2017年10月07日

ハッチの週間身辺雑記

カズオ・イシグロ、ノーベル文学賞受賞 おめでとうございます!!
一昨夜、夕食の後ボーっとしていたら、友人よりTELで知らされました。
彼女もカズオ・イシグロの大ファン。二人して大喜びしました!
若い頃から完成度の高い作品を書き続ける彼の受賞は当然といえば当然。いつかは、、と思っていましたが、本当にうれしいです。
その興奮も冷めやらぬ週末土曜日の朝です。

先日の朝、夫と集落を散歩していると、知り合いの農家の人から呼び止められました。
「無花果が生ってるから採っていかんかね?」と。
うれしい!無花果大好きな私は大喜び。夫が枝からもいでくれました。容れものを持っていなかったのでその人が家からビニール袋を持って来てくれました。
畑の柔らかな大根葉ももらっての帰りがけ、「朝の散歩はするものですね」と私が笑ったら、「袋を持って散歩しなさい」と返されました。
ホント、ここは良いところです。
でも16軒の家々はみんな高齢者。米を作る農家も少ないのですが、作っている農家も人手がなくてJAに稲刈りを依頼すのだとか。限界集落の大変さが身に沁みます。

我が庭にときおりタヌキが出没します。
他の近所の人は何匹か一緒に来ると言いますが、我が家に来るのはいつも一匹だけ。
居間に居る私と目が合うと、じっと見つめてきます。丸いタヌキ顔の私を同類と思うのかな?
キツネもときおり見かけるけど、キツネはあまりフレンドリーではなく、すぐに逃げます。美人顔のキツネは気位が高いのかも。
害獣と嫌われる動物ですが、元は彼らの居住地。彼らの方がここでの先輩なので、敬意を払って接しています。
ただウンコを庭に残して行くのは止めてほしいなぁ。

鳥が窓ガラスにぶつかるのも止めてほしい。これは鳥のせいではないだけになんとも胸がつぶれるできごとなのです。
我が家には2メートル幅の窓ガラスが4枚、他の窓を合わせると計19メートルものガラスがあります。そこに時々鳥がぶつかるんです。、
コゲラやシジュウカラなど小鳥がいつもなのですが、つい数日前、居間で本を読んでいたら突然ものすごい大きな音が背後にし、一瞬それが鳥とは思えなく、いったい何が起きたのかと窓の外を見て見ると、鳩が転がっていました。
鳩がぶつかるのは初めて。さすがにその大きさに驚きました。
1時間しても全然動かず、血も流しているようだったので、これは脳しんとうではなく死んじゃったんだと、でも怖くて触れなく、夫の帰りを待とうと思いました。
しばらくしてもう一度見ると、前とはほんのちょっと違う場所に倒れています。動けたのです。
死んでいないと安心し、鳩を覗きこんだら、気配を感じたのか、フラフラと飛び去って行きました。
どうなったのか?どこかで無事にいるのか?それとも。。
窓掃除をしなくてはと思いながらも、鳩がぶつかって毛のついた跡が怖くて、そのままになっています。
私は、酉年で名前に鷹のつく夫を持ちながら、実は鳥がすごく怖くて、遠くで飛ぶ鳥を眺めるのは平気なのですが、触ったりはできないのです。
鳥の祖先は恐竜だといいますよね。私の前世は恐竜に食べられていた何かではないでしょうか。とにかく鳥、怖いです。まだトカゲやヘビの方がいいかも。。

冬支度が整いました。
夫は暖炉の煙突掃除をすませました。
この煙突掃除、屋根に登るので危険なので、「もうトシなのだから、業者に頼めばいいじゃない」と言うのですが、彼は頑固に自分でするのです。
いつまでできるか?あまり無理はしてほしくないですが。。
暖炉前も、新しく購入した電気カーペットを敷き、その上にクリーニングから戻ったギャベを置きました。
居間の雰囲気がアットホームな感じになりました。でもつくづく、ここにハッチがいればなぁと思います。
私にとって猫のいない冬の居間はパーフェクトな空間とはいえません。

何週間か前に友人を招いてギョーザ・パーティをしたのですが、それが好評だったので今回もすることに。
以前は能がなく、すべて同じ味のギョーザでしたが、今回はバリエーションをつけて焼いてみました。
今回も大好評。豚ミンチは平田牧場のものだし、皮は生活クラブのだし、不味いわけはないですよね。
久しぶりにやってきた友人も「こうして焼くのって美味しいし、楽しいね」と言って喜んでくれました。
ワイワイお喋りして気がつくと11時半過ぎ。翌朝は9時近くまで寝ちゃいました。
夫が鍋奉行ならぬホットプレートでの焼き係りをしてくれ、ラストは高菜チャーハンで締めくくり。
特別なものがなくても、みんなで食べればハッピーという秋の一夕でした。

秋になり南アルプスがよく見えるようになりました。
3千メートル級の山々の連なりを毎日見るのは、気分が壮大になると同時に、自然への畏敬も感じるこのごろです。
posted by 北杜の星 at 07:36| 山梨 ☁| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月05日

