2017年04月10日

小谷野敦「芥川賞偏差s値」

第1回から第156回まで、164作の芥川受賞作品を、小谷野敦が偏差値をつけている。
これは小谷野独自の偏差値であって、この判断が正しいかどうかは、読む人によって異なるのは当然だろう。
小谷野敦という人がかなり偏向しているし、まぁ、性格が悪いところもあって、公平とは言いかねる。
それを心して読めば、大いに楽しめるし、私は楽しみました。

小谷野は164作品全部を読んだのだろうか?読んでるのだろうね。読まなきゃ書けないから。
でもこれらの多くは、書評というよりも作家の人物評ではないかという部分がかなりある。
純文学作品ではなく、純文学作家の偏差値。
ここにはおそらく小谷野の個人的な作家に対する好き嫌いが含まれているような気もする。

芥川賞受賞作品は面白くない・・という持論を小谷野は持っているようだが、それは私にも首肯できる。
受賞作が必ずしもその作家のそれまでのベストとは思えない作品がとても多いからだ。
それまで数度候補になっているから、そろそろ賞を与えてあげようという感じが見え見え。
例えば、西村賢太は受賞作の「苦役列車」なんてちっとも良くない、「小銭をかぞえる」などの秋恵ものに較べると弱いと思う。それは小谷野も書いているとおりだ。
小野正嗣の「九年前の祈り」にしたって、以前候補に挙がったモノの方が幾倍もすぐれていると思う。
こういう賞の与え方はつまらないのではないだろうか。

「受賞作なし」の回もこれを見ると、かなりあるんですね。
出版界が好景気だった頃ならそれもいいだろうが、賞などは所詮がお祭りなのだから、現在のように本が売れない時に「該当作なし」にする必要はないと考えている。
なんでもいいから、あげればいいじゃないか。
その後のことはその作家の実力次第なんだもの。
それとこのごろの芥川賞は必ずしも「新人賞」ではなくなているのが、私には不満だ。
もう何冊も本を出している作家も最近は多い。
しかし、芥川賞はやはり新人に与えられるべきで、純文学の登竜門としての役割を忘れないでほしいと思う。

私は芥川賞受賞作品でもっとも評価していないのが、辻仁成、荻野アンナ、大道珠貴なのだが、小谷野もかなり低い偏差値を与えていて、溜飲が下がった。
42〜44くらいがまぁ普通というラインか。
50前後となるとかなり気に入っている感じ。
もっとも低いのは、誰とは書かないが、25というのがある。作品そのものというよりも、日本語からして問題のようだ。(でも日本人じゃないのだから、大目に見てあげてよ)。
偏差値の高いのは、青山七恵、李良枝(イ・ヤンジ)、村田沙耶香あたりが70台。イトヤマさんもまずまず高い。

でも、小谷野を偏向の人と書いたが、書いてあることは概ね間違っていないと私は思った。
堀江敏幸の項とか、遠藤周作の項とか、私はかなり賛同するな。
それって、私も偏向しているということ?性格が悪いということ?
小谷野敦と同じということが、なんか、褒められることじゃないような気がして、ちょっとへこんでいます。
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2017年04月08日

ハッチの週間身辺雑記

かなり暖かくはなったものの、このあたりの桜は例年より1週間遅れのようです。
韮崎市や北杜市には観光バスがやってくる桜の名所が多いのですが、もうちょっとみたい。
あのノーベル賞受賞の大村さんの美術館と温泉の近くの「鰐塚の桜」の開花がぼちぼち。
肝心の我が家の桜のつぼみがようやく色づいてきたところかな。

でも今年はもう衣替えを決行しました。
来週は奈良旅行なので、その前にしちゃいましょうということになって、これは例年より少し早いのですけど。
春と秋の衣替えは大変。
ロフトの衣装箱を下ろして、また上げるのは、あと数年したら重労働になることでしょう。
それまでにすべての衣服をウォーキング・クローゼットに収納できるようにしなくてはと、思ってはいるのですけどね。

ゴルフのマスターズが始まりました。
私は十数年前にゴルフは止めたのですが、モノゴトはなんでもそうでしょうが、少しかじっただけでも楽しむことはできます。
そういう意味では、なんであれ経験することは意味あることです。
マスターズと言われて思い浮かべるのが、作家の丸山健二です。
彼はもちろん(この「もちろん」は彼の作品を読んだことがある方ならわかりますが)、ゴルフなどまったくしない人。
それでもマスターズのテレビ中継は毎年欠かさず観ているそうです。
なぜなら、マスターズのコースの植栽の素晴らしさ。
毎年、コースのあちこちの植栽は変化しているそうで、それを観るために(見たくもない)ゴルフのテレビを点けているのでしょう。
彼は庭に命をかけていて、その庭のストイックさがじつに彼らしいのですが、マスターズはそんな彼にとっても参考になるのですね。

我が家に新しいエスプレッソ・マシーンがやって来ました。
これでエスプレッソ・マシーンは4台目。最初はもう30年近く前、カプセルではなく粉を使っていて面倒でした。
今回、ネスプレッソからのお知らせで今買い換えると半額になるということで、どこも悪くはなっていなかったのですが、新しい機種はカプチーノを作るのがボタン一つで簡単、しかも普通のカプチーノだけでなくラッテ・マッキァートもできるというので、思い切りました。
これまでのマシーンは、ミルクを別に泡立てる必要があったのです。
これで週末の朝のラッテ・マッキァートが楽しめるようになりました。
我が家では飲み物はすべて夫の役割。これは大いに助かります。
どういうわけか、日本茶でもコーヒーでも、自分で淹れるより、誰かが淹れてくれる方が断然美味しく感じるものです。
だからこればかりは夫に感謝です。

ときどき私は「今日はご飯作るの、イヤだ!」と外食になるのですが、毎朝食担当の夫は「今朝は作るのイヤだ」とは言わない。
まずお白湯を沸かして飲み、それから人参ジュースを作って、金時生姜の入ったミルクティを作って、トーストを焼いて・・
後片付けも彼がします。
考えてみれば、エライ!
もう少ししたらフレンチ・レストランが、朝食を始めるという噂があるので、もしかしたら時にはそこで朝ごはんということになるのかな。
そのレストラン、朝と昼だけの営業だそうで、夜は家族で過ごしたいと営業はしないとのこと。
それは正解です。こんないいところに住んで、あくせく働くことはありません。
なにかを得るには、なにかを捨てる。。彼は夜の営業を捨て、華族との一時を選んだのです。その英断にエールを送りたいです。

パン屋が和菓子屋になったり、教育勅語を小さな子らが唱えたり、イヤな世の中になりつつあります。
人間は過去のことを忘れるんでしょうか。歴史から学ぶのではなく、愚かな歴史を繰り返すばかりなのか。
気が重くなりますが、来週の奈良の春を歩きたいと思っています。吉野山の桜はさかりでしょうか。
奈良、近江路、山陰はいつでも行きたい、大好きな場所。どこも派手さはないけれど、その落ち着きがいいいのです。
帰って来るころには我が家の桜も咲き始めていることでしょう。

posted by 北杜の星 at 07:18| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月06日

宮下奈都「死すかな雨」

「羊と鋼の森」で本屋大賞受賞となった宮下奈都。
こんな言い方は失礼だが、私にとっては「彼女、化けちゃったよ」という感じがないでもなかった。
けっして彼女の小説を評価しないのではない。むしろその反対で、ずっと彼女の小説を読んできて「あぁ、佳い小品を書く人なんだな」と大好きではあった作家なのだ。
それでもこんなベストセラーを書く人になるとは、私の見る目がなかったと反省。
(ちなみに彼女の作品で私が一番好きなのは、全然売れなかったそうだが、「田舎の紳士服店のモデルの妻」です。これは彼女自身も力を入れて書いたようで、でも理解されなかったとどこかで言っていた)。

この本の帯には「本屋大賞第一作」とあるが、それは違う。
これは彼女の2004年のデビュー作ななのである。これまで本になっていなかったのか?
文學界新人賞に応募して佳作となったものだ。
100ページそこそこのごく短い小説。

主人公の青年はある日、パチンコ屋の駐輪場の屋台のたいやきを買った。
素晴らしく美味しかった。
焼く人を見ると、そこには若い女性のこよみさんがいた。
やがて少しずつ話すようになった頃、こよんさんは交通事故で病院に搬送されたが、意識不明が続いた。
ようやく意識が戻ったものの、事故前の記憶はあるのだが、事故後は今日のことを翌日には忘れている人になってしまった。
二人は寄り添うように一緒に暮らし始めるが。。

というストーリーだが、単なるお涙頂戴ではないし、ところどころに「ふふふ」と小さな笑いがこみあげるユーモアもある。
でもなんだろ?ちょっとイージーな物語で、この題材でこう書けば、もしかしたら賞が狙えるかも、という魂胆が透けて見えるというか、まぁ、ちょっとつまんない。
なぜかというと、ここにはみんな良い人しかでてこないんだなぁ。「怖さ」がない。
(屋台にこわいオニイサンたちが来て子よみさんを脅すが、そういう怖さとは違います)。
こういう話はどこかに「怖さ」がないと、気が抜けたビールになってしまう。

なんだかんだと、いちゃもんつけている私だけど、宮下奈都がこの中で書いていることはわかるのです。
人間を形作るくものは遺伝子などではなく、会った人々、聴いた音楽、味わった食べもの、訪れた土地などから成り立っているのだということ。
たとえその記憶がはっきりと残っていなくても、脳や体のどこかにそれらが集積された痕跡はあるはず。
「忘れても忘れても育っていくもの」がある限り、こよみさんと青年の暮らしは続けられるのだろう。

この本には予約がたくさん入っていますというラベルが貼ってある。
本屋大賞の後だもの、みんな読みたいのだ。
これからライブラリーに返却に行きます。
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2017年04月05日

伊佐知美「移住女子」

移住女子が増えている。
私の住むここ八ヶ岳でも最近は女性の移住者がいて、彼女たちは単独で、あるいはグループで農業をしたり、小さな焼き菓子の店を持ったり、バイトをしながら暮らしている。
みんな都会に住んでいた人たちだ。
この本にはそのような田舎に移住した女性たちを紹介している。
岩手、宮城、新潟、長野、鳥取、高知、福岡・・
場所はそれぞれだが、みんな移住した土地を心から愛し、地元の人たちからの支援を受け、またその恩返しをしながら、「消費するだけの暮らし」から「何かを生みだす暮らし」をしようとしている。

彼女たちを見ているとやはりあの3・11の東日本大震災の影響があるように思える。
東京に住んでいたあの時、スーパーやコンビニから食品が消えたことかショックだた人。
ほんの2週間のボランティアのつもりが、もう6年も住み続けることになった人。
何が起こるかわからない世の中だからこそ、せめて自分らしく生きたいと願う人。

もちろん、移住には不安がある。
これまでの生活を一変させるのだ。仕事は?住むところは?友達は?結婚は?
そんな女性たちにはこの本はなにかの参考になることだろう。
田舎はユートピアではない。だから田舎を単なる逃避先と考えると失敗する。
その土地を愛し(この本に出てくる女性たちに共通しているのが、「ここが好き!」という想いだ)、地元の人とコミュニケーションをとりながら土地に受け入れられている。

田舎は閉鎖的というイメージがあるが、それは一昔前のことだという。
人が出て行く一方で住民が年老いている集落にとって、若い働き手が来てくれるのは、とてもありがたく心強い。
自分がこれまでしてきた事を教え、それをリスペクトしてくれるとしたら、お年寄りにとっては新たな生きがいとなるかもしれない。

ただ農業、それも自然栽培法で米や野菜いを作りたいという人たちは、最初は大変だ。
日本では農作物は農協の指導のもと、種や苗を買う。そうして始めて農協が買い上げてくれるのだ。
しかし農協で売っている苗はすでに自然栽培とはいえないので買えない。ということはせっかく作っても販路がないということ。
自分で販路を開拓するには時間がかかる。
その「最初」をどう乗り越えるかだ。

でも大丈夫だと思う。現在は有機農法や自然栽培に関心を持つ消費者が多いのだから、それが安心で美味しければ必ず買い手はみつかる。
ここ八ヶ岳でそうやって米や野菜を作っている人たちだって、今はリッパな「農家」となっている。
都会への宅配だって需要があるだろう。

移住した地人の支援としては、有楽町の交通会館に「ふるさと回帰支援センター」があるし、各地方自治体のイベントに参加するのもよいだろう。
まず、その土地を木に居ることが大切。山の美しさや海の輝きを愛し、「ここに住みたい」と思うことからはじまるのだ。
そしてここに書いてあるが、とりあえず、100万円を貯めること。
移住の費用や生活が安定するまでの生活資金のためのお金として、まずこれだけというのがみんなの経験知のようだ。

だけどこれも安心していいと思う。
田舎って案外、仕事はあるものなのだ。
ここでも、夏場のレストランやペンションでのバイト、ゴマンとあるギャラリーの店とか、収穫機の果樹園の手伝いとか、宅配ドライバーも女性が増えている。
私の知り合いの女性は、夏場のホテルに犬連れで来る客のための「わんわん写真館」(犬の写真をプロのカメラマンが撮影するというもの)でバイトしている。
田舎に来て驚いたのは、地元の人でも、一人がいくつもの仕事を持っていることだった。ゴルフ場の整備の仕事を週4日し、他でも働き、自分で車おオイル交換ひゃタイヤ交換も請け合うとか。
勤めをしながら週末に農業というのは当たり前。
田舎に来ると仕事に対する固定観念がなくなると思いますよ。
それに、田舎は生活費がかからない。ましてや消費生活から抜け出るために移住うするとしたら、お金に対する意識も変わるに違いない。

あのラッシュの満員電車に乗らないだけでも、人生の浪費が減るんじゃないかな?
すくなくともそう考えられる人が、田舎暮らしに向いているのだと思う。
posted by 北杜の星 at 07:24| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ア行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月04日

喫煙文化研究会「たばこはそんなに悪いのか」

「たばこはそんなに悪いのか」と開き直られると、「悪い」と答える人が大多数で、私もそのうちの一人。
肺がん、心臓や血管系の疾患などの原因になることが証明されている。
最近ではたばこを吸う人たでけに悪い害があるのではなく、「受動喫煙」が大きな問題となっている。
いかに「喫煙文化研究会」があれこれ書こうとも、「悪い」のは「悪い」のである。

しかし、たばこは合法的に売られているし、喫煙者が犯罪人なわけではない。
こう世間が「禁煙」一辺倒になって、喫煙者をまるで犯罪人扱いするというのは、感情論も入っているのではないかと思われるし、全部右に倣えとうのが嫌いな私なので、少しは喫煙者の意見も聞いてみようかと、この本を手に取った。
読んでいて、我田引水気味ではあるけれど、彼らには彼らなりの論理があるようだ。

そもそも喫煙が体に悪い、肺がんになるという根拠に彼らは疑問を呈している。
ここ20年以上は禁煙をする人が増えている。にもかかわらず肺がん患者も増えているのだ。、といいいうことはたばこだけが原因ではないのですはないか?
いろんな医学的統計が出されているが、統計のウソがあるのではないか?
「理系」の人間が医学的根拠だけで喫煙に反対するが、もっと「文系」でものごとを考えると、喫煙・禁煙に対して違うアプローチができるのではないか?

一所懸命に彼らなりのロジックを組み立てているのだが、ロジックとは言えないなぁ。
でも彼らの気持ちはわかる。つまりは現在の「禁煙ファシズム」に抵抗し、喫煙の自由を求めているのだろう。
駅のホームのガラスボックスの中で、必死の形相でたばこを吸っている人を見ると、「あぁ、そんなにまでして吸いたいのね」とかわいそうになる。
この本には受動喫煙に関しては、「分煙」で充分とああるが、それには反対だ。
だって煙は流れるもの、たばこの煙が嫌いな人は分煙では納得しないだろう。

ただこの本にはちょっと面白い引用があった。
健康のための医療介入ってとても多くなっている。やれ、塩分を少なくしろとか、コレステロールに注意しろとか、歩きなさいとか、このところは糖質を控えるようにとも言われるようになってきた。
これに関して興味深いデータがあるのだ。それは「フィンランド症候群」と呼ばれるもので、フィンランドの保健局が行った実験で、40〜55歳の健康な、しかし心血管系疾患になりやす因子をもつ社会的ステータスが同等な管理職1200人を600人ずつの2つのグループに分け、一方にはなにも健康アドバイスをしないで放置、一方には医師が健康管理やライフスタイルのアドバイスで健康介入するというもの。
どんな健康アドバイスかというと、禁煙、食事内容、運動など。そして4か月ごとに担当医を訪れて検査を受け、問題があれば高血圧や高脂肪血症などの薬をもらう。
放置された方は、健康調査票の提出のみ、なんのアドバイスも受けなかった。
15年間の観察結果がどうなったか?
総死亡数は、放置のほうが46人、介入されたほうが67人。(そのなかで癌死は、放置のほうが多いが)。

このデータをこの本で出したということは、「あんまり『健康に悪いから禁煙しろ』なんて言うなよ」と言うことなのだろう。
私に言わせれば、「元気でいたければ、なるべく病院へ行くな」と言うこと。むやみに検査したり薬を飲むなということですね。

説得力があったかどうか、それは読者に聴かないとわからないけど、たばこが合法である限り、吸う自由はあるはず。
禁煙を尊重してもらいつつ、喫煙も尊重できるような折衷案があればいいのだけれど。。
そうそう、あの養老孟司さんも愛煙家。彼は「喫煙可にはアルツハイマーが少ない。それはたばこが脳に直接効いているから」と帯に書いている。
それって本当?
posted by 北杜の星 at 07:15| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | カ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月03日

高橋弘希「スイミング・スクール」

表題の中編と短編の「短冊流し」が併載されている。
「短冊流し」は「指の骨」や「朝顔の日」に続いて、第155回芥川賞候補となったもの。
「指の骨」は評価が高く、読もうとは思っていたのだが、当時はなぜか戦争ものを手に取りたくない気分が強くて、とうとう読まずに終わってしまった。
結核病棟を舞台に、病を得て療養する妻を描いた「朝顔の日」は、文体といい内容といい私好みで、「想像でこれだけのものが書けるとは」と若い作家の力量に驚いた。

「スイミング・スクール」はどことなく齟齬のあった母と娘のその娘に娘が生まれ、なおのこと以前の母との関係のあれこれを思い浮かべる話。
その娘がスイミング・スクールに行きたいいというので通わせることに生った。
愛犬の死、母の死と実家の後片付け、若いころ弁当屋でバイトしていたこと・・盛りだくさんの出来事が交叉する。
どこにでもあるサラリーマン家庭のお話しだが、母親との関係を引き摺って生きてきた女性の一抹の不安が描かれている。
今は幼い娘は、自分を頼り自分を慕っているけれど、いつか自分と同じようになるのではという懸念。
そうした折に、自分が母に頬を打たれたように、娘の頬を打ってしまう。。

でも私、これはわりと陳腐な内容だと思った。文体も好きじゃない。
キレもないなぁ。
カセットテープの謎も、引っ張り過ぎでなんということはなかったし。
明確に伝わるものがない。

「短冊流し」のほうが短編ならではの緊張感があって、私は好きだった。
父と幼稚園に通う娘の生活に、母がいないことは察せられる。
そのうちその理由がはっきりしてくる。父の不貞から離婚を申し出た妻は、赤ん坊の次女を連れて仙台の実家へ帰った。
彼は長女の綾音と暮らしていたのだ。
綾音はある夜、高熱を出しひきつけの発作をおこして、救急搬送される。
仙台から妻がかけつけるが、一向に意識をとりもどさない綾音。

どうやらこの作家は「死」と「死の気配」を書きたいようだ。
日常のなかに潜む「死」。
この短編にはいつも不穏な空気が流れている。
一週間のルーティンとなっている朝食の卵料理にすら、その不穏さが感じられて、なんだか不気味だ。
不安と恐怖が「死」の兆しとなっている。

「短冊流し」のタイトルの意味は最後に出てくるが、これもちょっと陳腐かな。
もっと違う終わらせ方があったような気がするのだけど。
芥川賞にはやはり、弱かったと思う。
ちなみにこの回の受賞は、村田沙耶香の「コンビニ人間」だった。
posted by 北杜の星 at 07:41| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月01日

ハッチの週間身辺雑記

今日から4月。
でも春が足踏みしているようで、寒い朝です。
明日、私の友人が月曜日の小淵沢CCでのゴルフのための前泊をする予定だというのに、小淵沢は雪。
プレイできるのか心配です。
明日の夜は彼女とともにみんなで夕食しようと、お店を予約してあるのだけど。

それでもやはり季節はl変わりつつあるようで、どこかからキジの声が聞こえてきます。
ときどきキジと出会いますが、オスは本当に立派で美しい。メスはあまりきれいじゃないけど、姿を見るのはやはりうれしい。
なんだか特別な鳥に出会ったような気になります。

自分の庭に来たそのキジを捕まえて食べちゃった友人がいるのですよ。
彼は信州は上田出身。幼い頃に鶏を潰して食べた記憶があって、その手順も覚えていて、キジを殺して血抜きをして、羽をむしって食べたと言うのです。
ワイルドですねぇ。
味は硬くてまずかったとか。
キジ鍋にしたのか?ローストにしたのかは聞きませんでしたが、思わず顔をまじまじと見てしまいました。
彼ならなにが起こってもサバイバルできるでしょうね。
でもそれ以来、彼がコワイ。
もしもし、まったく食料がなくなったら、私、食べられちゃうかも。。という気がどこかに。

それに較べると、私たち夫婦はヤワです。彼のようなワイルドさが足りません。
大変なことは自分でしようとはせず、お金で解決しようと、最近では草刈りさえ人手を頼みにするようになりました。
でも、みんな言ってます。「お金で解決するのが、結局は一番安くつくのよ」と。
なぜなら、アラ・セヴンティともなると、筋肉疲労が激しくて、鍛えていない身にはあとあとまで影響が残るんです。
それでマッサージにかかったり、整形外科に行ったりすると、かえってお金も手間もかかるということ。

そんな我が家ですが、薪作りと暖炉の煙突掃除だけは、夫が自分で「する」と言います。
薪は頂くので、それを他人任せにはできないし、煙突は以前煙突掃除屋さんに依頼いしたところ、長い柄のついたブラシで「一突き」3万円だったのに腹を立て、以来絶対にお願いしなくなったのです。
屋根に上るので危険なので、煙突掃除こそ頼んで欲しいのだけど、あの3万円がよほど気にくわなかったのでしょう。

田舎暮らしはいろいろすることが多いです。春ともなればなおさら。
冬の間に落ちた庭の枯れ葉を拾い集めるだけで大変。なにしろ都会と違って敷地が広いし、まわりは木ばかり。
葉っぱをそのままにしておく方が土のためには良いという庭師さんがいますが、見た目がそれでは汚くて、その下から生える植物がなかなか成長できないのでかわいそうでもあります。
庭をしたくて蓼科からこの里山に下りて来た夫なのですから、せいぜい頑張ってもらいましょう。

寒いのですが、春のポカポカ陽気が私の体には辛いのは毎年のことで、どうもこの季節は調子が悪く、この寒さがちょっとした中休みとなっています。
暖かくなると疲れやすいし、気力も出ない。
まわりの自然界の新陳代謝についていけないのでしょう。そんなときは、できるだけ少食にして消化器官に負担をかけないようにしています。
昼ご飯は玄米むすびを2個、黒ゴマ塩だけで食べます。
玄米は胃に悪いんじゃないの、硬いから、という人がいますが、よーく噛んで噛んで、80回くらい噛んで食べるととってもいいんです。
それとお白湯を飲みます。
お白湯はデトックスに最適な飲み物。基礎体温を上げるには、朝起きたらお白湯、寝る前にお白湯が一番だそうです。(これは最近読んだ金原ひとみの本の中にも書いてあったのでびっくり、パリに住む彼女のもお白湯を飲んでいるのかしら)。
胃の悪い時にはとくにお白湯は効果があるのです。
お白湯が効くなんて、一番いいですよね。お湯を沸かすだけでいいのだから。

私は面倒くさがり屋なのでたいした料理はしませんが、出汁をとるのと、玄米を焚くのだけはちょっと自慢できるのです。
電気釜で玄米を焚く人がいますが、あれははっきり言って不味い!
私が玄米を買う自然食品店の主も、「玄米は電気釜なんかで焚くもんじゃない」といつも言っています。
美味しいものじゃないと、どれほど体に良いと言われても、2回や3回は続いても、ずっと続くものではない。
本当の玄米の美味しさのために、是非とも圧力鍋で(あfればその中にカウムカム内鍋を入れて)、焚いてほしいと思います。
玄米の美味しさに開眼しますよ。
玄米を焚くときには必ずお塩を一つまみ、入れることをお忘れなく。
玄米はカリウムが多いので、ナトリウムで中和しますし、いろんな毒素を消す役割をもっています。

玄米がどんなに美味しくても、散らし寿司や丼物のときには、白米を使います。
なにがなんでも玄米というこだわりは今はありません。
時々白米を食べて「美味しい」と感じ、また玄米を食べて「やっぱり美味しい」と思うのはどちらも幸せなことです。

それにしても、「キジも鳴かずば撃たれまい」というけれど、鳴かなくても捕まえられて食べられちゃうこともあるので、くれぐれも小淵沢あたりに出没するときには、気を付けて、キジさん。
posted by 北杜の星 at 09:17| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ハ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月30日

川上弘美「蛇を踏む」

「ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった。」

この冒頭の文章を読んだ瞬間、「これは絶対に好きな本だ」と確信した。
これが川上弘美を読んだ最初だったか、それとも「神様」の方が先だったかの記憶がないのだが、ともかく「蛇を踏む」の物語と柔らかな文章にはまってしまった。
今回のこれは点字で読んだ。
だから「蛇を踏む」は「ヘビオフム」といういわゆる、カタカナ表記のような字列で読んだ。
点字の本もこれが8冊目。少し慣れてきて、こういう作品をどう感じるか、自分でもちょっと実験ぽい気持ちがあった。

やはり、視覚より皮膚感覚のほうが鋭いのか、指が「ヘビ」の字に触れるたびに、体がそくっとする。
蛇はもちろん好きではないのだが、それともまた異なる感覚。
まるで蛇の冷たくぬめっとした体を触っているような。。
だからだろうか、ぐんぐんとこの幻想世界に引き込まれていった。

主人公の女性は教師を辞めて、仏具屋に勤めている。
そんなある日、蛇を踏んでしまった。
その蛇は人間の女の姿になり変わり、彼女の家に居ついて家事などをするようになるばかりか、自分を主人公の「母」だと言う。(母は実家にいるというのに)。
蛇と関わるようになってから、自分の周りに蛇の気配が多くなった。
仏具屋の数珠を作る女房は蛇に憑かれているし、取引先の寺の大黒は蛇である。
主人公の家に住みついた蛇は彼女に、蛇の世界に来るようにと薦めるのだが・・

不穏な空気が流れるが、前述したように川上弘美の筆があまりに緩やかなので、全身がその流れにたゆたう心地よさがある。
寓話と言ってしまえばそれで終わるのだろうし、こういう作風を受けつけない人もいるだろうが、私は大好き。
とにかく、すごい個性の作家が出て来たなと驚いたのだ。

これにはもう2編が収録さfれている。
「キエル」も面白かった。
団地に住むある家族は消えるのだ。そういう家系らしい。上の兄は見合い相手を置いて消えてしまった。
しかし家族の誰もが「平穏」のために、兄を探そうとはしないし、さして驚いているふうもない。
婚約者は次の兄と結婚するものの、どうやら彼女の家族は「縮む」家系っらしく、彼女も縮んでいく。。

これも「蛇を踏む」のように「絶対にあり得ない」物語を書いたものなのだが、「読ませる」んですよね。
これが小説の不思議なところ。
あとがきで川上弘美は自分はこれらを「うそばななし」と呼んでいると書いているが、「うそ」が小説世界では「ホント」を凌駕する。

もう1篇はあまりにも短い章に分かれていて、ちょっとパスしちゃいました。ごめんなさい。
posted by 北杜の星 at 08:00| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | カ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月29日

高峰秀子「私のごひいき」

「亀の子束子一つ、自分の気に入らない物はなに一つ、この家にはありません」と明言していた高峰秀子。
その言葉どおりの「ごひいき」の日常品がここに写真と文章とで紹介されている。
およそ20年間にわたって連載されたもので、全部で95点のアイテムがアイウエオ順に並べられている。

ノリつきメモ用紙、はさみ、ペーパーナイフ、消しゴム、修正液などの文具類がけっこう多いのは彼女が文筆家としての仕事も大切にいしていたためか。
その他に、耳かき綿棒やドア・ストッパーなどがあるが、なにより多いのが台所で使う品々だ。
彼女と夫である松山善三はずいぶんと卵好きだったようで、コレステロールもなんのその、朝食には必ず卵、すき焼きには2つすつ、卵かけご飯だって食べていた、
だから卵関係のアイテムは、茹で卵を作る時卵のお尻に穴を開けるもの、黄身と白身を分けるもの、ポーチドエッグを作るための容器・・
どれもあれば便利なものだけど、でもまぁそれがなくっても。。という感じではある。

台所用品ってむつかしい。確かにあると役立つけど、そういうものがどんどん増えるのは収納に困る。
なくていいものならなくていい・・といのが私の考えなので、天下の大女優さんには申し訳ないのだけれど、この本のなかで不用なものってわりとあった。
だけどさすがにそこは高峰秀子。どのアイテムもシンプルでいかにも使い勝手がよさそうだ。
旅行に行った折などで見つけたものもあって、そういうものに目がいくというのが、すぐれた生活人でもあった彼女らしい。

このなかにアメリカ旅行中に買った「石鹸置き」があって笑ってしまった。
というのはつい先週のこと、生活クラブの配達品のなかに「石鹸置き」があったからだ。私が注文したのではなく夫が勝手に注文していたものだった。
浴室の石鹸置きに水が溜まるのを、「これなら余分な水が落ちるよ」と容器に穴があいているから買ったらしいのだが、私は溜まった水は捨てればいいし、なによりもタイが濡れるのを防ぎたいために、「これは要らないよ」とすげなく断った。
彼はカタログを見ていろいろな注文をするのだけれど、そうした生活備品についてはちょっと私に相談してほしいと思う。
彼の思惑と私のは違うことがあるからだ。

だけど私にとっての便利であろうと思われる台所用品をあれこれ探してくれるのはありがたい。
目が悪くなってこれまで使わなかったピーラーなどの便利グッズを多用するようになったからだ。
「石鹸置き」のように「要らないよ」というこもあるが、「これ、ほしかったのよ」というのもあるからね。
そういうのを使ってみて、本当に「ごひいき」になれるものって、案外少なくて、帯に短しとか、隔靴掻痒なんてこともある。
だから高峰秀子はモノ選びの達人と言えるのだろう。

我が家のお役立ちでお気に入りって何だろう?と家の中を見回してみたのだが、うーん、ないもんですね。
強いてあげると、銅製の小さなおろし金。これは有次製のもので、ショウガやわさびを下ろすのにとてもいい。もう30年使っているので歯が摩耗してしまったのが残念で、もし京都に行くことがあったら買って来ようと考えている。
それとあと一つは、シルバーのタング・スクレーバー。
タング・スクレーバーというのは「舌こそげ」で、インドでは口腔内のお掃除として毎朝使っているらしい。
いろんな材料でできたものがあって、シルバーはそのなかでも最高級品だとか。
私の友人がアーユルヴェーダ医院で買ってプレゼントしてくれたもので、これももう30年来毎日使っている。
実用品はシンプルで作りのしっかりしたものがなによりで、買う時には値段が高いなと逡巡しても、結局は安い買い物となる場合が多いので、エイヤっと思いきることが必要だと思う。

これら台所用品のほとんどは高峰秀子が夫のために一日三回の料理を作るために揃えたモノ。
もし彼女一人ならば、料理はしなかったかもしれないと言う。
それが証拠に、ある日松山善三が留守のランチ時に、彼女はインスタントラーメンを片手鍋からそのまま食べて唇を火傷しそうになったとか。。
それを読んで、私もあり得るかも。。と思ってしまった。
料理ってつまりは自分のために作るのではないんですよね。
食べくれる人がいるから一生懸命に作るのだ。
だからせめて「美味しい」と言って食べてもらいたいものだけど、作れることが、幸せなのかもしれない。

美しい本でした。

posted by 北杜の星 at 07:35| 山梨 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月28日

金原ひとみ「クラウドガール」

昨年秋から暮れにかけての朝日新聞に連載された小説。
かなりエキセントリックな小説の始まりだ。この激しさで新聞読者を引き込もうという意図ならば、成功したのではないだろうか。

刹那的にストレートに生きる高校生の妹の杏。
マレーシア留学から帰ったばかりの大学生の姉の理有はとてもバランス感覚に富む聡明な女性。
彼女たちは二人で住んでいる。小説家だった母は2年前に突然死んでしまった。
母と離婚した父はフランスにいる。

タイトルの「クラウドガール」にあるように、現代社会のコミュニケーション手段であるsnsなどがふんだんに出てくるし、最新のダンスなどの若者t文化も出てくる。
けれど作品の底には、母と娘、姉と妹という人間のベースとなる家族間の関係性が横たわっている。
どんなに時代が変わっても、変わらないのが家族の愛憎なのか。

神経症的な母を支えるためにずっと家事や事務手続きを担ってきた理有。
理有に甘え頼りきっている杏。
しかしそう見える図式だけではないことは、すぐにわかる。(そうでなければ小説として成立しないものね)。
包容力を求めて求めて叶わなかった理有が、母を憎むのではなく同化しようと生きてきたことの苦しみ。
チャランポランでいるようで周囲のことは案外しっかり見ている杏だが、ボーイフレンドの浮気をいつも許してしまうのはなぜなのか?
いつものかな原ひとみらしく、ヒリヒリとした感情がもつれあう。
とくに女性たちの感情の層の重なりは複雑で、それに較べると登場する男性たちのなんと単純なこと。

えーっ、こんなラストなの?!という終わり方に唖然慄然としてしまったのだが、納得はできた。
これ以上の不安定感は読んでいても苦しい。
杏と理有の10年後、20年後を知りたい気がする。
男たちは立ち位置は変わろうとも何も変わらないような気がする。杏のボーイフレンドは他の女性と結婚しても相変わらず浮気していそうだ。
でも、杏と理有はまったく違った人間になって違う人生を歩んでいるのかもしれない。
posted by 北杜の星 at 08:04| 山梨 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | カ行の作家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする