 北杜の星 at 07:46| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月28日

山崎ナオコーラ「ニキの屈辱」

山崎ナオコーラって面白い。
彼女の小説の人物の生理のありようが、私は好きだ。
この「ニキの屈辱」にも、彼女らしさが溢れている。
この作品は前回の該当者がいなかったときの芥川賞候補となっている。
たしかに受賞するほどの強さはないかもしれないが、充分堪能できる作品である。
ナオコーラという名前がどうも気に食わなくて、長く読んでこなかった私は、本当にもったいないことをしていたものだとつくづく反省。

人気写真家ニキのアシスタントとなった加賀美。
彼はニキから乱暴に扱われながらも、ニキを敬愛し、必死で仕事をこなしていた。
ニキは若い女性なので、メディアからは「女の子の写真家」として紹介されることが多いが、それに対していつも反感を覚えていた。
女であることを消し、一人の写真家でありたいニキ。
仕事相手には謙虚だが、加賀美には傲慢なニキ。そこには女を超越した写真家が居るはずだった。
しかし二人は恋愛関係に陥ってしまう。
加賀美の前でだんだんと「女の子」になるニキ。
やがて加賀美には自分の仕事も入るようになり、次第に二人の力関係に変化がおきる・・

ここらあたりの変化は、ニキよりも加賀美の立場の変化がとてもわかりやすい。
つまり、恋愛のセオリーどうり。
すがってくるものは、振り払いたくなる、逃げ出したくなる。
ましてや、以前の好きだった傲慢さはなくなり、ひたすらかわいい女の子になったニキは、加賀美にはうっとうしい。

それだけならば「加賀美、ひどいよね。でも仕方ないか」で終わるのだが、最後で彼がニキに見せるニキを撮った写真の数々に、恋愛がかつてたしかに実存していたことに気づくところは、とってもせつなくて、山崎ナオコーラって巧い!と感嘆した。
「ニキの屈辱」には、恋愛がどういうものかが、乾きすぎでもなく湿りすぎでもなく描かれている秀作でした。
私のあとで読んだ夫も、「このところ読んだ中では、一番よかった。最後に向かうにつれだんだんよくなった」と言っていました。
posted by 北杜の星 at 07:32| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月13日

森まゆみ「おたがいさま」

1954年生まれの森まゆみさんが育った文京区の下町では、幼い頃「おたがいさま」という言葉が行き交っていた。
近所の子を預かり、ご飯を食べさせ風呂に入れることなど日常茶飯。
そんなときにお礼を言うと「おたがいさま」と返ってきた。
そして、ケチでもシミッタレでもない「もったいない」の精神が暮らしに息づいていた。

そんな文京区で地域ミニコミ誌「谷中・根津・千駄木」を女性3人で編集し続けた森さん。
離婚をし子供3人を抱えがむしゃらにできたのは、ご近所の「おたがいさま」の支えがあったからだ。
このエッセイ集にはそんな彼女の30年間の地域との関わりが書かれている。
彼女たちのミニコミ誌が評判になって「谷根千」には、ずいぶん観光客がやって来るようになった。若い人たちにも人気の町となっている。
関東大震災も戦争の空襲も免れた町には、昔の普通の日本人の気取らない生活が今もあるからだ。

このような町を森さんたちも応援した。
狂牛病の風評被害で町のお肉屋さんが困っているときには、肉屋さんのインタビューを載せたし、彼女自身せっせと肉屋さんで牛肉を買い続けた。
だから今彼女がその肉屋で100グラム500円の肉を注文すると、そっと1200円のを包んでくれるそうである。
肉屋さん、あのときの恩義を忘れていないのだ。

森さんはまた、日本全国の地域活動をしている人たちから呼ばれて講演をしたりシンポジウムに出席したりしている。そのほとんどがボランティアのようなものらしい。
そうして知り合いになった人たちと再会し、美味しいものを食べ、酒を飲み、町づくりを話し合う。
地方にも(地方だから)大手スーパーのショッピング・モールやチェーン飲食店が出現する。地域の小さな店がどう立ち向かえばいいのか。
彼女は地元の人たちと一緒に考える。

残念ながら「谷根千」は2009年、94号をもって終了した。
でもしっかりとその役割は果たしたと思う。ご苦労様と言ってさしあげたい。
森さんは100万人に5人という「原田病」にかかり、視力が悪くなり頭痛もするようになって、集中力が続かなくなったそうだ。
これからはもう少しゆっくり、ゆったりと、森さんでなくてはできないことを続けてもらいたいと思う。
「ゆるいシャツにゆるいズボン、雪駄履きという怪しいスタイルで町をふらふらするのが一番性に合っている」森さん。
エラソーにするのが大嫌いで、長いものには巻かれない、軸のぶれることのない彼女を、私はおおいに信頼しているのです。
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2011年09月23日

楊逸「陽だまりの幻想曲」

「ピラミッドの憂鬱」と「陽だまりの幻想曲」の二つの中篇が収められている。
楊逸は2007年「時が滲む朝」で芥川賞を受賞した在日中国人である。
あのときの受賞は、北京オリンピックのご祝儀的な感じが無きにしも非ずだったが、以後もずっと在日の中国人というスタンスで著作を続けている作家だ。

けれど「陽だまりの幻想曲」は、主人公達はみな日本人のようだ。
このあたり、これまでの楊逸と少し異なる。
「陽だまりの幻想曲」というタイトルは、この作品にぴったり。
陽だまりと思われた家庭は、実は幻想で、意外な結末へと話が展開する。
この作品に特徴的なのは、子ども以外の登場人物に、名前がないということ。
誰にでも起こりうるということなのか。

3歳の息子と優しい夫と暮らす「私」は、生活を一新させるために引越しをした。
大家の家には、猫が何十匹もいた。(これらの猫にはみななにやら雅な名前がついていて微笑ましい)。
隣家には年子の男の子達が6人。「私」の息子と同じ歳の子、もいて、お友達ができたと喜ぶ。
毎週金曜日になると、隣の家では凄まじい夫婦喧嘩が、そしてその後では夫婦の睦まじい様子が洩れ聞こえてくる。
「私」の家にはない激しさと熱さに、「私」は戸惑いながらもどこか羨ましく思うのだが、ある日・・
ちょっとミステリー仕立てっぽいお話だ。

でも私が好きだったのは、日本に住む中国人留学生の男の子二人の「ピラミッドの話」の方だ。
ちょっと前まで、中国人留学生が主人公の小説と言えば、貧しいながらも一生懸命勉強する大変さを描いたものだったが、現在の中国人のリッチさを示すように、この作品の男の子は、なんと一ヶ月25万円の仕送りを親から受けているのだ。
(このお金の出所が、ゆくゆく問題になるのだけれども)。
ブランド品を日本人のガールフレンドに買ってあげたり、豪華なステーキを食べたり、あぁ時代が変わったんだなとつくづく実感する。
それでもなんとか日本社会に馴染もうと就活し、正社員の座を射止める。
(いまどきは、日本人より中国人の方が就職するのが易ししような気がした)。
ようやく落ち着くかと思えた彼らの生活は、本国からの知らせで意図しない方向へと流れてゆく。

日本と中国の世相の狭間で、いろいろ考えながら生きる若者たちに、どこに暮らそうが頑張れとエールを送りたくなる、そんな作品だった。
(二人とも、おバカさんなのだけどね)。
posted by 北杜の星 at 08:17| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月21日

吉村昭「星への旅」

「星への旅」、なんてきれいなタイトルだろうか。
しかしこれは怖い本だ。
特にラストはぞくぞくするくらい。
文章が端正なだけに、その怖さがよけい際立つ。

予備校生の圭一はある日自分と同じように無為の日々を過ごしている若者達に会う。
圭一と同じ予備校生、定時制高校生、画塾生、美容師の卵・・
彼らには生きる目的がない。将来がまったく見えてこない。
そんな彼らは、誰が言い出したのか死出の旅にでることになった。集団自殺である。
トラックを借りて来て、途中まで男性一人と女性二人を同乗させ(彼らも自殺志願)、北を目指す。
一歩一歩、死に近づく様子が不気味だ。
そして着いたのが、海辺の村だった・・

暗いです。重いです。
読みたくないなぁと思いながらも、なにかに引き摺られるように読み終わった。
現在は、ネットを通して集まって集団自殺する人間たちがいるが、圭一たちもそれに近い。
圭一たちは、死ぬべき理由があるわけではないのだ。
ただみんなが一緒にいることで、「イチ抜けた」とは言い出せないところが圭一にはあったような気がする。
それは若さゆえの見栄やつっぱりだったかもしれない。
ぎりぎりのところで心変わりしないような一蓮托生の自殺の方法に、怖気を感じた。

こんなテーマの小説を、なぜまだ若かった吉村昭が書いたのか。
ここには後の資料を探しつくして書いた歴史小説家とはまったく違う吉村昭がいる。純文学そのものだ。
読んでいる間じゅう、彼らの居る光景が映像的に目に浮かぶ。それは文章の素晴らしさだ。
この1966年の作品は、太宰治賞を受賞している。これが実質的な吉村昭の作家としてのデビュー作と言われている。
posted by 北杜の星 at 07:40| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月09日

よしもとばなな「ジュージュー」

下町のステーキとハンバーグの店「ジュージュー」。
祖父の代から、父母が引き継ぎ、母亡き後は娘のみっちゃんが父と働いている。
事情があって一緒に育った進一が、父とともに厨房で料理を作っている。
この小さな店に集う人々。
みなそれぞれ喪失の過去をもちながら生きている。
それでも世界は美しい。限りなく美しい。

最初はよしもとさんの悪い癖のダラダラ文章が気になったけど、読んでいくうちにそんなことは忘れていた。
文体や文章だけではなくて、小説には「伝えたいこと」の大きさや強さがダイレクトに響く大切さもあるのだと思った。
舞台が「ステーキとハンバーグ屋さん」ということに、意味がある。
そしてこの小説の中のいくつもの「死」。

私たちは肉を食べる。
人間は祝祭日には動物を屠り、その肉を食べてきた歴史をもっている。
マクロビオティックでは、玄米菜食を唱えるが、人間が動物を殺しその肉をご馳走として食べるのには、どこかに理由があるはずだ。
よしもとさんはそれを詳しくは語っていないが、考えさせられる本だった。
植物の命なら奪ってよくて、動物だから殺してはいけない・・そんな単純なことではないなにかがきっとある。

この本の装画は朝倉世界一という漫画家が書いている。
私は漫画を読まないので知らないが、吉本さんは昔ほんとうに落ち込んでいたときに、朝倉世界一の「地獄のサラミちゃん」を読んで、慰められ力づけられたという。
この「ジュージュー」は朝倉氏に捧げられている。
また小説は町田康の詩「どうにかなる」から始まっている。これが私を「ま、いいか」と力まない力を与えてくれる。

いつも吉本さんの本を読むと、ほんわかとハッピーになる。
こんな作家は他にそうはいない。
少々文章に気になるところがあっても、そんなことなんでもないこと。
読むと誰でも「ジュージュー」で大きなハンバーグが食べたくなる。。
posted by 北杜の星 at 07:27| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月28日

文藝春秋9月臨時増刊号「吉村昭が伝えたかったこと」

吉村昭が逝って5年。
最後の入院時、「もう、死ぬ」と自分でカテーテルを引き抜いたことは、私には驚きではなかった。
若い頃から死と向き合ってきた「吉村昭らしい」という思いが強かった。
3・11以降、彼の書いた「三陸海岸大津波」と「関東大震災」がよく読まれているという。
彼の小説には二つの軸がある。
一つは、幾度か芥川賞候補となったように、純文学系の短篇を主とした小説。
もう一つは、史実に忠実な歴史もの。
この歴史ものを書くときには、出版社に資料を頼むのではなく、どんなに小さなことでも自分の足で歩き、見て、現地の人々に取材した。
私はほとんどこうした小説、とくに戦争に関しての本は読んでいないのだが、彼の私小説的な短篇やエッセイが大好きだった。
そこには、見事なとしか言いようのない、一人の人間がいたからだ。

今、吉村昭の「三陸海岸大津波」や「関東大震災」が読まれているのは、史実の確かさからだと思う。
明治29年には、50メートルの津波が押し寄せているのだ。
今回の津波被害が「想定外」ではないことが、これでわかる。
また昭和8年にも大津波が襲っている。
政府が提案した高台への町移転計画に、田老町人々は元の場所に留まり、町を再建する道を選んだという。
数十年おきに繰り返される災害に、どうか今度こそ、高地への移転が実現されることを祈りたい。

また吉村昭は、関東大震災のときの人々の避難の仕方についても書いている。
当時の人々は、家財一式を大八車に積んで避難したが、道は大渋滞となり、行き場を失い火に見舞われた。
大きな天災が起こったときには、道路を確保するために、車を使わないこと。
人命救助や消火活動のために、道を空けて置く事が肝心だそうだ。
また、リュックは可燃物なので、背負わないほうがいいともある。
私など、しっかりしたリュックを持っていないので、一つ買って備えておこうかと考えていたのだが、カチカチ山になってしまうのか。
とにかく、逃げるときには身一つで逃げること。それが生きのびる条件のようだ。

この特集号には、地震・津波に関するものと、吉村昭の人となりを紹介している。
妻で作家の津村節子へのロング・インタビューも載っている。(津村は「紅梅」という作品で夫の最後の日々を描いている)
その他、逢坂剛、沢木耕太郎、長部日出男らも寄稿している。
また、吉村昭の文学の出発点となった小説「星への旅」が収録されている。

「人生の達人」と吉村昭を敬している私には、とてもうれしい特集本でした。
posted by 北杜の星 at 08:07| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月28日

吉村昭「その人の想い出」

吉村昭というひとが私は好きだ。
作家吉村昭ではなく、一人の人間として、とても確かなものを感じていた。
作家としての彼には、膨大な資料を読み重ねて書いた作品が多く、そうしたジャンルに弱い私は彼の小説の良い読者とはいえないが、エッセイはよく読んできた。
そこにはいつも「人生の達人」と呼びたくなるような吉村昭がいた。
決して華々しくはない、むしろ地味な人。けれど彼のものごとや人を視る目、視方の姿勢にはいつも彼独特の深さがあった。
このエッセイには、そういう彼が出会った人たちへの想いが綴られている。

高名な作家であろうと無名の市井の人々であろうと、地道に精進する人への彼の畏敬の念は変わらない。
それはおそらく彼自身が自分を特別な存在と位置づけることがなかったためだと思う。
作家として小説を書いているが、それはあくまで職業であってエライことでもなんでもない・・
どのよな職業の中にも、苦労や喜びがあるということがわかっていた。

三浦哲郎、八木義徳、輪島功一、胃カメラを開発した技術者、御神輿を作る郷土史家、芸人、相撲取り、幼馴染、兄弟・・
さまざまな人たちとの出会いが、30年以上の年月の中に集められているこのエッセイには、吉村昭という人がよくでていると思う。
隣町に住んでいた私は、吉祥寺の街で吉村昭をお見かけしたことがあるが、本当にふつうの人だった。
そのふつうさがとても好ましかった。変な自意識など微塵も感じさせない普通さだった。
名を成した人でそういう人って、いるようでいないもの。
(池内紀氏も、実に普通の人だったが)。

吉行淳之介を「達人」という人は多い。私も吉行はその文学も人柄も(直接にはもちろん知らないが)好きだが、まったく別の意味で吉村昭も「達人中の達人」だと私は言いたい。
癌闘病中の最期、病室で自らチューブをすべて抜き取り、延命治療を拒否して逝ったひと。
「こういう人に わたしはなりたい」の見本のような人である。

posted by 北杜の星 at 07:17| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月06日

米田夕歌里「トロンプルイユの星」

イベント企画事務所で仕事をする独身女性サトミ。
彼女のまわりで、ものが消えていった。
最初はハッカ飴の缶だった。デスクの引き出しに入れたはずのそれがどこにも見当たらない。
次は、アルバイトで採用されるハーフの女の子だった。誰に尋ねてもそんな子は知らないと言われる。
企画していたプロジェクト、赤いファイル・・次々とサトミのまわりから、ものやひとが消えていった。
事務所の上司にそのことを話すと、彼だけがサトミの話に反応し、「それは僕のせいだ」と言う・・

第34回すばる文学賞受賞作品のこの「トロンブルイユの星」、夜寝る前にベッドで半分ほど読み、寝たのだけれど頭のどこかに「続きを読みたい」と覚醒していた部分があったのか、目覚めて、読了した。
ぼぅっとした頭にこの作品は、ものすごく面白かった。不思議な雰囲気に溢れていて、新しい小説経験だった。

最初はなんということのない、職場の描写だ。仕事は忙しくても、どこかゆるい感じ。
それが次々と、ものやひとが消えてゆくにしたがって「?」から「?!」に変化し、内容も文章も凝縮されてくる。
ここらあたりはまるで、ミステリーっぽい。もしくはSF。
だけど最後になっても、けっして「!」にはならない。そういう結末にはならないのだ。

不確実性の不安感の中で生きている私たちが、描かれているといえばいえるかもしれない。
けれどサトミは、消えてしまったものやひとの記憶すら失われているのだ。
手帳を見ても、携帯のアドレスを見ても、ものやひとの気配はどこにも残っていない。
それってある意味では、新しく生きなおせるということ・・
前世と今生の関係のような・・
失われた記憶だけど、細胞のどこかになにかの痕跡が残っている・・
だからこの作品には、失われた悲しみもあるけれど、希望もあるような。
読後感は沈むものではなかった。
サトミの前に現れれう人材コンサルティング会社の男が、現実とも非現実ともいえない役割で、効いている。
人物配置が悪くないし、小物の置き方も絶妙だった。

トロンプ・ルイユとは、騙し絵のことだそうだ。
壁などに、本当はない窓や扉の絵を描いて、あたかも窓があるように見せる絵。
私たちは騙し絵のなかで生きているのだろうか。
実際にはないのに、あると思い込んで、暮らしているのか。
この作品は、頭のスッキリした昼間にもう一度読んでみます。
posted by 北杜の星 at 07:36| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月31日

吉本由美「するめ映画館」

するめ、噛めば噛むほど味がでる。
地味だけどこんな味のある映画を「するめ映画」と称し、同好の士たちが語り合うのがこの本。
10人の顔ぶれはまさにツワモノ揃い。
村上春樹、都築響一、中野翠、坂川栄治、武田花、安西水丸、リリー・フランキー、糸井重里、川本三郎、そして最後に御大登場、和田誠である。和田誠は吉本由美、村上春樹と対談しているのだが、観た映画の記憶力たるやものすごいものがあって、ただただ脱帽。

たしかに彼らが薦める映画は、メジャー映画ではない。
でも監督や俳優はただものではないし、たんにヒットしなかったというだけ。作品は素晴らしい。
これは好き嫌いとしかいいようがないのだけれど、私はハリウッド製の映画が好きじゃない。
ここをこう押せばこうなりますよ、の作りがあざといというか幼稚なものが多いから。
私の友人がハリウッド映画を評してこう言ったことがあって、うまいなぁと笑ってしまったのだが「ハリウッド映画って、ちょっとのどが渇いたなと思ったら、頭からバサッとバケツ一杯の水をかけられた、そんな感じ」と。ホント、そうですね。
でもアメリカB級映画、例えばハーウ゛ェイ・カイテルがでるようなのは嫌いじゃないし、カサヴェテス監督(お父さんのほうです)は大好きだ。

私はいつも中野翠の感覚が気に入っているのだけど、今回の対談でもなかなかの映画を語っていた。
「愛と宿命の泉」というフランス映画で、イヴ・モンタン、ジェラール・ドパルデュー、エマニュエル・ベアール(すごく若い頃)らの有名俳優が出演しているわりには知られていないのだが、第一章と第二章にわかれているもので、私ももう20年以上前に一度観ただけなのでディテールは覚えていないのだが、観終わった後いつまでも心に留まったものが去らなかった記憶がある。
中野さんはもっと軽めのねじれ方をする映画が好きかと思ったので、これを取り上げるとは意外だった。
これを読んでいるうちにもう一度観たくなって調べると、レンタルでDVDがあった!早速予約リストに入れた。
予約リストといえば、村上春樹のお奨めが「若草の萌える頃」で、これは知ってはいたが観ていなかったので、これも入れた。
村上さんが好きな映画というのはどんなものか、興味があったから。

目の持病のため映画館で映画が観れなくなってかなり経つ。今はもっぱら家でDVDなのでつまらない。
私は映画も好きだけど映画館も好きだったんだな。
だけどこの前の日曜日には、原発の廃棄物を地中深く埋めるという「100000年後の安全」というフィンランドのドキュメンタリー映画を山梨笛吹市の「テアトル石和」という映画館に観に行った。
この映画館がなんとも、まぁ、驚きの映画館だったのだ。
大正というか昭和というかレトロといえば言葉は良いがただ古い。だけど不思議な雰囲気を持っているのだ。
住宅街だけど田舎の住宅街の真ん中にあって、隣は草ボーボーの駐車場。
チケット売り場もトイレも軽食コーナーも、一度見ると夢に出てきそう・・
そしてホールを猫が悠々とのし歩いている。
よく頑張っているよ。お客さんは私たちを入れて10人ほど。
オーナーがまたいいのだ。愛想が良くもないし悪くもない。全然マニアックな感じではなくって、ごくごくフツーのおじさん。
この映画館を守り抜きます!なんて意気込みマンマンではない。でもきっと静かな想いがあるんだろうな。
そう、私、この「テアトル石和」に惚れちゃったのです!
ここは是非、片桐はいりさんに教えてあげたい。だって彼女、地方の古い映画館や劇場を探訪するのが趣味らしいから。
彼女もきっと一目で好きになるに違いない。

それにつけても私と友人、「テアトル石和」によく無事にたどり着けたもんだ。
台風が近づく豪雨の中、ナビなどない軽トラで地図を見ながら、「まさかこんなところに映画館があるわけないよね?」と不安にかられながらやっと着いたときは、開演2分前でした。

posted by 北杜の星 at 07:36| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月27日

吉田重人・岡ノ谷一夫「ハダカデバネズミ」

ハダカデバネズミ!
なんて気の毒な名前をつけられてしまったのか。身も蓋もないとはこのこと。
だけど姿を見るとやはりハダカデバネズミとしか呼びようがないのだ。
裸で出っ歯の鼠。
まぁ一見グロテスクといえばグロテスクな哺乳類だ。
しかしこの本の著者たちは、このハダカデバネズミに相当に肩入れしているようなのだ。

岡ノ谷一夫は日本理化学研究所で、動物の脳と言語コミュニケーションを研究している。
吉田重人は岡ノ谷の研究室の研究員で、ハダカデバネズミを研究対象としている。
ハダカデバネズミの飼育に関わっているのは吉田だけではなく、研究室に他に数人の院生や学生がいるそうだ。
この本は、ハダカデバネズミという「愛らしい」動物のちょっとしたミラクル・ワールドを紹介したもの。
最初グロテスクと思った人も、彼らのことを知ると必ずや「愛する」ようになること疑いなし。
一度もホンモノをっ見たことのない私でも、これを読むと、見に行きたいと思う。(本の後部にハダカデバネズミが見られる動物園などの施設名が載っている)。

ハダカデバネズミは、蜂や蟻のように女王様が君臨する社会で暮らしている。
住む穴は地下に3キロも延びる事があるそうだ。
生殖のためのオスが2,3匹、あとは普段はゴロゴロするだけの兵隊と、ふとん係。
兵隊は戦わない。天敵の蛇が穴に入り込むと、抵抗せずにただ食べられるだけの存在だ。他のファミリーのネズミが潜り込もうとするときだけ、少し戦う。
ふとん係というのは、女王が子を生むと、その子のために言葉どおり敷きふとんとなるだけ。
兵隊もふとん係りもつらい人生のようだが、彼らにそういう思いはないみたいで、女王だってオスだって、勢力争いは大変そう。

千葉大時代から始まったハダカデバネズミの飼育研究。
シカゴから岡ノ谷がもって帰った6匹のうち3匹がなぜか死んでしまう。
南アフリカから送られた30匹の大コロニーも半分が感染症で死んでしまった。動物飼育は難しい。
このデバネズミ、けっこう神経質で、大学祭の騒音にずいぶんとダメージを受けたそうである。

なぜハダカデバネズミなのか?
それは、彼らの穴での音声コミュニケーション、つまり鳴き声、鳴き方が興味深いからだ。
言語を持つのは人間だけと言われるが、小鳥にもハダカデバネズミにも彼らの脳になんらかの言語コミュニケーションが存在していたら?
面白そうではないか、私だって知りたいと思う。

最近では、岡ノ谷先生は名を知られるようになって、作家の小川洋子との対談集「言葉の誕生を科学する」が出版されている。
岡ノ谷ファンの私は、とてもうれしい。
独特の世界を言葉で創りあげる小川洋子と岡ノ谷先生がどんな話をしているのか。。必ず読みます。
posted by 北杜の星 at 07:27| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月20日

山崎ナオコーラ・他「女が読む太宰治」

2009年、太宰治生誕100年を記念して出されたこの本は、12人の女性作家(女優や精神科医などを含む)が太宰を論じているもの。
この企画が面白いのは、執筆人が必ずしも太宰ファンというわけではないところだ。
はっきり「好きでない」と書いている人もいるし、「あまり知らない」という人もいる。どういう人選の仕方でこうなったかはわからないが、太宰リスペクトの変な力が入っていないのが好ましい。

佐藤江梨子、山崎ナオコーラ、西加奈子、雨宮処凛、津村記久子、辛酸なめ子、香山リカ、平安寿子、井上荒野、中沢けい、太田治子。高田理惠子。
彼女達が「グッド・バイ」「駈込み訴え」「皮膚と心」「トカトントン」「富嶽百景」「人間失格」「女生徒」「ヴィヨンの妻」「おさん」「津軽」「千代女」「眉山」について書いている。
佐藤江梨子は未完に終わった「グッド・バイ」の続きを書いちゃいました。

私の太宰・・ということで言えば、私も若かったある時期は太宰を読んだ。読んで友人と語り合った。
太宰治という作家は、青春の通過儀礼のようなものではないだろうか。
青春が過ぎれば、あの若い自分なんてもう思い出したくもないように、太宰を読んだことを忘れてしまう。
大人になってまで、あんな自意識に振り回されるなんて、うっとうしくもはずかしいからだ。
だから、案外今の私の年齢なら、今一度太宰を再読できるのでは?とこれを読んで思った。

何週間か前、TVで「グッド・バイ」の朗読をしていた。夫がそれを聞きながらワッハッハと笑って言った。「太宰ってこんなに面白いんだぁ」と。
ちっとも文学少年でも文学青年でもなかった夫は、若い頃に太宰を読んだことはなかったのかもしれない。
確かに、なんとも言えない滑稽な可笑しさがあった。
だけど太宰って、読んでいるとあの「調子」が、ちょうどCMソングが耳について離れないように、体に沁み込むんですよね。
平安寿子もこの中で、「『女生徒』を読んで以来、かなり長い間、私の日記は太宰文になった」と書いている。
特に女性を主人公にした小説にその感が強い。あのやわらかい文体って、私は苦手だ。
もうだいぶ前になるが、官能小説の大家だった宇能鴻一郎の本を読んだとき、「この文体って、まるで太宰だ」と思ったことがあったなぁ。

「眉山」という作品は、何故だか私もよく覚えていて、だから高田理惠子のものはちょっと興味深かった。
太宰は自虐的なところもあるがそれはポーズで、かなり強い選民意識を持っていた人だと私は思う。「トシちゃん」への目線にそれを感じる。高田理惠子のそのあたりの書き方に、うなずけるものがあった。

女を高目線から見ていたに違いない太宰が、12人の女性達にアアダ、コウダと言われるのは、草葉の陰で忸怩たるものがあるのでは・・

posted by 北杜の星 at 07:11| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月25日

横田創「埋葬」

この本を一回読んだだけで理解できる人は、そうはいないと思う。
というか一回読んだ後で、すぐにまた読み直して確かめたくなるのだ。
私はこれを昼間に読み終え、ベッドに入って再読にかかり、結局朝の4時まで読みふけった。
横田創は初読みだが、なんという驚くべき小説、凄い作家なのか。

若い女と生後一年ほどの幼児が遺体で発見された。
自分が犯人と名乗り出た少年が逮捕され、死刑が求刑された。
しかし女の夫が手記を発表する。
妻は自分に一緒に死のうと心中を持ちかけたが、それができなかった。彼らを埋葬しようとしたが夜が明けてしまった。
という内容だった。
けれど少年はあくまでも自分が犯人で、死刑を望んでいると言い張る。

こう書くと、ミステリーか裁判ものかという感じだが、そうでは全然ない。
私もこの小説がどんなものか説明がしにくいのだが、これはなにを「埋葬」したかったか・・それは遺体などではなく、もっと別の何か。
その何かを「わかりにくく」つくり上げているのだ。
「わかりにくさ」のなかに、この小説の主題があるような気がする。

夫の告白の虚と実が最後まで読むと、ぼんやりとわかってくる。
しかし何が虚で何が実かの判断は、とても難しい。
この小説のありとあらゆる言葉のなかには、大きな意味があって、それらを記憶しておくと、「あぁ、あれはこういうことだったのか」と思うのだが、書かれたことが表すことと、書かれなかったことの背後にあるものを想像しながら読んだ。

とても巧妙な小説だ。
夫が公務員であること。妻の出自が謎であること。子どもに名前がないこと。二度の河口湖行き。廃墟のホテルの看板・・
とにかくすべてに「埋葬」を意図するものが隠されている。
何を埋葬したかったのか?埋葬は結局成功したのか?
第一章では考えもしなかったものが、第二章で見えてくる。静かで明晰な狂気が。

今年はまだ2月が終わりきっていないけれど、いろんなタイプの「面白い」本に出会っている。
エンターテイメントもあったし、純文学もあった。
私がこれを完全に理解しえているかどうかは覚束ないが、でもすごくすごく楽しめた本だったのは確か。
演劇でも映画でもない、小説というジャンルならではの作品だ。
それにしても、小説はまだまだ新しい試みができるものなのだと、小説の奥深さに驚いている。
posted by 北杜の星 at 08:32| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月25日

山地としてる「ブタとおっちゃん」

香川県の小さな町で養豚業を営む「おっちゃん」と1200頭のブタの写真集。
写真を撮ったのはプロのカメラマンではない。
仕事で「おっちゃん」と知り合い、そのブタへの愛情をカメラに収めずにはいられなくなり、気がつけば10年もの間「ブタとおっちゃん」を撮り続けていた一人の市職員である。
この写真集は以前に刊行されていていったんは廃刊になったものの、人気がジワリと出てきて昨年末に再刊された。
先週末のNHKブック・レビューで、作家のいしいしんじがこれを紹介していたので、今はご存知の方も多いかもしれない。

もう、ブタがかわいい!
おっちゃんがかわいい!
「ブタとおっちゃん」のめくるめくような愛情が見る者に伝わってくる。
なんて幸せそうなんだろう。
この幸せ感に、目がウルウルしてくる。

「おっちゃん」は養豚業者である。
どんなに可愛がっていようと、この写真集のブタたちは屠殺される運命にある。
・・そんなことは、わかっているよ。
でも、いいじゃないか。今こうして生きていて、今こんなに幸せならば。
せいいっぱい生きて、せいいっぱい愛してかわいがって、せいいっぱい幸せならば、それでいい。
それは現実の全肯定だ。いのちの全肯定だ。
仏教でいうところの刹那そのものなのだ。
だから見ていて、すごーく心打たれる。

いつもタバコを咥えていて、今にも灰が落ちそうな「おっちゃん」。
可愛がられるブタをうらやましそうに見ている牛。
犬もいる、猿もいる。
「おっちゃん」の奥さんももちろんいて、とっても素敵な笑顔だ。
動物も人間も、生きとし生けるものはみーんな一緒。
こんなふうに生活できる人の幸福感を思うと、ホント、涙が出る。
残念ながら「おっちゃん」の体調不良で、この養豚場はなくなってしまったらしい。

この山地さんの「ブタとおっちゃん」の写真展が、
2月10日から20日まで、東京渋谷区千駄ヶ谷のギャラリー「littlemore chika」で開かれます。(会期中は無休)。
このギャラリーは、私の夫の事務所から歩いて数分の距離。原宿の竹下口から徒歩数分。

是非行って、大きな写真で「ブタとおっちゃん」に会って来ようと思います。

posted by 北杜の星 at 07:57| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月09日

山田詠美「タイニーストーリーズ」

山田詠美、待望の短編集だ。
(ファンである私が待望していたのです)
タイニーストーリーズというタイトルどおり、21のごく短いお話が並んでいる。
ここにあるのは、ハッピーな楽しいお話ではない。
悪意の物語が大半だ。
嫉妬、憎しみ、恨み、復讐心などのマイナス感情が散りばめられている。
なのに、読後感が悪くないのは何故なのか?

人は、真昼の明るい太陽の下ばかりを歩いているわけではない。
振り払うことができなくて、時に自分でも持て余してしまうような暗い感情に包まれる。
解決方法がここに書かれているわけではないけれど、この小説集の悪意のバラエティの多さには、どこか安心してしまうところがある。
これも何故なのか?

どれもが山田詠美らしい文章と構成で、飽きさせない。
彼女らしいセクシーさもあるし。
すんなり読めるようで、じつは奥底深い。
深さを与えているのは、この本の中の五つの「GIと遊んだ話」があるためだと思う。
五つの話には、それぞれ別の主人公、別のシチュエーションがあるのだが、時に世間から顰蹙をかうGI、それも黒人との付き合いが、お気楽な遊びだけではないことを教えてくれる。
GIは兵である。兵とは戦争のための人間である。
古くはベトナム戦争、新しいところでは湾岸戦争に直面するGIとガールフレンドたち。
いつも死を孕む状況にいる彼らなのだ。

そういうことを「悪意」の短編の中に挟んでいることで、ちっぽけな「悪意」なんて、なんでもないよと言われているような気もする。
「文学界」に発表されたときに、いくつかは読んでいたのだけれど、こうしてまとまったものを読むと、これがたんなるタイニーストーリーズなんかではないとわかる。
素晴らしい一冊だった。

願わくば、こんなに新刊を待たせないで、もっと精出して書いて欲しい・・
posted by 北杜の星 at 08:09| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月24日

山崎ナオコーラ「ここに消えない会話がある」

劇みたいな小説だ。
職場に何人かの若者たちいて、とりとめのないことを会話している。
・・最初は退屈だった。
こうした会話がエンエン続くのかなと。
だって初めの頃は、それこそ同じ職場にいるという括りだけの会話なんだもの。
そういう種類のおしゃべりは私は苦手なのだ。
でもだんだんとページを繰るごとに、面白さが増してきた。
そして、これは劇ではなく、まさしく小説それもなかなかの小説だと思うようになった。

主な登場人物は6人。
主人公と思しき広田は京都出身。一見アキバ系。
佐々木はちょっとエラソーで、タメ口をきく。
岸は小説家志望らしい。
日焼けしている別所。
いつもふざけている魚住は、でも仕事ができる。
それから美人の津留崎。

会話と会話をつなぐ文章は簡潔きわまる。
だからこそ会話が際立つ。
とりとめのないような会話に、ときおり挟まれる人生の格言のようなものが、面白い。
とくに広田の、どこか醒めたところが、私は気に入った。

これだけの会話が成立するのだから、居心地のいい会社なんだろうと思う。
アルバイト募集の時には、クリエイティブな仕事とうたっていても、事実は単調で地味。
新聞のラジオ・テレビ欄を製作している職場なので、超忙しい。
居心地が良い職場で、とりとめのない会話でも、ちょっとした言葉や態度が気になる事だってある。
そこらへんの描写の按配も、よかった。

ほわりとしているようで、ぎゅっと凝縮された小説だ。
山崎ナオコーラはこれがまだ私にとって二作目の体験。
こんな題材をこんなふうに料ずるなんて、タダモノではないような・・楽しみです。

今夜はイヴ、明日はクリスマス・デイ。
どうぞみなさま、楽しいときをお過ごし下さい。
posted by 北杜の星 at 07:32| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月10日

yomyom編集部編「作家と猫のものがたり」

猫好き作家として思い出すのは、大佛次郎だ。
何十匹もの猫がいたのではないだろうか。
一枚の写真が忘れられない。
数えられないくらいの猫が部屋にいて、障子は破れ放題、襖もボロボロ、そんななかに大佛次郎が座っているものだ。
猫たち以上にとても満ち足りた顔で、机に向かっていた。
ああなれば、猫を飼っているのではなく、完全に猫が主で人間は従である。
でもうらやましかったなぁ。

世の中には「犬派」と「猫派」がいると言われている。
この中の小池真理子が書いているが、「猫派」は「犬派」の気持ちもわかるのだが、「犬派」は「猫派」を理解しないらしい。
忠実で飼い主の気持ちを推し量る犬に較べると、猫は気ままで呼んでも来ない。嫌なことは絶対拒否する。
「犬派」にすれば、そんな猫のどこがかわいいのかということだろう。
でも、猫を嫌いな人は猫を一度も飼ったことがない人だと思う。
一度でも猫と一緒に暮らせば、必ず猫の魅力がわかる!と私は疑わない。
あのサイズ、あの柔らかさ、あの優雅さとセクシーさ、あの陽だまりで眠る幸せそうな姿・・
ワガママだろうが、ひっかかれようが、すべてが耐えられる。

この本には10人の作家の「猫ものがたり」が語られている。
香山リカ(作家というより精神科医ですが)、小池真理子、最相葉月、島本理生、谷村志穂、乃南アサ、平松洋子、向田和子、村山由佳、森まゆみ。
彼女たちが出会った猫、今はいなくなった猫、亡くなった姉の遺した猫、近所の猫・・
たくさんの写真が、どれも愛らしい。
そして彼女たちにとって、猫がどれほどの存在の大きさかがわかる。

ほとんどの猫がミックス、つまり雑種だ。
私も猫は雑種が一番好き。
ただ向田邦子だけが、シャム猫やコラットなどの血統種が好きだったようで、写真を見るとさすがに「高貴」。
森まゆみの猫たちは、谷中周辺を徘徊する猫。
そりゃ、下町には猫ですよね。
下町といえば、長屋の前に所狭しと並べられた植木鉢。その植木鉢の間に置かれた猫のおしっこ除けのペットボトル。
それを横目でチラリともせず歩き回る猫たち・・
いい風景だ。
猫がいない町なんて、人間だって住みにくいにきまっている。

最近、私の知人が猫を亡くした。
チャンドラーという名前は、レイモンド・チャンドラーからかと思ったがそうではなくて、サンスクリット語で「月」の意味だそうだ。
ハクビシンと闘い重傷を負ったのが、直接の死因だったらしい。
わが家のハッチと同じ15歳だった。
最後に会ったとき、玄関まで来てきちんと座って私を見送ってくれた。
知人にはなんと言って慰めていいかわからない。
彼女は肉親の縁に薄い人で、これまでの人生でチャンドラーとの生活がもっとも長かったという。
チャンドラーのフードは、ハッチが頂いて、毎日美味しく食べています。
チャンドラー、どうぞ安らかに・・
posted by 北杜の星 at 08:01| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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