中島京子「ゴースト」

7編のゴースト物語。
といってもオドロオドロしく怖ーい幽霊が出てくるわけではない。幽霊なんて現れないものもある。
どこか切なく、くすりとおかしく、懐かしく、こんなゴーストなら遭遇してもいいなと思わせる、そんな彼岸からつかの間舞い戻った人たち。

此の世に無念が残るからゴーストは戻って来るのか?
誰かに話しを聞いてもらいたくて、また、忘れ去られるのがイヤで。
だからゴーストが現れるのは、優しい人間の前なのかもしれない。

進駐軍に使われていた原宿の裏通りの古い洋館。そこで幼い少女、若い女性、老婆と出会った青年。
彼女たちは誰なのか?もし彼女たちが同一人物ならば、ゴーストもあの世で歳をとるものなのか?
戦争の時代を経て1世紀を生き抜いたミシンの運命。
認知症の曽祖父が毎日のように会うと話す人物とは誰なのか?
廃墟を見るために日本にやってきた台湾女性。、その廃墟は昔、台湾からの留学せのための寮だった・・

などなどの物語なのだけれど、中島京子ってこうした古い建物や品物、2世代前くらいの人たち、昔のできごとを書かせると本当に巧みな作家さん。
雰囲気がふうわりと伝わって来る。
その文章は決して声高でなく、品が良い。
そしていつも作品に安定感がある。
茶目っけがあるのもいいですね。

それが表れているのがラストの「ゴーストライター」。
ゴーストライターとはもちろん代作をする書き手のこと。
ここでは誰もが知っている作家さんたちが実名ではないものの、見れば誰とわかる名で、有名になる前にはゴーストライターとして活躍していたことが書かれている。
無名時代にゴーストとして書いたり少女小説を書いて生計を立てていた作家って多いんですよね。
でもあえて書かないけれ、この「ゴーストライター」にはオチがあるんです。これこそがゴーストライターという。。

軽く楽しい一冊。
posted by 北杜の星 at 08:50| 山梨 ☁| Comment(0) | ナ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月03日

大山ちこ「エンディングノート」

第25回やまな文学賞受賞作品。

やまなし文学賞といってもご存知ない方が多いかもしれないが、小説と評論の2部門に分かれていて、私は評論の方は一度も読んだことはないのだが、受賞小説は毎年、山梨日日新聞社から発刊され、地元だからここ北杜市のライブラリーの所蔵書物となっている。
忘れてしまうこともあるが、できるだけ読むようにしている。
三浦哲郎も津島佑子も亡くなって、現在の選者は坂上弘、佐伯一麦、そして新しく加わった長野まゆみの3名。
選者の顔ぶれを見てわかるように、純文学系の作品が多いようだ。
「やまなし文学賞」と銘打っているが受賞者は山梨県人とは限らず、全国からの応募がある。

正直を言うと、この「エンディングノート」、最初はどうも気が乗らなかった。
テーマにどうも腰が引けたからだ。
二人の兄弟は両親の離婚を経験し、後に父の突然の孤独死にも遭う。
家族がいなくなっても自分が存在する。しかしその存在は無意味ではないのか?
自分が何の約にも立たないと気付き、もっと楽しく生きられるなら別だが、そうでなければと、弟は25歳に自ら死ぬことを決意していた。
それを知らされていた兄は、弟の25歳の誕生日に弟と母の住む町に帰省する。

兄はなぜ弟の自死を止めようとしないのか?
どこかで本気にしていないのか?いや、そうではないのだと思う。彼は知っていた。弟が死を決行するであろうことを。
生きることを見守るのと同じ気持ちで、兄は弟の死を見守ろうとしたのか?
「これから僕の明日はどんな明日になるのだろうか」。残された兄は何を抱えて生きるのか。。

淡々とした文体。熱さのない兄と弟の会話がイマドキといえばイマドキだ。
でも虚無ではない。ここにあるのはやはり絶望感なのだろうか。
それにしては重く塞ぐ気分ではなく、うまく言えないのだけど、ホッとする感じも私にはあった。
家族に対する無力感しか、弟にはなかったのだろう。それに対し為す術のない兄はただ弟を見ているしかなかった。
(弟をラクにしてやるのは、この方法しかないと傍観したのだろうか)。

主人くである兄の大学時代の友人のエピソードは、巧い挿入部だと思う。
その友人は、あいさつをするのが嫌いだと言う。なぜなら「あれって、次の会話に繋ぐクッションみたいなものだろ?あいさつをしちゃうと、その瞬間に俺は自動的に相手を受け入れてしまうんだ」。
それが会話の苦手な友人にとってはすごいストレスになるのだと言う。
けれど弟と最後に別れた兄は、何年かぶりに友人の携帯に電話をかける。
そして彼が今は結婚し子どももいることを知らされる。いまだにあいさつは嫌いのようだが、「このくらい踏ん張らないと」と自分に言い聞かせていると聞いて、電話を切ったあと、兄は「声を殺して泣いた」のだった。

踏ん張って生き延びられる人間もいる。
踏ん張ることをはなから拒絶した人間もいる。
読了後、深い想いに沈む一冊だったが、作者の文章の見事さもあって、満足度はとても高かったです。
posted by 北杜の星 at 08:08| 山梨 ☔| Comment(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月02日

平松洋子「ステーキを下町で」

これは「サンドイッチは銀座で」の続編。
相手は変わったが今回も編集者青年を同行し、北は北海道から南は沖縄まで、ガッツリと食べつくす。
懐石料理やフレンチではない。
帯広の豚丼、根室のサンマ、大震災から復興した三陸のうに弁当、京都のうどん、鹿児島の黒豚豚カツ、沖縄の沖縄そば、タイトルにある東京下町のステーキや大将の餃子などなど。
平松さんは食そのものへの情熱もさることながら、それを作り供する人たちへの敬意を忘れない。
彼らから聞くさまざまな話しの中から珠玉のひと言をすくい取り、胸の底にそっと収める。
私はその彼女の食に対する優しさが大好きだ。
その優しさがあるからこそ、潔くガッツリと食べられるのだろう。

食べものが誕生するには、その土地の歴史や事情が陰にある。
平松さんのエッセイが興味深いのは、彼女が店主から丹念に話しを聞いて書くからだ。
食べたものをただ評価するのではない。
きちんと同行の編集者青年にも気を使っている。
そのことは京都のうどんの章に表れている。
車谷長吉ファンの彼が失恋して赤目四十八滝に行き、再び今度は平松さんと極寒の滝巡りをするのだが、寒さがこちらまで伝わってきそうな滝の様子が描かれている。
そして京都に戻って食べる熱々のあんかけうどん。

そう、京都では冬はあんかけうどん、なんですね。
京都の人は少々の風邪はあんかけじゅどんで治すらしい。
葛でとじるあんかけは、最後まで冷めない。
今は讃岐うどんが日本中を席巻しているが、出汁のきいた汁にはあの硬さではダメ。
柔らかでしんなりしたうどんでなくては、だし汁がからまないのだ。
むくつけき男があんかけうどんを舌を焦がしながらするのはちょっと似合わない気がするが、かわいくもある。
(どういうわけか、あんかけうどんは女性の食べものという印象が私にはあるんです)。

タイトルのステーキにはただただ感嘆するばかり。
だって平松さん、ナント520gのステーキを注文。(店でもjっとも大きなもの)。
まるで煉瓦の塊のようなそのステーキをぜーんぶ、食べちゃったのだ。
さすがの編集者青年もタジタジだったというのに。
すごいなぁ。

この本で知ったのだが、彼女は約束の時間や列車の時間にいつもギリギリで家を出る悪癖があるそうで、東京駅の新幹線ホームの眼の前で、列車のドアが閉まったことが一度や二度ではないという。
同行する人は気が気じゃなかったでしょうね。
これまで彼女のエッセイを読むと、どうやら西荻周辺にお住まいみたいなのだが、西荻から東京駅までは乗り換えないしの中央線一本、30分で着けるはず。
もう少し早く家を出て下さいね。

この本には谷口ジロー氏の絵があるのだが、私が読んだのは印字本ではなくて点字本。
点字本には残念ながら絵がないのです。平松さんの書く文章にどんな絵が添えられていたか。。こういう時に点字はつまんない。

何が食べたい?と聞くときまって「ステーキ」と即答する我が夫。
平松さんの520gはさぞ羨ましいことでしょう。
posted by 北杜の星 at 07:47| 山梨 | Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月30日

ハッチの週間身辺雑記

稲刈りをすませた田とこれからの田が半々くらいのここ八ヶ岳南麓です。
この周辺の米は知る人ぞ知るの「武川米」など、かなり良質な米がとれるんです。
武川米は収穫量は少ないものの、江戸時代から将軍への献上米でした。
気温が低いために農薬散布が少ないことも人気のようです。
我が家でもほぼ1年を通して地元の米を食べています。毎年自家栽培米を持って来て下さる友人もいて本当にありがたいことです。

夏布団から冬布団に替えて、布団の重さになんだか安心してぐっすり眠れています。
夏布団のあの薄さと軽さはどこか落ち着かない不安さがありました。
冬布団でお腹が冷えなくなったのか、夜中のトイレに起きることもあまりなくなったのも安眠の理由かも。
これからの1カ月半、私の大好きな秋です。
でも秋って短いんですよね。あっという間に厳しい寒さになってしまうんです。
暗くなるのも早くなったし。

この1週間の出来事・・楽しいことが多い1週間でした。
まず毎月第4週目には私たちが「鮨デー」と呼ぶ週末があります。
これは、普段はお魚をメインに食べさせる定食屋さんが催すもので、元は千葉の柏で鮨屋をしていたご主人が月に2日間だけ鮨を握ってくれるとうもので、これがとても美味しく、山暮らしの私たちは楽しみにしているのです。
よく言われる江戸前の「仕事をしている」という凝った鮨ではなく、ごくシンプルな、でも新鮮でとびきり旨い鮨なのです。
鯵や小肌や穴子は絶品。
フルメンバーは8人なのですが、用があって参加できない人は不運です。次は1カ月先まで待たなければなりません。
時には10人くらいでお願いしたいこともあるのですが、「1テーブル8人でも握るのが大変、6人にしてもらいたいくらいだ」というご主人にそう強くは望めなくて、一緒したいという人は残念ながらお断りせざるをえません。
鮨を食べながら1カ月の近況報告をし合い、無事を確かめ合うのです。今月もつつがなく過ごせた幸せに乾杯です、

日曜日には友人夫婦が夕食にやって来てくれました。
彼らは下諏訪の「みなとや」さんに前日宿泊。帰り途中に寄ってくれたのでした。
彼の方がカレー大好きということがわかっていたので、チキンカレーとキーマカレーを作り、あとは簡単な三色サラダというメニューでしたが、気持ち良いほどたくさん食べてくれて本当にうれしかった。
あれこれ話して気がつくと10時半過ぎ。それから東京に着くと12時を回ったことでしょうから申し訳なかったけれど、楽しい時間はあっという間に過ぎるのですね。
彼らは現在ちょっと親の介護で大変で、つかの間の息抜きの旅行だったのです。
何もしてあげることのできない私なので、せめて美味しいカレーを作ろうと、普段は込めない想いを少しだけ込めて作りました。
(私は他人に何をするにも、あまり気持ちを込めないのを旨としています。それはあまりに一生懸命に尽くすと、狭量な私はいつか「あんなに、してあげたのに」と思うかもしれないからです。他人のためにはせいぜいいい加減に、あまり心を込めないでいる方が気がラクなのです。このことは曽野綾子のエッセイから学びました。あのスゴイことを時々言ってみんなの顰蹙を買うキリスト作家は、でも時々ホントのことを言うんです。)

下諏訪の「みなとや」さんという旅館、私たち夫婦も大好きなところです。
白州正子夫妻や大勢の作家たちから愛された、いわゆる文人宿ですが、なんといっても風呂がいい。
もう数十年前ですがライフ誌に「日本でもっとも美しい風呂」と紹介されたこともありました。
一部屋ごとに入浴し、その都度の掃除をかかしません。宿に着いたとき、寝る前、そして翌朝と3度、きれいな湯の露天風呂に入れるのです。
食事はこれは好みが分かれます。何にも食べられないという人もいるかもしれない。
諏訪湖の小魚や昆虫食をする信州の蜂の子、イナゴ、ざざ虫(これは食べるのに勇気が要ります)、メインは馬刺しとさくら鍋。
ここの馬肉を食べると他では食べられないというくらいの逸品の馬肉です。
普通の旅館の食事はこれでもかという品数や量が出ますが、「みなとや」は大食いには物足らないでしょう。ここの夕食が終わった後でラーメン屋に行ったという人がいるくらい。
泊った友人夫婦も夜中に目覚めて「お腹が空いたかな」と思ったそうです。
まぁ、私年代の人間には十分なのですが、まだ50代の彼らはもうちょっと量があっても良かったかもですね。
毎回毎回メニューは同じだけど、「みなとや」の「あれ」が食べたいと思う人はたくさんいて、今となっては部屋にトイレもない質素な部屋の宿となったけど、いまだに人気は衰えません。
90歳を過ぎた大女将もご健在で、さくら鍋の世話をしてくださったそう。
話しを聞いているとすぐにでも行きたくなりました。

能登半島珠洲の「さか本」、松本美ヶ原の「金宇館」、大鹿村「右馬允」、下諏訪「みなとや」・・
どこも一人一泊2万円しない宿で、普通の値段設定。豪華でもないし、特別サービスが良いわけでもない。「さか本」にいたってはサービスはほとんど無いといっても過言ではないくらい、ほったらかし。
だけどどこも食事の美味しさは抜群で、「ほどがいい」のです。
この「ほどのよさ」って大切だと思います。それが心地よさn通じ「また、行きたい」になるのです。
どんなに良くてもあまりに宿泊料が高いと、「また行きたい」とは私の経済ではならない。記念日とか一生に一度なら行けるけれど、どうもそういうところに行く気がしないのは私だけでなく、夫も同様みたいです。つまりは何度もリピートできる宿を選びたいと考えているのです。
それと歳をとると、疲れる遠出より、ちょっとドライブがてらという距離が「ほどがいい。
そういう意味ではここはほぼ日本の真ん中。東海、伊豆、関西、北陸・・どこに行くにも便利です。

そうそう、先週、沖縄の幼稚園に送った栗の実やドングリやくるみ、子どもたちはとってもとっても喜んだそうで、栗のイガは格別好評だったらしいです。
よかったです。

風邪っぽかった体調は元に戻って、今週は体操教室にも参加できました。
ユルキツのこの体操教室は最近若い参加者が増えて、ますますキツさが強くなったような。。
でも体を動かし、呼吸法で心肺機能が高まった体は軽いです。
正確に動けているかは別として、一応まだできない動きはないので、身体的にはそう老化はしていないと思いたいです。
老化といえばなにより健康に大切なのが「歯」ですが、半年に一度の健診に行ってきました。、こfれも二人とも異常なし。
歯周病にも虫歯にもなっていないとのことで安心しました。
「磨き残しがあります」と毎回言われるので、歯科衛生士さんに「パーフェクトに磨けている人っているんですか?」と訊ねると、「いません」と苦笑しながら答えていました。
私はかなりちゃんと歯磨きするので「磨き残し」を言われると神経質になっていたのだけど、それを知って「なーんだ」と思いました。
そのために半年に一度お掃除してもらうのだもの、いいんですよね。

韮崎のぶどう農家の知り合いが「シャインマスカット」を引き売りで持って来てくれました。
昨年は虫がついて全滅だったとか。今年は大丈夫とのことで何箱か頼んでいたのです。
2年前に初めてシャインマスカットを食べた時には感動しました。その大きさ、その瑞々しい上品な甘さ。
でも今年のはそれより小粒だし、味も薄い感じ。これなら普通のマスカットと同じみたい。
生りものは毎年違うし、ブドウ栽培は手がかかって大変なのを知っているので苦情は言えません、
もしかしたら小粒なのはホルモン剤を少なくしているためかもしれません。それならそれで安全安心です。
今は果物屋やスーパーでは高いですが、あと数年すると値下がりするでしょう。シャインを植え付けている農家がぐっと増えていますから。
でもそうなるとまた次の新しい品種が登場するのでしょうね。

白い器に入れたシャイン・マスカットは美しく、どんな絵画より部屋の飾りとして完璧です。
実りの秋に感謝です。

posted by 北杜の星 at 08:13| 山梨 ☀| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月28日

満留邦子「焼きそば」

焼きそばが大好き!
ソース焼きそば、上海焼きそば、揚げ焼きそば、あんかけ焼きそば・・
どんな焼きそばでも時折むしょうに食べたくなる。
なかでも五目あんかけ焼きそばには目がない。

高級ホテルの中華料理の五目あんかけ焼きそばはどこのもかなり美味しいけれど、税・サービス料を入れると3千円近くする。
焼きそば一皿にそんなの(向田邦子ふうに言うなら)冥利が悪い。
そんな贅沢は言わないから、せめて吉祥寺の翆蘭の五目焼きそばを食べたいと願う日々。というのも私の住むここ八ヶ岳は中華不毛の土地だからだ。

考えてみると焼きそばに特化した料理本というのは、あまり見たことがない気がする。
著者の満留さんは管理栄養士であり料理研究家。これまでに「そうめん」の本も出しているようだ。(麺類がお好きなのかな?)
この本、当然焼きそばだけが載っているのだが、どの写真もとても美しい。
焼きそばってこんなにきれいな食べものだったのか。
どれもレシピ付きなので、作ろうと思えば作れる。ほとんどが豚肉にキャベツなどの野菜と一緒に炒めるだけなので簡単なのがありがたい。

それらの焼きそばの味付けに使用するソースの類も紹介されている。
ウスターソース、中濃ソース、お好みソース(広島の人間にとってはもちろん「おたふく」)、オイスターソース、鶏ガラスープの素、豆板醤、醤油、麺つゆ、味噌、ナンプラー、それから私が知らなかったシーズニングソース(中華醤油をベースにした白だしのようなものらしい)。
確かに、ソースを何にするかで味が大きく異なる。
家で焼きそばを作る時にほんの少し鶏ガラスープを加えると、ぐっと味に深みが出て、技無しで助かる。

この本には日本全国のご当地焼きそばが北は北海道の北見の塩焼きそばから南は沖縄焼きそばまでずらりと紹介さrている。
知らない未経験の焼きそばの多いこと。
日本蕎麦は旅行に行くたびに土地の評判の店を訪れているが、焼きそば行脚はしたことがないなぁ。
我が家でここ10年以上のお気に入りが、あの富士宮焼きそば。
味はソースだが、特徴はそばが固いこと。作りかたを読めば炒めるときに水で麺をほぐすと書かれているが、私は水は加えずに野菜から出る水分だけで作る。
炒めるときに豚の肉かすを、出来上がりに魚粉をかける(夫は魚粉はかけないが)。
いろんなメーカーがあるが、ひたすら「マルモ」と決めている。

この本には長野の「ローメン」についても書かれている。伊那に行くと「ローメン」の看板を見かけることが多いが、食べた人の話によると評価が分かれる。
なのでわざわざ行ってまで食べようとしたことはない。
なんでも大陸から帰った人がレシピを持ちかえったとか。

ここには出ていないし、焼きそばのそばとしては邪道なのだが、茶そばを使った焼きそばがある。
山口県は下関に近い日本海に面した川棚温泉の「瓦そば」だ。
私はもう20年近く前に一度食べただけの、いわば「幻の」焼きそばなのだが、もう一度食べたい。
瓦に乗って供されるのだが、多分焼きのは鉄板か鍋だろう。
パリパリ焦げ目のついた香たかい茶そばを、出汁つゆで食べる。
薬味はネギ(白いのではなく青ネギです)、レモン、もみじおろしなどだったかな?
あれはとっても記憶に残る和風で上品な味だったが、川棚は遠くてなかなか再見できないでいる。
川棚温泉は全国的に有名ではないが、下関の奥座敷として、冬は河豚がいいんですよ。温泉に入って河豚を食べて。。そのうえ瓦そばまである。

焼きそばというと焼きそば用の蒸し麺を家庭では使うことが多いけど、面倒がらずに生麺を茹でると、断然味は素晴らしくなります!
広島のお好み焼き屋さんの焼きそばも、生麺を使うのが正道です。

焼きそば党にはたまらない一冊。著者の満留さんに感謝です。

posted by 北杜の星 at 07:19| 山梨 ☁| Comment(0) | マ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

温又柔 温又柔「真ん中の子どもたち」

第157回芥川賞候補作品。
選者である宮本輝のこの作品に対する選評が物議をかもしてていたので、興味を持ち、読んでみなくてはと借り出した。
宮本氏は「日本人の読み手にとっては対岸の火事で、同調しにくい。(略)他人事を延々と読まされて退屈」というのがその選評だ。

これはあんまりの良い方ではないかと思った。
小説うとはパーソナルなことを書くもの。それが日本人であっても他国の人であっても、それを「対岸の火事」とはどういうことか?
それならすべての文学は「対岸の火事」である。
いくぶん作者に同情しながら読み始めた。

台湾人の母と日本人の父のあいだに生れた主人公が、母語を何にするかを模索しながら、自分のアイデンティティを確立するというのがストーリー。
19歳から20歳までを上海に語学留学した彼女の友人たちとの交流を通してのあれこれが綴られ、やがて彼女が中国語教師となった時点で終わっている。
うーん、他人事とは思わないし、他人事であってもかまわないのだけれど、「同調しにくい」のも「退屈」ななのも、宮本輝の言うとおりではあった。
小説中にでる中国語と( )の中に訳された日本語があまりに多すぎてうっとうしいし、そのあたりに作者の独りよがりを感じてしまう。
それになりより、構成、文章、人物描写、すべてが稚拙。
母親も父親も描けていない。
宮本輝に100%賛成してはいないが、「対岸の火事」としか思えないのは、この作者の責任だと思う。

もしこれがもっときちんと書かれていると、もっと感情移入させられたと思う。
それをさせてくれないのはこの小説の大きな問題点ではないだろうか。
これを読んで、「この本、良かった」と思う一gあいるとは私は考えられない。
これを読まされた選者たちが気の毒になるくらいだ。
前段階でもっと、作品をふるいにかけるべき。

・・と、酷評となってしまって申し訳ありません。
私がこの作品の良さを読みとれなかっただけかもしれないので、どうぞご自分で読んでみてください。
posted by 北杜の星 at 08:00| 山梨 ☀| Comment(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月25日

青木俊「潔白」

すでに執行済みの死刑囚が、もし無罪だったとしたら?
事件後30年の後、遺族から異例の再審請求が出された。
一貫して無罪を主張していたその死刑囚は、刑確定後2年で、死刑に処されていた。
再審請求に、札幌地検に激震がおきた。

再審請求はよほどのことがない限り、却下される。
ということは請求が通れば、無罪となる確率が高いのだ。
裁判を覆すほどの確実な新証拠や新証言という「爆弾」があるためだ。
そうなれば地検のメンツは大潰れ。
「なんとしても『爆弾』を握りつぶせ」との指令を受け、いわくつきの検事が一から調査を始める・・

という検察組織ミステリーがこれ。
警察や検察の体質は想像以上のもので、裁判のずさんさを含めて、日本の司法に絶望してしまう。
再審請求中の死刑執行は今年も行われている。
こんなことがあっていいのか!
これはもっと世の中が問題にすべきこどなのではないかと、アムネスティの運動に参加していた私は思うのだが、そう思うのは一部の弁護士、市民団体、そしてなによりその家族だろう。
この小の再審請求者は死刑囚の残された娘。
彼女は父の無罪を信じ続け、自分で弁護士を探し、真犯人をつきとうめようとする。
また捜査のいい加減さを追及。
昔のDNA鑑定は確実なものではなく、ましてや検査技師も一人に任せていたという。
ましてやその検査技師が検察におもねるような結果を出すことに腐心していたとしらら。。

まず、「犯人ありき」。見込み捜査の恐ろしさがここにある。
状況証拠だけで、犯人と目される理不尽さ。
自白を求めるための拷問のような取り調べに、虚偽の証言をする人間もいるだろう。
密室での取り調べを可視化させようとはしているが、完全実現しているわけではないのが現実のようだ。

これ、ミステリーなので詳しいストーリーは書けないが、ラストにはちょっと驚く。
でもそう言えば、、という伏線はあったよな。。
人間のすることだから間違いは起きる。冤罪だって起きる。
だからこそ、取り返しのつかない死刑制度を撤廃すべきであるし、死刑という厳罰があっても極悪犯罪はそれでなくなるわけではないということ、たとえ犯人が死刑執行されたとしても、奪われた命は取り戻せないことを、考えてみてほしい。
それならば、無期懲役として死ぬまで罪を償わさせるほうがいいと私社思うのだけど。
でもこの死刑制度云々は難しく、アムネスティですら、死刑制度支持の会員はいた。
(もともとアムネスティは死刑制度反対の団体ではなく、政治犯解放を求める団体である)。

一気読みしながらも、いろいろ考え、考えると怖ーくなる本でした。
posted by 北杜の星 at 08:19| 山梨 ☀| Comment(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月23日

ハッチの週間身辺雑記

沖縄の名護に、幼稚園の理事長をしている友人がいます。
彼からある依頼がありました。
「沖縄にはどんぐりの木がない。子どもたちにドングリの実をみせてやりたいので、もしそちらにあれば送ってほしい。」と。
そうか、沖縄にはどんぐりの木がないのか?
「どんぐり、コロコロ、どんぐりこ。。」という童謡を歌っても、実を知らないのね。

ここ八ヶ岳南麓の我が家の庭には数本のミズナラの大木があります。
その木々から葉っぱをつけたドングリの実が屋根にたくさん落ちています。
我が家の屋根はカラー鉄板なので、その音の大きなこと。とてもあんな小さな実が出す音とは思えないほど響くのです。
今の時期は葉っぱが付いていますが、もう少し後になると、実だけが落ちるようになります。
帽子をかぶった実もあれば、落ちるときに帽子が脱げてしまう実もあります。

どんぎりの木がないということは、もしかしたら栗の木もないかも。。とふと思い立ち、里山歩きをする近所の友人に「もう、栗は落ちてるかしら?」と訊ねたら、イガつきの立派な栗の実をとって来てくれました。
クルミの実とアケビも一緒に!
これなら沖縄の小さな子どもたち、どんなに喜ぶことでしょう。
こんなリクエストならいつでもお役に立ちたいです。

でも本当は私などが送るよりも、こちらの幼稚園や保育園の子どもたちと彼らが交流して、お互いにその土地のものを交換できるなら、その方がずっと素敵ですよね。
こちらからはそうした木の実など、沖縄からはサトウキビとかきれいな貝殻とか。
こちらの子どもたちは雪をかぶった八ヶ岳や、南アルプスの絵や写真、沖縄からは青い海やブーゲンビリヤの花の絵や写真などやりとりするのもいいです。
そういうのが実現できればと思います。
ドングリの実は夫が丁寧に箱詰めして、宅配便に早朝、持って行ってくれました。

昨日は友人夫婦と一緒に甲府のイタリアンにランチへ行きました。
というのは彼らはヘアカットの店の店長さんからその店の評判を聞いて、何度か行ってみたところ、いつも満席で断られたのだとか。
それで「どれくらい前に予約すれば食べられるのか?」と尋ねたところ、「1週間前ですかね」というこどで、その場で1週間後の予約をして帰ったそう。
「ついでだから4人分予約したから、一緒に行こう」と誘ってくれたのです。ついでであれ何であれ、美味しいものは大歓迎。
感想は。。確かに評判通り、1週間前の予約もさもありなん、という店でした。
味、サービス、コストパフォーマンス、なかなかのものがありました。
パスタ、スープ、メイン、ドルチェ、カフェ、パンがついて2200円は安いですよね。(パスタがあるのだからスープの代わりに前菜があればとは思いましたが)。
もう少し近ければ頻繁に通えるのにと残念です。
私たち全員はコースの前に前菜を注文。それが500円。しかもたっぷりの量でしたあ。
これほど満足度の高いイタリアンはこちらに来て初めてでした。東京のレストランと遜色なし、しかも三分の二の値段。
家から高速で約30分、もう少し近ければと思いますが、でもちょっとドライブがてらにはいい距離かもしれません。
私たちの分まで予約してくれた友人に感謝です。

この1週間、我が家にはちょっとした変化がありました。
それは、モノをかなり処分したこと。
もう何年も前からいわゆる「断捨離」を実行してはいるのですが、自分でも満足納得できるまでは到底及ばず、かえってフラストレーションとなっていました。
ところが新聞で、あの俳優の高橋英樹さんが断捨離で、ナント33トンのモノを処分したとの記事を読んだのです。
33トン!!
いったいどれほどのモノなのか?その凄まじい量に驚愕し、あのような職業の人でさえ思い切ってモノが捨てられるのなら、私のようなフツーの平凡な人間が捨てられないわけがないと、俄然発奮し、まず、台所の品々を思いきって処分したのです。
買った時の値段にとらえられるのがいけないんですよね。値段ではない。今、必要かどうか?なのです。
塗の椀は逡巡したものの、2種類を残し捨てるのに成功。箸洗い用の小吸い物の椀は象彦の古いものなので、これはお茶をしている友人に譲るために一応保管。

夫は朝食の支度に毎朝、パンを切るための専用のナイフとカッティングボードを使っていましたが、それは包丁やまな板でも代用できることに気付き、それらを捨てました。
するとカウンターがすっきり。
たったそれだけでこんなにスッキリするのならと、ますます捨てるのに拍車がかかり、観葉植物もカウンターから引き上げました。

今度は納戸。
バッグもいくつか、テーブルクロスも何枚もあったけkど、気に行っていつも使うのは限られている。
とにかく同じものは一つか二つでいいと割り切り、「誰かもらってくれないかしら」と考えずに、とにかく不要なものは「すぐ」捨てる。
高橋英樹さんも最初は友人知人に持って行ってもらっていたけど、それじゃぁハカがいかないので、結局は業者さんにごっそり全部持って行ってもらったそうです。
そう、そうしなければ片付かないんです。
もうすぐ衣替え。その時はそれこそ「捨て得るそぉ」です!

高橋英樹さんは東京だけでなく蓼科に山荘をお持ちです。その方のモノも片づけたのでしょうね。
余談ですが、その高橋さんと私たち夫婦はゴルフをご一緒したことがあるんですよ。偶然に。
まだ私たちが蓼科の家に通っていた頃のある夏休み、午後からハーフでもしようとあるゴルフ場に行ったところ、ゴルフ場のスタッフから「もう一人の方とご一緒でもいいですか?」と言われ、「どうぞ、どうぞ、私たちは構いません」と答えたら「ありがとうございます。高橋さんと仰る方です」とのこと。
そして現れたのが、あの高橋英樹さんだったのです。
まだ私はゴルフを始めたばかりのころ、下手くそで(ずっと下手でしたが)、あまりの下手さを見かねたのか、高橋さんは優しくいろいろ教えて下さいました。
とても気を使われる方で、私たちだけでなくキャディさんにもそれはそれは丁寧で、「有名人って、大変だな」と思ったことを覚えています。
彼のおかげで今回はモノを減らすことができました。
ぞろそろ衣替えの頃、どれだけの衣類を駆逐できるか、さぁ、やるぞ!と意気込んでいるところです。

posted by 北杜の星 at 07:58| 山梨 ☁| Comment(0) | ナ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月21日

古川日出男「非常出口の音楽」

2年ぶりくらいの古川日出男。
このところの彼は、平家物語などの古典の現代語訳をしたりと、これまでとはちょっとニュアンスの異なる仕事にも手を出している。
彼の訳すものがどんなのかとても興味があるのだけれど、古典に素養のない私は敬遠気味でいる。
でも大好きな古川日出男。せめてこの掌編小説集を読んで彼の世界にひたろうと思った。

古川日出男の世界・・ひと言で言うのはむつかしい。
長編はどうかすると混沌として、時にハチャメチャ。疾走するダンプカーのようにエネルギーに溢れている。ガルシア・マルケスばりの物語。
だけどそのなかに詩情が感じられるんですよね。
詩といえば、彼の短編には詩そのものの雰囲気のものもある。そしてそこにはどこからともなく音楽が聞こえてくるような。。

この「非常出口の音楽」もそんな詩のような音楽的な風合いが感じられる。短いのは2ページ、長くても20頁ほど。
幻想の世界への扉は、ふだんの玄関口ではなく、非常出口だ。
非常出口から一歩出てみると、そこにはふだんとは違う景色が目の前にあるはず。
ロサンゼルスの大都会であったり、そうかと思えば深い森の中であったり。

古川日出男は「人間にはときとして非常出口が必要だ」と言うが、これを読むと本当にそう思う。
非常出口はなにも火事の時だけに使わなくてもいいのだ。
いつもの暮らしの閉塞感から逃げ出したい時のために、非常出口を開いてみるといい。

「とてもとても安全ブーツ」「ヌードルを奪う猫たち」「ホッキョクグマを南極へ帰す」「つるつるの小石都市」「卵泥棒おおいに語る」・・
ちょっと掌編のタイトルを挙げてみた。
これらがいったいどんなお話しなのか?想像してみてほしい。
私は掌編を読む前にこれらのタイトルをじっと眺め、自分なりのイメージをもって読み始めた、
当然だが、私の貧弱なイメージを簡単に覆す発想に、毎回、してやられてしまった。
強いて言うなら「とてもとても安全ブーツ」だけが想像をそう外れてなかったくらいかな。

なんだか読み終わったら、カエターノ・ヴェローゾが聴きたくなってCDをかけちゃいました。

posted by 北杜の星 at 07:34| 山梨 ☁| Comment(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする