2017年05月16日

若山曜子「ガトー・インビジブル」

料理本です。
副頽には「果物や野菜のスライスを重ねた断層の美しいケーキ」とある。
これをライブラリーのネットの新刊本紹介で読んだ時、「あ、簡単かも」とピピッときた。

以前はよくケーキを作ったものだ。毎週必ず作っていた。
デコラティブなものはあまり食べたくないので、ほとんどが焼き菓子だったが、焼くときの家中に漂う匂いがなんとも幸せな気分で、食べるよりも作るのが楽しかったものだ。
プディングなどは一生分を20歳までに作ってしまった気がする。
今はお客さまでもないかぎりほとんど作ることは菜っくなったが、夫はきっと、作ってほしいのだと思う。
でも、ボールをたくさん使ったりするのは面倒。
これまでだって、ベイクドチーズケーキだってパイ生地だって、フードプロセッサーをガーっと回して作っていたんだもの、このトシになってややこしいのはご免蒙りたい。
もともとケーキ作りが好きな理由は、ご飯のおかずを失敗したら悲しいけど、お菓子なら失敗しても食べなければいいだけという気楽さがあったkらだもの。

これ、そういう意味で私にぴったり。
しかも切り口がとても美しい。
その美しさは素朴で、素材がそのまま見えるので安心感がある。
「ガトー・インビジブル」とは「見えないお菓子」という意味。
断面を切って始めて見えるケーキの正体。

まず生地を作る。
生地の材料は、卵・砂糖・薄力粉・バター・牛乳など。
バリエーションとして、チョコレートを加えたり、チーズを加えたり。
その生地のなかに、スライスしたりんごや洋梨や桃や柿などの果物、人参やグリーンアスパラやさつまいもなどの野菜をガガッと混ぜ込み、容器に果物や野菜を層になるように重ねて、生地を全部入れて、170度のオーブンで50分くらい焼くだけ。
私はがさつに、「ガガッ」とか書いたけど、生地と混ぜる時には果物を壊さないように優しく、また容器に入れる時もデリケートに扱うほうがいいみたい。
そうでないと、美しい断面にならないようだ。
(砂糖はグラニュー糖と書いてあるが、私は白い砂糖は使いたくないので、ビート・グラニュー糖を使うつもり。少々色が汚くなっても、自分が食べるんだもの平気)。

砂糖を入れずに野菜とチーズなどを使えば、デザートではなくちょっとした食事にもなる。
一時、ケーク・サレが流行したが、ああいう感じで食べられる。

目が悪い私には現在、こういう本は見えないのだが、ケーキを作ってほしい夫が、レシピを読みあげてくれた。
その労に報いるためにも、何か明日にでも作ってあげよう。
「長芋と明太子」なんて作ったら、がっかりするだろうな。
「りんごといちご」か「バナナとくるみ」なら家にある。これでいこう!

posted by 北杜の星 at 07:20| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月23日

綿矢りさ「てのひらの京」

これまでこうも京都びっしりの綿矢りさがあっただろうか。
京都生まれの彼女にしては小説の舞台は京都ではなかったような気がする。
これはまるで離れた京都を懐かしむように、京都一色。

三姉妹の京の日常がが描かれる。
子どもがほしい、でもその前に結婚しなきゃ、の長女の綾香。
気の強い恋愛体質の次女羽依。
京都を離れて東京で就職したい大学院生の三女の凛。
彼女たちの京都の春夏秋冬。

彼女たちの母親は父親が定年になったときに、自分も「主婦定年宣言」をして、お客さまとかイベントの時など「趣味」程度でしか料理をしなくなった。
なので普段の夕食は三姉妹の当番制となった。
こういうお母さん、好きだな。
当番制ではあるけれど、羽依も凛も料理を敬遠していて、綾香の担当となることが多いようだ。

まるで京都の観光案内みたいなところがある。
祇園祭、大文字焼き、貴船、府立植物園(ここ、なかなかいいんですよ)・・
でも京都以外の人にとっては観光的かもしれないが、ここに住み、小さい時からこれが日常の人はいるのだ。
ということがしみじみ、わかる小説でもある。

京都案内でもっともおかしかったのが、「伝統芸能」である京都の「いけず」に関する記述。
「いけず」って「芸」なのか。。
「いけず」とは意地悪のことなのだが、京の「いけず」はちょっと陰湿。
聞こえるか聞こえないかくらいの底意地の悪い言葉を、相手の背中でささやきかける。
ほのめかし、あてこすり、嫌味・・
ふつうはそれらは聞かなかったふりをして耐えるのだが、気の強い羽依は真向から立ち向かう。
なんだか拍手喝さいを送りたくなるが、こういうストレートなひとは、京都では生きにくいだろうなと思う。
私の知人にも「いけず」女性がいる。
彼女のあてこすりを、でも私は、面白がって観察しているところがあるので、私の方が「ひとが悪い」のかも知らない。
それでも時にはこちらの機嫌の悪いときには、羽依のように啖呵を切ってしまうことがある。
つくづく短気で人間のできていない私なんですね。
だけど綿矢りさは「いけず」は京女の専売特許ではなく、京男の「いけず」もなかなかのものだと書いている。

こういうふうに、京都を愛しながらも、京都の欠点を揶揄気味に書いているところが面白い。
それにしても「あれ?」と感じたのは、京都弁って耳で聞くと「はんなり」「しっとり」柔らかいののだけど、文字で書くと結構コテコテ。
関西弁とひとくくりにされてもおかしくないほどのコテコテさなのだ。
どうして耳から入ると、あんなにやさしいそうに聞こえるんだろう?
私は数年関西に住んだので、京都、神戸、大阪、和歌山、滋賀と、それぞれのニュアンスの違いはわかっているつもりだったけど、話言葉ではなく、書き言葉での「近さ」には気づいていなかったのかもしれない。

大観光地の京都だけど、そこに住むひとたちにとっての自分たちだけの祇園祭も大文字焼きもあるんだなと、他所の人間んたちが邪魔しているような申し訳ない気持ちになる。
祭りとは本来、そこに住むひとのためのものなんですよね。
観光のためではなくて、祈りが込められたものなのだと思う。
綾香、羽依、凛の三姉妹の祈りと願いがどうなるのか。。
posted by 北杜の星 at 07:49| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月19日

和田隆昌「まさ我が家が!?」

災害はいつどこで起きるかわからない。
地震、豪雨、台風、竜巻(昔は竜巻の被害なんてあまりなかったのに)、雹、火災・・
我が身に降りかかったとき誰もが「まさか我が家が」と驚くのではないだろうか。
自然災害の多いこの国に住んでいてさえそうなのだ。
神戸淡路、東日本、そしてつい前の熊本地震が起きてもまだ、何の備えもしようとしない人がいるのは、自分には起こらないとタカをくくっているからではないだろうか。
でも災害は起こるんです。
だからせめて、起きた時の被害を最小限にするための努力をしておきたい。
NPO法人「防災防犯ネットパーク」理事で、災害危機管理アドバイサーの著者が、その心構えや方法を教えてくれるのがこの本。
21項目に分かれていて、天災だけではなく、山で危険動物に遭遇したらとかウィルス感染を防ぐ習慣や海や山のレジャーに潜む危険などについても書いている。

まず第1項目目から驚きがあった。
火災についてなのだが、みなさんはご存知でしたか?
火災原因の第一は、たばこの火の不始末でも天ぷら鍋でもストーブでもないのを。
ナント、「疑い」を含めると、じつに2割の火災が「放火」が原因だそうだ。
そんなに放火って多いのか?
知らなかった。。

放火なら気をつけようがないと思うのは早計で、防ぐ方法はある。
まず家の周囲にゴミなどの燃えやすいものを置かないこと。(ゴミ出しの日を守ろう)。
それと家の周りを明るくすることも大切なようで、放火犯は明るいところを避ける傾向にあるという。
ソーラー・ライトをアプローチや庭に置くのがいいですね。
(ソーラー・ライトはもし停電になったときに、室内に持ってこれるという利点もある)。

異常気象で豪雨や竜巻の被害が増えている。
もう異常ではなくて、これが恒常となってきている。
だからそれらにどう対処すべきか。
竜巻は別として、台風や豪雨は来るのが想定できるので、それに備える時間があるはず。
家廻りの掃除や整理を前もってしておくと、風で飛ばされる被害が防げる。
むやみに外に出ないことも大切だろう。排水口に落ちたり田んぼの見回りをしていて河に流されたりする事故があるが、南の離島など、台風の襲来が多い地方のほうが人的被害が少ないのは、彼らが慣れていて、何をすべきかしてはいけないかをよく知っているからだ。

地震は突然やって来て避けようがないが、せめて寝室に重い家具を置かないことや、家具が倒れないような配慮をすれば、家具での圧死は免れると思う。
防災グッズの準備を常にしておくのも大切。
もっともこんなことは誰もが知っていること。でもまだまだしていない人もいることだろう。
1981年以前に建てられた木造家屋には、自治体の補助をうけて耐震補強工事をすることを考えたほうがいいという。

災害が起きた時に、「近所に最低3人の助け合う、友人知人を作ろう」とこの本にあるが、本当にその通りだと思う。
posted by 北杜の星 at 07:21| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月30日

若山曜子「なんでもない日のフランス料理」

久しぶりに楽しい料理本に出会えた。
タイトルにあるように、この本で紹介されている料理は、フランス料理といってもトリュフやフォアグラを使う豪華なものではなく、ごく普通の食材で作る普段の料理だ。
日本人が鮨やすき焼きやしゃぶしゃぶを毎日食べているわけではないのと同じで、フランス人の日常の食卓だってシンプルなはず。
そうでなくてくても日本以上に仕事を持つ女性が多いフランス、そう時間がかかる凝ったものがつくれはしない。

じゃがいも、人参、トマト、豆・・
これなら日本でも近くのお店で手に入る。
ちょっと違うのはバターやクリームの量がやはり大目ということだが、でもまず、レシピ通りに一度つくってみてはどうでしょうか?
そのうえで、自分なりに量を調整するといいと思う。
最初から自己判断で材料を加減したり、手順を端折ったりをついしがちだけど、そうすると「違ったもの」になってしまう恐れがある。
私はそれを避けたいので、最初はまず著者を信用してレシピ通りにつくるようにしている。だって黄金比を見つけるまでには何度も試作をしているのだもの。
  それで好みの味にならないときに別の方法を考えればいい。

基本的な料理がほとんどなので、知っているものが多かった。
それでも充分楽しくて、「あ、これつくってみよう」と思わせるものがこの本の魅力だ。
「さやいんげんとマッシュルームのアーモンド和え」なんて、本当に美味しそうで、これからの季節、ぜひ試してみようと思う。
ともすれば生クリームの脂質を恐れるあまり使うのを控えてしまうが、白いんげんをよく食べる我が家には「白いんげんのクリーム煮」は新鮮かもしれない。白いんげんとクリームの白が美しそう。

肉料理も、「コックオヴァン」とか「牛肉と人参の赤ワイン煮」とか、フランスで伝統料理でありながら家庭で簡単につくれるのがうれしい。
(ちょうどこのGWに友人夫婦が来たので、牛すね肉を煮込みましたが好評でした)。
こういうときのコツは、飲まないからといってワインを安物にしないで、ちょっと美味しいワインを使うことでしょうね。
煮込みはタイマーをかけていればその間、他のことができるので、お客様のときには案外助かる。
(それでいて、手がかかったように見えるしね)。

料理を始める若い方などにプレゼントしたくなる本です。
posted by 北杜の星 at 07:25| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月27日

和田秀樹「この国の冷たさの正体」

著者の論説にこうも賛同できる本に久しぶりに出会った。
和田氏がこの朝日新書に書く「自己責任」について、私はこのところ腹だ立ってならなかったのだ。
最近とみに騒々しい「自己責任論」って、おかしくないですか?
なにかちょっとした間違いを徹底的に叩く風潮はまるで中世の魔女狩りのようだ。
不倫はいけないことかもしれないが、それは家族の問題であって、あなたに迷惑がかかるのか?と言いたい。
嫌いな政党の政治家であっても、あんな失言がそれほど問題になるのかと鼻白む。
みんな「正義」を振り回し過ぎではないのか?その「正義」が気持ち悪い。
もっともっと追究する大きな相手がいるのに、強者に対してはモノが申せない。
結局は弱者が弱者を叩いているだけ。

生活保護受給者に風当たりが厳しい。
不正受給がいかに悪質かテレビや新聞で報道している。
しかし不正受給者は受給者全体のほんの0.53パーセントなのである。
その他の人たちは生活が窮乏していて、生活保護がなくては暮らせないから受給しているのだ。
もちろん不正受給はわるいことだ。けれどどのようなシステムであってもどこの国であっても、不正を働くものは必ずいる。
それをすべての生活保護受給者に当てはめようとし、彼らが不当にお金を受給しているとの印象を国民に植え付けるのは誰なのか?
しっかり人生設計しなかったからだという「自己責任」で、彼らを誹謗するのは誰なのか?
福祉の予算を減らしたい国家や自治体、それに追従しみんなをミスリードするマスコミだと、和田氏は言う。私もまったくそう思う。
(ちなみに生活保護費(社会扶助費)のGDPに対する割合は、オーストラリア5.6、イギリス5,0に対し、日本は0.6パーセント、「生活保護費で国の財政が圧迫されると言うほど多くはない)。


生活保護受給者だけではない。自殺者、いじめを受ける者、うつ病患者、依存症患者・・
彼らに対しても「自己責任」の言葉が突き刺さる。
しかしもともと国家がこうまで冷たく仲たら、こうした社会問題は軽減されるはずである。
「この国の冷たさの正体」を見たと、つくづく感じたのは、テロの犠牲者に対する反応だった。
日本という国家は真剣に人質になった人たちを救出しようとはしなかったし、国民は「あんな状況の土地に行くからだ」と「自己責任」を追及した。
果ては「国に迷惑をかけるな」とまで言ったのである!
国は何のためにあるのだ?国民一人一人を護るためにあるのではないのか?

日本がこのような冷たい国になったのは、橋本龍太郎政権に始まり小泉政権で本格化したと和田氏は言う。
終身雇用制度、年功序列制度が消えた頃からだそうだ。
競争が激しくなり、それについていけない人たちが弱者となってしまった。
10人いれば1番から10番までの順位がつくのは当たり前だ。7.8.9.10番の人たちは「自己責任」が足りなかったというのだろうか。
誰もが優秀なわけではない。誰もが成功するわけではない。誰もが病気をすることだってある。
なぜそうしたつらさに、気持ちを添わせられないのだろう気亜。
国が冷たいということは、その国民が冷たいと言うこと。そんな国に住んでいると思うと悲しくなる。

和田秀樹氏は精神科医である。
心を病む人たちの病理が社会から発生していることがわかっているからこそ、こういう本が書ける。
彼は問題提起だけでなく、日本画どうすればよいかの提案もここでしているのだが、それには90%賛同します。
この本、777円です。是非読んでみてください。
posted by 北杜の星 at 07:06| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月05日

綿矢りさ・角田光代ほか「マナーの正体」

マナーの本というのは以前からいろんな人によって書かれている。
とくに冠婚葬祭に関しての本が多いようだが、その他にも「話し方」(これはNHKの女性アナウンサーの著書ということ多いですよね)、「服装」とかすべての分野にはマナーがあるみたいで、常識に欠ける私は戸惑ってしまうが、マナーってつまりは人間関係をスムーズにするもの。
そうこだわることはないが、無視しては人さまの顰蹙を買うこがある。
。でも私はいつもマナーの本を書いた人って、その後の人生が窮屈ではないかと心配になる。「マナーの本を書いていて、あれかよ」と言われそうだもの。
どんなに普段は上品な語り口の人であっても、時と場合によっては啖呵の一つも切りたくなることはあるはず。そんな時にお上品な言い方はかえって滑稽だ。
私の友人でとても育ちの良い人がいるのだが彼女は実に見事に「くそったれ!」と言い放つこtがあって、思わずパチパチと手をたたきたくなる。

でもこの本は「正しいマナー」ではなく「マナーの正体」というもので、作家、学者、歌手たちが自分がこだわる様々なケースでのマナーについて書いているもの。
だから「それって、どうなのよ」ということだって多々ある。
例えば酒井順子はティッシュペーパーのマナーとして、鼻をかんだティッシュをすぐには捨てられず何度も使うのが「マイ・マナー」だそうだが、「えーっ、バッチイ」と言いたくなるし、綿矢りさはホラー映画の怖いシーンでは目をかたくつむって決して見ないらしく、「それってなんのためにホラー観に行くの」という気になるけど、これはまぁわかるような。。

綿矢りさ、角田光代、酒井順子、さだまさし、福岡伸一、竹内久美子、鎌田實、乃南アサ、藤原正彦、高野秀行、東直子、荻野アンナ、逢坂剛。
モノを書く人ってどんなものを書いても個性がそのままでるんですね。
福岡さんは分子生物学者らしいし、綿矢りさは日常の小さな事柄に視線を持って書いている。鎌田さんはとってもヒューマン。
じつはこの中の著者の一人である荻野アンナという作家、私は大嫌いなんです。
小説家には大いなる敬意を抱く私ですが、彼女の芥川賞受賞作の「背負い水」は、歴代芥川賞のなかでもっとも酷いものだと思っていて、今でもあれは取り消してほしいくらい。
くだらないダジャレの連続をなぜ選者が評価したのかが理解できない。
ダジャレが嫌いなわけではない。むしろ絶妙なダジャレってセンスがあって面白い。
だけどダジャレというのは「音」で愉しむものであって、「字」ではない。活字でダジャレを連発されても鼻白むだけ。
どうしても受け付けない作家、それが荻野アンナだった。
でも「マナーの正体」のいくつかの彼女のエッセイ、案外、よかったんです。人生を知った人が書いた文章という印象があって、共感できる部分が多かった。
ごめんなさい、荻野さん。狭量な私でした。これから少し読んでみますね。

「正しいマナー」本は苦手の私でも、これは面白かったです。
ちなみに「マイ・マナー」があるとしたら、本の紹介のためのストーリーは詳細に書かないことかな。
本ブログに懇切丁寧に筋を書く人がいるが、あれって私はマナー違反だ思う。だってこれから読む人に悪いでしょ。
ミステリー小説のラストを書く人はいないだろうけど、ふつうの小説だって全部を書いたら興を削ぐ。
まったく書かないのもどんな本かわからないので、そこらへんの塩梅がムツカシイですが。。
posted by 北杜の星 at 07:03| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月19日

綿矢りさ「ウォーク・イン・クローゼット」

「いなか、の、すとーかー」と「ウォーク・イン・クローゼット」の2中編が収録されている。

えーっとですね、どちらも全然感情移入できないものでした。
「いなか、の、すとーかー」は、東京から地方の郷里の小さな町に戻った新進陶芸家に、年上の女性ストーカーがまつわりつくという話で、幼馴染の男友達と女友達が絡む。
途中の展開にも「?」だし、結末がこんなにベタでいいのかという感じ。
つまんなかなったなぁ。

それに輪をかけてつまんなかったのが表題の「宇オーク・イン・クローゼット」だ。
28歳のOL 早希はガーリーな服を着る。自分のテイストとようりも「対男用」の武装としての服を選んでいるからだ。
彼女には幼稚園の頃からの、今は人気タレントになっている友人のだりあがいる。当然、だりあはたくさんの服を持ち、そのウォーク・イン・クローゼットにはぎっしり服がぶら下がっている。
モノがあふれ、お金を出汁させすればいくらでも服が買える世の中。
早希とだりあの微妙な関係。
・・読んでいてどんどん空虚になってくる。
もちろんその空虚さを描くのがこの作品の目的なのなら、それは成功しているのかもしれないが、私の感じる空虚さはちょっと方向性が違う。

彼女たちのあまりにも社会意識のなさが虚しすぎるのだ。
18歳じゃない。28歳だよ。
バッグパッカーとして世界を旅する早希の男友達のユーヤにしても、世界をどういう目で見てるんだと言いたくなる。

私の若いころもそうだったのかなぁ?
早希やだりあのようなおバカさんだったのかなぁ?
いつだったか池澤夏樹が日本の若い作家の社会意識のなさに言及していたことがあるが、つくづく同感だ。
もちろん文学はなにも社会性が第一義ではない。個人的な問題をえがくものだと思う。
だが個人は社会と繋がっているし、社会なくしては存在できない。
社会に問題がなにもないのならまだしも、こんなにもたくさんの問題を抱えているときにこういう小説を読まされるのは嘆息してしまうよなぁ。
(個人が掘り下げられているわけでもないから、よけいつまんない)。
獄本野ばらの「お洋服」の小説にはまだ世相を切り取るなにかあったし、まったく個人的なことであってもどこかに時代性が感じられたんだけど。

今年初めての「投げ出したくなる本」でした。
これが2年ぶりの作品だなんてあんまりな。。綿矢さん、頑張ってください。
posted by 北杜の星 at 07:26| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月11日

若本洌「東京ブラックアウト」

同じ作者の「原発ホワイトアウト」はベストセラーとなったが、私は読んでいない。ライブラリーで予約しようとしたらあまりの予約数の多さにおののいて、早々にあきらめた。
こんな田舎ではめずらしい希望数で、多くの人が原発に関心があるのだなと思った。
そしてこの「東京ブラックアウト」、これも借り出すまでにずいぶんと待ってようやく読めた次第。
前作も今作も両方読んだ友人にどちらが怖い?と訊ねたら、「そりゃ、ホワイトよりブラックでしょ」と言われた。

たしかに怖かった。
怖さの理由はこれが完全フィクションではなく、かなりの部分がノン・フィクションであるという点だ。
現役キャリア官僚が覆面で書くからこそのリアリティと、ストーリーの展開が荒唐無稽とは感じられないところも怖い。

フクシマ原発事故からまだ4年、原発は再稼働されようとしている。
もしまた事故が起きた場合の避難計画はかなりズサンなもので、しかもその管轄を各省が押し付け合っている。住民の安全はお題目だけで、じっさいには機能しない計画は自治体に任せようとしているのだ。
九州の仙内原発周辺は過疎地で高齢者の住む家から家には距離がある。車を持たない人も多い。そんな彼らをどうすれば放射能からすくいだせるというのか。

やがて新潟の原発も再稼働された。
そして朝鮮半島からのテロリストが東京を含め広範囲に停電を起こした。
新潟の原発の原子炉冷却のための送電もストップ。豪雪と極寒のため緊急電源供給が不可能となった。
冷却されない原子炉はメルトダウンを起こし・・

読みたくない、想像もしたくないことが書かれている。
それなのに政治家と官僚はなにをしたか?なにをしなかったか?
いや、彼らはもともと国民のために何もしてこなかったのだ。
何かが起こればエクソダス(脱出)するだけ。
彼らは自分たちの利益のために「電力モンスター・システム」のなかでゴキブリのように生き残る・・

嗚呼、日本の官僚と政治家の図式は未来永劫変わりそうもないし、官の縦割り行政も続くのだろうなと、絶望的になる。
そんなこの国において、「あの方」が心底胸を痛め心配し、自分に何ができるかを制約のなかで考えている。
この本の結末は意外なものだったが、もしこの結末どおりのことが起こるとしたら、どうなるのだろう?

山本太郎議員が園遊会で天皇に手紙を手渡したことが顰蹙を買い非難されたが、天皇への直訴状は不可能なことではないらしい。
ちゃんと道があるそうで、その方法が最後に書いてある。
天皇への請願の送付先は、〒100−8968 東京都千代田区永田町1−6−1 内閣官房内閣総務官室

(あきらかにあの播磨屋せんべいの街宣カーと思しきトレーラーが出てきて思わず笑ってしまった。
播磨屋のトレーラーに書かれていることを見ると「右翼」のように見えるが、私はあれは右翼とは違うニュアンスのものだと考えている。どうにもこうにも他に方法がなく、現状を思い余って天皇になとかしてとすがっているだけなのだ。だから本物の右翼から脅かされもするのではないだろうか。
ちなみに私、播磨屋のおせんべいって安くて好きなんですけど、ちょっと注文するのをためらってしまうところ、このところあります。あの街宣カーはちょっと引く。)
posted by 北杜の星 at 07:25| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月02日

和辻哲郎「イタリア古寺巡礼」

ライブラリーに行く時間がなくて本を借り出せず、本棚にある本を物色していたら、この本に目が止まった。
岩波文庫のこの本、もう幾度読んだことか。
イタリア旅行から帰るたびに、旅行の行程をなぞるようについ手に取ってしまう。
読むたびに新しい発見があって驚くのだが、それにしても和辻哲郎がパリから南仏経由でイタリアのジェノヴァに着いたのが1927年12月27日というから、もう90年近く前のこと。
一世紀の時が経てばもちろん変化はあるのが当然なのだが、建築物やそれに付随する絵画や彫刻は変わらずその場にあって、同じものを現在の私たちが目にすることができるのが、なんだか不思議だ。

あの当時、彼はどうやってイタリアの情報を得たのだろうか?
ジェノヴァ、ローマ、ナポリ、シチリア、フィレンツェ。ラヴェンナ、ボローニャ、パドヴァそしてヴェネツィア。
交通手段だって大変だったに違いない。
でも彼はそのような大変さを凌駕する美の喜びを感じながら、イタリアを旅したのだと思う。
訪れる各地の風景や建築を哲学者の目で、何一つ見逃すまいと見ようとしている。

この本に記されているところはボローニャ以外、全部行ったことがあるのだが、行ったあとで必ず確認するためにこれを読んでいる。
そして「あぁ、和辻と同じものを私も見たんだ」という感概が胸に湧く。
昨年12月にシチリアに行って、彼が立ったと同じシラクーサのギリシャ劇場やアグリジェントのギリシャ神殿を実感できた。
それらは当時のまま、そこにあった。
和辻がシチリアを訪れたのは2月から3月にかけて。
シチリアはアーモンドの花が咲く、春まっさかりだったようだ。
この本はへたな観光本よりずっとずっと有意義な本だ。
(最近の観光本って、お買いものとグルメばかりだもの)

教会や絵画はたしかに同じところにあるのだが、いまは修復されて色も鮮やかで美しくなっている。
パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂のジョットのキリスト一代記を見た和辻は、色がよくないと書いているが、いまそれは、とてもきれいなのだ。
見せてあげたいと思う。
(私はこの礼拝堂のジョットを見て以来、ジョットが大好きになった。アッシジのジョットよりこの方が断然素晴らしいと思う。イタリアのフレスコ画のなかでは、このジョットとフィレンツェのカルミネ教会のブランカッチ礼拝堂のマァッチョのものが、わたしのお気に入り。)

和辻の「古寺巡礼」では奈良のが本家本元で名著として名高いが、「イタリア古寺巡礼」も併せて読むと世界が広がる。
彼はヴェネツィアで蚊に刺されたためか、マラリアに罹っている。
イタリアでマラリア?と驚かれるかもしれないが、昔からイタリアではマラリヤ蚊がいて、それを避けるために丘の上に都市を造ったのだ。
(敵の襲来を防ぐためもあったが)

今度この本を読むのはいつだろうか?
もうすっかり色あせてしまったけど、手放せない一冊です。
posted by 北杜の星 at 07:48| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月28日

綿矢りさ「大地のゲーム」

この本どうも評価が大きく分かれているようで、読むのが楽しみだった。
たしかにこれまでの綿矢作品とは趣が異なっている。
背景は21世紀後半の近未来。取り扱うテーマは地震や学生運動など社会的なもの。
しかし読んでいくうちに、登場人物の心の動きの表裏が、いつもの綿矢りさと感じられるものだった。

3・11の大震災を経験して、日本の作家たちは震災以降の自分の文学を模索してきたと思う。
いろんな作家がさまざまなシチュエーションを設定して、小説を発表している。
綿矢りさにとっての大震災への自分の文学結実がこれだったのだろう。

親の親の世代に大きな地震が起こった。
半年前にも未曾有の大震災が襲い、近い将来にもまた災害がやってくるのは必定らしい。
そんななかで大学生活を送る数人の大学生たち。
一人は主人公の女子学生。一人は主人公の「私の男」という恋人。でも二人の関係はそう密ではない。
一人は半年前の大震災のときに人々を救援しカリスマとなった「反宇宙派」という思想グループのリーダー。
もう一人がマリで、リーダーと関係をもつようになる。

主人公には「私の男」がいるのだけれど、リーダーに惹かれている。
でもそんな自分の気持ちを前に出せない。
震災以後、大学に寝泊まりしながら、今は学園祭のための「反宇宙派」による劇の上演準備をしている。
そしてまた大きな地震が起きた。

絶望の現在、希望のもてない未来。
それでも彼らは青春という時間を過ごしている。
強さと脆さを抱えながら、お互いの心を探りながら、それ以上に自分の心を見つめながら。

この本の本当の主人公は誰なのか?
女子学生の語りで書かれてはいるが、彼女が主人公ではないのではないか?
マリでもない。
とすると、語り部である女子学生から語られるリーダーなのか。たしかに彼は複雑だ。
でもひょっとすると存在感の希薄な「私の男」なのかもしれない。
そう思ったら、この本はもっと違う読み方ができるような気がするのだけれど。。

私はこの作品、大いに楽しんだ。
もう少しどこかをなんとかすれば、もっと完成度の高い小説になっただろうと思わぬでもないけれど、十分満足。
若手の中では、一番期待している作家さんです。
posted by 北杜の星 at 08:40| 山梨 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月06日

綿矢りさ「憤死」

「おとな」「トイレの懺悔室」「憤死」「人生ゲーム」の4編が収められている。
最初の「おとな」はわずか4ページほどのもの。
幼い頃見た夢は、もしかしたら現実だったかもしれないような記憶を描いていて、エロティックで怖い小説だ。
この小説集では「トイレの懺悔室」と「人生ゲーム」にホラーっぽいところがあって、「おとな」はそういう意味ではいい導入部となっている。
4編の小説のストーリーはばらばらなのだが、一冊をとおして読むと底辺にながれるものに似通ったものを感じる。

私は「おとな」がもっとも好きだった。
まったくの作り話と思って読んでいると突然「りさちゃん」が出てきて、えーっ、これってほんとのことだったの?と思わせるところなど、作りが巧み。

「トイレの懺悔室」と「人生ゲーム」はさきほど書いたようにホラーっぽい。
ホラーは嫌いじゃないのだけれど、この2編は男子が主人公となっていて、「憤死」の女の子たちが主人公のものと比べると、やはり綿矢りさは女の子でしょ、というところがあって、どうも心理的な細やかさが足りないような気がする。
心理の折り重なりに重点が置かれずに、説明の方が多くなっている。
なので私の印象には残らなかったし、怖さもさほど感じられなかった。

表題の「憤死」は悪くなかった。
歪な関係にある自殺未遂で入院している友人を見舞う話なのだが、見舞う主人公には悪意が潜んでいて、以前より上から目線で自分を見てきた友人の状況に、溜飲が下がる思いがある。
けれど病室で二人で話している間にそうした感情が微妙に変化していく。
友人は長く不倫の恋人が離婚したにもかかわらず、自分とは結婚してくれないので、飛び降り自殺を図ったと言う。
それは悲しさや恨みの絶望からではなく、強い怒りからだった。
あまりの怒りのために血管が切れるとかで死ぬのが「憤死」だが、怒りのために自殺するのも「憤死」なのか。
いや、もしかしたらそれこそが本当の「憤死」なのかもしれない。
聴いているうちに次第に主人公は友人に対して尊敬の気持ちすら生まれてくる。。

長い間の友人との感情のねじれ。
複雑な関係性がよく描かれている。
でもそれって主人公だけの空回りで、友人は全然気にも留めていないのかもしれない。

私は綿矢りさの短編集は読んだことなかったのだけど、長編の方が向いている作家だと思う。
この短編集が悪いというつもりではないのだけれど、あと一歩というところは否めなかった。
posted by 北杜の星 at 07:32| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月24日

綿矢りさ「しょうがの味は熱い」

奈世と絃は同棲して半年。
好きで一緒に暮らし始めたはずなのに、どちらも各々が憂鬱。
奈世は同棲を結婚へのプロセスと考えている。同棲は結婚の前段階だ。
でも絃はそうではないようで、奈世が結婚を匂わすだけで不機嫌な顔つきになる。
そんな女と男の気持ちのズレを描く連作集。

「しょうがの味は熱い」は奈世と絃が寝室で眠りにつくまでの二人が書かれているのだが、「すぐ隣にいる同士なのに、どうしたの、どうしたのと聞き合っている私たちは、本当は何が知りたいんだろう。」と本文中にあるように、はっきりした答えが知りたいけれどなんだか怖い奈世と、ひたすら眠りたい絃の気持ちがどちらも痛々しい。
奈世は自分の愛が絃を追い込むことを知っているし、自分も追い込まれているのがわかっているのに、それでも結婚を相手に突きつけずにはいられない。
こういうのって何故なんだろうと私は思ってしまう。
読んでいて、もし奈世のような女と住んでると、男は鬱陶しいだろうと思う。
鬱陶しがられているのを察しながら、それでも望む結婚とは一体何なのだ。
同棲生活がうまくいかないのに結婚生活がうまくいくわけはないことに、どうしてきがつかないんだろうか。
結婚すればなにもかもが解決すると思っている奈世が、私には理解できない。

「自然に、とてもスムーズに」では奈世は絃から離れて実家に帰っている。
「しょうがの味は熱い」のときから2年半が経っていて、彼らの同棲は3年になった。
奈世も限界だったし、絃にも限界だった。
奈世は結婚を諦めない。ほとんど神経症のように結婚にとりつかれていて、役所に婚姻届を取りに行き、自分で二人の名前を記入する。
結婚をめぐる夜更けまでの話し合いは、絃を疲弊させ、「もういやだ。寝たい!とにかく寝たいんだ」と泣き叫ばせる。
それからまた一転二転とあるのだが、ずっと私は奈世には感情移入できなくて、絃の方に同情していた。

付き合い始めた頃の、過去も未来も考えなくて、ただ好きだから一緒にいたいというあの気持ちを二人が取り戻せれば・・
そうすればきっと二人はもう一度きちんと向き合えるのではないだろうか。

奈世には強い結婚願望があるのだけれど、彼女が日本の女性のスタンダードなのだろうか?
奈世にはフランスにでも行ってみて、男と女の関係の多様性を見てみたらと言って上げたい。
日本の価値観だけで世界が廻っているんじゃないとわかれば、もっとラクに生きられるんじゃないかな。
第一、奈世って絃にも両親にも依存し過ぎ。これをまず考えるべし!
posted by 北杜の星 at 07:18| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月15日

綿矢りさ「ひらいて」

この綿矢りさ、いいです。
彼女はだんだんとよくなっているような気がする。

普通にお洒落をして友人からも適度に好かれたり男子からモテたりする高校生の女の子。
そんな子がクラスメイトに恋をした。
そう、よくある青春恋物語。
でもこの小説の展開にはかなり驚かされる。

愛は高校三年生。たとえという変な名前の地味な男の子に恋をしたが、彼には中学生のときからの彼女がいることがわかった。
その子は若年性糖尿病を患っている美雪という女の子。みんなの前で自分の腹にインシュリンの注射をしたことで、クラス中から引かれてしまった。
嫉妬にかられた愛は思わぬ行動にでた。
それは自分が間男になること。つまりは美雪と関係をもつのだ。
たとえに告白するも拒絶される愛にとって、美雪と繋がることがたとえと繋がること。そしてそれは美雪やたとえに対する腹いせだったのか・・
しかし美雪とたとえの関係は愛が考えるようなものではなかった。

普通の女子高校生が次第に激情にかられるその勢いが怒涛のごとくスゴイ。
夜の教室に忍び込んでたとえの机から手紙を盗んだり、美雪と寝たり、たとえの家での行為とか、激情を制御できない愛。
計算しているようで、全然計算になっていない。
そこにはただまっすぐな気持ちがあるだけ。
そして迎えるクライマックス。
やがて激情が静まるときが来る。

若いときの恋愛って、結局は自分のことしか考えられないし見えていないもの。
他人から見ると滑稽だったり無様だったりするかもしれないけれどそれでいい。
激情にもみくちゃにされたから、わかることがある。
受け入れること、受け入れられること。
「ひらいて」という最後の言葉が胸に残る。

この小説で印象的だったのが、愛の激しさの対極のような美雪のたとえに宛てた手紙の数々だ。
たとえを深く理解しようとする美雪の心情が淡々とした文章で書かれているのだが、まぁこんなのを盗んで読んだら、ますます愛は敗北感で一杯になったことだろう。

posted by 北杜の星 at 07:20| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月04日

渡辺一史「北の無人駅から」

ある書評で見てなんとなくライブラリーに予約していたこの本、実はそれほど期待していなかった。
タイトルから鉄道ファンの本か、または回顧的なロマンティックな本だろうと思っていたからだ。
それに手に取った時の分厚さと重さにもたじろいだし。
ごめんなさい。このノン・フィクション、ものすごーく面白かった。

たしかに著者が北海道にある6つの無人駅に降り立つところから章が始まるのだが、駅や鉄道がメインではけしてない。
駅や鉄道を取り上げるのは、それらがつまり北海道の歴史そのものだ。
著者が書こうとしたのは現在北海道が抱える諸問題についてである。
過疎、市町村合併、タンチョウヅルを保護するための環境維持、漁業、米作り・・
もちろんこれらは日本全体の問題でもあるのだが、北海道独自の解決が求められる側面が多い。

まず最初の無人駅は釧網本線の「茅沼駅」。
この駅は鉄男さんや鉄子さんにはかなり有名らしいが、なんとも奇妙な駅なのだ。
トンネルとトンネルの間に挟まって、裏は山がそびえ、前には海に続く急峻な道があるだけ。
つまりこの駅に降り立ってもどこにも行けないのだ。どうしてこんなところに駅がなくっちゃいけないの?という駅。
(まぁ読めば存在理由はあるのだけれど、それは乗客のためではなくて、鉄道の保全工事のためらしい)
今はケモノ道のようになっている海に続く道は、以前は漁師の家が数軒建つ集落に続いていた。
その漁師の一人は泥酔して列車に両足を轢断され(一度に両足ではなく、右、左と二回の事故による)、それでも漁をし、駅までの山道を腕の力だけで松葉杖を突いて登ったというツワモノだったそうだ。
すでに亡くなっている彼のことを、著者は丁寧に追跡調査している。

このノン・フィクションが魅力的なのは、著者の渡辺氏が高見からものごとや人びとを見ていないことだ。
時に取材対象に腹立たしい思いや感嘆ややりきれなさをとてもストレートに出していているのが、好感が持てる。
ライターとしてテクニックではなく、素直な彼の人間性が(少々幼いとも感じることがあるが)この本の最大の素晴らしさではないだろうか。

北海道にさして深い興味があるわけでもなく、鉄道ファンでなくとも、この本は多いに楽しめると思う。
私などこの本で初めて知りえたことがたくさんあった。
北海道が日本一の米の生産地というのも知らなかった。
以前は質が悪く不味いことで有名だった北海道米が、いまはコンビニやファミレスのご飯ものに使われていて、私たちは知らずに北海道米を食べているようだ。
この米作りの章を読むと、日本の農政に改めて疑問を持ってしまう。
米農家を守るというと素晴らしく感じられるが、保護し過ぎと言えなくもないなぁ。

私の友人がこの夏、北海道一周のバイクの旅に出かけるが、「北の無人駅」にも立ち寄ることがあるだろうか。。
posted by 北杜の星 at 07:29| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月20日

綿矢りさ「かわいそうだね?」

起きたら一面真っ白!
この冬初めての本格的な雪です。
雨も雪もちっとも降らなくて、地面や木々がカサカサだったし、私のお肌もカサカサ。
ハッチ君に触れると静電気がびりっときて、二人でびっくりの日が続いていたのです。
20センチの雪にハッチ君興奮気味で、外に出たり内に入ったり。
だけど降ればどか雪となるんですね。
我が家の坂道を生協のお兄さんの車、登ってこれるか心配です。
さて、今日は綿矢りさです。


芥川賞受賞作の「蹴りたい背中」を含めて、長い間私にとって綿矢りさの小説は退屈で、どこがいいのかわからなかった。
それが少しずつぼんやりとわかるようになったのは、ここのところの2.3作からだ。
寡作の人で、丁寧に丁寧に書いているのが伝わってくる。
小さなことがらの積み重ね、表出しない細やかな感情。
そうか、綿矢りさってこういう作家なのかと、遅まきながら理解できた。

この「かわいそうだね?」は表題の「かわいそうだね?」と「亜美ちゃんは美人」の2作が収められている。
どちらも女性を描いていて、その心理が「わかる、わかる」なのだ。
今まででもっとも好きな綿矢作品となった。

「かわいそうだね?」は、元カノを同居させることになった彼に戸惑う樹里恵(このスゴイ名前の説明は作中にある)。
仕事もない、金もない、住むところもない元カノのアキヨさんを見捨てて置けないと彼は言う。恋愛感情ではないと。
これを受け入れてもらえなければ別れるしかないとまで言う。
当然樹里恵は悩む。
受け入れられ宇者ではないけれど、受け入れなければ、自分がいかにも狭量な人間みたいでいやだし。
割り切れない思いで過ごす樹里恵だが、ある日とうとう爆発する。

この爆発の仕方が、スキッとすることったら。
それまで矯めに矯めた感情がほとばしる。そのほとばしり方が爆笑ものでなんとも愉快。
でも樹里恵とアキさん、最初からこの勝負はついていた。
だって英語で言うでしょう。
Pity is akin to love.
夏目漱石はこれを「かわいそうったぁ、惚れたってことよ」と訳したものだが、世の中「かわいそう」には勝てないやね。

もう一つの「亜美ちゃんは美人」。これがまた良かった。
とても巧みな小説だ。
美人の亜美ちゃんを友人に持つという役割をずっと果たしてきたさかきちゃんの微妙な心理が見事に表現されている。
完成度としたらこちらの作品のほうが高いかもしれない。
登場人物の出入りも実に妙味があって、面白い。

鈍い私もやっと綿矢りさのよさがわかり好きになれて良かった。
お気に入りの作家が増えました。
posted by 北杜の星 at 08:25| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月19日

渡辺京二・津田塾大学三砂ちづるゼミ「女子学生、渡辺京二に会いに行く」

私は知らなかったのだが、渡辺京二氏は思想家であり歴史学者でもある人。
三砂ちづるは津田塾大学国際関係学科教授で、国際疫学の専門家。エッセイや小説も書いていて、私は彼女の小説が好きでこのブログでも紹介したことがある。
彼女の小説に流れるものは、社会学的なフェミニストからすると反論があるだろうが、私は勝手に「原始フェミニズム」と名付けていて、本来女性が持っている不思議な力、それは私たちが文明の進化と共に失ったものだが、取り戻そうということだと思う。

自分の体に向き合って、体に耳をすませて、得られること。
それを私たちは忘れている。健康を数値で判断していてばかりでは、わからないことだ。
そういうことを大切にする三砂ちづるのゼミの生徒たちが、なぜ渡辺京二氏に会いに行ったのか?
会って、何を聞きたかったのか?

ゼミの生徒、元ゼミで現在は大学院生たちが、それぞれの卒論を持って渡辺氏と語り合っている。
この生きにくい世のなかをどう生きればいいのかを問うている。
自分が社会とどう繋がればよいのかを真剣に考えている彼女たちに、渡辺氏は「こうしなさい」と言っているわけではない。
話を聞き、自分の体験を話し、優しく彼女たちを受け止めている。
80歳をすぎた彼の体験談のすべてが現在の彼女たちに当てはまる問題ではないものの、彼の語り口にはどこか人を安心させ納得させる懐の深さがある。
彼の力を抜いた姿勢は、決して彼女たちをいなしているのではなくて、見守っていると言う感じ。
それがわかるから女子学生たちもその懐へ飛び込めるのだろう。

なんてこの女子学生たちは真面目なんだろう。
私が彼女の年齢の頃、こんなにも真摯に自分や社会を見ていただろうか。
しかし渡辺氏は社会的なことからスタートするのではなく、あくまでも「個」として自分を見据えようと言っている。
例えば就職できないからと言ってそれを「自分は社会に無用な人間だ」などと考える必要はない。ただ就職口が見つからなかっただけなのだと。
人間なんて「社会」のためになんか生きていない。
家族や好きな人たちのために生きているのだ。
そのために大切なのは、「無名に埋没すること」。

渡辺氏の「無名に埋没せよ」の言葉は、最後にドーンと胸に響いた。
そうすることで初めて自分が見えるし、社会も政治も見えてくる。
この本はこれから社会に出ようとする人たちに、なんらかの道標になってくれるかもしれない。
渡辺氏と三砂ちづるのやりとりにも、考えさせられるところがたくさんあった。

posted by 北杜の星 at 08:27| 山梨 | Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月23日

若桑みどり「クワトロ・ラガッツィ」

これはこの夏の私の「課題図書」。
「課題図書」というとなんだか小学生や中学生の宿題みたいだが、私も昔を思い出して夏には普段読まないジャンルの本、それも読み応えのあるものを一冊読むようにしている。
たいていの年は自然科学系なのだが、今年は早い段階からコレに決めていた。
若桑みどりは美術史家・美術評論家。惜しいことに数年前に亡くなった。
彼女の歯に衣着せぬ、すっぱりとした絵画の説明が大好きだった。
フェミニズムとジェンダーの人でもあり、ルネサンス絵画の女性像を分析する視線はとてもユニークで、「こんな絵画の見方があるんだ」と新鮮だった。
1960年代前半に、船でローマに留学。最初はカラヴァッジョの研究を目的としたが、ミケランジェロを目のあたりにし、その完璧なまでの偉大さに打たれ、以後イタリア美術と格闘した人だ。
その若桑みどりが「クワトロ・ラガッツィ」を書いた。
クワトロ・ラガッツィとは4人の少年というイタリア語。この4人の少年は「天正遣欧少年使節団」とことである。

本当に面白かった!
学校の教科書にほんのちょっとしか記述されていない「天正少年使節団」に、これほどのとりまく世界が存在していたなんて。
当時の日本が世界とあれほどまで密に繋がっていたのも知らなかった。
日本には残っていない資料が、ヨーロッパにはたくさんあって、その資料を駆使してのこの本、「課題図書」がこんなに面白くっていいの?というくらい夢中になった。


大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の3人の名代としてローマに遣わされた4人の少年たち。
マンショ、ミゲル、ジュリアン。マルティノ。
彼らはいくつかの目的から遣わされた。
一つには、日本での宣教をスペインやポルトガルやローマから経済的に援助してもらうこと。
一つには、少年たちにいかにヨーロッパのキリスト教世界がいかに優れて発達しているかを見聞させ、帰国の暁には、彼らに布教をさせること。
そして日本との貿易を拡大すること、などであった。

命がけの航海時代、無事に4人はローマに到着し、教皇と接見することとなった。
しかし、教皇と会えるのは3人だけ。それは旧約聖書にあるように「東方」より来たりし者は3人であらねばならなかったからである。
そしてジュリアンが外された。

活版印刷機や楽器をお土産に、4人はまたも危険な旅の末帰国。出発から8年の月日が過ぎていた。
この8年の間に、日本の情勢は大きく変化していた。これが「クワトロ・ラガッツィ」の悲劇だった。
秀吉はキリスト教を禁止したが、それは大名に対してであって、庶民の信仰はお目こぼしだった。しかし徳川幕府は、庶民に対しても激しい弾圧を加えた。
あれほど密で近しかった日本とヨーロッパは遮断されてしまった。

マンショは日本に帰り司祭にまでなるが、病死。
ミゲルは棄教。
マルティノはマカオに渡り、その地で客死。
ローマ教皇に接見できなかったジュリアンは、穴釣りの拷問を受け殉教した。

これを読んで考えたのは、もしキリスト教を受け入れて、鎖国をしないでいたら、今の日本はどうなっていただろうか、ということ。
どんなに考えても詮無いことだが、考えずにはいられない・・そんな重いテーマが横たわる本だったのだ。
今年の夏にこの本を読めたことに感謝。
これを書いてくれた若桑みどり氏に感謝。つくづく惜しい人を失ったものです。
posted by 北杜の星 at 07:36| 山梨 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月21日

綿矢りさ「勝手にふるえてろ」

ヨシカはある会社の経理部に勤める26歳の女性。
処女である。
彼女は同じ会社の男性から、付き合ってくれと言われている。
しかし彼女には中学生のときから想いを寄せている「イチ」という男性がいる。
イチとはほとんど話をしたことはない、つまり片想い。
イチと二の間で揺れるヨシカ。
それは夢と現実のせめぎ合いでもある。

綿矢りさは史上最年少で芥川賞を受賞した。もう9年前になる。
大学生だったこともあるのか、作品数は多くない。
受賞以前の「インストール」、受賞作の「蹴りたい背中」そして受賞後の「夢を与える」。
正直なところ、どの作品も私には退屈だった。
他愛もないことがらが、グダグダと書かれているという印象で、苛つくこともあったくらい。

この「勝手にふるえてろ」も読み始めは同じように感じた。
でも読み進むうちに「いや、待てよ」という気にだんだんなってきた。
ヨシカは26歳にしてはあまりに未成熟。その幼さが無邪気さ丸出しの文章で描かれている。
これはひょっとして完璧に意図されたものではないのだろうか?
もしそうだとしたら、これってスゴイ小説かもしれない。
それともこれが、綿矢りさという作家の「天然」なのか?
どっちにしてもあなどれないと、思わせるものがこの「勝手にふるえてろ」にはある。

ヨシカの中で十数年間純粋培養されたイチへの恋心。
二に対する客観性。
この対比がとてもおもしろかった。
贋妊娠の顛末にはリアリティがなくて、あんまり感情移入はできなかったけれど、ラストへのもって行きかたは悪くない。(賛否分かれるところだろうが)。

4作目でようやく、私、綿矢りさをつかまえたような気がする。
もしかしたら、これまで退屈だと読み飛ばした中に、見落としていたものがあるのかもしれない。
だってそうじゃなかったら、芥川賞の受賞はありえないよね。
やはり選者の先生方は、見る目があるのかしら?
posted by 北杜の星 at 08:21| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月15日

渡辺一正「再起する脳」

著者は48歳のとき、脳梗塞を発症した。
まだ働き盛り、上の子供は高校生、下は小学生だった。
東京三菱銀行に勤務するサラリーマンとして、幾度目かの海外赴任を目前にしていた。
赴任の前に持病の痔を治そうと、新宿厚生年金病院に手術入院し、退院したその午後自宅で仮眠から目覚めたら、右半身が動かせなかった。
助けを呼ぼうとするも、声にならない。
また厚生年金病院に舞い戻り、そこから彼の長い闘病・リハビリが始まることとなった。

脳梗塞は発症後半年を過ぎると、リハビリをしてもそれ以上は回復しないと言われてきた。
しかし、渡辺氏はあきらめなかった。
脳と題名のつく本を片っ端から読み、たんに物理的な体の動きだけではなく、脳と体の連帯する動きとはどういうものかを徹底的に調べた。
そして脳の働きに沿うようなリハビリをしたのだった。
足は装具の補助を受けて早くに動かせるようになったが、右手はびくとも動かなかった。けれど彼は腕や手首や指が固着しないようにたえず自分の健側の手でマッサージをしたり、伸ばしたり曲げたりの努力をおこたらなかった。
すると、発症3年後のある日の電車の中で、右手の親指が少しだけだが、確かにはっきりと動いたのである!
もう一度、二度、動かしてみると、動く。
その日からの彼はあらたな希望に包まれ、リハビリにいっそう励む。
そして、かなりの日常的な行動ができるようになったのである。
以前とは較べようがないが、仕事にも復帰した。

不断の努力、というけれど、渡辺氏のこの本を読むと、その言葉の重みを感じる。
と同時に、あきらめないこと、絶対に治ると信じること、の大切さを思う。
そうは言っても、病を得ての3年間である。時には心が挫けることもあっただろう。
ただ彼が脳梗塞を発症した47歳という年齢が、彼を頑張らせた要因かもしれない。

私の父も五十歳代で脳出血の発作を起こした。
一生懸命、母と二人三脚で闘病した。
かなり元気になった矢先、旅行先の北海道で二度目の発作を起こし、室蘭の病院に一ヶ月間入院することとなった。
極寒の室蘭に、母は独りでホテル住まいをし毎日父を見舞った。
退院して自宅に戻ってからの父は、以前の父とはある点で、まったく違った人間になっていた。
つまり、あきらめたというか、人生を投げてしまったのだ。少なくとも私にはそう映った。
その時の父は70歳を過ぎていた。
もうひと頑張りしようという気力はすでになかったのだろう。

まだまだ脳のことは解明されていない部分が多い。
だからこそ、渡辺氏のようにポジティヴに病気と取り組んで、複雑な脳の機能を信じてリハビリを続けることが大事なのだと思う。
脳血管系の病気は、QOLが下がり、苦しいことが多い。
でも一つ一つ、少しずつでも前進できるなら、それは大きな喜びでもある。
そういう意味でこの本は、脳梗塞を患う人にとって、福音となるに違いない。

渡辺氏もこの中で書いているが、病気になると本人もつらいが、家族もつらい。
闘病は夫婦でするもの・・奥様の尽力に感謝をと、二人で過ごしたNYを再訪したいと願っておられるとのこと、近くの実現を心より願っています。
posted by 北杜の星 at 07:29| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月24日

若林ひとみ「クリスマスの文化史」

今夜はクリスマス・イヴ。明日はクリスマス。
都会では美しいイルミネーションが恒例となった。
最近では11月になるともうクリスマスの飾り付けがはじまり、それはあんまり早すぎやしない?と、何かに追い立てられる気分になってしまうほどだ。

この本の著者の若林ひとみ氏は、ドイツ留学中にヨーロッパのクリスマスを体験し、以後クリスマスに魅せられクリスマス研究家となったひと。
各国のクリスマス事情や歴史を調べ、アンティークのクリスマス・グッズ収集家としても名を馳せている。
この「クリスマスの文化史」はそんな彼女らしく、ドイツのクリスマスを中心に書かれたもの。
項目には、「クリスマスの起源」「クリスマスツリー」「イエス・キリスト生誕シーン」「サンタクロース」「クリスマス・ソング」「クリスマス市」「クリスマスカード」そして「クリスマス料理」に分かれている。

クリスマス・ツリーがドイツからはじまったというのは、ごもっともだと思う。
ドイツの森のもみの木やドイツトウヒを伐って部屋に飾るというのは理解できること。
だからそんな木のない南ヨーロッパでは、クリスマスツリーの習慣はない。

私たちが日本で「クリスマス」と考えるものは、アメリカ経由で輸入されたので、アメリカ式となっているが、国によって全然違うものなのである。
ヨーロッパの冬は暗く長い。
家や町のクリスマス飾りは、陰鬱な冬を優しく暖めてくれるものだ。

飾りと言えば、イタリアなどカトリックの国では「プレゼビオ」という生誕シーンを各家庭に飾る。
馬小屋があったり、羊飼いがいたり、東方三博士が馬に乗っていたり、まぁドール・ハウスのようなものだ。
聖フランチェスコが字の読めない人たちのために始めたといわれている。
この時期ローマのナボナ広場には、プレゼビオ売りの店がたくさん出る。
私もアンティークのプレゼビオが欲しいと思うのだけど、この季節にイタリア旅行をしないので、手に入れることができないのが残念だ。
(でももしプレゼビオを我が家に飾っても、ハッチ君が猫パンチですべてなぎ倒してしまいそうだけど)。

私はカトリックの幼稚園に通っていた。
当時カトリック教会では、イエスと呼ばずイエズスとキリストのことを呼んでいた。
3歳くらいの子供にイエズスという発音は難しく、園児たちはみんな「イエッチたま(様)」「イエッチたま」と叫びまくっていた。
先生たち、困っていたんだろうな。大昔のことだけどごめんなさい。
でもそのときの経験からか、私にとってのクリスマスは、「イエッチたま」のお誕生日というものになったのである。

この本を読むまでは、ドイツではみんなシュトレンを食べているのかと思っていた。でもあれはドイツでもほんの一地方のものらしい。
私はシュトレンが好きで、コーヒーと一緒に食べると、ふくふくと幸せになる。
イタリアでは、北から南までどこでもパネトーネだ。
クリスマス近くになると、友人たちの家に行くときの手土産はみんなパネトーネ。
だから一家に何個ものパネトーネの箱が積んである。
パネトーネというのは、パンの親分という意味で、ケーキというよりドライフルーツの入ったパンみたいなもの。
夫は12月の初めにパネトーネを宅配で注文し、すでに食べ始め、もう半分ほどになってしまった。
クリスマスまでもたないよ。
私はあれは少々苦手。だってパサパサなんだもの。

私にとってのクリスマスのお菓子は、イギリスの下宿のおばさんが作ってくれたクリスマス・プディングだ。
何ヶ月も前からフルーツをお酒に漬け込んで、粉や玉子と多種類のスパイスを混ぜ合わせ蒸すという手間のかかるもの。
あたたかいクリスマス・プディングにたっぷりのホイップド・クリームをかけて食べるのは、本当に美味しかった。
イギリス人のなかには、あれは嫌いという人が結構多いが、私は大好きで、珍しがられたものだった。
イギリスを離れるときにおばさんが、私のために大きな大きなクリスマス・プディングを作って持たせてくれた。
ずっしりと重かった。
私が好きなほどには私の家族は好きでなく、大きなプディングはほとんどが私の胃袋におさまった。
春くらいまで残っていたような記憶がある。

誰にでもそれぞれのクリスマスの思い出があるに違いない。
どうぞみなさま、Merry Christmas!
世界が平和でありますように・・
posted by 北杜の星 at 07:39| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ワ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする